ルー・テーズ

登録日:2020/05/17 Sun 21:25:20
更新日:2023/07/11 Tue 12:45:47
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『ルー・テーズ(Lou Thesz)』1916年4月24日 - 2002年4月28日は、米国のプロレスラー。故人。
ミシガン州バナット出身。

本名:アロイシウス・マーティン・テーズ(セッズ)
幼名:ラヨシュ・ティヤシュ(ルー・セーズ)

ハンガリー系移民(母はドイツ系)の子で、ファミリーネームは日本では“テーズ”として定着しているが、本来の英語圏での発音では“セーズ”に近く、更にルーツであるハンガリーでは“セッズ”となるという。

全盛期の公称サイズは身長191cm、体重110kg。
晩年でも腹等は殆ど出ておらず、手足が長く痩せ型だが均整の取れた体格をしていた。
非常に運動神経に優れていたそうで、挑む競技やリング上での技の動きに応じて利き腕や利き脚(踏み込みの順番や体の向きや振り上げる足なんか)が自然に変わり、本人もそれが戦術的に(相手が間合いに戸惑う等して)有利に働いたと語っている。

16歳でのデビュー以来、休業していた時期もあるものの、半世紀以上もの期間(単純に始まりから終わりとすると58年間)にも渡って現役生活を続けた。
21歳の若さで初めて世界チャンピオンとなって以来、全盛期を過ぎても業界を代表するプロレス王者として名を挙げられていた。

特に、1948年から1955年までのキャリアを重ねながら体力も衰えていなかった時期には、公式戦で936連勝という前代未聞の大記録を打ち立てており、ギネスブックにも記録されている。
……ただし、記録の中には引き分けも挟まれているし、テーズ自身は記録その物を否定している。

以上の経緯から付けられた異名は“20世紀最高(最強)のプロレスラー”で、日本では“(20世紀最強の)鉄人”の敬称で親しまれた。

日本でプロレス文化が根付いた頃には既に選手としては一歩引いた業界の大ベテランとなっていたことから、権威付けの為の顧問として複数の団体に呼ばれることもある一方で、リングに立った場合には衰えを知らないかような妙技を見せつけた。

一撃必殺のバックドロップの使い手として知られ、日本では正統派のプロレスラーの理想系として捉えられていたものの、実際の業界では確かに強いものの強さ以外の観客へのアピール力は低い(ショーマン的ではない)という類の選手であり、特に中年となって以降は興行の目玉ではあるものの、どちらかと言えばヒール的な扱われたかたもされたという。

日本での関わりの中で、アントニオ猪木ジャンボ鶴田にバックドロップを伝授したことでも日本のファンにはお馴染みの存在である。

現役最後の試合は90年に新日本プロレスで行われた、日本人では最後の弟子とも呼べる存在となった蝶野正洋との戦いで、何と74歳の時だった。


【来歴】

1916年4月ハンガリー帝国からの移民であった靴の修理工で、母国ではミドル級のレスリング選手でもあったティヤシュ・マールトンの長男として生まれる。
出生名はティヤシュ・ラヨシュで、他に三人の姉妹が居たという。

一家は1918年にミズーリ州セントルイスに移住し、そこでファミリーネームを英語名に改め、ティヤシュはルー・セーズ(テーズ)となる。(ハンガリーでは本来は姓が先なので、ティヤシュ・ラヨシュ→ラヨシュ・ティヤシュの英語変換である。)

物心ついた頃より、父よりグレコローマンスタイルのレスリングの指導を受けており、これがテーズの格闘競技者としての原点となった。
同じく、幼少の頃より父に連れられてプロレス観戦にも出かけていたとのことで、貧乏な移民の子供だったテーズは、十代になると自然にプロレスビジネスの世界へと入っていくことになる。


デビューは1932年の16歳の時で、イースト・セントルイスの教会で行われた興行でデビューしたという。
テーズは、この頃を長いプロレス人生の中で一番楽しかった時期と回想しているそうで、ルーキーであるテーズはアマレスの強豪であったコーチのジョージ・トラゴスと先輩のピート・サワーからは実戦的なレスリングを、同じく先輩で日本の講堂館柔道に挑戦した経験も持つアド・サンテルからは関節技を学んだという。

