牟田口廉也

登録日:2014/10/04 Sat 00:30:37
更新日:2024/04/19 Fri 16:27:02
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牟田口(むたぐち)廉也(れんや)

国:日本
生:1888年10月7日
没:1966年8月2日
出身地:佐賀県
最終階級:中将

牟田口廉也とは、日中戦争から太平洋戦争の時期において活動した日本の軍人である。

が、現代日本においては「愚将」「迷将」の代表格として真っ先に挙げられる人物であり、実際に戦後アメリカでは寺内寿一、富永恭次と共に「陸軍三馬鹿」として挙げられた稀有な存在である。
が、彼はその三馬鹿の中でもブッチギリにネタにされた人物である。これ程までに批判が多く寄せられる日本人はそうはいない。
何故そう言い切れるかといえば、それだけ彼は大変なことをしでかしているのだ。その経歴を見てみよう。


●日中戦争まで

佐賀出身で陸軍士官学校(22期)卒、陸軍大学校(29期)卒という、大日本帝国時代において極めて典型的な高級軍人であった。当時の重臣らは彼を優等生と評価していた。
同郷の真崎甚三郎らの引き立てもあり、陸大卒業後のキャリアの大半は参謀本部や陸軍省勤務であり、このまま軍中央で官僚的軍人として出世する……かと思いきや、彼のキャリアを一変させる事件が起きる。
1936年の二・二六事件である。
これは当時の政治体制に失望し、国家社会主義にかぶれ真崎や彼の盟友、荒木貞夫に心酔した、「国体原理派」を名乗る陸軍将校らが「天皇親政を実現する昭和維新」を目指したクーデターであり、真崎の大命降下、つまり首相就任を目的の一つとしていた。
教育総監という重責を追われていたところだった真崎も悪い気はせず、事件首謀者たちに迎合する形で事態の終息を図る。

昭和天皇「朕自ラ近衛師団ヲ率イテ此レガ鎮定ニ当タラン」
真崎・荒木「」

……が、事件と犯人に怒り心頭であった昭和天皇による事実上の反乱鎮圧命令と、生死不明であった岡田啓介首相の救出成功でクーデターは失敗。
そしてかねてから派閥抗争で荒れに荒れていた*1陸軍内部では真崎荒木に近しい軍人の一掃が始まる。
同年3月、牟田口は支那駐屯歩兵第1連隊に着任。事実上の左遷であった。

かくして中央から飛ばされた牟田口だが、またも思いもよらぬ形で国家の命運を左右する事件に、しかも今度は当事者として直面する。
1937年7月7日夜、連隊の夜間演習中に中国側から銃撃を受けたと具申した一木清直の意見を聞き入れて応戦。日中両軍の全面戦闘状態となる。世に言う盧溝橋事件である。
この盧溝橋事件は現地では数日後に収束に向かうも日中双方の首脳部を刺激し、上海に飛び火した結果どうなったのかというと支那事変……後年に言う「日中戦争」拡大の原因にもなったのである。


これだけで済めばよかった。


●太平洋戦争の初戦

しかし、事変は泥沼化長期化し、その打開策とした仏印進駐*2と三国同盟により日本軍はアメリカの虎の尾を踏み、追い詰められた日本は開戦を決意。真珠湾およびマレー半島に進出し太平洋戦争に至った。
この時、牟田口はマレー半島の激戦地に赴任。余談だがこの時の上司はやはり皇道派で軍中央から追放された山下奉文で、信任も厚かったとか。その際、彼は敵兵に襲われて大けがを負うも、勇敢に部隊を率いて勝利に導いたのである


