「ぼんやりとして、どうかしたか?」



 俺を呼ぶ声に反応して首を捻ってみれば、廊下の先には、頭の中で思い浮かべた姿がある。
 何もしないでいる俺を見て、不思議そうにこちらを見ている。その姿は、いつか見た夢と同じのようで。
 今だって本当に夢なのかどうか疑ってもいるけれど、でも今は現実なんだって、その声で呼び戻された気がした。
 いつ見ても、それが当たり前になるのはいつの日か。少なくとも、数週程度では変わらなかっただけのこと。
 だけど、振り返ってしまうくらいの密度があった。そんな時間があったんだ。



 「いろいろとありましたから………考え事ですよ」

 「そうだな。私もお前と暮らすことになるなんて、考えもしなかったことだったよ」

 「俺もです、此処に来るなんて思いもしませんでした」

 「全くだ」


 
 縁側に座っている俺の横、そこから少し離れた場所に、藍さんは一つ腰を下ろした。
 隣にはあの日、紫さんの気まぐれに巻き込まれた被害者と共にいる。思い返すのは、紫さんにあの爆弾を投下された時のこと。
 そして、そこから始まった今日までのこと。忘れもしない出来事が続き、ここまで積み重なってきた。
 何もかもが手探りで、知らないことばかりで、新鮮で、初心に帰らざるを得なかった日々。一から学び始めた日々。
 実に変な話ではあるけれど、激動の日がパタリと止んだ今、こうして平和なのは確かだ。


 
 「どうだ、此処の生活にも大分慣れたか?」

 「来る前よりは、ですかね」

 「そうか」



 屋敷の位置も把握してきた。此処の生活にも、以前よりは大分対応できるようにはなってきたと思う。
 まだまだ分からないこともあるけれど、出来ないから出来るに変わりつつある。マシにはなってきたはずだ。
 何処に行こうと、その場その場に応じて適応していく。それだけのことだけれど、とても大変なことでもある。
 板につくのはまだまだ先の話かもしれない。でも、いつかはそうなるのだろうとも考えている。


 「やはり、此処と外の世界とは大分違うのか?最初はあれがない、これがないと言っていただろう?」

 「そうですね、何もかも違います。此処は、本の中にあるような世界ですよ」


 
 幻想郷と外の世界。二つを比較して分かるのは、文明、技術、生活レベルは大きく異なっているということ。
 外の世界で否定されているモノ、魔法やら呪いやらの類が主流となっている。故に、科学の発達はそれほどでもないという。
 河童はいろいろと作っているという例外はあるが、この屋敷に現代における"当たり前のモノ"はない。
 例えば―――インフラ自体が強くないため、安定して電力供給が行えないのだ。つまり、電化製品はほぼ使えないと言っていい。
 当たり前にあったモノが使えないとなると、不便を強いられるのは仕方のないことだった。
 
 
 
 「外から見れば、数十年、数百年前と言ったところでしょうか」

 「………随分と差があるんだな」

 
 
 実際にその時代で過ごしてきた訳じゃないが、知っている限りではその位の水準だろうと推測は出来た。
 スイッチ一つで楽々といったことも、ここでは手間暇をかけてやらなければならなかった。やらなければ得られないことばかりだった。
 最初から上手くいったこともあれば、上手くいかなかったこともある。その度に、成功と失敗を繰り返してきた。
 はっきり言えば面倒な事この上ない。労力の分に見合った成果が得られるには、経験が必要になった。


 
 「そこまで違うと不便だろうな」

 「ええ、否定できませんね。当たり前に使って来たものが無い、となるとどうしようもないですから」
 
 
 
 近くの店に行けば売ってあるような安価なものでさえ、ここには存在しなかったりもした。
 他のもので代用せねばならないとなると、その多くが始めて扱う、などということもある。
 あるいは無いだけで、どうすればいいのか分からなくなる時もあった。頭を悩ませたことも少なくない。
 つい無い物強請りしてしまう程だった。あればいいのにと、そう望んでしまうくらいにだ。
 


 「でも、最近はいいかもと思ってます。案外、性に合っているのかもしれません」

 「………」

 「一人じゃありませんし、辛くもないです。藍さんのお蔭ですよ」



 でも、そうして少しずつ自分が出来るようになっていくことが、案外面白かったりもした。
 新鮮も新鮮。全く知らない場所で暮らしていく、などという経験は無かった。始めてのことばかりだった。
 それが積み重なっていくうちに、やれるようになっていくにつれ、いつの間にか楽しくもなりつつあった。
 否定しないで、受け入れたのが功を奏したのかもしれない。結果として、この生活も案外悪くないと言えるようになった。

 しかし、それは俺一人の力ではない―――――横にいる、藍さんがいろいろと手助けしてくれたからでもある。
 それが最大の要因だろう。きっと、俺一人では早々に投げ出していたに違いないから。
  

 
 「………そうか」



 言葉こそぶっきらぼうなものだったけれど、その口調は優しかった。そして同時に笑う姿は、とても絵になる。
 ちょっとばかり―――いや、思わず目を奪われてしまっていた。流石、九尾の狐と言った所だろう。
 美人で気の利いて、それでいて優しい女性。それが俺から見た八雲藍である。素晴らしいの一言に尽きる。
 例え妖怪であろうと、助けてくれたことには変わりは無いから。だから、藍さんには感謝してもしきれないことばかりなんだ。


 
 「私も、お前のように頑張らないといけないかもしれないな」

 「…………あの問題について、ですか?」

 「ああ」



 その言葉を出した直後、突如として真剣な表情に切り替わった。凛としたその姿で、空気が一瞬に変化するのを肌で感じ取った。
 真面目な話だからこそ、これまでの和やかな雰囲気を消し去らねばならなかった。それくらい大変な話で、難しい話。
 俺が来てから始まってしまった、おかしな出来事についてのお話。藍さんが抱えている問題についてだ。

  

 「幻想郷に人が入り込み過ぎている」

 

 紫さんの話でもあったように、幻想入りする人間はいるらしい。それは、どんな場所に入りこむかはその時次第という。
 人々が営む場所、妖怪が幅を利かせる場所。そんな違いは存在する。ただ、それでも絶対に入りこむ訳がない場所もあるという。
 幻想郷のどこかにあって、全く不明な場所。それがこの屋敷――――らしいのだが、正直よく分からない。
 どうも普通に行ける場所でもなく、未だ誰も見たことのない、とまで書かれた場所に来てしまった……のだ。
 例外中の更に例外。招かれざる訪問者。それが、どうもよくないサインだと、紫さんは感じたらしい。



 「だが、これまで幻想郷の結界を越えてきた者は多くいたんだ。しかし、直接ここに辿り着いた人間はお前が始めてだった」 

 「おかしくなり始めたのは、そこからですか?」

 「そうみたいだな、結界を越えてこちらに入ってくる人間が増えてきている。このままではよくないことになるだろうな」



 最近、その越えられなかったモノを越えてきてしまっているのだという。
 博麗神社―――という場所に迷い込んだ人が連日押し掛け、そこにいる巫女と紫さんはその帰還作業に追われているらしい。
 彼女らが頑張っている御蔭で、今はまだ問題として挙げられはしない。だが、これ以上進めば非常によろしくないことになる。
 
 幻想郷に人間が多く入ることで、外の世界でその分人が減り、神隠しだと騒ぎ始める。すると、人々が幻想はあるのだと思い始める。
 幻想を否定することで成り立っている結界が、弱まってしまうという悪循環になりかねない―――のだ。
 ―――――なんて考えたことは全部、紫さんと、藍さんが教えてくれたことだ。

 

 「結界そのものは、ちゃんと機能しているんでしょう?」

 「ああ、だが何が原因かははっきりしていない。紫様も忙しい今、私が何とかしなければならないな」

 

 その言葉の通りだ。管理者が不在な今、その式神である八雲藍が八雲紫の代わりを果たさなければいけない。
 重い責任だ。俺ならきっとその重さに逃げ出してしまう。世界を管理するなんて、そんな大役は無理だ。
 力など無い俺には到底不可能な話。何処まで行っても、その中心に立つことは出来ない。何処まで行っても外野だ。
 紫さんのいない間の屋敷で見守ることくらい。所詮、出来ることなんて極僅かに過ぎない。
 


 「………その、俺も何か出来ることがあったら言ってください。出来ることはないかもしれませんけど」

 「――――ふふ、そうだな。そう言ってもらえるだけだとしても、有難いな」


 
 でも、こうして見ず知らずの俺を助けてくれる藍さんには、どうにか助けになりたいと思っている。
 紫さんに言われてから今日まで、藍さんは俺を助けてくれた。右も左も分からない世界で、頼れるのは藍さんだった。
 彼女は妖怪で、九尾の狐で、最強の式神だ。他から見たら恐ろしいのかもしれない、けれど俺はそうは思わない。
 ほんの少しでも返すことが出来たら――――なんて。無謀だけれど、少しだけ願いたくもなるんだ。



 「………なら、今から行くところがある。手伝ってくれるか?」

 「はい」


 
 いつになったら返済が完了するのかよりも、どれだけ借金が増えないようにするか。今の俺に出来ることは、それだけだ。
 











 「今日、人里に辿り着いたのは一人か」

 「そうだ」


 定時連絡のように、淡々と行われる業務。何度繰り返したことだろうか、その所作には一切の無駄はない。
 そういうことが日々当たり前になっているからだろう。染みついた習慣が抜け出せないのは、お互い様なのだ。
 似た者同士。藍さんと――――――慧音さん。二人は、今日やってきた外の人間について話をしている。
 


 「今回は、妖怪の山からだそうだ」

 「ほう、よく天狗達に捕まらなかったな」

 「運がよかったらしい。都合よく匿ってくれた神の元で、しばらく隠れていたと話していたよ」


 
 上に立つ者としての責務。彼女らはその役目を全うするために、今こうして対話している。
 人里の守護者、幻想郷の管理者。その思想は互いに相容れないこともある。時には対立することだってある。
 どちらの立場に立っているか。守るべきモノを抱えているのだから、それは当然のことだ。
 だが今の状況では、そんな呑気な争いをしている暇はない。災いの種を潰さなくてはいけないのは、どちらも同じなのだから。

 

 「………ふむ。これで十日間連続か?」

 「そうなる。今までは多くても二週間くらいに一人のペースだった………異常とも言えるな」
 
 
 
 運よく人里、もしくは博麗神社に辿り着く可能性は低い。知らない場所で、お陀仏することの方が遥かに多い。
 だが、その少数が多くなった。今もこうして来た人はいる。しかしながら、人里にも受け入れられる数にも限界がある。
 浮かび上がる様々な課題に、慧音さんは頭を抱えるかもしれない。いや、実はもうすぐそこにまで来ているのかもしれない。 
 明日から何か起こる、という可能性は否定できない以上、火が上がる前に手を打たねばならないのだ。
  
 

 「今はまだ問題はないが、このまま増え続けると大変だ。私一人では抱えきれないことになる―――――――頼むぞ」

 「分かっている――――――紫様も博麗の巫女も忙しい今、誰かがやらなければいけないからな」

 
 
 そんなことが出来る奴らは限られている。立候補して当選すれば出来るような、そんな簡単なものではない。
 力を持たぬ俺みたいな凡人には、遠い遠い話だ。本当に力を持つ者だけが可能とする高い壁だ。
 しかし、表に出すわけにはいかない。動けない者もいる以上、それはほんの一握りに限られる。
 そして、その一握りの中に該当するのは、今こうして話している内の片方だ。



 「ああ、では失礼する。そろそろ昼も終わる………何より、そちらの人を待たせるわけにはいかないからな」

 「こちらこそ感謝する、ありがとう」



 一礼して踵を返し、去っていく慧音さん。その言葉から察するに、寺子屋に戻るのだろう。
 道行く人に話しかけられながら、雑踏の中へと消えていく姿を眺めながら、俺は一歩一歩前へと進んでいく。
 俺と同じように眺めていた藍さんの傍へと、ゆっくりと歩み寄っていく。
 そうして進むと、俺の接近に気がついたのか、振り返って俺を見た。
 

 
 「………すみません、話の途中に」
 
 「いや、別に構わないさ。向こうも分かっていたからな」

 
 
 俺が役目を終えて合流しようと歩いていると、藍さんと慧音さんが喋っていた。
 ――――出ていくのはよくないか。少し待っていようと考えていた時、たまたま慧音さんと目が合ってしまった。
 見つかった以上は、隠れるわけにもいかないので、会釈で応えた。話を中断させる訳にはいかなかったからだ。
 邪魔をする訳にはいかない。少なくとも俺があの場にいても、何の役にも立たないのだ。
 ともあれ、俺も藍さんも一応情報収集は完了したので、共有を開始する。