テーズは、スタンディングでもグラウンドでもダブルリストロック(チキンウィング・アームロック=腕からみ)で相手をコントロールする戦法を基本としていたが、この技術はこの頃には既に培われていたのかもしれない。

そして、テーズの“伝説”も、この頃からスタートする。
“伝説”によれば、テーズが訓練を積んでいたセントルイスのジムに元プロレス王者“ストラングラー(絞め殺し)”エド・ルイスがフラリとやって来て、そこで見かけた17の若造に稽古を付けてやろうとした。

しかし、その若者は反対に往年のプロレス王者をグレコローマン・バックドロップでマットに叩き付け、絞め殺し屋はショックを受ける処か未来の王者を見つけたことに大喜びしたという。
それが、ルイスが若者=テーズのロードマネージャーとして付くようになった始まりであったという。

……これが、ルー・テーズとエド・ルイスの“伝説”となっているドラマチックな出会いであるが、流石にスパーリングこそしただろうけれども、脚色され過ぎたエピソードであると見られている。*1

だが、1920年のニューヨークで大観衆を前に世界チャンピオンになった“本物”の実力者が、まだ現役中だったのに、たかだか17歳の若者に惚れ込んで師弟関係を結ぶばかりか、マネージャーとしてツアーに帯同するようになったこともまた事実である。

そして、1937年に入って早々には、当時は新聞記者をしていたサム・マソニックとの出会いがあった。
ユダヤ人で、熱狂的なプロレスファンであったマソニックは若きテーズの才能に惚れ込み、何と30日間連続で特集記事を書き下ろし、この記事で大いにテーズは知名度を上げることになったという。

後にマソニックはセントルイスでプロモーターに転向し、更に後の48年には米国、延いては世界最大のプロレス興行団体として知られる(新)NWA(National Wrestling Alliance)の七人の発起人の一人となり、その中でも最も長い通算で22年間もの間を会長として過ごしている。
テーズは、NWA発足後は単なる選手を越えたマソニックの懐刀として、NWAの勢力拡大に貢献することになる。

37年12月、当時の慣例では30歳前後からが獲得資格となっていた世界王者(MWA世界ヘビー級王座)を、上記の経緯や知名度の上昇もあってか21歳にして獲得。
この時には防衛戦でのアクシデントもあり短命に終わったものの、39年には旧NWA世界ヘビー級王座を獲得している。
しかし、この時も半年で陥落し、おまけに敗戦にて左膝を負傷して一年もの休業を余儀なくされたという。
この時の負傷は古傷として一生残ることになり、本人は70歳にして右の臀部を手術する羽目となったのは、長年に渡り左膝を庇う無理な動きが常態化していたからだ、と振り返っている。

このように、若きテーズにも楽あれば苦ありという所であったが、世界大戦の最中、師匠のエド・ルイスが活躍したかつてのプロレスの本場であるニューヨークが興行を自粛する中で、新たに米国のプロレスの中心地となったのは奇しくもテーズの住む中西部セントルイスであり、テーズは地元の若くて強くてハンサム(グッドルッキング)な王者としてプロモーターにも愛されていたという。

43年、既に著名なプロレス王者となっていたテーズも大戦中のこの時期にはアメリカ合衆国陸軍に入隊していた。
尤も、出兵等はせずに体育教官の任に就き、オマケに軍でもプロレス興行を行っていた。
これは、当時の決まりで興行収入の20%を軍が活動費として徴収出来た為で、寧ろ積極的に奨励されていた程だったという。

終戦後の46年にカナダ・モントリオールでモントリオール版AWA世界ヘビー級王座を獲得。

47年にセントルイスでホイッパー・ビリー・ワトソンを破りNWA世界ヘビー級王座を獲得。
一度、ビル・ロンソンに渡すも48年7月に取り返し、ここから55年5月にレオ・ノメリーニに反則負けするまで、前述の通り936連勝(正確には936戦無敗か)の記録を打ち立てることになる。

この間の53年12月には、ハワイで日本プロレスを発足させたばかりの力道山がテーズとの初対決を実現させているが、実力の違いを見せつけられ、3本勝負ながら1本目の決着となった元祖パイルドライバー(後述)の威力もあってか、後のラウンドを棄権して敗北している。

