毛利元就(戦国武将)

登録日:2021/02/18 Thu 10:13:30
更新日:2024/02/05 Mon 05:37:54
所要時間:約 5 分で読めます




能や芸や慰め、何事も要らず。

武略、計略、調略こそが肝心にて候。

謀多きは勝ち、少なきは負ける。


毛利(もうり) 元就(もとなり)は日本の戦国武将。(1497-1571)
現代では戦国時代最高の知将と呼ばれ、謀神(はかりがみ)の異名をとる。
上は嫡男である隆元に伝えた言葉である。

《その生涯》

●生い立ち~雌伏期

安芸(広島県)の国人衆であった毛利弘元の次男として生まれる。
最初は地方の国人衆からのスタートだった。
一介の国人衆でしかなかった毛利家をその身一つで中国の雄にまで押し上げ、幕末まで生き残らせ、最終的に明治政府の礎を築いた祖である毛利元就もまた、豊臣秀吉に勝るとも劣らぬ戦国ドリームの体現者と言えよう。
日本史の教科書でも、松永久秀と並んで下克上の代名詞として紹介されることが多い。

その幼少期は壮絶なもので、4歳の時に父・弘元が西の大内義興・足利義稙、東の細川政元・足利義澄の勢力争いに巻き込まれることを嫌い、32歳の若さであるにもかかわらず現実逃避するように隠居を宣言。元就もそれについていくこととなり本城から離れたところに住むこととなる。
そしてその翌年には母が、元就10歳の時に父が死亡する。
そして更に拍車をかけるように兄の興元が大内義興に追従して上洛をしている間に毛利家臣・井上元盛によって城を追い出され、貧乏な暮らしを送るようになり、周りからは「乞食若君」と嘲笑された。
この元就を見かね、父の継室である杉大方は血が繋がっていない子であるにもかかわらず元就を大事に育てた。
元就は後半生においても杉大方への感謝の心を忘れず、当時教えてもらった早朝に太陽に向かってお祈りをする習慣を欠かさなかったという。太陽に祈る点では三日月に苦難を願うアイツとは対照的
ちなみに城を乗っ取った井上一族はというと元就の当主就任を手伝ったりもしたが約40年後に利権や家中統制の一環で元就に族滅された。*1

毛利家は元は公家の身分からあの源頼朝に士官し、鎌倉幕府を政治面で支えた大江広元を祖先に持つ名門なのだが、元就の祖父・豊元、父・弘元、兄・興元は全員夭逝したため、毛利家は大混乱に陥り腐敗していた。
全員酒が原因で死んでおり、元就が酒に対して孫である輝元に酒に関して強く諫めた手紙を送った理由にもなっている。
…のちに義理の孫も酒が理由で夭逝する。そして次男元春は鮭が原因で死亡する。

初陣は1517年の有田中井手の戦い。この時元就21歳*2
まだ幼い兄の息子、元就にとっては甥が毛利家の後継者となり、それを好機と見た名門、安芸武田氏(武田信玄で知られる甲斐武田氏の支流の若狭武田氏の更に支流といえる)が侵略を開始する。
しかし毛利家は元就の巧みな用兵と策略により、粘り強い抗戦を見せ、最後には当主であり総大将である武田元繁を討ち取ることに成功する。
この合戦により、元就の名前は中国地方中に響き渡り、毛利家躍進のきっかけとなる。

病弱だった甥が死ぬと、元就とその弟、相合元綱との家督争いに発展する。
この家督争いにおいて元綱を裏で操っていたのが元就と同じ中国三大謀聖の一人にして、出雲の王尼子経久である。
この頃の毛利氏は周防の大内から出雲の守護代大名尼子に従っていた。
当然元就もこの気配を瞬時に感じ取り、元網及び元綱に与していた家臣を粛正した。
自分の手で弟を殺害したことは彼にとってはトラウマになったようで、三本の矢を始めとした結束もこれとは無関係とはいえないだろう。
元就は尼子と絶縁し、嫡男毛利隆元を差し出す等の工作を行い、大内氏に従属する。
なお、大内氏の当主である義隆は男色家で有名で、隆元自身も容姿端麗な美少年だったと言われている。
…つまりは“そういうこと”。