 「それよりどうだ、何か面白い話は聞けたか?」
 
 「何とも言えませんね。一言で言うなら、いつも通りとしか」

 「………そうか」


 
 状況が進展したか、ということについて答えるならば。否と返そう、それ以外には無い。
 迷い込んだ彼らからしたら、自分自身を大きく揺るがす事件だ。しかし、此処においてはそんなことに驚きもしない。
 知らない場所に来てしまった、神隠しにあった。外から見れば異常ともいえることが、まかり通るのだから。
 今日も今日とてそれは同じ。何も変わらなかった。確かに差こそあれど、特殊と言える事例ではない。
 成果ゼロ、という悲しい結果に終わったのだと、そう伝えるしかなかった。

 

 「もう一度整理しよう。何か見落としている点が―――――――――」



 藍さんがそう言うや否や、低くも長い音が響き渡った。しかし、それは人の声でもなければ、機械が打ち鳴らす音でもない。
 それは道行く雑踏と人々の声でかき消されてはいた。だが、聞きづらくともそれは確かに聞こえていた。
 では発信源は何処なのか。それは今聞いていた、今近い場所にいた者が一番よく知っている。
 俺と彼女、二人以外にいないのだ。

 
 
 「…………すまない」

 「…………いえ」


 
 気まずそうに顔を赤くする藍さん。意味これ以上いいタイミングはないだろう。同時にこれ以上悪いタイミングもないが。
 空腹時に起こる胃の収縮運動、そこから起こること。女性ならば気になるであろうこと、何とかしたいと思っている人も多い。
 体が正常に動いているというサインではあるが、何もこんなときに動いてくれなくてもいいのに。
 多分そう思っているのかもしれない。この反応を見る限り、それは間違ってはいないはずだ。

 

 「えっと、あの…………」 
 
 

 これ以上藍さんを辱めるわけにはいかない。二度目がある可能性だってある。その次が続くことだってある。
 ちょっとでも助けにならないだろうか。必死になって、頭を回して考えた答えが一つだけ思い浮かぶ。
 次がいつになるか、ということは俺には分からないし、藍さんだって分からないのだ。
 だから急がねばならない、ということだけが俺の頭を支配していた。それ以外に何も無かった。
 


 「―――――――――そこの蕎麦屋行ったことないので、行ってみていいですか?」


 
 はっきり言えば、混乱していた。我ながら滅茶苦茶で、脈絡のない意味不明な言葉だ。
 ただ、それに藍さんは頷いたということは確かだった。
 
 
 

 
 
 
  
  








 

 「ここ、美味しいですね」

 「気に入ってもらえたか?」



 二桁超えた机と椅子が綺麗に整頓されている店の中、その端にある一角。
 机の上に置かれたその丸い椀。そこからは少しばかりの白い湯気が立っては消えていた。
 目の前にある器の中で、出汁の利いた白い麺が沈んでいた。そしてもう一つ、稲の色にも似た四角形が浮いている。
 所謂、彼女と同じ"きつね"の名を冠する料理。正に今、それを食べ終えた所だ。

 
 
 「ええ、とても」

 「それはよかった。………私は、これが好きで仕方無いんだ」
   
 「でしょうね。藍さんならそうだと思っていました」



 少し前までの藍さんの状況を言葉にすると、果てしなくつまらない駄洒落が出来る。
 要は共食いである。ただ、藍さんはそれを嬉々として、箸を休めることなく動かし続けていた。
 確かにそうなるのは分からないでもない。お湯を入れて待てば、出来あがるようなモノとは比べ物にならないから。
 今みたいにちゃんとした店では無く、大量生産品ばかり食って来たから、余計に美味いと感じるのもあるかもしれないけれど。 



 「俺もこれ、好きなんですよ」
 
 「そうか、それは何よりだ」

 
 
 自分の意見に喜ぶ姿、そんな反応に少し頬が緩む。
 いつもは凛とした表情を見せるのに、好物の前では目が暮れる。そんな変化に気を緩めてしまうのだ。
 それが美人であれば――――例え人でなくともだ。いや、それはやはり藍さんだからなのか?
 その答えの方がしっくり来る。自分の中で簡単に落とし込めていける、納得がいくことだった。
 多分、それは。そう考える前に、その行動を打ち切らねばならなくなったのだった。


 
 「………さて、店を出よう。話の続きは、帰ってからまとめようか」
 
 「そうですね。長居する根性は持っていませんし」


 
 合図も無く椅子から立ち上がる。藍さんを先頭にして、少し人も増え始めてきた、混雑した場から退散する。
 出口付近にいる店主にお代を渡し、"ありがとうございました"の声を聞きながら、暖簾を手で捲り、店を後にした。
 そうして抜けた先。碁盤の目のようになった街並みを、人が行き交う場所を、並んで歩いていく。
 見回しながらも通り過ぎていくその光景は、何処か見た気がして、でもどこか違っていた。

 
 駅前近くにあった、昔から変わらないように守り続けてきた商家。それが遠くまで並んでいたあの光景。
 目をつぶれば思い返すことが出来る。飽きる位に見てきたから、どこまでも強く、強く残っている。
 あの古めかしい家々、その場所だけ時代に取り残されたかのような、そんな思いさえ感じた街並み。
 でもそれと今を見比べても、やっぱり違う気がした。見れば見るほど、ここは違うのだと思い知る。
 最後まで見終えたけれど、残ったのは違和感だけだった。何処まで行っても、俺は余所者だと言われている気がしてならなかった。
 
 

 「――――――さっきは、ありがとう」

 「………え?」

 「行こうか」

 「え、あ………はい」



 人里を越えたすぐ後、突然聞こえた声。それに俺は反応出来ずに、思わず疑問の声を上げた。
 だがそれに対して藍さんは、何も無かったかのように振る舞っている。次を促して俺を待っていた。
 気の所為か、空耳だったのかな、とそう結論付ける他なかった。

 ただ、ちょっとだけ嬉しそうなその横顔があったことは、確かだった。 













 日も落ちて、暇を持て余した今。何かすることはあったかなと、思いを巡らせた。
 しかしすぐには浮かばない。やれることは、とりあえず済ませたはず。人里に向かい、今日も話を聞いてきた。
 それも纏め終わって、上手く整理はついた。今の時点で出来ることは終わっている―――だからこうして暇な訳だが。

 外とは違って娯楽の無い今、選択肢というものは非常に少ない。というよりも選択肢そのものが無いに等しい。
 その中にあるいくつかを選べということになっても、イマイチ気乗りしない、何てことが起こり得る。
 正に今がそれだ。手持ち無沙汰なこの時間。頭の中によぎる選択肢に、全てにノーを突きつけた。
 とはいえども、何もしないでいるのもな。そうしてふと視線を向けた先で、一つ目についたモノを見つけた。

 

 「……………」


 
 この場にいるのは、俺と藍さんの二人。暇を持て余した男と、読書をする女だけ。
 文字を追いかけては、次を求めてページを捲っていく音が聞こえる。それだけがこの部屋で響くだけだ。
 一切の言葉もなく、また会話もない。完全に活字の世界に入り浸っている藍さんは、無言で読み続けている。
 背筋を伸ばし、姿勢よく座り込んでいる藍さんは、それはそれはとても絵になる。美人は得である。
 だが、俺の気になるモノはそれではない。八雲藍であり、八雲藍でないモノ。

 九本ある、あの尻尾だ。
 



 「―――――」


 
 豊かな毛並みを持ちながらも、決してそれらは雑多にあるわけではない。多量の空気を含みながら、外に向かって広がっていた。
 見事なグラデーションを残しつつも、尻尾の先端に向かうにつれ、鮮やかな小麦色から白へと変わっている。
 初見であれば、間違いなく驚くであろうその長さ。まるで羽を広げた孔雀のようであり、つい見惚れてしまうくらいだ。
 そんな艶のある一本一本が纏まり、かつ整えられたそれは―――――実に、実に美しい。
 
 

 もふもふしたい。ああ、もふもふしたい。

 
 
 単純かつ短絡的な思考。だが、それを見る度に思っていたことでもある。
 一本ならまだしも、複数。九本もあるとなると、どうしても目につくのは仕方ない。というよりも、目に入って当然。
 だってそうだろう?触り心地が良さそうなモノを見せられて、触ってみたいと思うのは不思議じゃない。

 その度に、無意識に伸びてしまいそうな手を止めるのに苦労する。届くのに届かないもどかしさがある。
 この屋敷に辿り着いて間も無い頃から、つい目を奪われてしまっていた。そして、それは今も変わらなかった。
 発作みたいなものかもしれない、だが、それでも求めてしまうのだ。もふもふが、もふもふが欲しいのだ。
 じゃあ、だからと触っていいのかと聞かれれば、そんなことは考えるまでもないことだ。

 嫌がることだったらどうする?何より女性に安易に触れていいのか?許可なくそんなことをしていいのか?
 藍さんは読書中だ、邪魔しちゃいけないだろう?だから耐えるしかないんだ。今は、今だけは、堪えろ―――――――――。


 
 「………なあ」

 「……………は、はい!?」



 本に意識がいっていたはずの藍さんは、突然俺の方に首を向いて、一言だけ呟いた。
 必死の葛藤と戦っていたから、いきなりのことに驚く。声が上ずってしまうことを抑えられない。
 こちらには絶対気がついていない、振り向く訳がないと思っていたのに、それを覆されたら堪らない。
 まさか、という考えがよぎる。いやしかし、などという考えも同時に浮かぶ。それが重なり合ってグルグル回る。
 頭の中が軽くパニックになりかけている所へ、更に俺を畳みかける言葉が続いていく。



 「先程から見ているようだが、私に何か用か?」

 「……………い、いえ。そんなことは……………」
  


 マズイ。非常にマズイ。それは非常にマズイです、藍さん。
 忙しなく揺れる九つの尾、俺を誘惑するそれに目を逸らそうとしても、自然と目が寄ってしまう。
 吸い込まれるような気分に負けそうになりながらも、ギリギリで何とか否定してみせた。
 だが、もう限界に近い。追及されたら上手くはぐらかせる気がしない。恐らく次は無い。
 祈るような気持ちで、藍さんから目線を切る。この状況を回避するという、限りなく低い可能性を期待した。


 
 「…………?――――ああ、なるほど」


 
 不思議そうな顔をした後の数秒後、口元を少し上げて答えた。何かに気がついたような、そんな笑い方でこちらを見ている。
 狐は策士、という言葉がピッタリだが、正に今がそれである。見ていて嬉しいはずの顔。今は、その笑顔が恐ろしい。
 代替案を言おうとした矢先、また先手を取られて更に混乱する。その中で一つ、最悪の景色が垣間見えた。
 次々に連想される未来、その行先。その後はどうなるか。一瞬で通り抜けていく中で、残ったのはどれも見たくないモノばかり。
 ネガティブな言葉ばかりが頭の中を巡る。予想される次に備えようとはするけれど、全く耐えられる自信はない。
 そんな何もできない俺に、藍さんはトドメを刺してきた。

 

 「これが、気になるんだな?」

 「…………………はい」



 藍さんが指の差す先にある、揺れる尾。その問いかけに、思わず肯定の意を示してしまう。
 否定すればよかったじゃないか、と後になってから考えが及ぶ辺り、自分の馬鹿さ加減がよく分かる。
 後悔が心の中を満たす。少し前に戻って、もう一度やり直したい。でも、それは出来ない。
 確かに戻したいんだ。けれど、否定したくない。もふもふしたいという、自分の気持ちに嘘はつけない。
 その馬鹿正直さを持ったが為。どうしようもなかったのだと、自分に対する言い訳が思いついた。

 だが、ついにそれは伝わってしまった。賽は投げられた。後に期待は出来ないが、それでも受け入れるしかない。
 全てを諦めた囚人のように、ただ黙ってそれ以上は言わない。僅かな覚悟を決め、最後に一つだけ思う。
 ついにバレたか―――――。


 
 「なんだ、そうだったのか。なら――――――触ってみるか?」
 
 「え?」



 叱責を受けるものだと思って身構えていたのだが、返ってきた言葉に思わず固まる。
 聞き間違いだろうか、都合のいい妄想だろうか。まさか、あるわけがないだろう。許されないと思っていたのに。
 考えたことは全て無駄になった。あの時の葛藤も悩みも不安も恐怖も、全部必要なくなった。
 いや、でもそれは違う。嘘だ、嘘なんだ。終わり方がこんな訳がないんだ。それはあったのかと、諦めたはずなのに。
 自分を疑いながら、でもそうであって欲しいと願いながら、妙に渇き始めた口を開く。
 


 「あの、触っていいって―――――本当ですか?」
 
 「………変なことを聞く奴だな。そんなことを気にするのか?」

 「え、いや………でも尻尾ですよ?」
 


 ……………冗談、だろ?
 あり得るわけがないと思っていた事が二度も続く。馬鹿な、そんな馬鹿なことがあるか。
 ―――――いや、そもそも馬鹿を通り越したことは、もう起こっていたか。此処に来るまでの全てが正にそれだ。
 じゃあ、目の前で起こったことは、現実……なのか?



