松井秀喜

登録日:2019/11/05 Tue 08:37:36
更新日:2024/04/09 Tue 22:30:47
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松井(まつい)秀喜(ひでき)とは、日本の元プロ野球選手及び元メジャーリーガーである。
NPBでは読売ジャイアンツ、MLBではヤンキース等4球団に所属した。


プロフィール

本名:上記と同じ
生年月日:1974年6月12日
血液型:O型
出身地:石川県能美郡根上町(現・能美市)
背番号:55(1993~2011)・35(2012・レイズ時代)
身長:188㎝
体重:104㎏
所属:星稜高校(1990-1992)→読売ジャイアンツ(NPB)(1993-2002)→ニューヨーク・ヤンキース(MLB)(2003-2009)→ロサンゼルス・エンゼルス(MLB)(2010)→オークランド・アスレチックス(MLB)(2011)→タンパベイ・レイズ(MLB)(2012)
プロ年数:20年
守備位置:外野手・指名打者
投打:右投左打
愛称:『ゴジラ



概要


日本を代表するホームランバッターであり、「ゴジラ」という愛称で多くのプロ野球ファンから親しまれた。
メジャーリーグに移籍後もその存在感で全米をにぎわせた。メジャー在籍年数は10年にのぼり、これは日本人野手としてはイチローに次ぐ2位の記録である。
2012年に引退してから年月の経った今でも根強いファンは多い。

経歴


幼少期

1974年6月12日誕生。
生まれた時の体重は4キロ近くあって、生まれながらにして大きく周りも驚いていた。
3歳で保育園に入園。この頃から大柄な体系だったらしく、当時の先生も「8歳くらいに見えた」と語っている。
小学校に入った頃から野球を始める。
1年生で地元の少年野球チームに入団したが、まだルールも理解できないままだったので1週間で1度退団している。
始めの頃は右打ちであったが、打った時かなり飛ばすことが多い為、兄が打ちにくくする目的の為に、「尊敬する阪神の掛布(雅之)選手と同じ左打ちで打ってほしい」と言われ、左打ちに変更。最初の頃は苦戦したものも、次第に慣れて打てるようになる。
野球の他、柔道や相撲もやっており、当時はそれらを野球より重点に置いていて、柔道に関しては国体選手に選ばれていたこともあった。
5年生になってからは少年野球チームに再入団し、徐々に頭角を現すようになる。

中学時代

根上(ねあがり)中学校に入学し、野球部に入部し、野球に専念するようになる。
顧問のコーチは後に松井が進学する星稜高校野球部OGであり、体罰も辞さない方針で自身にとって1番厳しかった指導者という。
入部当時、体重が90キロ以上あった為、最初は減量を目的に走りこみが中心であった。
この走り込みのおかげで、減量した他、野球人としての基礎的な体が出来上がったと言えるだろう。
打撃練習に関してもここでも怪物級な所を見せ、打った軟式ボールを次々に割ってしまい、コーチを困らせたというエピソードもあった。
バッティングフォームに関しても徹底的に訓練され、王貞治を手本としたスイングをするようにと指導されていた。
1年生の時は捕手であったが、2年生から投手に転向する。
3年生の時、ある試合のチャンスの場面で敬遠された時、相手投手を睨みながらバットを放り投げたことで、コーチが激怒して殴られたというエピソードがあった。この時がコーチから1番怒られた印象であったそうで、これには松井も自分の行いに反省した。