●飛躍の時

尼子経久が家督を譲った後は経久の孫である尼子晴久と戦うこととなり、本拠地である吉田郡山城に数万の軍勢で攻められたのを知略と大内の援軍を使って撃退したり、逆に大内主導の下、尼子の本拠地・月山富田城に攻め込んで返り討ちにされたりと一進一退の攻防を繰り広げる。
晴久が生きている間は毛利は山陰の重要施設・石見銀山を手に入れることはできず、逆に尼子も毛利によって安芸・備後での勢力拡大を阻まれている。
その間にも元就は妻の生家である吉川家と、水軍に定評のある小早川家にそれぞれ次男元春と三男徳寿丸(のちの隆景)を養子に組み込み、吸収させ安芸国の中心に立つ。
吉川元春小早川隆景「毛利両川」の誕生である。
ちなみに戦国初期の英雄である吉川経基は妻の祖父であり、元春…もとい三兄弟にとっては曾祖父に当たる人物である。
元々の当主は暗殺されたり、無理やり出家や隠居をさせたりした。
同時期、政治に興味を失い、遊興にふける主君に失望した陶晴賢が大内義隆を暗殺する事件(大寧寺の変)が起こっている。
そして、厳島の戦いへと続いていくことになり、元主君だった大内の衰退、そして毛利の更なる躍進へとつながることとなる。
厳島の戦いについては当該項目参照。
このとき元就は59歳。老境をすでに越えたなかで守りの人生からようやく攻めの人生へと切り替わっていった。

●三本の矢

大内を滅ぼし、ひと段落ついたために家督を隆元に譲ろうとしたものの、隆元は断固として拒否。偉大過ぎる父の跡を継ぐの怖くて仕方なかったのだろうか。
隆元本人も超優秀なのに関わらず、元就および二人の弟がそれ以上に偉大だったために侮られ、自己評価も非常に低かったと言われている。
「三子教訓状」、いわゆる三本の矢を記した。前述のとおり元就は兄弟間でいざこざがあったために、息子たちに結束を誓わせるものだった。
その後、因縁の敵であった尼子氏への攻撃を開始する。
しかし、大事件が起こる。嫡男隆元の死である
この死はいまだに謎に包まれており、暗殺とも急病とも自殺とも言われている。
幸いにも隆元は嫡男をもうけていたために跡継ぎには困らなかったが、彼の死は毛利家に大きな影を落とすこととなる。
隆元への弔い合戦になったためか毛利軍の士気は非常に高く、遂には難攻不落の要塞であった月山富田城を陥落させた。
また、同時期に交易の拠点にもなる大都市博多を抑えるために南進し、大友とも交戦したのだが、大友の長老であった立花道雪や吉岡長増によって撃退されている。

●晩年

尼子との戦いを制し、中国最大の大名となった元就は、それでも足を止めることなく政務に邁進していた。
山中鹿之助による尼子の残党や大友宗麟*3による大内の残党の討伐などの戦後処理に苦心していたようだ。
この頃になると、信長がいわゆる天下布武の準備を進めていた。
元就は信長との衝突及び所領拡大を避け、所領を守らせることを息子や孫、家臣に言い含めさせた。
所領拡大に関しては、隆元の死によって物理的に不可能だったからとも云われている。
元就の死後、なし崩し的に織田との戦いに巻き込まれることとなる…

1571年、75歳で天寿を全うする。彼の最期を看取ったのは元就の才を最も色濃く引き継いだ三男、隆景だった。
隆元がすでに死んでいたため、後はその子、元就の孫の輝元が継ぐこととなり、二人の偉大な叔父の教育により大名として成長していく。


