セントライト(競走馬)

登録日:2022/01/27 Thu 14:53:36
更新日:2024/03/20 Wed 19:33:19
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黒鹿毛の勇者

JRA・競馬の殿堂より

セントライトは日本競走馬・種牡馬である。
1941年に日本競馬史上初のクラシック三冠*1を達成し、種牡馬としても成功を収めた。

血統

父ダイオライト、母フリッパンシー、母父フラムボヤント。
父は2000ギニー優勝馬。なおこの馬、イギリスのクラシック競走優勝馬としては初めて日本にやってきた馬である。母もイギリスからの輸入馬であり、彼女の仔にはセントライトの他にも天皇賞の前身である帝室御賞典等を優勝したタイホウ、現在の皐月賞である横濱農林省賞典4歳呼馬を優勝したクリヒカリ、皐月賞や菊花賞等を優勝した日本競馬史上初の大種牡馬トサミドリ*2がいる。

半兄であるタイホウの活躍もあり、3万2200円*3で落札された。ただし、この時は当年の牝馬最高額だったブランドソール*4に比べてやや見劣りするといった評価だったらしい。

デビューまで

セントライトは1938年、三菱財閥経営の小岩井農場にて生まれる。

...そう、1938年である。

当時世界はなんとも剣呑な雰囲気が漂っており、日本は日中戦争の真っ只中、翌年の1939年には第二次世界大戦が始まるというなんとも不穏な時代だった。
そんなこともあってか当時の競馬は「軍馬育成のため」という名目で行われており、大きな馬は軍馬に相応しくないということで、この時代の競走馬には体高規制があった。
セントライトは体高166cm、推定体重は500kg以上の大型馬であり、危うく競争馬になれないところだったが、直前に規制が撤廃された*5ので、無事に競走馬としてデビューできた。

また、大きい馬ということで仕上がるのはもう少し先と思われていたが、先述のブランドソールとの調教で期待馬だった彼女を抑える姿を見た馬主により、早めのデビューとなった。
これがなければクラシック三冠は達成できてなかったので馬主さんGJである。

戦績

1941年3月15日、後にトキノミノルを手掛ける田中和一郎調教師のもとデビューしたセントライトは、12頭立て7番人気の低評価を覆し、2着に5馬身差をつけて初勝利を挙げた。

2週間後の3月30日にクラシック競走、横浜農林省賞典四歳呼馬...現在の皐月賞に出走。同期の期待馬ミナミモアを抑えて1番人気に推されると、レースでは同馬に3馬身差を付けて優勝を果たした。

この後は中山での競争を2連勝、だが地元である東京のレースではアタマ差の2着に敗れ、初黒星を喫する。しかし次走ではこの年秋の帝室御賞典を優勝することになるエステイツを破り勝利。

迎えた5月16日の東京優駿競走は、前夜までの降雨の影響によって重馬場となった。ミナミモアが1番人気、ブランドソールが3番人気に推される中、セントライト2番人気に推される。レースでは道中3番手を進むと、最終コーナーで鞍上の小西が手綱を抑えたまま先頭に立つ。更に残り200メートル付近からスパートを掛けると、後続を一気に突き離し、2着に食い込んだステーツ8馬身差を付けての圧勝。この着差は1955年の優勝馬オートキツに並ぶ、ダービー史上最大着差となっている。

その後はクラシック三冠に向けた休養に入り、9月27日に復帰。しかしここでは優勝馬であるステーツよりも11kg重い66kgの斤量を背負わされたが故か、3着に敗れる。しかし次走では同じ斤量を背負い、エステイツを破り、勝利。翌週には特殊競走*6である横浜農林省賞典四・五歳呼馬を制し、現在の菊花賞である三冠最終戦、京都農林省賞典四歳呼馬に備えて西下。
前哨戦はセントライトが京都に到着してから4日後に行われたうえに、斤量68kgというハンデもあってか、地元のコクチョウに2馬身差の2着に敗れる。しかし、この一叩きで調子は上向きとなり、本番には絶好調の状態で挑めたそうな。

そして10月26日、セントライトの他の出走馬は地元の2頭とミナミモア、ステーツ、阪神優駿牝馬(オークス)優勝馬テツバンザイのみの計6頭。少頭数で行われたこの競争で、セントライトは1番人気に推される。レースでは2番手の先行策から、ゴールではミナミモアに2馬身半差を付けて優勝。

こうして、セントライトは1939年に三冠全競走が整備されて以来、4年目にして初のクラシック三冠を達成した。

...のだが当時は三冠の概念がそれほど浸透していなかったこと、当時日本が太平洋戦争へと向かおうかという緊張下にあったもあり、報道はダービー優勝時よりも遙かに小さな扱いだった。