 「触るか、触らないか、どっちだ?」

 「触りたいです」


 
 再び条件反射的に言葉を返してしまう。頭の中で考えていたことなんて、もはや意味などなかった。
 これまで秘めてきたものは全部無駄になった。後に残ったのは、絶望ではなく希望だった。
 問いかけを回避できるという未来でもなく、見つめていた事に対する批判でもない。全てがゴミ箱行きだ。
 ただ、一つ残ったこと。それは、伸ばした手を抑えたあの日、その手が伸ばせるということ。
 
 
 合法的にもふもふ出来るという、事実だけが残った。
 



 「ほら、触ってみるといい」

 

 こちらに尾を向けて、俺が触れるように手助けしてくれている。
 御膳立てされたにもかかわらず、此処まで来て置きながら、今更止めなどということは言わない。
 お互いに歩み寄っているのなら、後はどうなるかは分かり切っている。だから、前に行くのだ。
 待っていたモノが目の前にあるなら、手を伸ばすだけのこと。伸ばせば届くのに、届きはしなかった。
 今はもう大丈夫。伸ばしたら届くから、そのもふもふへと向かって行くことが出来るんだ。

  

 「おお………………」



 言葉が自然に出る。あふれ出る色々な思いを隠すことなく、隠すことすらせず漏らした。
 思いのほか柔らかい毛。いくつも重なったそれは、空気を充分に含み、手を押し戻せば返ってくる。
 それをもう一度だけ弱く押しながら、尾の先に向かいながら、毛並みに合わせて横に引く。
 ゆっくりと、手に毛が引っかからないように気をつけた。しかし、それは必要なかったらしい。
 指と指の間に入ってくる毛は、勝手に抜けていく。何とも言えないくすぐったい感触を残しながら、終わった。


 ―――――――――これは、癖になる。もふもふだ、もふもふ中毒になる。
 

 背中から頭に向かって走る衝撃、駆け上がるような感覚に痺れた。
 一度味わってしまうと、二度目も味わいたくなるという衝動。今、それが頭の中で巡り続けている。
 許可も無く二度目を実行、もはや止めることは出来ない。止めようとしても止まらない。
 ずっと願ってたんだ。もふもふしたかったんだ。この時を待ってたんだ。



 「気に入ってくれたか?」

 「はい!」

 「ふふ、そうか。私の自慢の尻尾だからな、それは何よりだ」


 
 尻尾に夢中になっているこちらを見て、藍さんは嬉しそうな顔をしていた。
 自分の誇りであるものを褒められて、鼻高々といった具合か。しかし、分からなくもないことである。
 九尾の狐と言えば、その九本の尾。自分という証明を示すには一番分かりやすい。
 何よりこれだけ立派なのだ。隠しているのではなく、外に出しているのだから、自信があるということだろう。
 先ほどよりも揺れ始めた尻尾、それが今の藍さんの思いを示しているのか。忙しなく動き続けていた。
 

 
 「お前なら丁寧に扱ってくれるだろうと思っていたが、その通りだったな」

 「触らせてもらっているのに、掴んだり引っ張ったりなんてしませんよ」

 「偶にいるんだよ。そういう奴がな」

 「でしょうね、尻尾だって痛い時は痛いですから」


 
 クッションと何かと思って、粗雑に扱う人はいる。我が物の如く散々いじりまわし、自分の欲を満たそうとするのだ。
 何をしようとするかは個人の勝手ではある。が、触るなら触るなりに常識くらいは弁えておきたいものである。
 引っかかれてからでは遅い………報いを受けるのは自分自身なのだから。そんな過去の自分から学んだことだ。
 触らせて貰っているのだ。機嫌を損ねてはいけない。もふもふを自らの手で失うなど、馬鹿のすることである。



 「………なあ、一つ頼みを聞いてくれるか?」 
 
 「………何でしょうか?」

 「そこの箪笥の引き出しにあるモノを取ってくれ」

 

 藍さんの尻尾を堪能していると、その本人がお願い事をしてきた。仕方ない、もふもふは一時中断だ。
 でも、そんなわざわざ頼むことでもないだろうに。そう思いながら、軽い気持ちで引き出しを開ける。

 だがその引き出しにあったモノを見て、何故藍さんが頼んだのかを理解した。
 その中にあった一つ。それを手にとって見れば、外の世界でよく見たモノだった。 
 これを出したということは、これを頼むということは、つまり――――――。
 振り向いて藍さんの顔を見て、その答えが正しかったのだと知った。
 
 
















 「上手いものだな」

 「そうですか?」

 「ああ。一人でやると少々手間がかかるんだ。届かない部分も出てきたりもするからな」

 

 確かにその通りだろう。これだけ多いと時間もかかるし、中々骨の折れる作業だ。
 手入れもしっかり行わねばなるまい。自慢だと言うくらいなのだ、それ故に俺も手は抜けない。
 頼まれた以上、しっかりと責務を果たさねばなるまい。その相手が藍さんならば、尚更それ以上に。
 だが正直な話、褒められて嬉しい。案外、自分の腕も信じられるものだとは思う。
 


 「手慣れている気がするが、経験があるのか?」

 「家に猫がいましたので」

 「そうか、道理でブラッシングが上手い訳だ」
 
 

 思い出すのは黒いアイツ。飯を食っていると寄って来ては、"ちょうだい"ってねだってきたか。
 誰が一番甘いかをよく分かっていた。でもそれが分かっていながらも、俺は甘やかしてしまうのだった。
 床に転がっては腹を見せたり、自分から寄ってきてくることもあった。猫にしては随分懐いてくれた奴だった。
 だからブラッシングも俺がやっていた。ずっと、ずっとやってきていた。積み重ねてきた。
 ――――今となっては、何もかもが懐かしい思い出だ。

 
 
 「私にも"橙"という猫の式神がいるんだ。もし、会ったら可愛がってやってくれ」

 「そうですね。会った時は、是非」
 
 「甘やかさないでくれよ」

 「………何を根拠に?」


 
 心でも読まれたのか、ただの偶然なのか。それは俺には分からない。一生理解できないことだ。
 紫さんといい、藍さんといい、毎回ビックリさせられてばかりいる。心休まったとしても、また次が来る。
 種族の違いを考えれば、いろんなギャップがあって然るべきか。納得はする。しかし、妖怪はその上を行く。
 古今東西、それは語り継がれてきたことであり、妖怪の根幹を成すものだから。人の考えを出し抜いてくる。
 人と妖怪なら驚くのは当然。とはいえ分かってはいても、その横を、裏を、隙間を突いてくるのだった。  


 
 「お前なら、きっとそうするだろうと思っただけさ」

 「そう見えますか?」

 「見えない方が可笑しいくらいだな」

   
 
 そんなに甘いかねぇ、とこれまでを振り返ってみる。………まぁ、確かに猫には甘かったけど。
 こうもあっさりと看破される辺り、藍さんも見抜く力はあるようだ。あるいは、俺が分かりやすいだけか。
 それとも、一緒に過ごしてきた所為もあるのかもしれない。その分だけ、知らない部分の理解が深まったか。
 俺は、俺の出来ることをやろうと思っただけだ。その結果が、そう見られていることに繋がるのかもしれない。

 視点が違えば、考えることも、思うことも、その時に何を起こすかも違ってくる。
 俺は八雲藍から見ることは出来ないし、八雲藍は俺からを見ることは出来ない。誰でも分かる当たり前のことだ。  
 これまでの過程、種族、価値観。いろんなものをひっくるめても、俺は彼女とイコールではないのだ。
 自分の中にある常識、他人の中にある常識。見比べた所で、何もかもが一致する訳がない。
 俺が藍さんをどう思っているか、藍さんが俺をどう思っているかも違う。そういうことなのだ。
 でも、違っていても少しずつ分かり合えると思いたい。そう信じている。


 
 「―――――――――――ふわぁ」


 
 気の抜けるような声が響く。今にも眠ってしまいそうな、そんな声だ。
 思わず欠伸を出してしまった本人を見れば、少し顔を赤らめている。あまり人に見られていいものではないだろう。
 例えそれが妖怪だったとしても、女性であることは確かだ。恥じらいを持つのはごくごく自然なことだった。
 だから俺は一つ決めた。嘘をつくことにした。バレるかもしれないけれど、誤魔化すことにした。

 

 「………すまない、いい顔ではなかったな」

 「いえ、見えませんでした」

 「………そうか」

 「眠いのなら、横になりますか?」

 「………そうだな、そうさせて貰う」



 近くあった座布団を渡すと、藍さんはそれを二つ折りにして枕にした。
 即席の枕に頭を下ろして横になり、手も足も力を抜ききっていた。完全に無防備、リラックスしきっていた。
 今にも眠ってしまそうなくらいだ。瞼は閉じ開きを繰り返し、既に限界が近いことを指し示しているようにも見える。
 言葉も徐々にたどたどしくなりつつある。普段とは違う、ぼんやりとした雰囲気になっていた。



 「………少し、休んでもいいか?」

 「いいですよ、後は何とかするので」
 
 「……………任せた」



 そう言った直後、完全に目を閉じ、一言も話すことなく沈黙した。
 少しだけ聞こえる規則正しい呼吸音。胸の辺りは僅かな上下運動をしながらも、それ以外に動くことは無かった。
 どこまでも美人な藍さんは、その寝顔も美人なまま。そうあり続けているだけだった。
 あまりにも無防備。立派な成人の女性、例え狐であろうと、その姿は何処か微笑ましいものだった。

 

 「――――――――――」



 本当に今更ながら、怖いくらいに美人だ。
 そんな彼女と今こうしている――――とんでもなくラッキーだ。妖怪だという後付けさえなければ、と人によってはだが。
 ある意味、一生分の運を使い切ってしまったんじゃないか。そんなことを思いもしたし、何度も考えなかった訳じゃない。
 今が頂点なら、後は転がり落ちていくだけの人生か。普段はそう信じてはいるが、今だけ認めたくはない考えだ。
 でもそう思ってしまうくらい、これ以上ない幸運が目の前にあるんだ。男冥利に尽きるばかりのことなんだ。
 転がった先に何があるかは分からない、でも思いの他いいものだった。先の見えない向こうは、幸福があった。
 
 

 「おやすみなさい、藍さん」 

 

 偶然が偶然を呼んだ。その結果がこれだ。でも、今はそれでもいいと思っている。
 ただ、平和な時間を過ごせるのなら。何も望みはしない。続くものなら、いつまでも続いて欲しいと祈るばかりだ。
 いつか終わると知っていても、それでも。










 知らない景色、知らない場所を巡る。あの日からずっと、それを繰り返す日々が続いている。今も変わることは無い。
 行った場所は数知れず。個性溢れる―――いや、個性しかないような奴らが住む場所に寄ることばかりだ。
 それは主に、幻想郷に迷い込んだ人達について。何処からどうやって此処に辿り着いたのか、その点について調べている。
 故に今日もやることは同じ。右も左も分からない場所を藍さんと共に並んで歩き、目的地まで向かっている最中である。
 碌に整地もされていない獣道、そこからずっと見え続けている対象物。進めば進むだけ、より大きく見えた。
 
 

 「これが妖怪の山、ですか」

 「ああ。天狗の縄張りと言った所だ」



 首を上げ、更に目線を上げていくが、それでも山の頂は見えない。これだけの高さ、それこそ日本最高峰を連想する。
 いや、それ以上だと言われてもおかしくない。此処に来る前よりもずっと前、遠く離れた場所からでも目立っていた。
 人里から向こうを見たときだって、一目見て"アレが何か"を知るには、充分すぎるくらいだったんだ。
 圧倒的な存在感、それを超えて威圧される勢いさえ感じる。ピリピリとした、何かおぞましいような空気がある。
 これまでに訪れた場所も中々手強かったが―――――ここもそれと同様、ただでは済まない雰囲気だった。

 
 
 「………あまり緊張しなくてもいい。少し見るだけだ」

 「………ええ」


 
 人が立ち入ることを許されぬ場所に、自ら足を踏み込もうというのだ。誰かに強制されるのではなく、自分の意思を持って。
 昔から、ここに住み続けている妖怪達が多くいる場所。ただの山ではなく、"妖怪"の山と前置きがあるくらいなのだ。
 一体何があるか分からない今、不安と恐怖は消えることは無い。何度も経験しているとはいえ、これだけは中々慣れはしない。
 自分の身がどうなるか。一秒先には、この世から消えていることだってある。そう思えば、穏やかな気持ちでいられないのだ。

 だが、いつまでも立ち止まっている訳にもいかない。来た以上は、何もせず帰るなどということは出来ない。 
 探し求める為にわざわざ来たのだ。ならば、一つでもいいから見つけよう。泣き言を言うのも、駄々を捏ねるのもそれからだ。

 

 「―――大丈夫です」

 「そうか」 

 
 
 見せかけの虚勢でも張ってみる。張り子に過ぎないが、それでも多少はマシにはなる。ほんの少しだけ、気持ちが変わりつつある。
 心の内側。負の感情だけで埋め尽くされている所に、弱くもありながら確かな意思を決めた。本当にちっぽけな勇気だ。
 それを基点として、ちょっとずつ恐怖を押しつぶしていく。大丈夫、俺は大丈夫だと、自己暗示にも似た言葉を内心で繰り返す。
 そうして繰り返すのを止めた時、余計なものは消える。ちょっとした覚悟、腹を決めたつもりになるのだった。
 今回も上手く出来た。それだけのことだった。  