《逸話》

●三本の矢
三本の矢のエピソードで有名な毛利元就であるが、三本の矢の元となったこの三子教訓状は紙幅にして約3mにも及ぶ。
元就の息子愛と教育者ぶりがうかがえる話となっている。
この三子教訓状を要約すると
  • 当家を恨む者は多いから肉親との結束だけは大切にしろ。疎かにすると滅亡は免れないぞ*4
  • 元春と隆景は苗字はそれぞれ吉川と小早川だけど、お前らはあくまでも毛利の人間で、そっちが最優先だぞ。*5
  • 宍戸家に嫁いだお前たちの姉妹(一般的に五龍局と呼ばれる)もお前たちと同等に扱ってほしい。
  • 亡き母上を大切にしろ。
  • お前たちと比べて虫ケラのように分別がつかず地位もない弟達だが相応の才があるならしっかり土地を与えてやってほしい。息子たちを気遣った発言なのだが言い方…
  • 一本の矢は容易く折れるが三本に束ねると折るのは難しくなる。結束が大事なんだ。
  • 最後の方は老人特有の昔語り
ちなみに地元のサッカーチームであるサンフレッチェ広島の名前の由来はこの三本の矢に由来している。*6
なお、この三子教訓状では名前の順番が隆元、隆景、元春となっており、元就の隆景に対する期待の高さが見て取れる。

今際の際の遺言ではないというのは前述したとおり。
また、紙幅3mのとおり、元就は筆まめな一方で、内容がくどくなりがちだったことがこれ以外に残された書状からもうかがえる。

●百万一心
毛利元就を指す言葉として三本の矢の次に有名な百万一心という言葉がある。
これは元就の居城の普請*7の際、人柱*8の代わりに使用した石柱に刻まれた文字のことをさす。
百の字を崩して「一日」、万の字を崩せば「力」と読むことができ、「一日一力一心」と解釈できる。
すなわち「一日一日を皆で力を合わせれば何事も為せる」という意味となっている。
また、生贄による無駄な死を減らすことで労力を確保する元就の合理的な性格も出ている。

●妻・妙玖
正室である妙玖を非常に大切にしており、三人の息子にも三子教訓状で母を大切にしろ等言い聞かせてきた。
四男以後の子が産まれたのは妙玖の死後であり、あくまでも彼女に操を立てていたようだ。
ただ妙玖が好きすぎて四男以後の子はちょっと軽視している節がある。*9
また、三人の息子も側室を持つことをせず、正室との関係も良好だったようである。

なお愛妻家で妻一筋だった=他の嫁さん候補は全て周りに嫁がせていた為、いざ側室を迎えざるを得ない状況に立たされた際年端もいかぬ少女しか残っていなかったという話もある。
その逸話のせいで某ゲームにて居城:吉田郡山城の擬人化がロリコンキャラになってしまった。ひどい風評被害である。
余談だが、後に本人も実装されたがまぁ吉田郡山城が喜びそうな少女の姿であった

●隠居したいの…

隠居を宣言した際に隆元の猛反対にあったのは前述の通り。
元「そろそろ隠居したいのだ。隆元、後は任せるぞ」
隆「ならば私も隠居します」
元「いや隆元、お前後継ぎ…」
隆「我が子・輝元がいるではありませんか」
元「元服前だぞ、無茶を言うなよ」
隆「HAHAHA、私にできる仕事ならあの子にだってできますよ」
元「(あかん)」( ゚Д゚)
隆元がこんなことを言い出したために隠居を撤回したという話が残っている。
(隆元もまた、別ベクトルで有能な為政者なのだが、家中で偉大な父や弟たちと比べられて侮られていたために自信がつかなかったのだろうか)

んで、隆元の死を乗り越えひと段落就いた毛利家。元就、再び隠居しようとするのだが、今度は孫・輝元が待ったをかけた。
輝「じいちゃん、待って!」
元「さすがにじいちゃん疲れたよ、今度こそ隠居する」
輝「父上のことは40歳くらいまで面倒見てたじゃない、ぼくが同じ歳になるまで支えてくれなきゃ不公平だよ!」
元「…わしの歳、わかってる?」(; ゚Д゚)
結局隠居は保留。元就は生涯現役当主となってしまうのであった。