高校時代

星稜高校に進学し、野球部に入部。
ポジションは投手から内野手となり、1年生にしてレギュラーの座を獲得した上、4番を打った。
夏の予選を突破し甲子園に出場。自身は1年生にして甲子園の土を踏んだが、初戦で敗退し、自身もノーヒットだった。しかし、対戦した投手からはある打席でファールだったものも、かなり飛んだようであり、「あそこまで飛ばすのか」と松井の怪物ぶりに気がついたという。
練習中、打球が場外を超えて近隣の家屋の屋根瓦を壊すことが多々あったため、練習場のライトフェンス後方にネット(通称:松井ネット)が新設された。
(なお、松井ネットの恩恵を受けた選手は松井秀喜その人のみで、松井ほど打球を飛ばせる選手はその後現れていない)
その後も松井の活躍はマスコミやプロ野球のスカウトに注目されていく。
そして松井で1番大きな話題になったのが、3年生で自身最後となる夏の甲子園の2回戦の明徳義塾高校戦である。
何と明徳は松井に対して前代未聞の5打席連続敬遠という采配を行った。
試合は明徳が勝ち、星稜は敗退。松井の夏の甲子園は終わった、
この出来事に明徳は周りから非難を浴びる結果となった。
当時の明徳の監督はこの事の重大さに辞任を考えたこともあったという。
一方、松井や星稜の監督であった山下智茂は「対戦してもらなくて非常に残念」とコメントしたが、明徳に対して批判のコメントはしなかった。
1992年度のプロ野球ドラフト会議では、多くの球団が松井に注目し、1位指名したのは読売ジャイアンツ、阪神タイガース中日ドラゴンズ福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の4球団。
抽選で当てたのが巨人。くじを引いたのは監督に就任したばかりの長嶋茂雄であった。
長嶋本人は「くじで当たって入団したらどうしても育てたい」とコメントしていたので、まさに運命であったと言えるだろう。
入団した松井に与えられた背番号は55。王貞治のシーズン55本塁打を超えて欲しいという願いが込められていた。

プロ野球選手時代

プロ入り後、長嶋の方針により外野手に転向。
キャンプ時の打撃練習で首脳陣から「こんなルーキーは見たことない」と度肝を抜かれていたという。
しかし、オープン戦では三振や凡打を築き、プロの厳しさを痛感。
当初は二軍と一軍を行ったり来たりの状態であった。
プロ初本塁打はヤクルトの高津臣吾から打った。*1
8月末には一軍のレギュラーに定着するようになった。
1994年からは3番を主に打つようになり、4番にはFA移籍した落合博満が入り、息の合った打線で巨人は優勝・日本一に導いた。
また、入団時に長嶋茂雄は「松井秀喜1000日計画」を掲げ、時間を掛けた個人指導で4番打者にすることを考えていた。
1996年、中日の山崎武志と大豊泰昭と本塁打王を争い、山崎が1本差でトップの状態で中日戦最終戦に入り、巨人は1番に松井を置き、多く打順を回す戦略を取るも、中日は松井を全打席敬遠させた。これには巨人ファンからブーイングの嵐となった。
結果的に1本差で本塁打王を逃すも、記録は38本と前年の22本を大きく更新した。
巨人はメークドラマで独走状態だった広島を打ち破って優勝するも、日本シリーズでイチロー率いるオリックスに敗退。松井もオリックスの投手陣に苦しめられ、悔しさを見せた。
1997年は、ヤクルトの新外国人・ホージーと本塁打王を争うもまたも1本差で逃す。記録は前年より1本減って37本。打点は自身初の100打点を記録した。また、この時期は清原和博とともにMK砲*2と呼ばれて注目された。
1998年は、前年より本塁打を3本減らしたが、34本100打点で初の本塁打王・打点王を獲得した。先の「MK砲」に高橋由伸も加えてMKT砲とも呼ばれた。
1999年、自身初のシーズン40本塁打更新し、42本を記録するも、ヤクルトの新外国人のペタジーニに2本差で本塁打王を逃した。
2000年から、全試合4番で出場するようになる。本塁打王・打点王を獲得し、チームの優勝・日本一に貢献した。ちなみにこの頃からメジャーリーグ挑戦を考えるようになった。
2001年は本塁打を前年より減らし本塁打王を逃してしまうものも、自身初の首位打者を獲得した。
2002年、自身初の50本塁打を記録し、本塁打王・打点王を獲得。チームを優勝・日本一に導いた。
そして海外FA権を獲得した松井はメジャー挑戦を表明。
メジャー名門球団であるニューヨーク・ヤンキースの入団を発表した。