 「………それよりも、手はどうしましょう。入った後もこのままですか?」
 
 「ああ、離したらお前が見えてしまうかもしれないからな。悪いが、このままでいて貰うぞ」


 
 だが問題はそれだけではない。その一つに、今こうして手を繋いでいるということがある。
 藍さんと手を繋ぐとは思いもよらないことではあったが、ある意味これは仕方のないことなのだった。
 
 妖怪が我が物顔で歩いている幻想郷。特別な力を持たない人間である俺は、妖怪から見てカモ以外の何物でもない。
 そこで藍さんは、狐の力を使って妖怪の目を欺くことにした。つまり、向こうから俺を見ても見えないようにしたのだ。
 一種のステルスのようなものだ。最強とも呼ばれる狐の化かす力。それは、並大抵の力では太刀打ちも出来ないだろう。
 事実、力を使ってその場をエスケープしたこともある。鼓動が嫌ってくらいに聞こえる場であろうと、難なく乗り切れるくらいだ。



 「いいですよ、見つかるよりは遥かにマシですし」

 「そうしてくれ。一応念は入れておいた方がいいからな、バレたら一大事になる」 



 遠隔操作で対象の姿を消すことも可能らしいが、その相手によっては、いろいろと制約が付き纏うのだという。
 人一人を恒常的に、かつ妖怪に絶対に気付かれないレベルで、それでいて動くのだから色々と大変なのだろう。
 なので、藍さん曰く『出来るだけ近づいて欲しい、手でも触れてくれるとやりやすい』とのこと、結果としてはそうせざるを得ない。
 尻尾をもふもふしたことに続いて、合法的に藍さんに触れる―――手を繋ぐに至る訳だった。実に、実に仕方のないことである。
  
 

 「………さて、もうすぐで着くぞ」

 「そうですね。何か見つかるといいんですが」

 「確かにな。ヒントになるようなモノが見つかれば――――分かるかもしれないな」



 重ねた手。互いの手を握り合うそこから、ほんの少しだけ力を感じ取った。でも、それは本当に僅かな力だ。
 でも、その力が今の藍さんの気持ちを示しているようで。今、どう思っているかが分かるようで。
 だから、言葉と共に受け取ったモノに対して、俺も同じだと返すことにした。ほんの少しだけ握り返してみせた。
 感じ取った分だけ、その分だけを藍さんの手に力を加えた。その結果として、繋いだ手がより重なり合っていく。  



 「……行こうか」

 「はい」


 
 俺の反応にちょっとだけ驚いたかのような顔をして、あとはいつも通りだった。

















 
 当然ながら、何処を見ても木ばかりしかない。途中途中に住居らしき建造物は見えたが、どれも古めかしいものばかり。
 今まで歩いてきた以上に足場は悪い。そこらじゅうに転がった石、好き勝手に伸びきった草達が足を取りに来る。
 立ち並ぶ木々が遮蔽物の役割を果たし、夏の日差しそのものは抑えられてはいた。だが、気温の高さは防げない。
 おまけに平地ではないのだ。傾斜があることでより体力は削り取られていくばかり、少々辛いと感じている。
 


 「…………」 


    
 喋ることでさえ億劫だ。そんな元気も気力も出てきやしない。それよりも、足を止めずに進むことを考えた方がいい。
 妖怪が見えないとはいえども、何処で何を聞いているかは分からない。迂闊なことは出来ないのだ。
 余所者に対して排他的な面を持ちながら、仲間意識の強い奴らばかりが住んでいると聞く。見つかったらどうしようもない。
 発見されたらあっという間に取り囲まれて追い出されるか、あるいは連行されるかだ。
 
 先ほどでも突然の強風に煽られた。何事かと酷く驚いたものだが、藍さん曰く"天狗"だと言う。
 目で追いつく間もなく、気がつけば既に駆け抜けていった後だった。恐ろしい、あんなのものに激突でもしたら無事でいられない。
 新幹線よりも速く通り過ぎていく恐怖。こちらが見えていないのだから、当たるかどうかは完全に向こう次第だ。
 ならば立ち止まっている暇は無い。少しでも早く行かなければいけないのだ、そう考えることを飽きるほど繰り返した。

 しかし考えることにも疲れた、いい加減辿り着かないか――――そう思っていると、ついにそれが終わる時が来たのだった。

 

 「ここだ………着いたぞ」 

 

 藍さんがそう告げ、立ち止まるのに合わせて俺も立ち止まる。指で示す先、何があるかと聞かれれば―――特に何も無い。
 そう、無いのだ。その左手が向く方向を見ても、周りの景色と殆ど同じ。生い茂った木々や草葉しかないのだ。
 些細な差異はあるのだろうが、ここが目的地だと言われなければ、今までのように通り過ぎてしまいかねないくらいだ。
 何の変哲もないような、何処にでもある片隅。誰も見向きもしない、実につまらない場所。

 名も知らぬ迷い人が辿り着いた、一番最初に立っていたその場所だった。
 
 

 「どうだ、お前は何か見えるか?」

 「いえ………」


 
 そう訊ねられても返す言葉に困る。他に見えてくるものなどない。何処にでもあるような、変わり映えのしない景色でしかない。 
 それ以上も無ければ、それ以下も無い。じっくりと目を凝らしてみたとしても、やっぱり何かが浮かび上がってくるはずも無い。
 幽霊や心霊現象を見る力は、生憎持ち合わせてはいない。当たり前のことだ。俺は、そんな力などないのだから。
 故に、見えない何かなど見える訳もなく。何も無いこと以外は、分かりもしないことだった。
 


 「そうか、お前も分からなかったか」

 「………藍さんもですか?」

 「ああ。なんら変わった点は見当たらず、結界が壊れている訳でもない。特に何も無いな」



 問いかけと同時に隣にいる藍さんの顔色を窺うが、淡々とした口調、普段通りの表情をしているだけだった。
 ずっと向こうを見据えてはいるが、結論としては別に特別でも何でもないということ。藍さんも俺と同じということ。
 せっかくここまで来てはみたのだけれど、またしても徒労に終わった。いつもと変わらず、進展は無しだった。
 


 「………また、ですか」

 「………そういうことだ」


 
 わざわざ一山登ってここまで来たというのに、収穫は何一つ得られなかった。そんな事実が少し重く圧し掛かる。
 先ほどの肉体的な疲労と重なり、より疲れを実感する。言葉にすればするほど気が滅入っていく。
 そして、それは俺だけではない。横で見ていたから分かる。徐々に目尻が下がっていき、視線を落としていくその姿。
 憂いを帯びたその表情。言葉こそ無いが、正に当てが外れたと言わんばかりだった。
 


 「お前ならばあるいは、と思っていたんだがな」

 「買い被りすぎですよ。何処までいこうとも、俺はただの人間ですよ?」
 


 結論から言えば、藍さんの期待には応えられなかった。でも、それは最初から既に分かっていたことでもある。
 俺も結界を超えてここに辿り着いた一人、越えられない壁を越えてきた人間だ。ならば、俺自身に何かあるのではないか。
 見えないはずのモノが見えてくるんじゃないか。違うモノが分かるはずだ。そう考えるのは何ら不思議なことではない。
 だが既に俺にそんな力など無いことは、藍さんだって分かっていたこと。何処にでもいるような人間に過ぎない。

 確かに一度は不可能を可能に変えた。しかし、二度目があるという保証は無い。むしろ起こらない方が当たり前なんだ。
 ならば、何故俺をここに来させたのか。あまり考えたくはないが――――実は、かなり切羽詰まっているのではということ。
 


 「ふむ、どうしたものか………」


 
 俺が手伝うと言い出した時から、もう打つ術は全て出しつくした後だったのだろう。話を聞く限りでは、その通りだと感じのだ。
 人里で話を聞くのはまだしも、こんな危険区域にまで俺を連れ出したんだ。普通に考えるなら、あまりにもリスクが高すぎることだ。
 でも、それが分かっていたとしても。それでも僅かな望みに賭けたのだろうか。愚策だとしても、可能性を捨て切れなかったのか。
 そんなものでさえ縋らなければいけないのか。どれも憶測には過ぎない。でもこれまでを振り返ると、そう思ってしまうのだった。

 そして何より、先程から声が聞こえるのだ。音も無く、ただただ頭の中で響いている声が繰り返されるのだ。
 一体それは何の為に、誰が叫んでいるのか、誰に向けられたものなのかは知らないけれど、聞こえてくる。


 ―――――――どうすればいい?次は、次はどうする?突破口はないか――――――――――

 
 

 「………………」   

  
 
 何か言うべきなのかもしれない。でも、言えるような言葉を持ち合わせてはいない。だから、黙って見ているしかなかった。
 ただ藍さんの手を握るしか、俺には出来ることが無かった。











 いつもは閑古鳥が鳴くと評される博麗神社。それだけを聞くと神社なのか疑わしくもなる。
 人よりも妖怪が溢れ、妖怪に乗っ取られたなんて言われるくらい。いろいろと問題ありな場所と言われてしまっている。
 しかし今は違う有様だ。盛況も盛況と言った所。連日人が押し掛け、巫女が帰還作業に追われる日々となっている。
 そして今日はそこに来ている。別に冷やかしに来た訳でも無ければ、応援ということでもない。
 ちゃんと用事があってきたのだ。今日も今日とていつものように、藍さんと一緒に。



 「二十九ですか……」

 「そうね、ついにそれだけの数になったわ」



 各地を飛び回って迷い込んだ人数を調べ、その原因を探ってはいる。しかし、一向に減る気配はないようだ。
 入り込む人のペース自体は増えてはいない。ただ、保護してもらえる場所に辿り着いたのが、それだけの数ということである。
 道中で物言わぬようになった数を含めて、本当に増えているのか。それとも減っているのかは分からない。
 だが、依然として予断は許されないらしい。悠長に事を構えてはいられないことに、何も変わりは無いのだった。
 


 「恐らく明日で三十になるでしょうね。そろそろ気がつき始めた人も妖怪もいるんじゃないかしら」
 
 「そうかもしれません。口止めはしていますが、時間の問題です」
 
 「やっぱりね。私もスキマを使ってはいるけれど、拾える限界が近いわ」

 
 
 紫さんは出来る限り人の回収作業をしているようだが、どうもそれだけでは間に合わないこともあるようだ。
 万能にも似た力はある。が、スキマ妖怪は一人一種族だ。手を回すのにも何処かで無理が生じるのだろう。
 助けるには一足遅かった、なんてこともある。当たり前だ、全てを救いきれるなどほぼ不可能に近い所業だ。
 妖怪が人を助ける、などというおかしな構図。だがこの際、そんな突っ込みは野暮というものだ。
 管理者として、今やるべきことをやっているということ。幻想郷を守る者としての役目、上に立つ者としての責務。
 だが表に出す訳にはいかず、隠して極秘裏に進めている。今もそれは変わらぬままだ。


 
 「進展はどう?」

 「………………」

 「そう」



 問いかけに対して非常に痛い所を突かれた。だから、藍さんは何も言えず沈黙してしまう。
 紫さんもその反応で察したようだ。流石主従関係と言った所だが、藍さんにとっては恨めしいことこの上ないはずだ。
 主から与えられた役目を果たせない、となると従者の側からすれば針のむしろか。最悪だろう。
 硬く口を結び、俯いたままの姿。それだけで全て分かった気がした。俺の中で嫌な気分が広がっていく。 
 それを見て、少しでも助け船を出してやりたいけれど、残念ながら何もいい言葉が思い浮かばなかった。


 
 「引き続き頼むわね、藍」

 「………はい」


 
 
 言葉少なにそう返すだけ。それだけで、今回のやりとりは味気なく終わっていった。
 ちょっと肩を下げて落ち込み気味な藍さん。どうにか励ましてあげたいが、一体どうすればいいのか分からない。
 今はただじっと、そこに立って見つめるしか出来なかった。隣にいることしか出来ない、そんな自分の無力さを感じる。
 ちょっとだけ握り拳に力を込めてしまう。俺にはどうしようもないのだけれど、それでも何か出来るんじゃないかって思ってしまう。 
 でも出来ないって分かっている、だからより虚しさが募る。でも仕方のないことなんだ、本当のことだったから。
 その思いを胸に、藍さんと共に紫さんから遠ざかっていく。次こそは、何か進展があることを願うしかないのだった。



 「そうそう、あなたは少し話があるから」

 「………俺ですか?」

 「ええ」



 唐突に呼び止められた声に振り返って答えると、まだ俺にだけは話があるようだった。
 なんだろうか。次は何が言われるのだろうか。考えてはみるけれど、これというものはイマイチ出てこなかった。
 話は終わったはずだ。なら、次に来るのは全く関係ないことだったりするだろうか。全く想像はつかないことでしかない。
 そんな悩む姿を見たのか、紫さんは俺に向かって更に言葉を続けてきた。