あれ? いい人じゃないの?
確かに彼は、師団長クラスまでなら勇敢で有能な男だった。上に立つ者が責任を取りつつ適当に押さえつけてくれれば最適な働きをしてくれる。
つまり部下としてはやや先走りしがちではあるが「使える男」だったのだ。
当時の部下たちからも、温情ある将軍という好意的な声の方がむしろ多かったとも言われている。
…もっとも、通信が発達した時代に戦場全体を俯瞰しなければならない立場の師団長たる者が最前線で陣頭指揮というのはそれはそれで間違っている。
(最前線で得られる情報には限りがあるため、複数の部隊を統合的に指揮する立場の高級将官は後方で全体の統一指揮を執らねばならない。ある一部隊に対してだけ最前線でベストな指揮をしても、他の部隊が放っておかれては全体として勝利は摑めないのだ。前線での陣頭指揮を好んだロンメルも、西方電撃戦で起きたアラスの戦いでは部隊の混乱を招いている。また指揮する者が戦死した場合、指揮系統がバラバラになり一気に壊滅する危険を孕むという面もある。「将」とつく高級指揮官が捕虜になったり戦死したりする例が極端に少ないのはこのため)



しかし、彼自身がトップに立ち、彼を押さえつける上役がいなくなったとき、その暴走を止めることは誰にもできなくなったのである。


●インパール作戦

なんかヤバい作戦、無謀な作戦として有名だが、実際の所どういった作戦だったのかは意外と知られていない。
ここから解説していくが、先に結論から言うと作戦自体はそう悪くないのである。

まずインパールはビルマとの国境近くにおける街道の結節点であり、かつイギリスのインド植民地への玄関口に当たる。
イギリス側としてはここを奪取されると大英帝国を長年支えてきたインド植民地の失陥が現実味を帯びてくるという非常に重要な地域であった。
加えて日本側からすれば連合国から重慶の蒋介石政権への軍事支援ルート(いわゆる援蒋ルートの一つ)が存在するため、日中戦争の趨勢にも関わってくる戦略的価値の高い地域だったのである。

次に戦況だが、この当時、ビルマの日本軍は太平洋方面に陸空軍戦力を引っこ抜かれ、更にインドからビルマに掛けて聳え立つアラカン山脈によって敵襲もされないであろうと思われていたものの、第一次アキャブ作戦やウィンゲート旅団による空挺侵入といったイギリス軍の反攻を受けて緒戦の勢いを無くしていた時期であった。
幸い、ノルマンディー上陸作戦を間近に控えていた英軍は戦力の大半をヨーロッパ方面へ振り分けていたため本格的な反攻は行われていなかったが、日本軍側ではもはや英軍の総反攻が開始されるのは時間の問題だという認識が強まっていた。

牟田口はかつて、インパール方面への侵攻作戦である二十一号作戦計画に反対していた。
しかしこうした切迫した状況に、牟田口も「英軍を積極的に叩くことで反攻を抑え込む」という方針に傾いていく。
とはいえこの時点ではインパール方面を守る強力な英第14軍の存在と峻険な山脈地帯から予見される補給の困難さから牟田口を含め上層部にはまだ迷いがあったようである。

しかしここで日本軍側に決断を促す報告がもたらされる。
なんと日本軍の陽動作戦によりネックだった英第14軍が誘引されてインパール方面から離れたというのである。つまり今、インパールはガラ空きなのだ。

ことここに至り、遂に日本軍は決断した。
ウィンゲート旅団が入ってきたのだから、こちらもアラカン山脈を越えてインパールを攻める事も可能なはずだ。
この隙をついて速やかにインパールを奪取する他ないと。


そうして立案されたのがインパール作戦である。
作戦の要点を説明すると
  • まず重砲その他の砲戦力をあえて殆ど装備せずに機動力を確保した軽師団がインパールの都市コヒマへの最短ルートである山岳地帯を踏破、ガラ空きのコヒマを電撃的に確保する。
  • 軽師団はそのままコヒマに立てこもり、予想される現地に残る弱体な英軍の反撃を撃退しつつ、強力な装備を備えた味方主力師団の到着まで持久する。
  • 主力師団は重砲などの強力だが嵩張る兵器と、軽師団への補給用も含めた大量の兵站物資を装備する。もちろん物資が多いので、山岳地帯の最短ルートは使えないため、遠回りだが整備された道のあるルートを進軍する。
  • コヒマに到着後、主力師団から補給を受けた軽師団と共に残存英軍を撃破、インパール方面を完全に掌握する。
というものだった。作戦計画だけで言えば理に適っており、成算も高いものだったのである。