終戦後のテーズの歩みは、そのまま米国マット界の展開とリンクしていた。
特に、40代に入ったテーズが敗北もするようになったことでNWAは分裂状態となっていき、エドワード・カーペンティアに敗れた試合を切っ掛けとして、セントルイスのNWA本流に離反した勢力により、AAC(ボストン)、WWA(ロサンゼルス)、AWA(オマハ-ミネアポリス)が誕生した。

ニューヨーク派の推す新王者である“元祖ネイチャーボーイ”バディ・ロジャースとの戦いでは、セミリタイアして牧場経営していたテーズがマソニック派に引っ張り出され、試合では思惑通りに完勝を収めながらも、自分達が主導権を握ったままでいたいビンス・マクマホン・シニアが中心となってWWWF(現在のWWE)を誕生させた。

つまり、テーズの一挙一動で米国のテリトリーの勢力図が塗り変わり、70年代には三大テリトリー(NWA、AWA、WWF)の誕生に繋がった。

こうした流れを鑑みても、テーズのNWA世界王座をオリジナルとすれば、それと並ぶ権威とされたAWA王座、WWF王座も元は勝手に暖簾分けされた亜流タイトルでしかなかった。

力道山時代に日本マット界の最高権威であったインターナショナル王座も、元を糺せばNWA王座を失ったテーズに対して、NWA本部が長年の感謝を込めて贈呈したベルトを、テーズが58年にかつて勝利した力道山に招聘され、日本マット界の為に置いていった(・・・・・・)タイトルである。

このインターナショナル王座を中心に、ジャイアント馬場の全日本プロレスでは90年代に三冠ヘビー級王座が、政治力が足りず本家NWA王座に届かないことを悟ったアントニオ猪木の新日本プロレスでは、替わりの王座としてNWF王座の権威付けが行われ、80年代からはオリジナルタイトルとしてIWGPヘビー級王座が設立されることになった訳である。

そうしたタイトルの誕生した理由を当時の日本のファンも関係者さえも正確に語れたかは不明だが、遡ってみれば、凡ての源流はテーズにあった。
そして、そんな事実を知らずともテーズは日本プロレスは勿論、新日本でも全日本でも権威として扱われた。
新日本プロレスでは、当初は日プロから引き継いだ外国人招聘ルートを全日本に握られていた為に、テーズとカール・ゴッチの二人を大物外国人として呼ばざるを得なかった。
73年に米国での対戦経験があったゴッチと組んで、猪木と坂口征二のコンビと対戦。
この時点でテーズは60間近、ゴッチも50に届く年齢だったものの、二人共に異常なコンディションの良さで“世界最強タッグ”の宣伝に違わぬ実力を発揮して、最終的には敗れるものの坂口をバックドロップで仕留める等、肉薄している。

75年には猪木のNWF王座に挑戦。
59歳ながら開幕早々にバックドロップが火を吹く等、全盛期の猪木を圧倒する場面すらあったが、一瞬のブロックバスターホールドで敗れている。

この交流の中で、アントニオ猪木にバックドロップの極意が伝授され、
後の83年には全日本プロレスで復活した、自分の名を冠した若手リーグ戦(ルー・テーズ杯争奪リーグ戦)の決勝を裁くために訪れた際に、馬場の次のエースであるジャンボ鶴田にもバックドロップを伝授している。
特に、鶴田はテーズ流のバックドロップを更に自分に合った形で研鑽を加えていったことで知られており、初公開にてオールドスクールのダーティチャンプである絶対王者ニック・ボックウィンクルから完全な3カウントを奪って、AWA世界ヘビー級王座をいきなり奪取。
この技をきっかけとして、鶴田は“善戦マン”を脱した“怪物”と化していくことになった。

