応仁の乱

登録日:2023/07/21 Fri 12:01:07
更新日:2024/04/21 Sun 11:21:53
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応仁の乱もしくは応仁・文明の乱とは、室町時代に1467年より11年に渡って京都で発生(後に日本各地に拡大)した内乱である。
俗に「戦国時代の幕開け」などと呼ばれる一大事件で、日本史では必ず習うはず。

ただ、学校の授業程度では名称、もう少し踏み込んだとしてもせいぜい山名・細川の両家ぐらいで終わり、
その原因や背景と展開まで詳しく知る機会となると、特別にこの時代に興味があるとかではないと実はさほど無かったのではなかろうか?

以下、歴史に詳しい諸兄のお知恵をお借りしつつ解説していきたいが、その内実は簡潔に言うと、
積み重なりまくった室町幕府内部の遺恨と政争を燃料に鎮火も崩壊も失敗して延焼し続けるグダグダの極みで、
あまりに多くの勢力がそれぞれの思惑の元に戦ったために、
知れば知るほど事態を単純化して語る事も困難……
と、「室町情勢は複雑怪奇」としか言いようのない世紀の大乱闘であった。



前提となる歴史知識


日本初の武家政権が興り、そして元寇という国難が起こった鎌倉時代と、
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑を筆頭に、群雄割拠の時代であった安土桃山(戦国)時代。
その間に挟まった室町幕府と時代背景については、前後の時代があまりにも華やか過ぎる影響か、歴史番組やNHK大河ドラマ、小説などで取り上げられる機会は少なかった。

義務教育レベルだと、足利尊氏が初代将軍であること、3代将軍義満と金閣、8代将軍義政の銀閣と当時の文化、
そしてこの応仁の乱について「なんか京都ですごい戦あった」ぐらいにさらっと扱うくらいである。
応仁の乱について深く知るために、前提知識となる室町幕府の仕組みと歴史について解説する。

【室町幕府の実態】

後醍醐天皇が吉野に逃亡したことによる「南北朝時代」から始まった室町幕府だったが、
幕府のシステムはいわゆる「封建制」であり、有力な守護大名*1の連合政権としての性質が強かった。
ここに「観応の擾乱」*2を筆頭とする幕府の内部分裂や政争も絡み、室町幕府の征夷大将軍は(3代将軍の足利義満、6代将軍の足利義教を例外として)その権力はお世辞にも強くなく、将軍配下の有力者が実権を握っては周囲の反感と警戒から失脚する、の繰り返しであった。
もっとも、先立つ鎌倉幕府も将軍の権力は早々に形骸化していたのであったが……

一方の守護大名側も、相次ぐ戦乱と政争で領国の統制能力を消耗しており、守護代や国人など大小の在地豪族に振り回される有様であった。
ここに幕府内の対立や縁戚など大名間の関係が絡み、元々制度化されていない家督相続を巡って諸勢力が後継者を擁立、しばしば争いが発生していた。

6代将軍足利義教は将軍権力の強化を目指し、「万人恐怖」と呼ばれるほどの専制政治を行った。
比叡山延暦寺を攻撃、鎌倉公方を殺害し、自分の息子に鎌倉公方を再興させようとする(未遂。後に部分的に成立)、土岐氏や一色氏といった重鎮の粛清など、苛烈だがある意味では必然的なものであった。

【1441年:6代将軍義教暗殺による「万人恐怖」の終焉】

だが義教は冷遇されていた守護の一人である赤松満祐によって暗殺されてしまう(嘉吉の乱)。
乱の収拾も、守護大名の筆頭格である細川、畠山、斯波(尾張足利家)の「三管領*3
その中でも主に細川・畠山によるものだったため、将軍権力の強化は一向に進まなかった。

結果として、この嘉吉の乱の事後処理により
  • 義教の子である義勝が7代将軍となるが、8歳と幼少だった上に1年で早世。
    弟の義政もまた幼少で将軍就任までに7年もの将軍不在期間が続き、その間に幕政の大名による合議制の一面が更に強くなる
  • 義教〜義政の代に管領だった細川氏の権勢が強まる
  • 義教を暗殺した赤松氏を討った山名氏がその所領を拝領し名声をあげる
  • 結局鎌倉公方は義教が殺した足利持氏の遺児を再興させ上杉氏や足利本家との確執がそのまま。
  • 義教が家督相続に介入した諸家に対し、畠山が「家督を継げなかった側の復権」を通じて勢力拡大を図る
  • 上の畠山の動きに対して細川が「義教の介入で家督を継げた側」を支援して対抗する
といったことが起こり、これら全てが応仁の乱につながる。


【8代将軍足利義政の統治】

「政治に関心がなく文化振興にふけった」などと言われる8代将軍足利義政だが、むしろ彼は政治に関心があり、低下した将軍の権力強化に熱心であった。
そして幼少期から知る伊勢貞親を右腕とし、守護大名の内紛に乗じて大名の力を削ろうとした
……ここまではよかった。
だが、義政も貞親も「約束違えず、的確な判断をくだし、不満を抑え込み、巧妙に大名らの力を削ぐ」といった高度な政治的手腕を持ち合わせていなかった。
……つまるところやる気がなかった方がむしろマシだったとすら言える。

