二式砲戦車

登録日:2022/10/16(日) 13:00:50
更新日:2024/03/18 Mon 19:15:44
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二式砲戦車 ホイとは大日本帝国陸軍が1939年~1942年にかけて開発をしていた中戦車である。

現代では複雑な事情から便宜的に自走砲に分類されているが、この兵器は日本陸軍内での扱いや形状、想定していた運用方法を鑑みれば、紛れもない戦車そのものであった。

この戦車の特徴はなんといっても、影が薄いことであり、秀でたところも、ネタにするような武勇伝も、ヤスリで削れたとか小銃弾を防げなかったとか、そういう悪評もない。特徴がないのが特徴といわんばかりの兵器である。

砲戦車とは

主力ポジションの中戦車よりも、大きめの火砲を装備した中戦車であり、その役割は味方戦車部隊の妨害を行う敵の対戦車砲や戦車を手早く片付けたり、煙幕を焚いて逆に妨害を行ったりなどの火力支援である。
「主力戦車の進撃を支えるべく、大口径砲を装備し火力投射を行う支援用車両」という発想はドイツ軍がⅣ号戦車を作ったり、イギリス軍が各種戦車にCS型*1を整備したり……とそう特異なものではない。

元々は1935年頃に行われた会議にて、「高価な戦車がそれよりも遥かに安い対戦車砲に簡単にやられてしまう」問題が話題になった際、砲兵隊が軽戦車や自動車に大口径砲(国産戦車比)を搭載した自走砲を先行させて対戦車砲の対処に当たらせるというアイディアを提案した。

この兵器案を砲兵隊は自走砲に発展させた一方で、この会議に参加していた戦車隊は、このアイディアに独自解釈を行った上で、戦車部隊でも扱えるようにアレンジ加えまくった末に生まれたのが砲戦車である。

ただし、この砲戦車という兵器が一体何をするかは、どこかフワァッとしていて明確に定まっておらず、時期によってその役割が対戦車車両なのか?、それとも榴弾砲戦車なのか?と、年度毎に使用法や形態がコロコロ変わってしまっており、このため現代では「砲戦車とは何か?」という点で、研究者やマニアの間で意見の相違が起きている。

何かと同一視されがちな自走砲であるが、日本陸軍にとっての「自走砲」という兵器はあくまで牽引砲の延長であり、「搭載された砲が受け持っていた任務をそのまま引き継ぐ」という方針が、構想段階でしっかりと定められていたのとは対照的である。

また、自走砲や工作車両は使用部品や車体設計を中戦車と同一にする方針となっており、もろちん砲戦車も同様だった。しかし、第二次世界大戦の後半に、砲戦車に求められる戦闘能力が増大したことで、技術的な制約により開発が遅延することを避けるため苦肉の策として、他国の駆逐戦車や突撃砲のような旋回砲塔を有さない型式へと変化してしまった。

これらの要素が、砲戦車と自走砲は同一の兵器であるという誤った認識が広まる要因となったがそれはまた別のお話。

名称の変遷

ホイは初期構想段階(1935~1938年)では、自走式戦車支援砲と呼ばれていた。
しかし、戦訓に基づいた議論や研究を重ねるうちに自走砲型では駄目だと言う考えに至り、自走砲形態から旋回砲塔を装備した戦車の形態に変更され、その際に名前も試製一〇〇式砲戦車に改名された。

(ただし、資料や時期によっては試製一式砲戦車と呼ばれることもあり、一式砲戦車の別名を持つ一式七糎半自走砲と混同されやすいため、注意が必要である。)

現在知られている二式砲戦車という名称は車体が新型戦車のモノに変わったため、名付けられた呼称である。

ホイという呼称はアダ名の類…ではなく兵器開発の段階で情報漏洩を防ぐための暗号名的なモノ秘匿名称と呼ばれた。その由来も砲戦車第一案を略したものであるが、開発当初はこのような秘匿名称ついておらず、砲兵隊主導で開発が進められていた一式七糎半自走砲との比較試験で初めて取り入られたとされる*2

名称の変遷は車体の変遷?