脅威である英第14軍が消えたとはいえ、相変わらず兵站に不安を抱えることとなる軽師団の将校の中には反対する者も多くいた。しかし作戦司令官となった牟田口は大本営に要請して追加の自動車、輜重部隊を確保し最低限の補給は受けさせると言ってこれを宥めた。
実際に牟田口は自動車中隊150個と輜重中隊20個を大本営へ要請しこれは受け入れられた。が、蓋を開けてみれば作戦直前に大本営から届けられたのは約束の2割程度に過ぎなかったという。まあ大本営だしね

牟田口は困った。
足りない輜重部隊をどうにかして補わなければならない。
そして閃いた。


牟田口「そうだ! 牛や馬に運ばせればいい。名付けてジンギスカン作戦。その牛や馬も食糧として供ずる」


こんな感じで馬や牛をビルマのあちこちからも徴収。インパール作戦が挙行されたのである。

一応弁護するならば、足りない自動車などを牛馬で補うというのは古来より重量物を運ぶのに使われた、ごく自然な発想である。第二次大戦中においても連合枢軸問わず多くの指揮官が実行している。
加えて言うならばそもそもコヒマに到着しさえすれば主力師団から補給を受けれるので。道中の兵站はそれほど問題ではなかったのだ。まぁとあるミスで足を引っ張るのだが。

さて、いざインパール作戦が始まりコヒマへ急行する役割を請け負った軽師団は見事峻厳な山岳地帯を踏破した。それはまさに電撃的と言ってよい速度であり、後は守る者のいないコヒマを占領するだけである。インパール作戦は半ば成功したように思えた。

軽師団は「我、これより無人のコヒマに突入す」と司令部に打電し、意気揚々とコヒマに突撃した。
しかしそこで軽師団は目にするのである。無人であるはずのコヒマに英国の大軍が待ち構えているのを。

実は英軍はインパール作戦開始の2週間前というギリギリのタイミングでインパールが危険な状態にあることに気が付いていた。そしてインパールが落ちて援蒋ルートが潰されたら君らのクビが飛ぶよ?と紳士的に米軍を脅迫して譲り受けた輸送機で1週間半もの間不眠不休で兵士をコヒマへ空輸し防衛体制を整えたのだ。さすが英国紳士

当然ながら軽装備で戦闘能力が弱体な軽師団は大損害を受けた。
それでもどうにか都市部を確保するも英軍はコヒマ南西の高台に既に別の防御拠点を築いていたため戦線は膠着状態に陥った。

困惑した軽師団は「コヒマに有力な英軍在り」と司令部に打電する。しかし牟田口ら司令部は英軍の留守部隊が思ったより多く、軽師団であるため攻撃力が不足していたのだろうと事態を軽視。主力師団の到着を待って共に英軍を包囲攻撃せよと命令を下したのだ。まあ英軍が天下の米軍を脅し上げて大軍を不眠不休でピストン空輸してるなんて知るわけないもんね

当然ながら現に強力な英軍と相対している軽師団では司令部への不信感が募るものの、それでも主力師団と合流し英軍を見事に包囲し再度攻撃した。流石に主力師団は強力であり、英軍は大きな被害を負ったもののそれでもコヒマ陣地を維持し続けた。

この頃になると制空権は連合国側のものとなりつつあり、インドから英軍の増援が迫るなど作戦参加師団の間では最早作戦の達成は不可能だという認識になっていた。師団は司令部に何度も撤退を具申するも、相変わらずコヒマにいるのは英軍の第14軍の僅かな残党だけだと考える司令部はこの具申を却下する。