メジャーリーグ時代

ヤンキース入団が決まってから、全米から大きく注目されるようになり、入団会見には球団社長・監督・ニューヨーク市長らが出席し、多くの記者たちが詰め掛けた。
メジャーでも多く本塁打を打とうと松井も気合を入れていたが、日本とは違うメジャーの球に松井は苦戦する。
この事を踏まえ、ホームランバッターから勝負強さを求めるバッティングに接するスタイルに切り替えるようになった。
メジャー1年目にして、オールスター戦に出場し、ヒットを放っている。
最終的に本塁打は16本に終わるも打点は106打点という勝負強さを見せた。
2004年は、本塁打は31本と大きく伸ばした。しかし、これが自身のメジャーシーズンタイ記録となり、以降は20本台でシーズンを終えることが多くなる。
2006年、シーズン序盤はコンディションが万全とはいえない状態で試合に出続けるも、5月に怪我で離脱。以降、膝に痛みに悩まされることが多くなり、DHでの出場が多くなる。結局このシーズンの本塁打数は8本に終わり、日本時代を含め自身初めてシーズン本塁打数が1桁台となった。
2008年、シーズン前に一般女性と結婚を発表した。
2009年、このシーズンは殆どがDHでの出場となるも、打撃は復活の見通しも見せるようになり、日米通算444本塁打を放ち、師である長嶋茂雄の記録を更新した。
ヤンキースはワールドシリーズにも出場し、さらにワールドシリーズも制覇。自身も打撃で活躍し、ワールドシリーズMVPを獲得した。
しかし、ヤンキースは来期の契約は更新しない方針となり、松井はヤンキースを去ってFAとなる。
その後、エンゼルス、アスレチックスと渡り歩くもいずれも1年で退団。
アスレチックスでは自身で日米通算500本塁打を達成している。
2012年、レイズとマイナー契約を結ぶ。
程なくしてメジャー昇格するも、当時別の選手が背番号「55」をつけていた為、「35」をつけることになった。
しかし、不振に見舞われ、成績も伸びず、球団から戦力外を言い渡され、レイズを退団。
その後、他球団のオファーもないままシーズンを終えることになる。
自身はもう全盛期を過ぎたと考えたからか、シーズン終了後、現役引退を表明した。
日本に戻らなかった理由は日本でプレーできるだけの実力がなかったためではなく、ファンが期待するような「松井秀喜としての」パフォーマンスを発揮できないためとのこと。
また、巨人やヤンキースのような優勝への意識が高い常勝球団に長年所属していたため、意識が低い球団への移籍後はモチベーションの維持に苦しんだのではないかとマスコミからは言われている。
引退について師である長嶋茂雄は「最高のホームランバッターだった」と評し、同年代のMLB選手であるイチローは「ただただ寂しい」とコメントした。

引退後

引退の翌年、師の長嶋茂雄と共に国民栄誉賞を受賞し、東京ドームで久々に巨人の55番のユニフォームを身に付けてセレモニーが行われた。
更にヤンキースも彼の長年の労を労い、ヤンキースタジアムでも引退セレモニーが行われた。
引退後もアメリカへ定住し、時々日本に帰ってくるときには野球教室をやったり、臨時で巨人のコーチをやったりして、若手に指導したりしている。
日本でも指折りとなる規格外の強打者による指導は現役選手にとっては非常に貴重なものであり、一部の選手は松井の指導をひとつのキッカケに成長している。
2016年にはヤンキースの特別GMに就任し、現場での指導を通して有望のある若手を捜し求めている役割を果たしている。
2018年に節目である第100回甲子園大会の始球式に登場。奇しくも星稜が第一試合となり、松井は後輩達の勝利をその目で見届け、客席で勝利の校歌斉唱まで行なってから会場を後にした。

人物


実家は宗教団体であるが、松井秀喜本人は加入させられてはいない。
親からは宗教の方針からは「ひでさん」と呼ばれた。
基本的に性格は温厚であり、他人の悪口は殆ど言うことはないという。
マスコミとの関係も非常に良好で、記者を丁重に扱うため、スポーツ誌に悪口や良からぬ噂が並ぶことも少ない。
但し、幼少期は兄たちとの野球でなかなか勝負させてくれなかったあまり激昂したり、中学時代に上記の敬遠で相手を睨んだりしたこともあった。また、巨人時代、阪神時代のメイと勝負した時、デッドボールを当てられたが、この時、故意死球と思い、メイに詰め寄ろうとしたこともあった。(後にメイが巨人入団した後に和解)
選手時代から遅刻癖があった。
意外な趣味としてAV鑑賞がある。審査員として参加したこともあった。
子供の頃から食欲旺盛であり、またメジャー時代から各国専門の料理店に行くなどグルメでもあった。
野球用具はプロ入り前から一貫して「ミズノ」の用品を使っており、引退するまで使い続けた。メジャーリーグ入りした直後、大手海外メーカー「NIKE」から契約して欲しいというオファーがあり、契約金10億円を提示された事があった。ミズノはNIKEからの破格オファーに対抗できないと松井からの契約破棄を覚悟していたものも、松井本人は「ミズノさんにお世話になっていますので」とNIKEからの契約を断り、ミズノとの契約はメジャー移籍以降も続く事になった。