 「大丈夫よ、別に大した話じゃないから。すぐに終わるわ」

 「そうですか………じゃあ、藍さん」

 「ああ、行って来い。終わるまで待っているからな」


  
 そう言った直後、藍さんはすぐに境内から少し離れた場所へと移動していく。
 一度だけ俺を心配そうに見つめた後、振り返って再び歩いていく。だが、その後ろ姿は少し寂しそうな気がした。
 先ほどのやりとりがあったからだろうか。いつもの元気がないようにも写って見えた。気の所為だといいのだが。
 ならば、帰ったらアレでも作ろうか。多分それを出せばなんとかなるかもしれないと、そんなことを考えた。

 そうして藍さんを見終えてから紫さんを再び見ると、どうしてかクスクスと笑っていた。
 何が面白いのだろうか。何か笑うようなことでもあったのだろうか。ますます疑問は深まるばかりだ。

 

 「どうかしました?」

 「………いえ………ふふっ。藍についてどう思ってるか聞こうと思ったのに、もうそんなに必要はなかったわね」

 「………?」


  
 藍さんについて、何か聞くことなどあるのだろうか?
 主たる紫さんが、藍さんについて知らない訳がないのだ。付き合いだって俺よりも遥かに長いだろう。
 数週間かそこらの人間に、八雲藍について答えられることよりも、答えられないことの方が多いんだ。
 尋ねるだけ無駄な気がするが。それでも俺に聞こうということは、それ以外の何かあるということなのか。
 その答えはすぐに出てきた。またしても、妖怪らしく裏をかかれたという形となって。



 「ねぇ、藍とは最近どうなの?」
 
 「………え、あの、一体何の話ですか?」

 「いいのよ、別に誰にも言わないから」

 「………特に何も無いんですけど」

 「そう?」

 

 俺と藍さんとの関係性について、それを何故か問われた。思いもよらないことだ、意外だというのが本音だ。
 いや、と言っても何がどうとか面白い話がある、とかでもないのに。一体何を思って聞いてくるのか。
 何処まで進んだの?と言われても、何が進んだのかは知らない。その問いかけの意味が分からない。
 男女一つ屋根の下、聞こえはいいが、実際はそんなものでもない。俺は俺のことで手一杯だから、余裕などない。
 のんびりとしていられないのは藍さんも同じだし、忙しいのはお互い様だ。だから、何かあるかと言われても。
 きっと紫さんが考えているようなことは無い、無いはずなんだと思う。

 

 「その割には、随分仲がいいように感じたけれど?」

 「そう、ですかね」

 「ええ、とても。いいコンビじゃないかしら」



 正直な話、藍さんが俺をどのような位置づけで捉えているのかは知らない。聞いたこともない。聞けない。
 でも、いろいろとお世話になったんだ。だから少しでも返していきたいから。俺にはそれしか出来ないんだ。
 好きか嫌いかで判別するならば、好きな部類にいるとは思いたい。そう願ってやまないことだった。
 いや、そうでないとおかしいか。嫌いであるとしても、これまでのやりとりに対しての辻褄が合わないから。
 俺のことを気遣ってくれる。その理由にふさわしいのは、どちらかを考える必要はないことだから。
 


 「あなたが藍のことを考えているように、藍もあなたのことを考えているのよ」

 「………藍さんが?」

 「ええ、人間で此処まで仲良くなったのはあなたが始めて。珍しいことね」

 「……………」
 

 
 そうか。藍さんの中にも俺がいたのか。そのことが分かっただけでも、凄く嬉しいと思う。
 口元が笑みに変わっていくのを抑えられない。希望であったことが、現実になるならば、こんなにいいことは無い。
 俺一人がその領域にいる。ということだけでも、たったそれだけでも、大きく価値があることなんだ。
 始まり方がどんなものであれ、あんな美人に思われるのならば、それは誇るべきことなのだ。
 自分にとって、どんな存在であるか。どれだけの意味があるか。深く考えなくても出せる答えだ。
 


 「気に入った相手には、親身になるのが狐だから………あなたをいろいろと気にかけてきたはずよ」

 「………言われてみれば、思い当たる節は沢山あります」

 「でしょう?」



 古来より、狐は人と関わってきた。狐にとってその相手が重要であると思えば思うほど、強く結びついた。
 御伽話、伝承、数々の物語の中にあり、その終わり方には違いはあっても、人と共に生きてきた。
 魅入られたから、あるいは見定められたからこそ、その選ばれた人々は、狐に様々な恩恵を受けてきたんだ。
 それは、俺も同じだということなのだろう。過去、これまでに狐と関わってきた先人達と並んでいるということになる。
 簡単なことを言えば、"思われている"ということ。狐と共にある、憑かれている。つまり、そういう話。
  


 「では、何故俺なんでしょう?」

 

 だが、どうしてという理由に説明がつくのか。切欠とは何か。それだけが分からなかった。
 好意や興味を持ってくれるのは嬉しい。が、何故という疑問は尽きないまま、一度も消えることは無かった。
 与えられるだけ与えられて、後は知らない。そんな対応をされても分からなくなる。逆にあれこれと思うことがある。
 何か裏があるんじゃないかとか、余計なことを考えてしまう。その行動に至る何か、それが理解できなかった。
 考えても、考えても思いつかないんだ。俺一人では、答えが出なかった。



 「何故?…………ふふっ、おかしなことを聞くわね」


 
 俺の問いかけに対して、笑ってそう返してきた。出来の悪い生徒を見る先生のような目、仕方ないわねといったような表情。
 怒りではなく、それ以外の何か。それをさも面白そうに受け取り、楽しそうにしている。俺の知らない何かを知っている。
 間違いないだろう。この反応を見る限り、それ以外にはありえない。そしてもう一度来た言葉に、何とも言えない気持ちを抱いた。



 「気になる相手に対して何かしたいと思うことに、理由がいると思うの?」

 「…………それは」

 「でしょう?」



 確かにそうだ。その通りだ。でも、それじゃあ答えにならないじゃないか。俺の欲しかった答えはそうじゃないんだ。
 何処かで納得できないと叫ぶ自分がいる。でも、それを言った所でまともに返してくれる気がしない。 
 そもそも、紫さんは藍さんじゃないんだ。同じじゃない。だから、聞くのは間違っているのかもしれないけれど。
 だとしても、知りたいと思うことに変わりは無い。俺はその答え以外の何か、分からないモノを知りたかったんだ。
 

 
 「難しく考えないで。物事なんて、複雑なようで案外単純だったりするものよ」

 「…………」

 「その時になったら分かること。それは遠くはないわ―――いえ、もう気がついているんじゃないかしら?」

 

 でも今はその言葉を信じよう。信じるしかない。そう思ってなければやってられないんだ。
 もう一度藍さんを見直そう。何か分かるかもしれない。何度も見てきたけれど、それでも新しく何かが見つかるかもしれない。
 隅から隅までもう一度見直して、何度も何度も考え直すんだ。答えを探して、見つかるまで繰り返そう。
 そしてその答えが見つかった時は、その時は――――――――その時は?
 
 

 「私は応援してるから………ほら、行きなさいな。藍を待たせちゃ駄目よ」

 

 紫さんに肉体的にも精神的にも後押しされて、藍さんの方へと押し出された。
 後は自分で何とかしろ、ということなのだろう。振り返ればそれ以上の行動を起こさないままで、こちらを見続けていた。 
 当人同士のことは当人同士で解決しなさい。聞こえてもいないのに、そんなことを言われた気がした。
 温かくも厳しい。でも、そこに優しさがあるのは、応援しているという言葉の通りだということなのか。
 

 
 「話は終わったか?」

 「ええ、まぁ…………………」



 俺の接近に気がついたのか、ゆっくりと藍さんは動き出した。本当に、藍さんは何を思って俺を助けてくれるのだろうか?
 その縦長に伸びた瞳孔。金色の目には俺が映っているはずだ。では、どんな形で俺が見えているのだろう?
 ただの人間。迷い込んだ不幸な奴。偶に手伝う居候。問題解決を共にする相棒。色々あるけれど、どれが正解で、どれが不正解なんだ?



 「どうした、不思議そうな顔をして」

 「……………いえ」



 見つめたら、逆に見つめ返された。当然と言えば当然なのだが、少し恥ずかしくもあった。
 もし、藍さんが俺に対する気持ち、感情が分かったその時に、俺たちはどう変わっていくのだろうか。
 では、俺と藍さんの関係はどうなるのだろうか。考えることは尽きない、終わらなかった。
 未来なんて見えないけれど、でも今みたいにはいかないだろう。それだけは何故か自信を持って言えることだった。
 
 

 「まあいい、帰ろう。暗くて見づらいから、足元に気をつけるんだぞ」

 「え、あ、はい」



 佇んだままの俺を見てか、勝手に俺の右手を掴んで、一人前へと進んでいった。
 成すがまま手を引かれて進んでいくが、その横顔が少しいつもと違っていたのは、多分あの言葉を聞いたからだ。
 そう見えたのは、そう考えてしまったからだと思う。証拠は無いし、何処まで行っても推論に過ぎない。
 答えは出ない。でも、なんとなく今までよりは分かりそうな気がした。
 

 
 


 




 
 「こことここ、そしてこの場所か」

 「はい、聞いた限りではそうなります」



 ある限りの一面、全ての紙達がテーブルの上を埋め尽くしている。そして、その上にはもう一枚が頂点に立っていた。
 目の前にあるのは一つの絵。しかし、それは見て楽しむようなものではない。むしろこれから使うためのものだ。
 簡略化されたその絵に、容赦なくバツ印を付けていく。人里、妖怪の山、博麗神社、それぞれの場所に打ち込んだ。
 そうして出来あがったモノを見てみたが、よく分からないモノに仕上がってしまった。


 
 「………何とも言えないな」
 
 「規則性、類似性はあまり無いみたいですね」

 「ああ、何より標本が少なすぎるのが厄介だな。母集団がどれだけなのかも把握できていない」



 幻想入りした人間が、最初に何処にいたのか。その情報を元にして、地図に書き込んでみた。
 ただ、知らない場所に来ておきながら、その場所が何処なのかは分かる訳がない。当たり前のことだ。
 そういう人たちの話を元に作り上げたモノであって、これが正しいという保証は無い。人伝に聞いた、曖昧なモノ。
 藍さんの言葉の通り、そもそもどれだけ入ったかが分からない。おまけに無事に辿り着くのはごく僅かなのだ。
 頭を悩ませるのも、無理は無いことだ。本当にどうしようもない事で、分からないことなんだ。



 「迷い込んだ人の話を聞くにも、まだまだ時間はかかりそうでした」

 「やはりそうか。中々上手くはいかないものだな」

 「状況によっては、発狂しかねませんから。まともでいられる方が珍しいですね」

 
 
 その僅かな人たちでさえも、運よく助かったとしても、何処かやられてしまっていることもある。
 辛うじて人里や博麗神社に来たとしても、口が聞けないくらいに衰弱しきっていた場合もあった。
 一度負った心の傷は、すぐに消えてしまうようなものではなかった。傷痕が癒えるまで、多くの時間を要する。

 いきなり意味不明な場所に来てしまった。魑魅魍魎が渦巻くこの場所で、次に何が起こるかは分からない。
 死と隣り合わせな状況、少し前まで全く真逆の世界にいたのに、平和だったのに、こうも変わると狂いもする。
 道行く先で転がるモノが、かつて人だったものなんて―――――そんなこと認めたくないだろうから。
 それがまともであればある程。より狂ってしまう。実に悲しいことだ。

 

 「………埒が明かないな。どうしたものか」

 「そうですね…………」



 とはいえ、のんびりとしていられる時間はない。だがそれを笑うかのように、話は全く進んでいない。
 事態が好転したか、そんな問いかけをしても首を横に振るしかない。その繰り返しだ。
 手詰まり気味になりかけている。何か突破できるような事は無いかと見ているが、無い。
 苦しい展開にイライラが募る。俺も、藍さんも鬱屈した感情を抱えてばかりいる。

 だからだろうか?………少し藍さんの顔色がよくないような気がする。
 一見いつもと同じではある。でも、少し見てみると僅かに陰りが見えるような、そんな気がする。
 ただの気のせいなのかもしれない。ただ、此処までのことを振り返ると、どうもそう見えて仕方なかった。
 いらない気遣いかもしれないけれど、二択に一択を選んだ。
 


 「藍さん、一旦休憩にしませんか?」

 「……………そうだな、休もう」

 「では、お茶等を用意してきます。待っていてください」

 「頼む」


 
 俺の提案に無事乗ってくれた。根を詰め過ぎると毒だろう。誰かが止めなくちゃいけない。
 藍さんは真面目だ、自分の責務を果たそうと頑張る。それが良い部分でもあるが、裏を返せば悪い部分にもなる。
 なんとかいい部分だけを残して、悪い部分を出すことを防がなければ。
 ………それは、俺が今出来ることの一つだ。
 
  










 



 