●2021年までアニヲタwikiに項目が立たなかった武将
戦国時代ファンならその名を知らぬ者はいないと言っても過言ではない毛利元就だが、意外にもアニヲタwikiに項目が立っていなかったのだ。
信長よりも一世代前の武将であり、元々は大名とも呼べない立場かつ信長は勿論、中央とも絡まない存在だったので前半生が非常にマイナーなこと、それでいて知名度自体が極めて高いため最初からある程度の情報量を求められたことが要因だろうか。

《息子たち》

元就の息子といえば隆元、元春、隆景の三本の矢が有名だが、正室である妙玖の死後にかなりの数の息子をもうけている。
中には輝元(1553年生)や元春の子・吉川広家(1561年生)より年下の者も…

なお、毛利氏一族は元服時に祖先の大江弘元にあやかって「元」の一字を与えられる伝統があり、毛利家で元服した者は全て「元」の字が入っている*10
このうち長男は「元」が二文字目になり、次男以降は長男からの偏諱という形で「元」が一文字目になるという決まりがあった。
元就自身も次男なので「元」の字は兄興元からの偏諱で一文字目になっている。


毛利隆元(1523-1563)
嫡男で一本目の矢、得意分野は内政。美少年だったらしく、大内義隆に見初められ「隆」の字を賜る。
武士としての実績は残していないため父からも二人の弟からもなめられており、そしてそれは本人も自覚していたようでかなり卑屈な性格だったようである。
しかし目まぐるしく代替わりしたために荒れていた毛利家を一新させ内政を整えたり、武士が嫌がる仕事を自ら進んで引き受けたり「縁の下の力持ち」が合う男となっていった。
また、偉大な父に従順だったことは二代目として非常に賢い判断であり*11、地味だが堅実だったと言えよう。
商人とのコネクションは彼が一身に引き受けており、生きるブラックカードとなっていた。そんな彼の死によって毛利家は財政が破綻しかけることとなる。
冒頭の通り元就は隆元に芸能なんかよりとにかく謀だと教えているが、隆元が大内の下で学んだ教養の数々は外交に使えるものだったと言える。
なお元就は隆元の死にかなりの衝撃を受けたらしく3日3晩食も取れず憔悴しきってたらしい。
財政破綻の危機に陥ったおりに弟二人からも「兄がいたから」と今更ながら見直されている。
また死因は不明であるが隆元の死が元で家臣が数名、元就に誅罰として殺されている。
元就の死後は彼の息子である輝元が後を継ぎ、二人の叔父の補佐を受けながら毛利家を発展させていく。
贈名は常栄公、彼が存命だった頃の毛利家が常に栄えていた事を人々が悼んでいたと思われる。