イチローとの関係


オリックスやマリナーズでプレイしていたイチローは1学年上の選手であり、高校時代からの面識がある。*3
このため彼らにとってはお互いにプロ入り前の姿を知る数少ない相手となっている。
松井の引退時にイチローが珍しく感傷的なコメントを寄せたのも古くから知る選手であったためである。
なお、イチローとは何かと比較されがちだが、松井はパワータイプの打者であるのに対し、イチローは塁に出ることを意識する打者であるため、松井本人にライバル意識のようなものはなかったとのこと。

野球関係者からの評価


その輝かしい成績や規格外のパワーに数々の野球関係者から評価された。
長嶋茂雄は「現代で最高のホームランバッター」、王貞治は「アメリカで(日本人で)30本以上ホームランを打ったから素晴らしいと思う。日本で50本打ったこととアメリカで30本打ったことを比較する必要はない」、野村克也は「巨人の歴代4番打者で評価したのは王(貞治)・長嶋(茂雄)、そして松井」、原辰徳は「強い精神力に頑丈な体、類まみれるパワーには度肝を抜かれた」、清原和博は「松井以上のパワーヒッターはどこにもいない」、古田敦也は「日本で1番すごいと思ったバッター。早くアメリカ行けと思っていた」(但し、松井は古田率いるヤクルトスワローズを苦手としていた時もあり、1997年のヤクルト戦では1割台に抑えこまれていた)、佐々木主浩は「対戦してても怖かった。特別クラスの選手」(但し、松井は佐々木との通算対戦成績は打率1割未満に抑えられるほど苦手としていた)、等多くの関係者から高い評価なコメントをしている。
一方で松井に対し厳しい評価をしていた人もいて、落合博満は巨人在籍時、当時若手の松井に対し「お前のバッティングは小学生以下」と言っている。これは𠮟咤激励の意味で言ったかもしれないが、これには松井は落合のプレーを見てチームの為にプレーを心がけているんだと落合に対して思ったらしく、松井自身は落合には唯一勝てないと評価していたという。
また、張本勲からは「松井は自身でボールを捉えるポイントを掴んでおらず、小細工でごまかしている。好調時は素晴らしいが、不調時はなかなか抜け出せない」と評していた。現に2005年ではシーズン序盤にいいペースでホームランを重ねるも、その後200打席以上ホームランを打てなかった時があったので、この裏付けは本当だったと言っている。

余談


長期間の逃亡で知られる強盗殺人犯の福田和子*4が逃亡中に働いていた駄菓子屋が松井の実家の近所にあり、
小学生時代の松井もその店によく客として訪れていたことで、当時の福田と顔見知りであった。
松井がプロ入りした後に福田が15年にも渡る逃亡生活の末に逮捕され、
子供の頃の顔見知りが殺人により指名手配を受けていた人物だったと知った時は流石に驚いたらしく、
「きれいで愛想のいい奥さんだった」「優しいおばさんだった」と語っている。

人気選手だけあって、『ゴーゴー!ゴジラッ!!マツイくん』(河合じゅんじ)・『マツイ日記は知っている!』(荒木ひとし)と二作も主役漫画がある。
が、前者では色々な意味で怪物的な食欲魔人と化し、後者では傍迷惑な方向に天然なバカとなり、ギャグ漫画とは言えこれを松井氏が知っていたのかは気になるところである。

声優浅野真澄が「あさのますみ」名義で松井本人をモデルにした絵本『ぼくんちに、マツイヒデキ⁉︎』を出していた。(これが彼女の絵本デビュー作である。)


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最終更新:2024年04月09日 22:30

*1 当時の野村監督が松井は内角に強いと分析し、その実証のために高津にインハイで勝負するよう指示したと言われる。とは言え当時セリーグを代表する守護神である高津から打ってしまう松井が単にすごいのだが

*2 『MKアベックアーチ(アベック弾)』とも称していた。福岡ソフトバンクホークスにおける松中信彦と小久保裕紀のコンビもこう呼ばれた。

*3 松井の星稜とイチローの愛工大名電は定期的に試合を行う間柄

*4 1982年(昭和57年)8月19日に発生した愛媛・松山ホステス殺害事件の犯人。松井の地元・根上町の和菓子屋の後妻(入籍はしておらず、事実上の内縁関係)の座に納まっていた。