 「遅かったな」

 「そろそろいい時間ですからね、どうせならと思って作ってきました」

 「何だ―――――――――――おお!流石だな!」


 
 持ってきたお盆には、二人分の湯のみと箸、レコード盤くらいの大きさの皿がある。
 お盆をほぼ占領しているその皿には、それを全て埋め尽くすくらいの一山を作っていた。
 ピラミッドみたいにしてみたが、案外綺麗なものだと思う。まあ、そんなに大袈裟なものでもないが。
 食べ物で遊ぶな、というお叱りを受けそうだが、こうしないと入りきらないのだった。

 

 「油揚げが余っていましたから。どうせなら、と」

 「気が利くじゃないか。ふふ、よくやった」

 「ありがとうございます」


 
 資料が散らばっていたテーブルは、既に整頓し終わっており、始めから何も無かったようになっている。
 汚すといけないと考えたのか、一か所に纏められ、すぐにも作業を再開できるようにしてあった。
 気が利くのはどっちだろうか、と思いながらも大皿をテーブルの中心へと運んだ。

 さて、次はお茶と箸をと思っていたが、その前に藍さんが二つとも音もなく取っていく。
 俺が先ほどまでいた場所、藍さんの右隣りに―――――さも当然のように置いた。
 となれば、俺が何処に行くかは決まっている。いや、藍さんに勝手に決められたようなものか。
 最初はテーブルの向かい側だったのに、どんどんその距離が縮まってきている。………嬉しいことである。



 「さあ、食べようか。いただきます」

 「ええ、いただきます」

 

 軽く手を合わせ、合掌の形で組み合わせた。いろんなものに対する感謝の意を示し、挨拶をした。
 置かれた箸を手に取り、皿へと伸ばし、自らの手で作り上げたピラミッドを崩していく。
 二本で確かに掴んだそれは、地方によっては"きつね"という名前がついてくるお寿司だ。
 甘辛く煮た油揚げを袋のようにし、そこに酢飯を入れる。すると、まるで米俵のように出来あがる。
 広く知れ渡り、かつ庶民的。祝いの席でも必ず見たことはあるだろう―――――――稲荷寿司だ。
 


 「………美味い!」
 
 

 口に運ぶ前に聞こえた声、それに少し笑ってしまう。
 見てみれば本当に嬉しそうな顔をしている、そんな藍さんは子供のようになっていた。
 狐と言えば油揚げ。稲荷神の使い―――今では巡り巡って神になった、稲荷狐にもお供えられるくらいだ。
 実際は肉食だから、いろいろと違うなんてこともあるが、藍さんは好きだと言っていた。
 そしてその言葉の通りだった、ということだ。目の前にあるその姿が、嘘だとは思えないから。
 
 

 「………お口に合ったようですね」

 「ああ。お前の作る稲荷寿司は最高だ、いつまでも食っていたいと思うよ」

 

 賛辞としてこれ以上は無いだろう。湧き上がる喜びは、止め処なく今も続いている。
 内側から、飛び出ていきそうな思いが満たす。水で満たされて一杯になったグラスが、溢れて零れていくように。
 その言葉だけで救われる。たったそれだけだけど、それだけで充分すぎるくらいなんだ。
 自然と思い浮かぶのは、また作ろうかという気持ち。

 

 「作り手としては何よりですが………毎日は勘弁してください、限度があります」

 「冗談だ…………例えるなら、それくらいということだよ」

 「…………そうですか」


 
 作ってよかったと思う。それでこの顔が見られるなら、安いものだ。
 今もそうだ。物凄い勢いで稲荷寿司のピラミッドが解体され、藍さんの口元へと消えていっている。
 とんでもないペースで平らげていくその様を見ている間に、俺の分が無くなってしまうくらいだ。
 でも、作る間で少しつまんでみたりはしたので、さほど食べなくても大丈夫ではある。
 まさかな、と思いつつも保険はかけておいたが、その予想通りになるとは。



 「…………」
  
 
 
 心ここに在らず、といった具合で箸を往復する藍さん。
 リスみたいに口を膨らませて食べるその姿は、普段の姿とは大きくかけ離れている。
 あの八雲藍が、稲荷寿司でこうも変わるのか。藍さんには申し訳ないが、結構面白くて仕方ない。



 「………んっ………むぐ」



 お茶を呑んではまた食う。食う。食う。よくもまあそんなに食べられるものだと思うが、女性には別腹があるとも聞いている。
 きっとそんな場所に収まっているから、あれだけ食べられるのだろう。にわかには信じがたいことではあるが、多分。

 そうして本当に数個を残すだけとなった時もペースは変わらない、ノンストップだった。
 そんな競争に勝ち、最後に稲荷寿司を手にしたのは、残念ながら俺ではない。
 最後の稲荷寿司は箸にあえなく捕まった。その箸の持ち手は――――――藍さんだ。

 

 「じゃあ、最後をいただき――――――――――」

 
 
 そう宣言して、皿から持ち上げて口へと……………運ばれなかった。手は旋回し、徐々に手のひらが返っていく。
 ここでは無いあるべき場所を目指すかのように、箸に捕まったままの稲荷寿司は、少しずつ動き始めていた。
 では何処へ行くのか?そんな疑問の正体は、俺の目の前に止まる。そして、見えすぎるくらいに接近して、見えた。

 

 「いや、最後はお前にやろう。作ってもらったんだ、ここは譲る」

 「…………は?」



 …………今、藍さんは何を言ったのだろう?
 向けられた箸と箸の間には、稲荷寿司。俺の口元に寄せられたそれは、動くことなくそこにあった。
 


 「あの、別に俺は………」

 「そう言うな、私が食べさせてやろう」
 
 
 
 迫り来る刺客に思わず首を引く。だが、その距離は離れもしなければ、縮まりもしなかった。
 頭の中の天秤が揺れ動く。どちらに傾くか、その不安定な気持ち。微妙な思いを抱えたまま、迷う。
 苦し紛れに目先を少しずらし、箸の持ち手の顔を覗いてみるが、どうやら俺の願いは届きそうになかった。
 無言でその顔は、その瞳は伝えてきた―――――――――"早くしろ、食え"と。
 

 それが決め手になった。諦めた。
 
 
 
 「…………」

 「ほら、あーんだ」



 抵抗は無駄だ、諦めろという囁きに屈した。恥じらいは捨てろ。何、すぐに終わることだと。
 そう全てを諦めて受け入れた。選択肢など存在しない。あったとしても、どれも同じだ。
 口を開いて、大人しくする。動かなかった箸が動く。最後の稲荷寿司が今、俺の元へと届いた。


 
 「………案外いいものだな。今度もやってみるか」

 

 そしてその運び手は、勝手に気分良くなっておられるようでした。
 何勝手に話を進めているんですか、稲荷寿司作るの止めますよ、と脅そうかと思った。



 「…………うん、やっぱり美味いな」



 だが未だ箸にある、欠けた稲荷寿司が消えた瞬間。そんな考えは何処かに吹っ飛んだ。
 それが当たり前だと言わんばかりに、実に自然に、藍さんは稲荷寿司を口に―――入れていた。
 咀嚼して飲み込み、完全にこの場から稲荷寿司は消えた。最後を手にした者が、最後の一口を堪能した。
 そう、それだけのこと…………である。


 
 「………どうした、固まっているようだが」

 「…………」 
 


 言葉が出てこない。悪魔の手先としてその役目を果たした感謝すべき――――――いや、憎きアイツを見つめた。
 藍さんの手にあるそれは、今まで誰が使っていた?これまでを何度も見てきた、今更それが違うなんて言わせない。
 その二本は、何処と何処にあった?何をした?動かした本人が知らぬ訳がない。知らないなんて言わせてなるものか。

 

 「……今持っているのは、藍さんが使っていた箸ですよね?」

 「うん?それがどうかしたのか?」



 勇気を持って指摘したが、全くもって意を介さないままで、平然とそう言ってのけた。
 むしろそれが不思議だと、そう言わんばかりの表情を作り、こちらを見たままだった。  
 だがそれは終わらない。まだ続いていたなどとは、ただの序章だったとは、思いもしなかった。
 カウンターが返ってくる。身も心も止まったままの俺に、見事に直撃した。



 「細かいことを気にするな、別に何か問題でもあるのか?」

 「……………………」



 二の句なんてある訳がない。出る訳がない。出しようがない。何も出来ないんだから当たり前だ。
 完全に自分から墓穴を掘りに行ったようなものだ。一瞬だけ思考が完全に停止した。時が止まったかのようだった。
 そして、再起動した直後にその言葉がリフレインする。何度も、何度も繰り返しに聞こえる。その声はどんどん大きくなる。
 何処までも広がっていっていくのに気がついた時、その意味に気がついた。その意図をようやく知るに至った。
 
 だから決めた。俺は決めた。もう揺らがない、揺らぎなどしない。



 「…………そうですか、じゃあ下げてきます」

 

 見てはいけない。絶対に藍さんを見てはいけない。見たら最後だ。
 お盆に再び大皿を乗せ、空になった湯呑みと箸を受け取る。完了したら、すぐに立ち上がって歩き出す。
 一刻も早くこの場から退却せねばならない。今は、脇目も振らないで部屋を脱出する。
 リセットしなければいけない。全部無しにしよう、何もかもゼロにするんだ。
 忘れろ、考えるな。この場において、それは絶対にやってはいけないことだから。
  


 「そうか………ああ、それと最後に一つ」

 「何でしょう?」
  
 「照れ――――――」



 その言葉を最後まで聞くことなく、扉を閉めた。
 












 「戻ったか」

 「はい、では続きを始めましょうか」

 

 今までと何ら変わらない顔、雰囲気、仕草。一度冷静に戻った姿で部屋に入ってみれば、先ほどとは一変していた。
 あのむず痒いような空気は消え、稲荷寿司を用意する前と同じ空気になっている。おふざけは何処かに飛んで行ったようだ。
 何も言わないでいる所を見ると、敢えて追及は止めたのだろうか。だが、俺にとっては有難いことでもある。
 ………でも、どうだろう。藍さんの心の内で考えていることは分からない。目の前にあるものが本当ではないかもしれない。

 実は―――――――なんて。あるとも言いきれないことを再び考え始めてしまう。けれど、考えることを無理矢理止めた。
 けれど本当は、ただ恥ずかしいだけなんだって分かっていた。俺には問いかける勇気が足りなかった。
 そんなことは百も承知。始めから頭を働かせる必要さえもなかったこと、悩むだけ無駄なことだった。
 でも、そういうことは全て終わってから。それは間違ってはいないことだろうと、座り込んだ後の藍さんの横顔を見て思う。
 
 そう願っているだけなのは、俺だけなのか…………いや、もう止めよう。



 「そうだな、じゃあもう一度見てみよう」

 「はい」

 

 資料の山から取り出した一枚の紙。それは、先ほどまで睨みあっていたソイツだった。
 バツのつけられた幻想郷の一面、点々としているそれらは、いくつかに分かれながら存在している。
 やはり規則性も類似性もない。これで何が分かるというのか。何の助けにもならないことばかりだ。
 今はただの紙切れに過ぎないし、ここから見つかるモノがあるのだろうかとも思う。
 じっとにらめっこした所で、見えない何が浮かび上がって、違う何かが見えてくるのだろうか?



 「当然のことだが、博麗神社、人里が多いな」

 「……………ええ」


 
 出る場所は何処か分からないんだ、じゃあ何処から入ってくるのだろう。結界は機能しているのに、何故?
 易々と人を通さぬはずの柵を越える。意図的ではなく、望む訳でもなく、気がつけば迷い込んでいるという状況。
 入る場所も力も無いのに、何故幻想郷へと辿り着くのか。飛び越えるだけの何かがあるのか?
 では一体、何処がその入口になっているんだろう?何処にそれはあるのだろう―――――?



 「………藍さん、全く関係ない話で申し訳ないんですが」

 「何だ?」

 「そもそも、幻想郷って日本の何処にあるんですか?」



 そうだ。聞いた限りでは、日本の山奥にある。海に面していない内陸地というのは知っている。
 しかし、それが一体何処にあるのか。書物を調べても、具体的な地名は何一つ書かれてはいなかった。
 辺鄙な場所というのは理解しているから、少なくとも都会に隣接している所ではないはずだ。
 現代においても人目につかぬ場所、となるとかなりそれは限られる。秘境と呼ばれるような所は各地にある。
 でも、絞り切れても答えは見つからなかった。俺の頭の悪さもあるかもしれないけれど、特定するには知識が足りなさすぎた。
  
 

 「………そうだな。そっちについて説明していなかったな。どうせだから、今説明することにしようか」
 
 「すみません」

 「何、ついでだからいいさ」



 テーブル近くの高く積み上がった塔。そのうちの一つ―――ちょっと古い本を抜き取って、次々に開き始めてくれた。
 高速でページを展開していくが、途中でピタリと開き終わる。そこで手を止めて、充分なくらいに折り目をつけていた。
 大雑把な幻想郷の地図とは違う、やけに詳細に作られた本。かつて、俺が見てきたものとそっくりだった。
 だが細部では少々違うような気もする。古い所為だろう、今とは違っているということもあるからか。
 今の時代において、そんなものを使うこともない。ならば必要無くなってから、外の世界から流れてきたものなのかもしれない。
  

 
 
 「ここだ」

 「―――――――え?」



 藍さんが指差した先、その指差す先を見て――――――驚いた。
 一瞬何を言われているのか、それが何なのか理解することが出来なかった。でも一瞬で呼び戻されて、理解した。
 いやいや、それは本当か?確かにそこは何も無い山奥だし、周りを見ても海なんて何処にも無い。
 確かに内陸にある。見渡す限りは山ばかり。時代に取り残されたかのように、昔は今も人の手で残されている。
 条件として該当するのは間違いない。ただ、ただ、そんな場所にあったなんて――――――誰も思わないだろう?