車体は時期によって変わり、一〇〇式砲戦車と呼ばれていた頃は九七式中戦車チハの車体を改造したモノに、専用の大型砲塔を搭載した。しかし採用されることはなく、後に一式中戦車と呼ばれるチヘ車とほぼ同様のものを使用し、砲塔も洗練されやや小型化している*3
一説によるとチヘ車は操縦の簡便化を図るため、油圧式の運転補助装置を組み込む予定だったが、うまく行かず開発が遅延した。そこで、補助装置のないホイのものを使用したといわれている。

ただし、砲戦車は車体の構成部材を中戦車となるべく同じにするという鉄則があるため、全く異なる車体というわけではなく、チヘ車に搭載される予定だった補助装置をオミットした簡易型車体だったのかもしれない。

構造

武装

主武装は四一式山砲の設計を元に新開発された、九九式七糎半戦車砲である。
当時の日本戦車の搭載火砲としては大型であるが、この戦車砲で発射する弾丸は弾速が遅く、動かない相手には有効だったものの、戦車同士の戦いに向いておらず、移動する標的に対して砲弾を命中させるのが難しかった。
また、試作砲第一号が完成した1940年の時点で既に世界的に見れば旧式になりつつあり、ホイの実用性には疑問符が付けられていた。(そのため、応急処置として一式七糎半自走砲 ホニを魔改造して、ホイに代わる砲戦車として使用する計画があった。)

それでもなんやかんやあって、ホニによる代用案は一旦は立ち消え、引き続きホイの開発は継続され、先述の不満点をある程度改良した二号砲が完成した。しかし、1941年の時点で時代遅れになっていた。

副武装は九七式車載重機関銃2丁を採用しており、1丁は車体正面に、もう一丁は車内に保管されており、状況によって車長が、砲塔上から乗り出して対空機関銃として使用したり、各部に設けられたピストルポートから射撃する想定だったらしい。

装甲(防御面)

端的に言えば、スペック上の数値だけはまともだが、実質的な防御力は弱い(同時代比)。つまるところ紙装甲というやつである。

ホイの防御力を構成する装甲板の厚みは、開発の過程でいくらかの要求設計の変更があり、最終形は砲塔・車体ともに50mm、側面は35mm~25mmとなった。数値「だけ」見れば世界標準に達していたが、試作車が完成した1942年の時点で、戦車の搭載砲や対戦車砲は野砲級が主流になっており、さらに
アメリカやソ連の戦車は傾斜装甲を採用していたため、同じ装甲厚でも、実際の装甲板の厚みの数割増しから倍近い防御力があった。
それに対しホイは傾斜装甲はほぼ採用されておらず、心もとない数値であった。とはいえ、防御力は量産された日本戦車の中では一番ましであり*4、兵士が引っ張って移動させることができる歩兵砲クラスの砲弾には耐えられた。

機動性

エンジンは統制型一〇〇式V型12気筒空冷ディーゼルエンジンを搭載した。
このエンジンは日本の軍用自動車製造に携わっていた各企業の技術者たちが、ジーゼル自工(現、いすゞ)を中心に協力し合い、部品の共通化を目指して作られる……はずだったが太平洋戦争の勃発により、プロジェクトはなくなり各社に与えられていた任務に専念せざるを得なくなった。
このエンジンの開発を担当したのは三菱重工であったが、意外にも大出力エンジンの開発は苦手だったりする*5。そのためエンジンの完成は予定よりも遅れてしまった。

なんやかんやあってどうにか完成にこぎつけたエンジンは、ホイ車の重量16.7t*6に対し、最大出力240馬力を発揮した。
簡単に言えば機動性の面は九七式中戦車よりも向上しており、これだけは他国にほとんど劣っていなかった。

配備・量産までのゴタゴタ

この戦車は1943年にやっと正式採用され、「さあ量産するぞ」と生産用の部材が用意されたところで急遽生産中止になってしまう。
なぜかというと、砲戦車の役割が榴弾砲戦車から対戦車車両に変わったからであり、戦車同士の戦いに向いていない九九式七糎半戦車砲を搭載したホイは不採用になってしまったからである。最初からホニ改造の砲戦車を採用していれば……。という気がしないでもない。