吉川元春(1530-1586)
次男で二本目の矢、得意分野は軍事。母方の曾祖父である吉川経基の血を最も受け継いでいたようで、内政や謀略が得意な毛利家の人物では珍しく戦闘の才に恵まれる。
初陣は11歳の時(元服前)。父の反対を押し切っての強引の出陣だったが、敵将の首を持ち帰るなどこの頃から名将として既に完成されていた。
父をして「戦では及ばぬ」と言わしめた稀代の名将。
書写が趣味で、陣中で太平記を書き写したといわれている。この辺の教養の高さは流石は元就の子といったところか。
+ 個性的な妻、新庄局
彼を語るうえで外せないのが不細工に定評のある妻の話だろう。
これは娘の余りに見た目が悪く、一家断絶かもしれないと嘆いていた家臣*12を見かねた元春が彼女を妻に迎えることでその家臣は生涯忠誠を誓ってくれるのではと一計を案じての行動だった。
なお自分に相談せずにプロポーズをした元春に元就はビックリして熊谷に「あいつは犬のようなやつだから…」と文を送ったという。
彼の目論見は的中し、家臣の信望を集め、吉川家は繁栄することとなる。
また、妻との関係も非常に良好だったようで生涯その妻を愛していたと言われている。そのせいで元春は後世ブス専呼ばわりされることに
ただし彼女の姪が美人だったという説もあり、どの程度不細工だったのかは不明。勝ち気な性格で義姉の五龍局と仲が悪かったこともあり、歪められた可能性の無きにしもあらず
なお件の嫁さん「新庄局」は戦国大戦に登場しているのだが、「美少女だが少し地味でダサい凄く太い黒縁の眼鏡をかけている」という解釈で描かれている。他のゲームでも基本的にブサイク設定は無視されがちである。
彼の三男である広家は関ヶ原の戦いでいとこ(輝元)が総大将を務める西軍が破れることを察知しており、あの手この手で西軍の妨害をし、家康に対し敵意がないことをアピールする(俗に言う宰相殿の空弁当)。あるいは父の秀吉(豊臣政権)嫌いを引き継いだか?
それが功を奏したのか毛利家の処分は比較的寛大なものとなった。*13
ただし、吉川家は彼の行動が原因で代々後ろ指を指されて生きていかなければならなくなったが。*14
吉川晃司は元春の家柄の末裔。元春直系ではないが、毛利元就の血は引いている。
偉大な父、個性の強い嫁、有名人の子孫…と名だたる人物の陰に隠れる不遇の男だったりする。まぁ兄はもっと不遇だが

小早川隆景(1533-1597)
三男で三本目の矢、得意分野は外交と謀略。養子入り後に元服し、大内義隆の「隆」と養父である小早川興景の「景」の字を賜る。
一般的には末弟と言われているが、実際には何人もの弟がいる。妙玖との子としては彼が最後なので末弟とするのもあながち間違いではない。
父の才覚を最も強く受け継いでおり、智謀に長け、厳島の戦い及び尼子や大友との戦でも父の片腕として辣腕を振るう。
海戦名人であり、村上水軍と共に厳島の戦いに貢献したり、織田方の九鬼水軍を撃退するなど水上の戦いを得意とした。
父の死後、迫ってくる織田の脅威にも兄とともに即座に対応し、善戦を繰り広げる。
信長の死後は秀吉が後を継ぎ、ついには天下統一を成し遂げる。隆景は父譲りの見極めの腕を見せ、秀吉に従属する。*15
この際秀吉への対処について元春と意見が分かれてしまい、仲たがいを起こし元春は隠居してしまうことになる。
豊臣政権下では五大老*16というトップの立場に就任し、毛利時代と変わらぬ辣腕を振るう。
朝鮮出兵にも参加するも、既に老齢だったためにそこで体を壊し、帰国後に死去。
子宝に恵まれなかったため小早川秀秋に家督を譲ることとなる。*17
なお、小早川家は代々子宝に恵まれない呪いでもあるのか興景→隆景→秀秋は全て養子であり、秀秋も子をなせずに死去したため小早川家は改易となってしまう。

穂井田元清(1551-1597)
四男。妙玖の死後に側室との間に出来た最初の子であり、長兄の隆元とは28歳も離れており、甥の輝元とは2歳差である。
三本の矢(正室との子)でないため不遇がちだが彼も非常に優秀な人物だった。そのため後世では「隠された四本目の矢」と呼ばれている。
元服後は隆景の元で経験を積んでいき、隆景を親代わりとして絶大な信頼を寄せる。
ちなみに文禄の役で秀吉から土産として虎を所望する無茶振りをされたが、元清は見事に虎を2頭生け捕りにして秀吉の下へ送った。
あまり知られていないが子供が輝元の養子となったことでそれに合わせて彼も再び毛利姓に戻っている。最期は隆景を追いかけるように隆景の死後1か月後に没する。
生まれてから死ぬまで隆景についていったこともあり、全幅の信頼を寄せており、子供たちには「何かあったら隆景様を頼れ」とアドバイスしていた。
輝元の血が途絶えたことにより彼の子孫が毛利の当主となり、彼の血が嫡流として明治を迎え、そして現在まで残っている。
ゲームや小説等における創作においても三矢以外は不遇気味だったのだが最近では四本目の矢として日の目を浴びつつある。