 
 「………」

 「どうした?」
 
 「あの、外の世界にいた時――――――ここにいたんです」



 細く、長く、美しく。という三つを兼ね備えたその指の近くに、俺の指を置いた。
 その距離はほぼゼロに近い。だが全く同じというわけではない。重なることなく、確かにその横にある。
 小さい頃からそこに住んで、大きくなるまで育って来たんだ。自分の居場所が分からないわけがない。
 何年、何十年と過ごせば、嫌でも覚えて当たり前だから。無くそうとしたって、無くなりはしない。
 今はもうそこに住んでいないとしても、それでも誰だって、故郷の位置を忘れるわけがないんだ。
 
 

 「何!?」

 「でもこの地図古いですね、今だといろいろと変わっています」

 「…………どういう、ことだ?」


 
 今の事実に驚きを隠せていないようだ。確かに、その反応は無理もないかもしれないと思う。
 俺も聞いた時は驚いたものだ。まさか、"日本で一番広い市町村になる"なんて聞いたことがなかったから。
 市町村合併。当時はその問題について、連日ニュースになったり、大きな議論を呼んで、色々と賑わしたんだ。
 小さい頃に起きたこと。詳細なことなんて殆ど覚えてないけれど、それだけは記憶の片隅にある。
 


 「例えば………ここからここまで、一つの市になりました」

 「………他には?」

 「ここにも、ここにも既に道が通ってます」

 「……………」

    
 
 今度は先ほどとは一転して、完全に沈黙してしまった。それもそうか、完全に不意打ちと同じなのだから。
 何と言ってもその出来事は、二十一世紀になってからの話だ。妖怪にとっては十年程度など一時なのだろう。
 だがその一時で変わってしまった。特に俺が大人になるまでの年月の間、凄まじい速さで進み続けていったんだ。
 瞬く間に変わり、変わり、変わり。俺が大人になった今も止まることなく、形を変え続けているんだ。


 
 「何故だ?何故そんなことが起こった?何があったんだ?」

 「その、藍さんが指している両隣は、観光地で有名になっているんです」


 
 左は、合掌造りの集落。世界遺産に登録され、日本の教科書なら必ず載っているほどの場所。
 今もなお人が住み続け、一目見れば、過去にタイムスリップしたんじゃないか。そんな錯覚をしてしまうくらいだ。
 国の史跡として、昔と変わらないようにし続けた。この国では、そんな場所は此処にしかない。

 右は、日本で一番広い市。そして俺が住んでいた場所。懐かしの故郷であり、帰る場所。
 歴史と伝統がずっと続いてきた町がある。例え海の向こうからだろうと、人がやってくることも珍しくは無い。
 数々の特産品、名所、祭事がある。民俗的にも、自然の景観でも、多くの魅力を持った場所なんだ。

 俺が生まれる前からそうだった。当たり前のように過ごしてきたけれど、昔は違ったんだ。
 変化していった結果、かつて辺鄙な場所だった山奥は、今では人が訪れるような場所になっているのだ。

 

 「………山に穴をあけて、木を切り開いて、どんどん変わっていきました」

 

 俺が小さい頃なんて、高速道路など画面の向こう側の世界だった。遠い遠い出来事に過ぎなかった。
 だがどうだ。今はもう、そんな夢物語なんてない。ほぼ直通のような状態で、右も左も行くのが容易になったんだ。
 うねりにうねった道を曲がっていく必要もない。山を越えるために、峠を車で飛ばさなくてもいいのだ。
 目的地までは一本道。地図を当てにして、迷いながら来る必要もなくなった。昔と今は全く同じではないのだ。



 「ここも、今ではトンネル……真っ直ぐ突き抜けた道が通っています」


 
 でも不便だ、はっきり言って田舎だ。でも、誰も来ない訳じゃない。むしろ人は集まる。
 いろんな場所から、いろんな人たちがやってくるんだ。昔では当たり前だった景色、今では無くなってしまった景色。
 それを一度見たいと、訪れたいと、その目的は様々だ。だから、それに応じて人が扱いやすいように変わってきた。
 ちょっとずつではあるけれど、解消されてきているんだ。当然だ―――――観光地なのだから。

 
 
 「…………………」


 
 それを聞いた藍さんは、再び沈黙してしまった。次々に明らかになっていく事実に、頭の整理が追いつかないのかもしれない。
 少し前、かつての俺もそうだった。此処に辿り着いてしまってから起こる出来事に、混乱したどころの騒ぎではない。
 何日もかけて考えて、ようやく受け入れたくらいだ。馴染むまでに時間がかかった。価値観を全部ひっくり返されたのだから。
 今までのことをそう簡単に変えられはしない。変わってしまうような軽いものじゃないんだ。
 だから恐らく藍さんも、今と昔の入れ替えに忙しいのだろう――――――と、思っていた。


 
 「………観光地………切り開いた……その分だけ近くなる……」
 
 

 突然、単語だけをブツブツと呟き始める藍さん。何かを考えるような仕草。あれでもない、これでもないというような顔をしていた。
 不思議に思う。そんなに気になるような点があったのだろうか?何か不備でもあったのだろうか?何か間違ってでもいたのだろうか?
 確かに、知識が間違っているということはあるかもしれないが、多少の差異はあっても本当のことだ。
 次に何か聞かれたら、答えるくらいでいいだろう。その時はその時になればいい。
 
 とはいえ、まさか幻想郷がすぐ隣にあったという事実。それだけでも驚愕だ。
 すぐそこに違う世界があった。一つ区切った向こうは全く別物だったとは、思いもしなかった。
 なら何故、迷い込んだのだろうか。どうして、この屋敷に辿り着いたのだろうか。
 今更になって、何故俺は此処に来たのだろうか。だって、それならもっと早くてもおかしくないはずだ。
 俺も幻想郷の地図の中にいるはずだったんだ。それは、やっぱり――――"狐憑き"はあるのか?

 ならば、導かれたのは"狐憑き"の所為か―――――――――。

 

 「―――――――――――そうか!分かったぞ!内側じゃなくて、外側にあったんだ!」
 
 「え?」


 
 また一転して、目を大きく見開き、いきなり大声を上げた。一連の流れがよく分からない。完全に置いてけぼりである。
 俺だけが勝手に取り残された。またこの展開か。常識もいい加減仕事しろよと思うが、やっぱり仕事を放棄したようだ。
 いつもいつもそうだった。後手後手に回ってばかりだ。でも、驚いてばかりもいられないかとは思う。
 次は無難に対応してみせる。大丈夫、何が来てももう問題無いと一つ心を決め、来るであろう出来事に構えを取る。
 そんなことを思いながら、少しだけ藍さんを見つめていると――――――。



 「え?え?」



 抱きつかれた。

 誰に?――――――少し前まで隣にいた彼女、八雲藍に。
 今度は俺が考える番だった。でも考えても分からなかった。何だ、また何か起こるのか?
 ストライキは依然続いたまま、終わることなく、まだ続いている。藍さんも俺に抱きついたまま、そのままだ。
 離れる気配はない。そして逃げられそうにはない。まるで抱き枕にされたかのような気分を味わうことになった。

 両手で俺の肩を抱き、輪を作るかのように捕縛された。振り解こうにも、腕ごと捕まれたので無理だ。
 それだけじゃない、藍さんの体が密着して、離れていたはずの距離が、限りなくゼロになっている。
 一片の隙もなくなっている部分では、藍さんの体温が感じ取れるくらい。それくらいにまで迫られている。
 …………いろいろとマズイ。何処とは言わないけれど、そんなことをされてはどうしようもない。



 「よくやった!流石、流石お前だ!」

 「え…………あの……はい」



 そして、満面の笑みで褒められた。何だろう、何なのだろう。何が起こったのかさっぱりだ。
 いろいろと嬉しいことではあるけれど、理由もなく起こると本当に困る。喜んでいいのか分からない。
 適当な言葉しか出せない。あまりにも意味不明で、支離滅裂。前後の流れを組み合わせても、上手く繋がらない。
 繋げられるものなら繋げて欲しいものだが、多分繋がりはしない。分かるその時まで、また俺は翻弄されるのだろう。
 故に、次もその予想通りであり、かつ予想外だった。



 「こうしてはいられないな―――――行くぞ、博麗神社に!」

 「は?ちょ、ちょっと――――!?」 


 
 手を引かれ、また何処かに行くことになるとは。















 「つまり、内側ではなく外側の問題だったようです」


 
 既に夜も更け、月が昇り始めている。とっくの昔に星空が現れ始め、何処までも暗い空があった。
 その夜空の下、対峙するのはその主人である、八雲紫。だが喋っているのは俺ではない。その式神である、八雲藍だ。
 それを少し離れた場所、博麗神社の賽銭箱の近くで座って見ている。俺が出る幕は無い、その土俵に上がることは許されない。
 物事の本質に気がついたのは俺ではなく、藍さんだから。俺はお手伝いをしただけに過ぎない。邪魔者は必要ないのだ。
 

 
 「周辺の開発で地形が変わり、人が来るようになり、結界に触れる機会が増えたと」

 「概ねはその通りになります。幻想を否定したが故に、幻想に近づいたのでしょう」

 

 大体の説明は今行われている。話を紐解いていくと、全ては藍さんの言葉の通りになる。
 幻想郷の結界は、何者をも寄せ付けないわけではない。時折外から入ってしまうこともあれば、中から出ていくこともある。
 人の目のつかぬ場所にあったからこそ、今までは隠れたままでいた。だが、人が入りこむようになれば、話は変わる。
 
 強力だったとしても、抜けられる可能性があるなら。そして、その触れる回数が増えてしまえば。
 "思い"の強さで変わる結界は、今の現代人にとって可能性が高まる。常にマイナスなイメージと共にあるからだ。
 戦後から俺が生まれる頃までは栄えに栄えた。だが、その後は底に落ちるようなことばかりだった。
 辛い今に絶望し、昔はよかったと思い、そんな気持ちでいれば…………ということなのだろう。

 知らず知らずのうちに、異空間へと足を踏み入れてしまっていたのだ。
 
 

 「よく気がついたわね――――でも、どうして外だと考えたの?」

 「それは…………」



 紫さんから視線を逸らし、藍さんは困ったような顔をして俺を見ていた。それ以上言葉は無く、ただそれだけだった。
 だが、いきなりこちらを見られても何を言えばいいのか。そんな顔をされても、気の利いたことの一つも出ない。
 何を言えばいいのやらと思いながら、色々考えてはみたが、やっぱり何も頭には思い浮かばなかった。
 けれど、その反応で紫さんは理解したらしい。徐々に口元が少し上がり始め、笑顔へと変化していく。
  


 「私の勘も、霊夢ほどじゃないけど当たるものね」

 「え?」


 
 やけに意味深なことをサラリと言ってのけて、その後はクスクスと笑い始めていた。
 それが実に紫さんらしいというか、様になっているというか。なんとも、如何にもと言った具合。妖怪らしい姿だった。
 その言葉の意味も、裏がありそうでないような。でも、全て知っていそうな気がしたけれど、やっぱり気の所為にも見えた。
 
 


 「私も恐らくそれで正解だと思うわ。じゃあ、今から結界を修正してくるわね」

 「はい」

 

 紫さんの近くでスキマが開く。管理者として、これから使命を果たしに向かうのだろう。
 ここからは紫さんの仕事。藍さんの仕事はここで終わりだ。引き継ぎは完了した。主からの使命をやり遂げたのだ。
 一段落ついた、という安心感が胸の内を満たす。そんなことを思いながら、スキマの向こうへと消えていく紫さんを見送った。
 しかし、消える直前に紫さんは、最後に一言だけ残していった。



 「あ、そうそう―――――――――よく頑張ったわね、藍」
 

 
 そんな言葉だけが聞こえて、紫さんは何処とも知れぬ場所へと消えていった。
 一言の後には夜の静けさが再びやってくる。一瞬の静寂が戻る。確かに、一瞬だけだった。



 「――――――――――――!」 



 次に聞こえたのは、歓喜の声。その声を聞きながら、少しずつ頬が緩んでいくのを止められなかった。
 これまでの全て、何もかもが報われる時が来た。救われる時間が来たんだから。ようやく訪れたんだ。
 苦労もした、悩みもした、辛いと思ったこともあるはずだ。でも、それも全部ひっくり返っていって喜びに変わる。
 抱えてきた分だけ吐き出したくなる気分を堪えて、重い重い荷を下ろせた今、それがやっと果たされるんだ。