一方、新日本と全日本プロレスの誕生より早く66年に日本プロレス離脱組により設立された国際プロレスにもテーズは招聘されていたものの、67年にTBSを放送局に付けた新体制としてTBSプロレスを名乗ってスタートした『TWWAプロレス中継』の第一回放送にて、TBSが新設したTWWA王座を巡る戦いにて、局側が次代のエースとして推すグレート草津にやんわりとながら負けるように指示されたテーズは憤慨。*2
社長の吉原功もスポンサーのTBSの顔をやんわりと立てつつもテーズに非礼を詫び、指示に従う必要が無いことを了承した。
……そうして始まった草津との試合では、直ぐに草津の実力を見切ったテーズが早々にバックドロップを放ち、一撃で草津は失神KOに追い込まれる。*3
これにより、スタートの時点で思いっきり泥を塗られる形となった『TWWAプロレス中継』も74年までで打ち切られ、国際プロレス自体も81年に活動を中止した。
後に設立された新日本と全日本の隆盛の陰でひっそりと活動を終えたきっかけがテーズのバックドロップだったと誠しやかに囁かれているものの、何だかんだで番組も団体も延命している辺り、単に団体や集まった人員の力不足であったのかもしれない。
ただし、テーズに敗れてエースの夢が早々に破れた草津に関しては、低迷を越えて団体の中心選手には戻るも、後に改めて設立された看板タイトルのlWA王座には手が届かず、団体の終焉と共にプロレスラーも廃業している。
尚、上記の様な経緯を考えれば団体を出入り禁止になってもおかしくないテーズだが、実際には下記のCWAと国際プロレスの提携関係もあって、スペシャルレフェリーとして団体の終焉までに度々と訪れていたりする。
これについては、国際プロレスの立役者に日系人レスラーのグレート東郷が居り、彼と共に力道山の死後の日本のプロレス界をコントロールしようとしていた為とも、単にプロとして金払いのいい相手に従っていたからとも言われる。
実際、同時期に国際プロレスのエースであったラッシャー木村の印象をファンインタビューで聞かれ、猪木や馬場より強いと応えてしまっている。
また、東郷と組んでいたことについては、日本のマット界を思う気持ちを利用されたと釈明したりしているので、割とマジの話だった可能性も……。

日本では猪木へ挑戦した75年以降は選手としては呼ばれていなかったが、77年にメキシコUWAで初代UWA王者に認定されて一年も防衛した末にカネックに敗れて王座を失い、還暦越えながら立派に初代王者としての責務を果たしている。

更に、80年からはテネシー州メンフィスの独立団体CWAにて、“人間風車”ビル・ロビンソンに幾度も挑戦しており、この頃までは還暦過ぎでもコンディションを維持出来ていたことが窺える。

しかし、86年の右臀部の手術により、やっと選手としては本当にリタイア状態に。

しかし、87年にWWFで開催されたオールド・タイマーズ・バトルロイヤルで出場している誰よりも年上だったのに優勝。

そして、90年に新日本プロレスで長州力が認定されたグレーテスト18クラブ王座の設立の為に訪れた際に、前年に海外修行の締めくくりで自宅ジムを訪れてSTF(ステップオーバー・トゥーホールド・ウィズ・フェイスロック)を会得していった、最後の弟子とも呼べる蝶野正洋と戦うが、試合の中で臀部を負傷してしまう等、納得のいく戦いが出来なかったとして長い現役から退くことを決意した。
関係者や観衆からは当然のようにエキシビションとして扱われていた試合だったが、当人にとっては昔と変わらず真剣勝負であり、この試合でも開幕直後に完璧なタイミングでバックドロップを炸裂させ、往年の反りは流石に失われていたものの、目が覚めるような一撃で観衆をどよめかせた。
試合内容も、往年のテーズの攻めを目立たせる蝶野のド派手な受け身もあって短時間ながら見処の多い内容で、最後は蝶野に先んじてSTFを仕掛けた所を反対に切り返されてギブアップ負け。
テーズは最後まで“鉄人”の矜持を崩さずに長い現役生活を終えたのだった。


……が、92年に新日本から派生したUWFから更に派生したUWFインターナショナルが最高顧問として接触を図ってきたのに応えて、自身が所有していた旧モデルのNWAヘビー級王座ベルトを世界ヘビー級王座ベルトと称して提供。しかし、このベルトは90年にテーズ自身がバージニア州ノーフォークで開催したトーナメントにてインターナショナル・ワールド・ヘビー級王座として既に復活させており、Uインターでは日本で知られる前に王者となっていたマーク・フレミングを呼び寄せてノンタイトルで高田に負けさせる替わりに、フレミングを常連外国人として使うという回りくどい措置を取らねばならなくなり……と、ちょっと迷惑な偉いお爺ちゃんなのは晩年まで変わらなかった。