椙杜元秋(1552-1585)
五男。34歳で病死。

出羽元倶(1555-1571)
六男。17歳で病死。ここから輝元は年上の甥となる。

天野元政(1559-1609)
七男。朝鮮出兵や関ヶ原にも参戦する。
元就の子で唯一江戸時代を経験している。

末次元康(1560-1601)
八男。同じく朝鮮出兵や関ヶ原に参戦する。

小早川秀包(1567-1601)
末弟。元就が71歳の時に出来た子で、既に隆元は逝去している。元気だな
元春の子吉川広家も年上の甥となった。
四男の元清、七男の天野元政は同母兄にあたる。
隆景の養子となり、同い年の立花宗茂と義兄弟となる。
小早川姓であり子もいるが、関ヶ原の後に毛利姓に復している上に秀秋に先んじて亡くなっているので小早川家は継げていない。


《創作において》

中国地方の代表だけあり、たいていの戦国創作ものに登場する。
基本的に知略を駆使した中国地方のボスとして登場。
信長を基準として年齢設定が行われるため老人として描かれることが多いが、BASARAなど青年の設定もちらほら見かける。

NHK大河ドラマ毛利元就
1997年に放映。演者は三代目中村橋之助(現八代目中村芝翫)。
毛利元就を扱った創作では絶対に外すことのできない名作。
非常に達筆で筆まめだった元就は自筆の書状が数多く残っており、タイトルは彼の直筆の字となっている。
スタッフロールにも本人の名が流れており、色々な意味で凄まじい。
ちなみにことあるごとに「わしの隆元ぉぉぉ!!!」と叫ぶ元就はこれが元ネタ。

●信長の野望シリーズ
だいたいの作品では知略が武将でナンバーワンであり、他の能力も超一流。
息子も超一流で、中国地方は金山や銀山が多いので財政や資源にも困らない。
懸念点は寿命と周囲であり、彼が存命中に速やかに攻略することが求められる。
あと、周りの大名が彼同様に知略の高い尼子経久や宇喜多直家であるため、得意の謀略が通用しないことが多い。
また、元春と隆景が元服前のシナリオでは大内との関係を無理矢理切ったりゲーム内の指示を無視して強引に進めると養子イベントのフラグが折れ、二人とも養子へいかず旧姓の毛利のまま元服する。この場合隆景と名乗ること自体がおかしくなるのだが気にしたら負け
基本的に難易度が低いが信長が誕生するシナリオである1534年だけは話が別。自慢の息子は全員元服前で城も一つ、大内&尼子と言う大大名に囲まれて身動きがとれないのでどちらかに頭を下げないと生き残れない高難易度となる。
三本の矢のイベントも当然あり、特に毛利家でプレイすると必ず発生する。将星録では実写ムービーと言う気合の入れようだ。
三本の矢イベントは本能寺の変と並んでかなり昔のシリーズから実装されており、毛利家は勿論信長の野望を代表するイベントとなっている。

●毛利元就 誓いの三矢
大河ドラマの流行に合わせて発売されたゲーム。序盤から中盤までの主人公。
本作では終盤、途中から秀吉を討って家康と戦うIF展開になるが、その頃には死んでいる。
豪族・大名という種類の兵種で全体的にバランスが高く機動力に優れている。
更に総大将扱いなので、隣接する味方が攻撃を行うとき、一時的に攻撃力を強化させることができる。
息子の隆元、元春、隆景、孫の輝元と共に専用グラフィック持ち。

戦国BASARAシリーズ
オクラ。
策略家としての側面をピックアップされ、兵は捨て駒と公言し、自身も駒の一つと口にする、とにかく冷徹な謀将として描かれる。
当該項目参照。進め方次第では関ヶ原にも参戦することがあり、103歳とネタにされる。