この時点で撤退していれば被害は軽微だったと思われる。しかしそのチャンスを逃した日本軍はその後、連日の爆撃と無謀な攻撃で戦力をすり減らしていき、遂に到来した英軍の増援により明確に窮地に立たされることとなる。
さらに、上記のジンギスカン作戦であるが牟田口はいくつかの致命的なミスを犯していた。
まず牟田口が牛は牛でも農耕用の牛を徴用した事で、急坂を登れなかった。
さらに牛に似た「水牛」を選んでいた事。水牛は見た目は似通っていても、沖縄八重山名物の水牛車とは違ってジャングルや山岳地帯での荷物運びに適用していないのである。
極め付けに牟田口はなんとヒツジまで使っていたのだが、ヒツジは1日にせいぜい3km程しか移動しない動物であり、明らかに習性を知らずに徴用した大失態であった。
結局、ヒツジは早々に棄てられ、牛に関しても発砲音で逃げられ肝心な食料を失う結果になってしまった。結果的にこれらの失態は軽装備を強いられる遠因となる。

もはや作戦の失敗は誰の目にも明らかであったが、司令部はそれでも撤退を認めなかった。
これは一説には牟田口と司令部の人間が作戦失敗の責任を負うのを嫌がり、撤退命令を出す役を押し付け合ったためだと言われている。結局正式に撤退命令が下されるのは明確に戦況が日本軍不利に傾いてから2カ月後であった。

この判断の遅れの結果、撤退は惨状を極めた。
今や完全に制空権を握った連合国軍は散々に補給路と撤退する日本軍を爆撃し、日本兵はまともに食糧を得ることもできず昼夜空爆の恐怖に晒され続けた。
撤退路には戦死者と餓死者、それに動けなくなった傷病兵が無数に倒れ、その地獄絵図から白骨街道と呼ばれた。
参加した兵隊の中にはガダルカナル島戦(兵站が壊滅して餓死者の山を築き「餓島」と恐れられた)の経験者も居たが、戦後の証言で「インパール作戦の方が酷い」と評する程の有様だったという。

この時、牟田口は反抗する多くの将兵等を更迭したり突き放したりするという横柄ぶりを見せたという。
しかも、当の本人は作戦期間中は宴会を開いていたそうな。彼の居た司令部は高原のリゾート地で、前線とは日本でいう金沢から仙台くらいの距離がある場所。
聞きつけたイギリス兵はその様子をスピーカーで最前線へ流したため、前線の士気はたちまち消沈。そりゃそうだ。

また、苛立った…というよりもはや戦う前に命が危うくなった多くの将兵の中には、指揮官命令に背いて退却するという前代未聞の事態まで起こす者もいたし、牟田口に不満を持つ部下による暗殺未遂も複数起こった。
33師団隷下の輜重兵第33連隊副連隊長の逸見文彦中尉による手記によると「(33連隊本部がある)チュラチャンプールに突然姿を現した牟田口を見るや一将校が激怒、「いっそ牟田口を殺して、自分も自決する」と手榴弾を持って軍司令官の幕舎に飛び込もうとした」と残すなど、このテの牟田口の暗愚を怨み暗殺に走るケースはインパール戦後もなお続発したと言う。
牟田口はこの事態をきっかけにようやくインパール作戦の中止を決定した。
…が、これは自分の過ちを認めたからではない。部下が抗命したから負けた、という言い訳ができるからである。
なお、上記の退却を指揮した佐藤幸徳中将*3はやっと帰還した際当然ブチ切れており、「俺は牟田口をぶっ殺したる!」という勢いで彼の元に押し掛けようとしたが阻止され、精神病扱いで左遷されてしまった(軍法会議にかけることで佐藤の主張が公になることを恐れた故の扱いとも言われる)。もちろん後に佐藤に異常はないと診断された。まぁどれだけ恨みを買っていたのか実に解ると言うものである。


