一式中戦車

登録日:2023/01/22(日) 13:49:16
更新日:2023/05/17 Wed 22:27:07
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一式中戦車 チヘとは、大日本帝国陸軍が開発・運用していた中戦車である。


この兵器は九七式中戦車 チハの後継機として開発された戦車であり、対戦車戦闘を考慮して長砲身47粍戦車砲を搭載、防御力向上のため、装甲を強化し溶接を多用したことで、チハよりも平面が増えていることが外見上の特徴である。

日本製戦車の中では影が薄く、あまり人気がないためか、どうかは知らないが、開発が開始された時期や装備や装甲厚の設計理由が諸説あり、意外と不明瞭な部分もある。


名称


ネットや書籍では、文字の打ち込みの手間を軽減するため、チヘまたはチヘ車と表記が使用されることが多いが、これはあだ名の類いではなく、開発時などの情報漏洩を防ぐためのコードネームである。

チヘの由来は、中戦車の頭文字である「ち」と、当時番号の言い換えとしても使われていた、いろは歌のイロハニホヘト…の、「へ」を組み合わせたものである。

開発前史

九七式中戦車 チハ採用の裏側と新中戦車 チホ計画の始動

日中戦争が勃発した翌年の1938年(昭和13年)から生産された試製九七式中戦車 チハであったが、その後継機の開発はチハの量産開始から間もない、同年から始まっているということはあまり知られていない。

これはチハの採用が、陸軍上層部のある種の妥協を経たものであるためである。

というのも中華民国と本格的な戦争に突入したことで、一刻も早く新型戦車を戦力化することが求められたため、チハはその場つなぎの新型戦車(仮)という形で、とりあえず採用はするが、本命の新型戦車が開発完了次第、チハの生産は短期間で終了する。という思惑だったらしい*1

で、本命の新型戦車として開発されたのが新中戦車チホである。
この戦車を乱暴に説明すると、良く言えば、対戦車戦闘を考慮して、主砲の強化を施し、更に操縦性や運用のしやすさ、エンジン設計の見直しによる生産性及び信頼性の向上を目指した、例えるならリメイク版チハといった感じである。しかし、その正体は、ケチくさい簡略軽量型であった。

ノモンハン事件とチホ計画の破綻

チハは、火力、装甲、機動性は採用の段階で上層部からは充分だと思われていた。ところが初陣である1939年に発生したしたノモンハン事件やその後の日中戦争にて対戦車砲に対する装甲不足が露呈してしまう*2
それに加え、チハと同程度の機動性を持っていた九五式軽戦車も後退するソ連戦車に対して、追撃できないという機動力の不足も密かに問題となっていた。

そのため、新中戦車チホはノモンハン事件の様相が伝わる前から、対戦車戦闘能力の向上が盛り込まれていたものの、それ以外の防御力や機動性などはあまり進歩がなかったため、チホ計画は具体的な時期は不明ではあるが、1940年(昭和15年)頃には破棄され、新たに計画されたのがチヘだったのである。

開発

このチヘは1941年に開発が開始され、その翌年の1942年には試作品の状態であったものの、一式中戦車の名が与えられている。

チヘはチハのさまざまな問題点を解消した真の新型戦車となるはずであったが、世界情勢やアメリカや中華民国との戦争を舐めてたこと、それによる開発計画の狂いなどの様々な要因により、最終的にはチハと目くそ鼻くそな代物になってしまった。


性能

武装

主武装

主砲は一式四十七粍戦車砲である。これはチホに搭載された戦車砲のマイナーチェンジ版と思えばよい*3

元々は開発開始の1941年(昭和16年)の段階で主砲をどのようなモノにするかは曖昧であり、1942年(昭和17年)における、一式四十七粍戦車砲の生産予定はなかった。ところが同年の末に主砲を一式四十七粍戦車砲に換装した九七式中戦車、通称新砲塔チハの量産されることが急遽決定したため、チヘ車の主砲も新砲塔チハの主砲を改造したものに決定したようだ。