無双シリーズ
大トロ。
初出は無双3。先代当主で表向き死んだことにして隠居していたという設定。銀河英雄伝説のヤン・ウェンリーを思わせる造形になっている。あと言動がいちいちジジ臭い。
当該項目参照。彼の話はだいたいがオリジナルストーリーとなっている。
出た当初は黒髪の見た目が完全に若者だったが、4以後は息子(隆景)の参戦に合わせて白髪になり少し爺様寄りになった。
5ではヤン・ウェンリー成分はオミット。更に次男と孫、更にライバルとして山中鹿介が参戦し賑やかになった。そしてより老けた

●戦国ランスシリーズ
デカい(物理)
どこからどうみても世紀末な家臣を抱える毛利家の大名。
戦を心から愛する戦馬鹿であり、他の人間がイメージする毛利元就像と大きく離れる。
ユニットとしても特殊であり、固定200ダメージを与えるものとなっている。
集団戦だとあまり強さを感じないが、個人戦だと最強クラス。
進め方次第で死亡し、幽霊となる。
息子三人は娘として登場。それぞれ違った個性を持ち強力。
後に娘の一人が主人公ランスとの間に子をなしており、その子も元就と名付けられる*18

戦国乙女シリーズ
毛利モトナリ(戦国乙女)を参照。三人の息子は武器扱い。

殿といっしょ
教育パパ。三本の矢の教えを息子に教えるため、自らのケツに矢を放たせるほど。
1巻で登場してからついぞ最後まで一切出番が無かった。ついでに言うなら輝元は登場すらしなかった。

信長の忍び
タイトル通り織田家が中心なので、光秀の回想シーンで登場するのみ。むしろ『戦国雀王のぶながさん』の方が出番多いくらい。
(毛利軍だと息子の元春と隆景、孫の輝元が軸になる。)

●戦国大戦
毛利軍が一つの勢力として登場。勿論本人も何枚かカード化した。ちなみに勢力デザインの特徴は全員眼鏡着用(吉川家の関係者はサングラス)。
元就本人が知略を駆使して戦う武将である為か、全体的に武力が低く統率が高い。また三本の矢の逸話からか弓兵が非常に多い。
タッチすると敵に爆弾を投げて統率ダメージを与える「炮烙」が専用特技と言いたいが実装当初から別勢力の人間も所持していた

元就のカードは初登場時から若い時のRと老人時代のSRの2枚が登場。嫁さん、四男までの子供たちも登場した。
後に少年時代の頃のカード、そして老人版SRのリメイク版が登場。側室やその後の息子、娘も大量に追加された。
元就は勢力の顔という事で強力なカードが多いのだが、計略を使うと早死にする長男、見た目が子孫の吉川晃司になってしまった次男、やたら使いにくい計略ばかりの三男、「俺が毛利…四本目のヤダー*19」という台詞が耳に残る四男。明らかにライバルの尼子経久と相性がいい計略の妻(一応元就とも悪くはないのだが)…と家族たちの方がネタ方面で目立っていた。

●英傑大戦
毛利の末裔たる長州藩の面々が稼働当初から登場。彼らはその事を顧みてか眼鏡を着用している。
そして元就達も少し遅れたが実装された。なんと長州藩と同じ「緋」勢力である。鎧は相変わらず緑だけど。
しかし元就はSR、次男と三男がER(最高レアリティ)と息子にレアリティを追い越されてしまった。そして長男はR
そして嫁さんの妙玖も1Ver遅れで無事追加された。
旦那との相性も悪くなく特技盛り盛りの1コス弓とデッキに入れやすい。そして旦那以上に武田の宿老との相性が良すぎた為ナーフされた・・・

志村けんのだいじょうぶだぁ
毛利本人ではないが、志村扮する年老いた主人が3人の息子相手に三本の矢の教えを解こうとするが、矢を何本まとめてもすぐに折れてしまう→1本の矢を折ろうとしたら折れず骨折、または屋敷の柱が折れてしまい全壊するオチとなり、最終的に「好きにしろ」と教えを放棄してしまうもの。
ちなみに『ドリフ大爆笑』では加藤茶が原点と同じ毛利役を演じたバージョンが存在する(流れは同じ)。