更には、92年に第2回G1を制して弟子の蝶野が復活したNWA世界ヘビー級王座を獲った際に、リップサービスで袂を分かった先輩の高田の名前を出すと、直ぐ様に本気にして高田と対戦させようとしたりと、その後も団体の垣根を越えてやらかしは続いた。
新日本は新日本で「ん?今なんでもって…」とばかりに条件は何でもいいと煽ってきたUインター側に対して数億円のギャラを要求したり巌流島決戦を要求したりと無理難題を吹っ掛けた訳だが、巻き込まれた蝶野の述懐によると、G1中の負傷による首の古傷の悪化で、レスラー人生の中でも最悪と呼べるコンディションにあった蝶野を守る為に長州以下のフロントがUインター側の思惑を反故にするために動いた結果であったらしい。何れにせよ、Uインターに関わったこととでテーズは新日本側から見限られてしまうが、本人的にはプロレス人生で二番目に楽しかった時期であるらしい。(金払いが良かったのだろうか?)
また、Uインターが苦しくなると理由を付けて離れたと誠しやかに言われていたものの、02年3月のUインターのブレーンであった宮戸優光の結婚式には夫人を伴って来日している。

しかし、それから間も無くの02年4月28日にフロリダ州オークランドで心臓バイパス手術に挑むが、肺炎の併発による心臓疾患で逝去。
無理に手術をしなければもっと長生き出来たとも言われていた程だった“鉄人”は、手術の失敗で呆気なく旅立ってしまった。享年86歳。
長い人生の大半を、プロレスの為に費やした偉人であった。


2016年4月。WWE殿堂レガシー部門に“20世紀最強の鉄人”の名が加えられた。


【主な得意技】


テーズの代名詞にして、現在でも“伝説”として残る必殺技。
テーズのバックボーンを踏まえ“グレコローマン・バックドロップ”と呼ばれる(当人も称していた)こともある、反り投げタイプのバックドロップ(現在ではバック(ドロップ)・スープレックスとも分類される)である。
テーズ曰く、父から教わったグレコローマン式のバックドロップ、兄弟子のアド・サンテルが習い覚えていた柔道式の裏投げ、プロになってから会得したプロレス式のバックドロップ(抱え式バックドロップ=ベリー・トゥ・バック・スープレックス)をミックスさせて完成したと語っていた。
この弁からすると、元祖もテーズとなるが、元祖はアド・サンテルで弟子のティヤシュ・ラヨシュに伝授されたとする話も伝わり、更にティヤシュが英語名アロイジャス・マーティン・ルー・セスを名乗っていたので、これがテーズと間違えられたのだろう……とする説が誠しやかに語られていた。

……が、どうやらこの説ではテーズ(セッズ)がハンガリー系移民であるという事実までは踏まえていなかったようで、どうやらハンガリー名ティヤシュ・ラヨシュ(名と姓の順番だとラヨシュ・ティヤシュとなる)とは、やっぱりルー・テーズ(ラヨシュ・ティヤシュの英語名変換)のことであったらしい。(アロイジャス=アロイシウスは成人してからの“本名”だった模様で、テーズは幼名をリングネームとしていたことになる。)
……まあ、既に100年近く前の話であるし、お伽噺となってもおかしくない頃合いではある。
俗に言う“ヘソで投げる”バックドロップであるが、テーズ本人は、日本でそう言われている“極意”について「出来る訳がない」と一笑に付したとのことで、どうやら弟子達にそう言って指導していたというのも単なる“伝説”だったようだ。
バックドロップ自体は、近代では定番過ぎて基本と呼べる技となってしまった感があるが、現在でも大技として大事に使う選手も居るし、中でもテーズ式はコンスタントに“必殺技”とする使い手が登場してくる程の技である。
前述のように直接指導した相手にはアントニオ猪木やジャンボ鶴田が居り、蝶野も初めに道場に行った時には、最初は普通にバックドロップを指導されたと証言している。
蝶野の物は単なるヘソ投げ式ではなく低空式と呼ばれ、特に弧を小さく高速で叩き付けることを目的とした投げ方をしていたが、実はテーズがフィニッシュとしていたのは、此方の低空式であったとも言われている。
尚、テーズ本人は上記の弟子達も含む他の選手とは根本的な仕掛け方からが違っており、テーズの場合は相手がヘッドロックを仕掛けてくるように仕向けておいてから、その瞬間を投げていた。
無防備な状態の相手を投げることも必殺技としての威力を発揮する秘訣だったのかも知れない。
そのタイミングの妙は、見た目には老いさらばえていた引退試合の時にすら失われていなかった。
漫画の様な話だが、正に神業の類である。
バックドロップの和名と言えば“岩石落とし”だが、テーズの物は“後ろ脳天逆落とし”と呼ばれていた。
天龍源一郎は修行時代の米国に倣ってか、ヘソで投げるバックドロップ自体を“ルー・テーズ”と呼んでいた。