そして、帰ってきた将兵たちに精神論で説教するも、既に衰弱していた将兵たちはその説教のさなかにもバタバタと倒れてしまった。
責任を取って自決したいと殊勝な発言を部下にするも、彼がどんな人物かよく理解していた部下は「立場として一応止めるけど、黙って死んだら? 大体死ぬ死ぬと言って死んだ試しなんてないんだよね(意訳)」と遠回しにバッサリ。案の定、自決はしなかった。
もっともこの自決を巡るやりとりをした参謀の藤原岩市もインパール作戦の推進派だったり、戦後も本作戦の責任転嫁を図ってたりと大概な人物である。


こうしてインパール作戦は完全に失敗し牟田口の軍人としての人生は終わりを告げた。

作戦を振り返れば、計画自体には理があり狙いも時宜に適っており、成功も十分に見込めるものだった。作戦そのものは悪くはなかったのだ。
しかし、牟田口は英軍をナメて掛かった上に、頓珍漢な見立てで作戦を立てた結果、それが英軍の卓越した対応により破綻した後に、牟田口という人間と日本軍という組織の歪みが現れた。牟田口や司令部が将帥として責任を負う覚悟を持って判断を下していれば、撤退はより迅速で痛みの少ないものになっただろう。それが現実にならず後世に語られるような惨劇になったのは、ひとえに「勇猛果敢」を重んじて不適材不適所の人物を充ててしまったが故の彼らの保身によるものである。

牟田口は無能では無かったが、人の上に立つ器では無かったのだ。

やがて、作戦失敗の責任で予備役に転属された後、A級戦犯として逮捕されたが不起訴となる。
この「戦犯」というのが連合国の都合で決定されるもので、「インパールで連合国に利した彼は罰する必要が無かったから」……とはしばし言われる。
確かにA級戦犯は「世界侵略の共同謀議」という連合軍のストーリーを元に裁かれた事は否めない。
しかし牟田口の場合は陸軍省や参謀本部にいたとはいえ、途中で政争に敗れ、また最高でも総務部の庶務課長に過ぎなかったことや
中央にいた頃の彼の親分であった荒木は終身刑(後に減刑)だったが、もう片方の真崎は不起訴だったこと。
更には日本軍人に厳罰を与える事で有名だった英軍法務担当士官のシリル・ワイルド少佐が牟田口を尋問する直前に
飛行機事故で死亡してしまった事も重なって不起訴になった。

これらを踏まえるとむしろ彼は端役だった、と見るべきではないだろうか。


なお、「牟田口はインパールで連合軍を利した」という評価だが、
この作戦の失敗でそれまで互角だったビルマ方面は連合軍優位で推移したうえ、
蒋介石はともかくこの頃のイギリスにとって重要度の低いビルマ方面について、インパール作戦失敗後も「戦略的な敵戦力分散と消耗」を重視していたこと考えると、おおよそ否定しようがない事実である。


●戦後

牟田口は戦後しばらくはインパール作戦における問題点について謝罪の弁があったという。
ところが、没する4年前の1962年に敵であった英軍の軍事研究家からビルマ戦線の戦記を執筆する際に「作戦の成功いかんは紙一重であった」と作戦を賞賛されたのが祟ってしまい、以降作戦は正しいという発言を続け、本まで書いて自衛隊にまで押しかける様子が語られ、この3年だけで色々と評価を貶める原因を作ってしまった。
彼が1966年に没した際、ある者は「なぜあいつが畳で死ねるんだ!?」と憤慨し、またある者は「もうこんなヤツのことなんか早く忘れてしまおう」と諦めの境地に達した。
その結果、遺言を残して自分の葬儀にあたって自分は正しいというパンフレットを配布までさせていた*4と言う風説をはじめ、中華レストラン「ジンギスカンハウス」を開業していたと言うものまで数々の事実に基づかない風聞が出回ってしまう事になった。



●評価

まあ、上記の体たらくの軍人に対し、肯定的な声はそうそう上がるものではない。
日本軍否定派はもちろん、日本軍に好意的な見方をする者も、牟田口に対して好意的な見方をする者はほとんどいないと言える。