その後は当時ダービーと並ぶ最高競走だった帝室御賞典を目標にしたのだが、その前哨戦である競走にて72kgという最早酷とかそういう次元ではない斤量を背負わされることが判明し、馬主の意向で引退。

通算成績12戦9勝。総獲得賞金は87400円*7
デビューから引退まで同一年、そして菊花賞以降レースに出走せず引退したクラシック三冠馬はこの馬のみである。

引退後

引退後は小岩井農場に戻り種牡馬に。太平洋戦争を経て、1947年にはオーエンスが春の天皇賞*8に優勝。しかし戦後進駐したGHQによって三菱財閥は解体されてしまい、小岩井農場はサラブレッド生産を禁じられてしまう。これによりセントライトは1949年より岩手畜産試験場に移された。その後はオーライトが1951年秋の天皇賞、1952年にはセントオーが菊花賞を優勝したものの、小岩井農場から離れた後の交配相手はアラブ種や中間種といった厳密にはサラブレッドではない馬が多くなり、晩年は目立った活躍馬を出せなかった。

また、先述のブランドソールとの仔であるマルタツは桜花賞優勝馬のトキノキロクを産み、その子孫にはオークス優勝馬リニアクインがいる。

1965年2月1日、老衰のため27歳(旧表記で28歳)で死亡。奇しくもこの前年の11月15日にはシンザンがセントライトに次ぐ史上二頭目の三冠馬となっている。このため、日本の三冠馬はセントライト誕生以降から現在(2022年)まで、どの時代にも最低1頭は存在することとなった。

1984年にはJRA顕彰馬にも選出されるなど、シンザンや厩舎の後輩であるトキノミノルと同じく多重の顕彰を受けている。ちなみに半弟であるトサミドリも同年にJRA顕彰馬に選ばれており、現在でも史上唯一となる兄弟での殿堂入りを果たしている。

創作におけるセントライト

流石に時代が古すぎて創作作品で取り上げられることは稀だが、たまに登場する事はある。

21・24巻にて、セントライト記念勝利馬コスモバルク主役回に「花屋の主人」として登場*9し、「花の育成」に励む彼を見守っていた。
またディープインパクトが三冠馬になった際は他の三冠馬たちと共に天国からお祝いに訪れ、その後も三冠馬勢ぞろい時には必ず登場。最終巻では三冠馬7頭全員で表紙を飾っている。
  • 漫画『味いちもんめ』
故・原作者が競馬好きでもあったことから料亭・藤村でも高齢の料理人ボンさんが初めて見たダービー馬として名前が登場している。
余談だがこの作品原作者死後に紆余曲折ありつつ作品が続いているのだが、近年再び藤村に戻ってボンさんが再登場している事から、この設定が生きている場合、100歳以上で現役料理人の競馬ファンという事に…。


余談

  • 性格について
主戦騎手であった小西によると、セントライトは極めて温順で扱いやすく、競馬においてもどの位置からレースを進めることが出来た。さらに競馬になると旺盛な闘争心も発揮し、特に競り合いには非常に強かったことから、「レースではなんの心配もありませんでした」と述べている。

日常ではのんびりとしたマイペースな馬だったらしく、当時厩舎のある府中から横浜まで歩いて行った際、普通の馬なら8時間で着くところを、セントライトは9時間掛かったという。
また、京都農林省賞典四歳呼馬に備えて西下したときは、馬運車がなかった当時、列車に揺られながら2泊3日という長旅だったが、「けろっとした顔で」これをこなしたという。

  • セントライト記念
セントライトの偉業を記念して1947年に創設された重賞競走。現在は菊花賞のトライアル競争に指定されており、中山芝2200m外回り*10で行われている。

1949年には同年皐月賞と菊花賞の二冠を制したセントライトの半弟・トサミドリが本競争を制している。
また1984年には本競争を優勝したシンボリルドルフが無敗でのクラシック三冠を達成している。



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最終更新:2024年03月20日 19:33

*1 当時は三栄冠馬と呼ばれた。

*2 八大競争優勝馬を7頭輩出、この他にも数々の重賞優勝馬を輩出し、産駒が中央競馬で挙げた1135勝は2011年にフジキセキに記録を更新されるまで国産種牡馬による最多記録。

*3 1万2200円とも言われている。

*4 後の桜花賞である中山四歳牝馬特別の優勝馬。

*5 うまくごまかしたという話もある

*6 後の重賞競走。

*7 現在の価値でおよそ8500万円以上。

*8 天皇賞表記になったのは秋からであり、春のこの段階では平和賞という名称だった。

*9 21巻時は明言されなかったが、24巻では三冠馬ディープインパクトの持つ「三冠の花」を「かつて自分も咲かせた花」と呼んだ事でセントライトな事がほぼ確定している。

*10 創設時は東京芝2400mだったが、いくつかの変遷を経て、1980年から現在の条件で定着。