戦え!超ロボット生命体トランスフォーマーV
毛利元就本人は登場しないが、彼の掲げる『三本の矢』を尊敬するサイバトロンの三銃合体騎士 ロードシーザーが登場。
総司令官 スターセイバーの朋友でもある副官騎士 ブラッカー、メカニックとしての技能も持つ技能騎士 ラスター、頭脳戦を得意とする作戦騎士 ブレイバーの三人が心を一つにすることで完成する。


また創作物と言うわけではないが広島のローカル番組で『元就。』というバラエティが2010年から放送されている。
日曜昼と激戦区にありながら、平均視聴率12.7%と人気を誇り14年以上続くご長寿番組となっている。
番組に出る元就公の人形が雑でかわいい。


追記修正は三本の矢を百万回折った人にお願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 戦国武将
  • 大河ドラマ主人公項目
  • 広島県
  • 下剋上
  • 中国地方三大謀将
  • 謀聖
  • 毛利元就
  • 何故かなかなか立たなかった項目
  • 三本の矢
  • 謀神
  • 智将
  • 長州藩
  • 安芸
  • 乞食若殿
  • 百万一心
  • 大河ドラマ
  • 戦国時代
  • 武将項目
  • 権謀術数
  • 中村橋之助
  • 謀将
  • 中村芝翫
  • 戦国BASARA
  • 戦国無双
  • 日本史

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2024年02月05日 05:37

*1 一応何人かは助命されている。

*2 一般的に初陣は元服前後(10代前半)が多く、元就の初陣はかなり遅い方である

*3 宗麟の弟が大内義隆の養子になっており、義隆の死後は彼が大内を継いだ

*4 「毛利を良く思うものは、他国はもちろん自国にも居ないだろう」とまで言い切っている。

*5 豊臣秀吉にどれだけ厚遇されても毛利家臣であり続けた隆景だがこの頃はまだ小早川家当主としての自負を持っていた。

*6 矢はイタリア語でFrecce、3Frecce→サンフレッチェ。

*7 拡張工事のこと

*8 人間の生贄

*9 ただしこれは元清以下の息子たちがまだ幼く分別も付かない年頃だったからでもある。成人して毛利の力になるようなら土地を与えてやってくれとも言っている。

*10 隆景に元の字がついていないのは元服した時は小早川家にいたため。大内義隆に見初められていたと言う事情もある

*11 他には徳川秀忠や北条氏綱が該当

*12 その家臣は、源平時代から鎌倉時代に活躍した名将熊谷直実の子孫であり、熊谷家は毛利家よりも格式が遥かに上だったので、断絶は死活問題だった

*13 それでも中国八か国から周防・長門二か国まで大減封されたが。まぁ潰されないだけマシであろう・・・

*14 ちなみに関ヶ原の後、広家がいた岩国と毛利本家のいた萩は長らく険悪な関係となる。ただし関ヶ原の後、家康は広家を一つの武家として取り立てようとしていたが、広家はそれを固辞しあくまで毛利家の一員である事を主張していた。元就の毛利両川あって毛利家は栄えると言う教えを忠実に守っていた。

*15 ただし主家はあくまで毛利家である事を貫いている。秀吉は様々な手を使い隆景を毛利から離反させようとしているが最期までそれは叶わなかった。

*16 他のメンバーは徳川家康、上杉景勝、前田利家、宇喜多秀家、そして甥の輝元

*17 本来、小早川秀秋は秀吉が毛利家の養子に送り込み毛利家の乗っ取りを企んでいたが、隆景にそれを阻止された。

*18 長女の子なので元ネタは毛利輝元だろうか

*19 本当は「矢だー!」と言ってるのだが、嫌がっているようにしか聞こえない事からネタとなった