ただ、インパール作戦の結末を牟田口一人のせいにすべきかという点については、疑問があるとする意見もある。
2018年夏に出版された広中一成氏の書籍では牟田口一人に責任を負わせるのは適切ではなく、上官である河辺正三、後ろ盾である東條英機にも責任はあったのでないかと指摘している。
また、牟田口の指揮したビルマ方面軍の上層部自体、大分軍紀が緩んでいた状態であり牟田口の緩みは彼らの悪評が牟田口個人に押し付けられたという説もある。
もっとも広中一成氏が牟田口批判の急先鋒として槍玉に挙げた高木俊朗氏は牟田口個人だけではなく、
河辺は勿論のこと第15軍の情報参謀だった藤原岩市中佐や高級参謀の木下秀明大佐、南方軍総司令官の寺内寿一元帥や首相兼陸相兼参謀総長の東条英機大将も糾弾しており、
同氏は牟田口を過剰弁護している節もある。

特に河辺は軍司令部で兵站を軽視した計画に反対意見が噴出する中、唯一牟田口を支持してインパール作戦に賛成した人物でありながら、インパール作戦の失敗の責任を追及されることなく、その後大将にまで昇進している。
9万人もの兵士を動かす作戦が牟田口の一存で実行に移せるはずもない。責任を取るべき人間は他にもいるはずなのに牟田口一人だけが叩かれているのは、ある種のスケープゴートとされたのでは、悪評も意図的に脚色されたものでは、という考察がされている。特に東条英機の腰巾着たる「三奸四愚」*5の存在も大きかった。

周囲の意見に同調して、あるいはこのような記事を見て「牟田口は愚将」「彼だけが諸悪の根源」という印象を抱いた人は、河辺が行った印象操作にまんまと引っかかった…という見方もできるのだ。

また、インパール作戦のような無理な作戦を当てにせざるを得なくなったのも、そもそも日本が中国やアメリカやイギリスを相手に多正面作戦をすると言う無茶な戦争をしてしまったからでもある。
無茶な戦争を何とか勝利に持って行こうとすれば、無茶な作戦をバクチ的にやらざるをえなくなるのは当たり前のことである。
戦時中、作戦に失敗したり、無謀な作戦指令によって多くの犠牲が出た例は別にインパール作戦に限った話ではない。


彼の場合更にまずかったのは、戦後に自己弁護をするだけでなく、失敗を部下のせいにする発言を繰り返してしまったことであろう。
部下に対して責任を擦り付けるような態度をとらなければ。せめて発言を慎んで黙っていれば…
上記のような状況を踏まえ、ある程度は同情的な意見も出てきたのではないだろうか*6

もっと言えば、当時の牟田口は敗軍の将となり、沢山の兵を死なせた挙句、配下の指揮官はおろか共に作戦を推進していた参謀にまで非難され、四面楚歌となっていたことであろう。
真っ当な人間なら、良心の呵責に押しつぶされかねない状態であるし、自分は悪くない、という考えに飛びつきたくなるのも無理からぬことでもあろう。
そこでなまじ敵から褒められるような言辞を貰い、「自分は悪くない」という考えに裏付けができてしまったことで、彼の暴走は止められなくなったのかもしれない。


もっとも、だからと言って牟田口がインパールの担当司令官としてベストを尽くしたのか、当時の観点から見てもやるべきことを全てやり、やってはならないことは避けたのか、名将といわれるべき男だったのか、というとそれはノーだろうが。

だいたい、彼にいかなる事情があろうとも、無謀な作戦で命を散らした将兵やその遺族にとって、そんなことを配慮する義理はどこにもない。
そうやって精神を保たなければいけない状態になってしまう時点で、司令官という立場には決定的に向いていなかったことは明らかだった。
しかも戦後になって、そうした遺族や今も生きている元部下たちが存在することを忘却し、自己保身に走ったというのも、人の上に立った人物としてありうべからざる行いである。
内心でどう思っていようとも、かつての部下たちやその遺族に詫びる姿を見せることこそが、彼に求められていて、彼が唯一取りうる態度ではなかったのか。