 「夜に騒がしいわねぇ………」


 
 最後に聞こえた博麗の巫女の声も、今は藍さんの耳には届かない。
 だが、水を差す訳にはいかないのだ。中断させてはいけない、最後まで、気の済むまでやらせてあげたいから。
 どうか今だけは勘弁してくださいと、機嫌の悪そうな顔をしている巫女に、頭を下げておいた。
 それが最後に出来る、俺の役割だった。
 











 本日は晴天なり。

 ………というのは少々間違いかもしれない、それが正解かどうかということであるならば、嘘だと言えようか。
 確かに光こそ差してはいる。分厚い雲はもう消えていて、今は遠い向こうに青空を覗かせていた。
 山間部では、山を越える間に雲が消えてしまうことがある。ただ、それでも雲が消える前に雨粒は残っていたのだ。
 その行きつく先は、今ある場所だということらしい。風に乗って、余った物だけはやってくるということだ。
 晴れているのに、雨が降っているという状態。所謂天気雨と呼ばれる現象が、目の前で起こっていた。



 「なんだ、探したぞ」

 「どうかしました?」


 
 曲がり角の向こうからやってきたのだろうか。呼ばれた声に振り返れば、藍さんは目の前に立っていた。
 偶然かどうかは知らないが、天気雨のことを考えていた時に出会うとは。また何とも言えないことである。
 つくづく狐には縁があるのか。例え切ろうとしても切れないのか。もし、切れたのならばそれが最後か。
 此処に来てから一緒だったからか、居て当然のような感覚になっている。本当におかしなことだ。
 しかし、それが続くと当たり前に変わる。もう妖怪がどうだとか、そんな些細なことはどうでもよくなるのだ。
 ――――いや、それは始めからだったか。何がどうだったかも、忘れてしまった。



 「何、饅頭を貰ったんだ。お前にも分けてやろうと思ってな」

 「そうですか、それでは有難く頂きます」



 饅頭を受け取ると、藍さんも同じように座り込んだ。どうやら居座る腹積もりだったらしい。
 縁側で座り込むお互いの距離は、少し離れている。当然といえば当然のこと。ごくごく当たり前のこと。
 だがそれでも、出会った時よりは遠くは無い。僅かながらも寄ってきているのは確かだった。
 俺と藍さんの距離は、そのお互いの心の有り様を如実に表しているかのようで。嬉しいことでもあった。
 そして、それがいつゼロになるか。そんな日が来るのは、遠くないような気もしている。
 


 「狐の嫁入りか」

 「知っていましたか」

 「……外でもそう呼ぶのか?」

 「一応は」


 
 見上げた空は未だに変わらない。未だ止むことは無く、雨粒が瓦を叩く音が響いている。
 ずっと遠い向こう側には、大きく見える虹がかかっているのに、本当に不思議で、おかしなことだ。
 だからだろうか。まるで化かされているようで、騙されているものと勘違いして、狐と勝手に結びつけたのは。
 そうして、あれこれと話が広がっていって、単純に一つでは収まらなくなったのは。だから一言では言えなくなった。
 人々は想像を膨らませ、有るか無いかという不思議な出来事について、話を作り続けたその結果だ。
 


 「俗信で吉兆の証、怪異、伝説やらと色々ではありますが」

 「何かと結び付けたがるからな」

 「それだけ、狐が人気だということでしょう」
 
 
 
 狐を善と捉えたか、逆に悪と捉えたかという差異はある。ただ、今日に至るまで語り継がれてきた。
 昔の人が見てきた狐の生態、中国における狐の影響。それらが絡み合い、"狐"という型を成したのだ。
 一方に偏った存在というよりは、トリックスター。相反する二面性を持つ生き物として捉えられてきている。
 それは人間の視点から見てきたからであり、狐とはどういうものか、という考えを今日まで残してきたからだ。
 今もこうして人間と九尾の狐―――――――藍さんといるのも、恐らくその所為だろう。



 「お前がいた場所にも、やっぱりそういう話はあるのか?」

 「………そうですね、狐についての言い伝えのようなものはあります」

 「ほう」

 「俺がここに来た理由、どうしてこの屋敷に辿り着いたのか。恐らくは、そこに繋がる話かもしれません」



 各地に伝わる伝承。その中に必ずと言っていいほど現れる。一度は誰しもが聞くような、昔々のお話。
 それは、俺がいた場所とて例外ではなかった。年に一度の火祭りも、狐の婚礼を祝う儀式としてある。
 狐の嫁入りを見た者は、幸福が訪れるとそう言われてきた。だが、決してそれだけで終わりはしなかった。
 表があれば裏があるように、光があれば影もある。狐が二面性を持つのならば、当たり前のことだった。


  
 「………話してくれるか?」

 「分かりました」

 
 
 今までずっと考えてきた。どうして此処に来てしまったのか。何故、俺がこの屋敷に辿り着いたのか。
 恐らく俺も他の奴らと同じように、結界に多く触れたからということは考えられる。
 ただ、それだけなら幻想郷の何処かにいたはずだった。でも、俺は違った。越えられない壁を越えてきた。
 ありえなかったことをしてしまったのは、どうしてか。それは、俺に何かあるのだということか。
 認めたくはないが、認める他は無いのだろう。


 
 「かつて都を騒がせた九尾の狐。それが退治された時、一つの石になって人々を殺し続けました。
  ですが、一人の男によって砕かれたまではよかったものの―――――――それは風に乗って、人に取り憑くようになったんです」

 「………憑き物か」

 「はい。簡単に言えば、"狐憑き"です」

 

 伝承にもある九尾の狐。最後は殺生石になり、数々の人々を殺したという。
 だが、それは一人の僧により砕かれた。欠片は全国に散らばり、時に犬神、時にオサキという憑き物になったりもした。
 管狐。人狐。名前はそれぞれで変わる。ただ、そうなってしまった場合、まともではいられなくなる。
 精神的におかしくなることは当然だが、周りの見る目が変わる。狐憑きだと、そう遠巻きで見られる。
 幸福をもたらすか、不幸をもたらすか。違いはあっても、憑かれることが必ずしも良いことではなかった。



 「そして、今も途切れることは無く続き―――――俺がその家筋にいる末裔。小さい頃に、そう聞いたことがあります」
 

 
 狐に憑かれた家は栄える。しかし、憎き相手を呪うことも出来るという力を持っていた。
 いわば他人を生贄にして自分を高める。踏み台にして駆け上がるという鬼畜の所業。対価としては重い。
 その効力は絶対。自分自身で制御できることもあれば、全く出来ないこともある。それは通じて扱うにはあまりにも難しい力。
 名前こそ違えど、その能力は民間信仰における"狐憑き"と同じ。呪われた家筋だ。
 


 「ただ、誰も信じはしませんでした。所詮噂だけでしたし、俺は普通の人間と同じでしたから」


 
 昔こそそんな力を有していたようなのだが、代が変わるごとに薄れていったらしい。"狐"も憑くのをやめたのだ。
 俺の時にはもう、そんな力は一片たりとも無かった。そんなオカルト話を信じる者は、誰もいなかったから。
 皆が無いものだと幻想を否定した。だから、俺はそんなのは嘘だと思っていた。ずっと思いこんでいた。
 ただ、それでも片隅にはあった。無くなったモノは、本当は無くなっていなかった。



 「それでも、何か起こるんじゃないか。"狐"はいるんじゃないか。頭の片隅からは無くなりませんでした」



 でも"ひょっとしたら"なんていう、僅かな思いは消えなかった。その思いが嘘を現実だと認識させてしまったのか。
 ほんの少しだ。ほんの少しそうあったら、なんて考えただけだ。誰でも考えつくようなこと、一度は頭に浮かべることだった。
 現代だって、九尾の狐を題材にした作品はある。そうして目につくうちに、自分の中で残るようになったんだ。
 狐はまだ生きていると、存在すると。ありもしない幻想だと思っていても、完全に否定することは出来なかった。
 
 あれば面白いと、ちょっとだけ願っただけだ。一目だけ見られればよかった、それだけでよかったのに。
 やっぱり狐はいるんだ、なら俺は"狐憑き"なのか。そう考えた、考えてしまった。頭の中で根付いてしまった。
 幻想を幻想だと認めなかったから、そして結界に近い場所にいたからこそ、此処に来てしまったんだろう。
 
  
 
 「そうしたら突然、夢の中に藍さんが出てきたんです。俺は、憑き物――"狐憑き"は存在するんじゃないかって認めてしまった」

 「………そう思っていたら、此処に来たと?」

 「はい。何も確証はありませんし、本当かどうかも分かりません。今は、いい加減な推論を並べることしか出来ないです」

 

 藍さんの問いかけに、首を縦に振る。もし何も知らなければ、"あれは夢だった"で終わることだったのだろう。
 一瞬にして全てが裏返った。何もかも、表から裏へとひっくり返されてしまった。大どんでん返しだ。
 疑うことなく、嘘だと思わなかった。だってあの時に信じてしまったのは、俺なのだから。
 はっきり言えば、荒唐無稽過ぎて信じるには値しない。誰だって、俺だって全部信じる気にもならないんだ。
 けれど、それ以外に何があるかと言われたら、それぐらいしか残っていないんだ。だから、もうそれしかない。


 
 「………実は、私も同じ夢を見ていたと言ったらどうする?」

 「………え?」

 「何も無い場所、声も響かない場所で――――――手を振っていただろう?」
 
 「…………」

 「もし、お前が狐に憑かれたとしたならば。その狐は、何処から来るんだろうな?」


 
 そう笑って答える藍さんは、ずっとこっちを見ていた。俺の顔をずっと見続けていた
 意味ありげな仕草。それ以上の言葉は無い。だが、それだけで分かりそうだった。何かが伝わってくる気がした。
 形にしなくても、曖昧なままでも、見ていることで思うことがある。頭の中に浮かぶ考えは、次々に広がっていく。
 次々に連想されていく。止まることなく、何処までも終わることなく、大きく膨らんでいく。
 途切れた点と点を繋いでいって、一本の線になっていくように。そして、最後に閃くように理解してしまった。
 
 

 「一目見て分かったよ。きっといい奴だ、そしてまた会うだろう…………そんな予感がしたんだ」

 「………そうですか」

 「まさか突然現れるなんて思わなかったから、あの時は信じてはいなかったがな」

 「………それが普通でしょう」

 「はは。でも、お前はこうしてここに来た。一緒に過ごしていく中で、お前を信じる気になったんだ」

 

 藍さんは、あの日俺の顔を覗きこんだのも、問いかけたのも、何も言わないで手助けをしてくれたのも、全部。
 あの夢から、俺はもう藍さんに憑かれていたのかもしれない。望んだが最後、それが後押しをして。
 お互いが、お互いを引き寄せたのかもしれない。まるで磁石みたいに、距離を詰めていって。
 幻想という壁も乗り越えて、今こうしてここにいる。それが、一番目に見える証明――――なのだろうか。

 でも、それが本当かどうかという確証は何処にもない。ただの偶然なのか。呼ばれるべくして呼ばれたのか。
 その答えは誰が知っているのか。教えてくれるなら教えて欲しいものだが、誰も分からないだろう。
 


 「まあなんだ、その。何故か、お前といると不思議と心を許してしまうんだ。あれこれと気にかけてやりたくなるんだ」
  

 
 でも、それらが土台になっていたとしても、過ごしてきた日々は自分たちの手で作り上げたものだ。
 その日、その時、その場で色々なモノを積み重ねてきた。藍さんと共に、頑張ってきたんだ。
 ここまでの苦労を知る人も妖怪も少ない。紫さんを除いて、よくやったと褒めてくれたのはいなかった。
 胸を張った所で何も無い。けれど、確かにあったんだ。俺と藍さんはその壁を乗り越えてきたんだ。
 誰が何を言おうと、誰がどうしようと、それだけは嘘だとは言わせない。言わせてなるものか。
 


 「そうだ、なんというか………そこにいて安心するんだ。私の居場所は、此処………だと、な」



 今こうして話していることも、幻想に過ぎぬなんて認めない。嘘か本当かなどと迷うことはもう無い。
 目の前にいる彼女は、美人で、式神で、狐だ。失われた幻想の中で生きる、妖怪の一つだ。
 例えそうだとしても、此処にいることは本当なのだから。変えられない事実、揺らぐことの無い現実なんだ。
 そして、そんな秘めてきたいろいろな思いを、いい加減認めないといけないのだろう。
 あの時には向き合えなかったけれど、今はもう大丈夫だから。ちゃんと向き合えるから。


 
 「…………藍さん」

 「…………何だ?」



 勇気を持て。言わなければ分からないんだ。伝えなければいけないから、だから言うんだ。



 「俺、此処に来て――――――藍さんといて、良かったと思っていますよ」
 


 俺の答えに満足そうに笑う藍さんは、今までにないくらい――――――――――。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2014年07月04日 21:04