だがまた方針が変わる。成形炸薬弾が実用化され量産体制に入ったことで、成形炸薬弾との相性抜群だった、九九式七糎半戦車砲が戦力として期待の目が向けられたのだ。

この成形炸薬弾というのは、対戦車榴弾とも呼ばれ爆発の衝撃波を集中させることで、コンクリートや装甲板に穴を開ける強い力を発生させる原理を利用した砲弾であり、詳しいことは割愛するが、砲弾の太さの数割増しの装甲板……約90~100mmの厚みを貫通できた*7

本土決戦もあるし、せっかく初期生産分の部材を用意したのに生産しないのはもったいないということで、30両が生産された。
この30両の配備先は不明であるが、何にせよ開発に迷走を重ねたホイはとうとう実戦に参加することはなかった。

派生型

  • 駆逐戦車(甲)
ホイの主砲を長砲身高初速の57mm戦車砲に換装した兵器。連隊砲戦車とも呼ばれた。
ホニを砲戦車として使うには改造箇所が多く、ホイの即席の代用として使うには都合が悪かった。
そのため、妥協案として新たに構想された車両。
1942年に砲が搭載され、射撃試験が行われたらしいのだがよくわかってない。
いずれにせよ砲の性能がホニに搭載された改造九◯式野砲の劣化版であり、砲塔式で対応能力が高いとはいえ、完全な新規開発かつ、生産に手間のかかる長砲身砲でこの威力はアカンと思われたのか、ホイとは違い生産されていない

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最終更新:2024年03月18日 19:15

*1 closed support、つまり近接支援の頭文字

*2 秘匿名称は元々戦車隊及びその母体となっていた歩兵隊の管轄に入っていた車両兵器のもので、砲兵隊が管理する自走砲にはもとより暗号名は無く、書類整理の際の後付ではないかという指摘もある。

*3 一〇〇式が不採用になったのは、車体に使用されたチハは日中戦争勃発の折に、急遽暫定的に採用された兵器であり、その量産を短期間に終わらせる予定であり、量産に不都合な箇所もあったチハに代わり、量産性や信頼性を向上させた新式戦車の車体を使用したかったからとも言われる。新砲塔チハが太平洋戦争の一年近く前にほぼ完成していたものの、あくまで新型砲塔を試すための試験架台でしかなかったため、量産されなかったことからも、一〇〇式も新型砲を試すためのテスト台だったのかもしれない。

*4 目くそ鼻くそといえばそうだが、他の戦闘車両は、一式中戦車や一式砲戦車のようにスペック上は同値でも、複数枚の装甲板で構成されているため、一枚板のホイに耐弾性で劣っていたし、部分的には三式中戦車よりも側面装甲がホイの方が厚かったりする。

*5 そもそも大出力エンジンの開発は日本全体の苦手分野であり、ディーゼル機関開発で一歩前進していたジーゼル自工でも円滑に開発が進められたかどうかは微妙

*6 この重量は輸送船に装備されたデリック(クレーンの亜種)で積み込み可能なものである。よくある誤解として九七式中戦車を超える重量は運べないというものがあるが、史料不足の時代に断片的な情報を穴埋めすべく、推論がなされ、そして引用が重ねられていくうちに、尾ひれがついて生まれたデマである。参考として上陸艇である、特大発動艇の自重は17.5tであり、積載方法や船の構造によってデリックで海上に下ろさなければならなかったし、実際に太平洋戦争の際に輸送され、上陸作戦に従事している。

*7 欠点もある。当時の成形炸薬弾は火砲の構造上、有効射程がどうしても短くなり、遠距離戦が見込めないこと。命中精度が低くなる傾向が強いこと。成形炸薬弾は衝撃波の圧力で装甲に貫通口を空けるのだが、この圧力は薄板ならともかく、貫通口を空ける過程でほとんどなくなってしまうため、中の機材や兵士に危害を与えにくく、徹甲弾と比べて敵戦車を戦闘不能にするまでに、より多くの有効弾を必要とする。