インパール作戦以外でも、
「ジンギスカン作戦のように現場をおよそ知らずに実現不能な指示を出すため部下も作戦案が作れない」
「部下(それも高級将校)に対して体罰やパワハラを連発の末、その部下より数回暗殺され掛かる」
といった、上司として問題のある行為が大量に告発されるに及び、牟田口は今日に至るまで好意的な評価がほとんどない状態になってしまったのである。

「なぜ牟田口のように本来その場にいるべきではない人が出世してしまったのか*7
「なぜ牟田口のような無茶な指揮を誰も止められなかったのか*8
という点で、「無謀な作戦」の代名詞として現代における組織論におけるマイナスのモデルケースとしても、著書などのテーマなどで頻繁に使われている。そのせいか牟田口が愚将の代名詞として挙げられるに至っているのである。


余談


海軍にも牟田口格郎という大佐(死後少将に昇進)がいたが、陸軍の牟田口とは特に関係ない。
こちらは軽巡洋艦・大淀艦長としてレイテ沖海戦、礼号作戦、北号作戦を潜り抜けた歴戦の猛者であったが、戦艦伊勢艦長就任後に呉で空襲を受けて戦死。
しかし、陸軍の牟田口が有名になりすぎているため、こちらはフルネームか「海軍の」とつけて呼ぶことをお勧めする。

インパール方面から浸透し、ビルマの日本軍を撹乱したウィンゲート旅団もまた補給不足が深刻で、飢えたところに赤痢やマラリアに罹患した末の死者や負傷者が続出した。
創設者のウィンゲートも軍法会議が取り沙汰されたが、膠着したビルマでの数少ない戦果から有耶無耶になっているどこも似たようなものであるうちに部隊視察中の飛行機事故で死亡した。


日本陸軍の将軍の中ではかなり知名度の高い人物であることから、仮想戦記でもそれなりに出番は多い。
史実通りの無能な人物として扱われることもあるが、意外性を狙ってなのか、驚くほどの大活躍をする作品も少なくない数が存在する。
上記の強引な性格が様々な要因から結果的に良い方向に働く、という展開が多いようである。




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最終更新:2024年04月19日 16:27

*1 例えば二・二六事件前年には「反真崎・荒木」の中心人物だった永田鉄山が「陰謀の黒幕」と国体原理派将校の手によって暗殺されている。

*2 今のベトナムへの軍事進駐。当時はフランスの植民地であったが蔣介石を支援する「援蔣ルート」に利用され、またナチス・ドイツの侵攻で本国が占領され空白地帯化していた

*3 第31師団長。この行為は本来、退却自体が抗命罪で死刑になってもおかしくない行為である。なおこちらも大概愚将扱いされており、「牟田口に勲章を」と絡みも本来はこの佐藤の事であり 英軍第33軍団司令官のモンタギュー・ストップフォード中将から「(佐藤を殺して有能な奴が後任に来ないよう)イギリス空軍が佐藤の本部を爆撃しないように待命させた」と言わしめる程であった。

*4 戦史研究家の関口高史氏の取材によりデマであると判明している。

*5 三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二。四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄の7人を指す蔑称。

*6 実際に、三馬鹿にしても牟田口に利用されインパール作戦を黙認したすべての元凶とも言える寺内寿一にしてもマレーシアで脳溢血により無念の死を遂げ、その際に後悔の念を述べていた。そして無断でフィリピンから台湾へ退却したとして非難された富永恭次も、自身の病気からか部下に進言されて行ったともされており、聴聞された際にもちゃんと部下を庇っている。

*7 個性がなく似たような人材ばかり量産し、現場に無知でも昇進できてしまう組織構造・人材育成などが挙げられることが多い。上官と兵卒では役割が大幅に異なる以上現場のたたき上げならよいわけではないが、牟田口はそれにしても現場や常識に疎すぎたと批判される。

*8 軍事的合理性より「あいつがやりたいと言っているから」というように人情を尊んでしまう当時の日本軍の性質が指摘される。