和名は“空中胴締め落とし”という、恐らくはテーズのオリジナル技である。
相手に向かって足を広げながら正面から飛び付き、そのまま押し倒してフォールを奪う技で、どうやらバックドロップを使うまでも無い相手へのフィニッシュとしていたようである。
長いプロレスの歴史の中でも殆ど使い手が居ないレアな技で、テーズ以降は弟子のジャンボ鶴田がバックドロップと共にレパートリーにしていたり、テーズと直接の繋がりは無いものの、同じくアマレス出身でバックドロップを必殺技とした永田裕志が一時期に使ってた位であった。
しかし、この技に再び脚光を与えたのは世紀末に突然変異的に出現したWWFのストーン・コールド・スティーブ・オースチンで、押し倒した上にマウントパンチをかますアレンジを加えたが、実況にて“鉄人”へのリスペクトからテーズ・プレスという新しい呼び名が付けられた。
オリジナルに近い使い方では、10年代に入ってから獣神サンダーライガーが再現に挑み、一時期にはフィニッシュとして多用していた。


またはリバース・スラム、単にバック・スラムとも呼ばれている技で、以前の日本では元祖パイルドライバーと呼ばれていた技である。
もっと単純にテーズ式パイルドライバーと呼ばれるようにもなったが、テーズ自身も語ったように、後のパイルドライバーに比べれば、欧州式のスタンプ・ホールド(逆さまに抱えた相手を背中からマットに押し潰すようにして丸め込む技)に近い技であり、それを投げに特化させて、脳天から落としてやるようにアレンジした危険技である。
謂わば、前から仕掛けるバックドロップであり、テーズ自身のそれは相手を正面から片方の肩の上に担いで、鋭角にマットに突き刺していくという、マットの硬い当時には人を殺しかねないような技であった。
実際、負けん気の強い力道山も初対決でこの技を食らって、以降のラウンドを棄権している。
後に、一時期テーズの指導を受けたことがあるテリー・ゴディが、この技をアレンジしてパワーボムを開発している。
また、知ってか知らずか同じく弟子の蝶野が普通のパワーボム使いである越中詩郎戦にて近い技を見せたことがあり、ゲーム(『キング・オブ・コロシアム』)では“元祖パワーボム”の名前で実装されている。
この他では、海外発祥で川田利明三沢光晴にパワーボムをウラカン・ラナで切り返されそうになったのを耐えて放った垂直落下式パワーボム(三冠パワーボム)が、要領が似ているとして“元祖パワーボム”と呼ばれている。

バックドロップ、フライング・ボディシザース・ドロップと並ぶ、テーズの“三種の神器”として数えられるが、この技は隠し技に近く、威力もバックドロップに匹敵する為か滅多に見られない技であった。


  • エアプレーン・スピン
ファイヤーマンズ・キャリー(柔道の肩車)の体勢で担ぎ上げた相手を自らグルグルと高速回転することで平衡感覚を奪い、下に落としてから押さえ込んでフォールを奪っていく技。
フライング・ボディシザース・ドロップと同じく、バックドロップを使うまでもない相手へのフィニッシュとして使用された。


  • ドロップキック
テーズ本人はショーマン・シップ的な技として嫌っていたそうだが、本人は実戦的な技としてアレンジしてレパートリーに取り入れていた。
正面飛び式だが、確実に受け身を取れるようにしたモーションの少ない飛び方で、相手の顎を蹴り上げるようなモーションで決まったり、倒れた相手には追撃として低空で決めていく等、エグい使い方をしていた。
当人も威力には自信を見せており、踏み切りが普段の構えの時とは逆になるので、対戦相手は大いに惑わされて距離感が掴めず、まともに顎に入った時などはそのままフォールを取れたという。