肝心の性能はというと、対戦車戦闘を考慮したことで、対応力が増し、従来の日本戦車と比べれば格段に高性能にはなっている。なってはいるのだが、開発が開始された1941年の段階で、日本陸軍の仮想敵国であったソ連では、76mm砲を搭載した中戦車T-34を完成させ量産に至っていたし、ソ連以外では、敵対関係にあったアメリカが長砲身75ミリ砲搭載のM3中戦車を完成させ、こちらも生産が開始されていた*4
またT-34は小口径対戦車砲の防御のために傾斜装甲をふんだんに取り入れており、チヘの主砲である一式四十七粍戦車砲では攻撃力が不足していた*5し、M3中戦車の装甲もT-34に見劣りするものの、こちらも一式四十七粍戦車砲では正面からの撃破は難しかった*6

にもかかわらず、この砲を選定した理由として不明瞭な点もあるが、戦車部隊の創設者の1人であった、原乙未生氏の回想によれば応急処置だったとしており、他の理由としては戦車のスペックを一気にあげすぎると、数量不足に陥る懸念があり、1943年(昭和18年)6月に戦車の開発方針が変更されるまでは、長砲身47mm→長砲身57mm→長砲身75mm……と徐々に口径を増していきながら、ノウハウを培っていく予定だったといわれている。

なお、太平洋戦争のすこし前の時期には、仮想敵国のソ連が開発したT-34(戦車)の存在と性能値を知ってはいたものの、そのソ連は同盟国ドイツに降伏目前の状態*7であり、新型戦車を極東に配備する余裕はな当分いと見積もられていた。

また、間近に迫る太平洋戦争開戦に関しても、その戦場となる、太平洋地域には地形的な要因から、T-34と同程度の新型戦車*8は投入されないと思われていたらしい。



副武装

副武装は、最終的には九七式車載機関銃を2丁搭載した。機関銃の取り付け位置は車体正面に1丁、もう1丁は砲塔後面となっていた。
なお、この内1丁は主砲と双連式……、主砲の脇に搭載する案があったが、間に合わなくなるためボツになった。

装甲

車体

装甲は側背面こそ、チハと変わらないが、正面に関しては、チハの倍の厚みである50mmとなっている*9

この装甲厚の設定理由は、ノモンハン事件の戦闘で行った、戦車よる陣地攻撃にて、対戦車砲による被害が大きく、防御性能の向上を痛感したためである*10

また日中戦争の早い段階においても対戦車砲に対する防御力の不足とその改善が要望されており、
チハの装甲要部を50mmの装甲板に改造する意見もあり、車体や砲塔部に装甲を追加した改造車両もチヘ以前にも戦車学校*11などで試作されていたとされる。

チヘの50mm装甲はこの意見を正式に反映したものと考えられる。

そのほかの変更点としては、チハは車体装甲の大部分をリベット接合されていたのに対し、チヘは溶接をより多用した設計となっている。これは被弾の際にリベットが千切れて搭乗員が負傷する可能性を心配していたためと解説されることが多いが、生産性の向上も狙っていたとされる。

でもぶっちゃけどうよ?というと、ゲーム風にいうところの、いわゆる紙装甲といわざるをえないレベルである。

開発開始の段階では、傾斜装甲を採用していなかったとはいえ、とりあえずは標準に達していた。しかし、日本陸軍にとって長らく第一の仮想敵国であったソ連*12の主力がT-34ということを考慮するとウンコレベルだったし、試作が制作された1942年の段階では、それ以降から傾斜装甲を本格的採用した戦車がソ連以外でも主力化し始めるため、防御不足は一気に加速する。

砲塔

砲塔部分は外見は新砲塔チハと同じく馬蹄型砲塔であるが、25ミリの曲面装甲板で構成された正面部に、さらに25ミリの装甲を追加することで数値状は、車体と同様の50ミリ厚の装甲を持たせている。

知っている人も多いかもしれないが、このような複数枚重ねの装甲は、同じ厚みの単純な一枚板の装甲板に比べて防御力で劣る。チヘの支援型である二式砲戦車は一枚板だったのに、なぜこのような構造になっているのかは不明。

どのみち時期的に防御力不足の紙装甲には変わんねーじゃんと思うかもしれないが、それはそれ。

機動性

エンジン

詳しくは二式砲戦車を参考。

搭載されたエンジンは、統制型一〇〇式空冷4ストロークV型12気筒ディーゼルエンジンであり、二式砲戦車や三式中戦車と同様のモノであった。

これは日本陸軍ではお馴染みの空冷式のディーゼルエンジンであり、最大出力は240馬力を発揮し、重量17.2tのチヘを、最大時速44km/sで走行させることができた。チハとは違い重量に対するエンジンのパワーも不足しているわけではない。

世界的には、良く言えば標準的。悪くいえば平凡といった感じであり、唯一のまともな部分であるが……。

変速機

チハと同じ。当初は操縦の負担を和らげるための油圧式のアシスト装置を組み込む予定であったのだが、要求仕様を満たせるモノがなかなか、作れなかったため、開発が一年間近く遅延する要因となったといわれる。

なぜこの補助装置を組み込む必要があったかというと、当時の戦車は重量が一定以上になると、どんどん操縦が難しくなるという問題があったからである。操縦が難しくなると、想定された速度を出しにくくなる上、訓練時間が長期化してしまい、操縦手の不足に陥る可能性が上がった。

海外ではその解決策として(ソ連のように緊急だからやむを得ず放棄した国もあるが)、多くの国ではアシスト装置や新型の変速機(シンクロメッシュ機構)を採用することなどで対応していた。ただ、日本の場合は、その両方をやろうとしていたが、日本の工作技術ではうまく行かず、後継機で達成するという形で断念したといわれる。

そのため、スペック上の機動性が発揮できたかは微妙である。

その他

生産開始は1944年の半ばという、太平洋戦争末期に当たる時期からであり、戦後連合国軍から批判を受けたという逸話もある。生産数は少ないが、170両説と587両説がある。

また、前線の戦車兵が、新砲塔チハのことを一式戦車と通称していたため、実戦に参加していたとかつては言われていたが、デマであり全て本土決戦のために配備され終戦を迎えている。



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最終更新:2023年05月17日 22:27

*1 九七式中戦車 チハは1940年(昭和15年)まで、「試製九七式中戦車」と表記されることが多かったが、この「試製」の2文字は仮採用を表す場合にも使用された。

*2 開発の段階で既にチハの防御力には不安の声があり、技術者側も自信がなく、開発会議にて戦車部隊将校の質問に対し、二度答えを変えている。さらに対戦車戦闘能力の不足を懸念する声も一部上がっているが、曖昧になっている

*3 正確には、チホに搭載された試製四十七粍戦車砲のマイナーチェンジ版であった一式四十七粍戦車砲の更なるマイナーチェンジ版ともいえる、一式四十七粍戦車砲II型という戦車砲である。

*4 ドイツはフランス戦の教訓から、新型の50mm戦車砲の開発だけでなく、75mm砲の長砲身化を考えていたし、アメリカでも欧州の様相から75mmクラスの戦車砲を搭載する戦車の計画をたてていた。もちろん、日本もこの状況に手をこまねいていた訳ではなく、当時試作されたばかりの一式七糎半自走砲に改造を施し砲戦車として使用する構想が上がっていたのだが、情勢の楽観視により消滅している。

*5 イギリスの巡航戦車や同盟国のドイツを除く

*6 一式四十七粍戦車砲のベースとなった一式機動砲は一式四十七粍戦車砲とほぼ性能は同じだが、対戦車戦闘の戦例を元に作成された『対戦車戦闘の参考』では一式機動砲ではM3中戦車を正面からでは撃破できないとしている(ビルマの戦いでは側面への攻撃で撃破した戦例はある。)

*7 この情報はナチスドイツからもたらされたモノであるが、結果的にはこれはドイツの虚勢にしか過ぎなかった。しかし、当時のソ連にとっては絶体絶命の危機的状況だったので嘘とも言えなかった。

*8 諸説あるが、当時の日本の軍上層部は1943年末までに太平洋戦争が収束するであろうと考えていたとされる。

*9 初期計画では35mm厚とされていた。

*10 ノモンハン事件は、日本陸軍にとっては初めてとなる、戦車同士の戦いが起きたということで、装甲強化の理由を対戦車戦に求めることが多いが、実際には戦車同士の戦いは、ノモンハン事件という大きな戦闘の中では、局地的なものに過ぎず、日本・ソ連双方の戦車にもっとも大きな損害を与えたのが対戦車砲であった。

*11 戦車兵の育成や運用法の研究などを行う機関。

*12 厳密には時期によっては日本海軍のようにアメリカを仮想敵にしていた時期もある。