  • ダブル・リストロック
いわゆるチキンウィング・アームロックなのだが、テーズの時代にはこの技でギブアップを取るという概念が無かったのか、もっぱらスタンディング状態から相手の腕を固めて、グラウンドに引きずり込む為の起点として用いていた。
その鮮やかさは引退試合でも色褪せていなかった。
テーズ曰く、グレコローマン・バックドロップより重要な技(戦術的な意味で)とのこと。


  • テーズ・スペシャル・スマッシュ
拳(ナックル)で殴るのは当時から反則技であり、テーズも基本的にはレスリングで試合を組み立てていたが、相手がラフに出たときや戦術の中では、この打撃を使う時もあった。
部位的には知ってか知らずか空手で言う弧拳に相当し、直角に曲げた手首の骨で殴る技である。
この他にも握った拳の内側で殴ることもあった。
試合によっては普通に拳を使う場合もあり、リング上の殴り合いではアマ・プロ両方で実績を残したボクサーでもあったダニー・ホッジ以外には負けないとの自信を持っていた。
また、相手がヘッドロックを仕掛けたくなるように、ヘッドロックの体勢から細かい打撃を打ち込むダーティな戦法も用いていた。


  • クロスフェイス
テーズ自身は公式の試合でフィニッシュとして使うことはなかったが、相手の動きを完全に止めてしまうセメント(ガチ、洒落にならない)技として、古くから用いていた拷問的な複合関節技。
これこそが、テーズ道場を訪れた蝶野が見つけた“必殺技”であり、後にSTFと称される技の原型となった。
テーズは習得を申し出た蝶野に対して「これはセメント技だ」と説明したというが、日本への帰国後に多くの人にも納得させる形で、この技を公式の試合にも持ち込んでみせた蝶野のセンスを高く評価していたという。
実際、引退試合となった蝶野とのエキシビションでは、公式試合中に初めて、そして、蝶野に先んじて自分からSTFを仕掛けている。
尚、テーズ道場で言う“クロスフェイス”とは、正確には蝶野のSTFのバリエーション中の“原型STF”と呼ばれる技のことである。




この他、馬場が鶴田に言い聞かせた“必ずリング中央に位置取りして相手だけを動かす”という戦術のルーツ(少なくとも確認出来る限り)もテーズである。
その、基本的な戦術は引退試合まで変わらなかった。


【余談】


  • テーズと同じく、日本ではプロレス界でも最高の実力者として仰ぎ見られていた存在にカール・ゴッチが居り、プロレスラーとしての実績では雲泥の差があったものの、テーズも揃って日本に呼ばれることがあったゴッチの実力を認めていた。
    しかし、晩年には全くゴッチのことを話さなくなり交流も消えており、二人に何かがあったのは確かだが、詳細は近しい関係者にも不明である。
    因みに、二人には公式での対戦経験があり、ゴッチは9度もテーズのタイトルに挑むチャンスを得るが勝てず、64年にテーズがNWA王者、ゴッチがオハイオ版AWA王者として統一戦に挑んだ時にもテーズが勝利している。


  • 現役の頃は3本勝負が普通だったので、礼儀として相手に1本を取らせてから2本取り返して勝利することが多かった。
    ……が、それもせずに2本先取したり、前述の様に1本目で決着を付けてしまう場合も稀にあり、それはつまり……相手の実力が……ということが殆どだったらしい。


  • プロレス評論家、ライターの流智美は晩年のテーズの側近だったとして知られている。
    尤も、その関係はビジネス的なものではなく、息子を失っていたテーズ夫妻にとって流は“日本の息子”であり、偉大なるプロレス王者は気さくに“日本の息子”のマイホームにやって来ては昔話を聞かせ、流の子供達にとっては、テーズは優しいアメリカのお爺ちゃんだったという。




追記修正はヘソで投げてからお願いします。

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最終更新:2023年07月11日 12:45

*1 実際、テーズは史上最強のレスラーとして師匠であるルイスの名を真っ先に挙げ、スパーリングでは歯が立たなかったと証言している。

*2 プロである以上、決してテーズも加減を知らない訳でもブックを呑めない選手でも無かったようだが、この時にはテレビ屋であるTBS側の過去の経験も実績も無視したような提案と、相手の草津が当時はまだキャリア3年の未熟者で才能についても疑問符が付くような相手であったことにプライドの高いテーズは納得出来なかったようである。

*3 実際には失神はしていなかったそうだが、セコンドのグレート東郷より立ち上がることを止めるように指示されたと草津自身は述懐している。