加えて「熱心な案件には熱心だが強硬的で、それ以外がぞんざい」という義政の性格由来とおぼしき極端さもあり、
その統治の実態は「公武御成敗諸事正体無し」と言われる首尾一貫しない代物で、幕府内の政治闘争も絡んでかえってあちこちで対立の火種がくすぶる始末。
政所執政に就き権勢を振るう伊勢貞親への諸大名の反発から山名氏を軸とする大名たちの連携が生まれ、
そこに将軍後継を巡り義政の弟の義視排斥を画策した貞親は、細川氏まで敵に回して失脚する(文正の政変)。

義政の右腕たる貞親の失脚は事実上の義政親政失敗であり、またしても将軍権力は後退して有力大名の力が強くなり、
また、山名氏による反伊勢貞親の連合が応仁の乱での西軍の母体となっていく。


【「三管領」畠山の内紛】

一方、上述したようにあちこちの御家騒動を介して細川と対立していた畠山氏でも、何の因果か御家騒動が勃発する。

当主の畠山持国には子が無く、弟の持富を養子として後継者に指名していたが、庶子の義夏が生まれ、成長すると、義夏を後継者にした。
…が、義夏の母は遊女か何かだったらしく、当初は出家するとしていた義夏への後継者指名は家中の反発を招く。

ほどなく持富は死ぬもその子の弥三郎が擁立され、幕府内で畠山と対立していた細川、山名も弥三郎に加勢した。
将軍である義政は細川と山名の圧もあり有効打を打てず、
すったもんだの末に義政の支持を得た義夏が家督継承に成功して名前も義就と改めるが、素行不良が過ぎて義政から見放される。

この頃は弥三郎も死んでおり、その弟の政長が(義就の軍に所領を荒らされ怒り心頭な)細川の支持で新たな当主となった。
家督を奪われ紀伊山地を逃走する義就だったが、一方で幕府内の対立を利して山名に取り入っていた。


【「三管領」斯波の内紛「武衛騒動」】

斯波氏(代々の当主の官位から武衛家とも)は三管領筆頭格で、将軍の親族同然の扱いであった。
室町幕府初期の頃は「管領?そんなの足利宗家の家臣がなるものでしょ?」と言って管領就任を渋る者さえいたほどであった。
しかし義教の時代になると、将軍との対立や当主の相次ぐ早世で幕府内では権力が低下。
当主が京にいたうえ所領も越前や尾張、遠江と比較的遠方に分散していたため守護代に実権が移りつつあった。
更に所領がいずれも飛び地になっていることが領国経営に難儀し、以後の斯波氏の命運を分けることになる。

武衛家嫡流が断絶すると、新たな当主である斯波義敏を排出した一門の大野氏と執事の甲斐氏の対立が激化。
これに関東で断続しながら応仁の乱以上にグダグダ続いている鎌倉公方と関東管領の抗争である「享徳の乱」の鎮圧も絡み、

義政「甲斐との対立にかまけて義敏が東国に救援へ行かないせいで関東管領の上杉顕房が負けた! 義敏は家督剥奪! 子供の松王丸が武衛家の当主! 3歳でも当主は当主!」

義政「予定変更。関東探題に任命した渋川義鏡の息子を斯波義廉として武衛家の家督を継がせ、武衛家の戦力で堀越*4を増強」*5

義政「義鏡は勝手なことしやがって堀越と扇谷上杉*6との関係悪化させた! あいつは要らんし義廉も武衛家の当主である必要もない!」

…と将軍の対応もコロコロ変わり、この「武衛騒動」も上述した「文正の政変」を招く。

この「三管領」畠山氏と斯波氏の家督争いに将軍の地位争い、
これまで縁戚関係や対畠山や対伊勢貞親でまとまっていた細川氏と山名氏が畠山氏や赤丸氏への対応などで徐々に対立、
さらには家督争いが起きていない守護大名も細川氏と山名氏とで幕府内で対立し…と、
あちらこちらで対立が重なったことで発生したのが、この応仁の乱である。


応仁の乱の流れ


【1467年:開戦】

管領畠山氏の家督争いに、同じく管領の細川氏が畠山政長、四職*7の山名氏が畠山義就を支持して対立。ついに京都にて激突する。
互いに敵方の邸宅を焼き払う中で、将軍の牙旗(錦の御旗将軍バージョン)が細川氏に下され、足利義視がその総大将となる。

これは、東軍が幕府の正規軍、山名氏以下西軍が賊軍となったことを意味していた。

《この時点の勢力図》
東軍(室町幕府正規軍)
  • 総勢:16万(所説あり)
  • 細川勝元(総帥)
  • 足利義政、義視、義尚
  • 畠山政長
  • 斯波義敏
  • 赤松政則
他京極氏、若狭武田氏、冨樫氏、今川氏、北畠氏など

西軍
  • 総勢:11万(所説あり)
  • 山名宗全(持豊)(総帥)
  • 畠山義就
  • 斯波義廉
  • 大内政弘
他六角氏、土岐氏、一色氏など

「室町幕府8代目将軍、足利義政には子がなく、出家していた弟の足利義視を還俗させて跡継ぎにしようと考えていた。しかしその後、実子である足利義尚が生まれ…」
とよく言われる。
しかし義尚はまだ幼く、義視排斥を狙っていた伊勢貞親も文正の政変で失脚しており、開戦時点では将軍の後継問題は小康状態であった。

なお、足利義政の正妻である日野富子も、彼女の実子である義尚を将軍に就けようと目論んだことで責任の一端があると看做されがちな他、
いざ応仁の乱が始まると、両陣営に金を貸し付けて暴利を得ていたということから「悪女」「守銭奴」という悪評が定着してしまったが、
前者やそれに関する記述は軍記物『応仁記』にしかないことや、富子の立場や行動からすれば義視に将軍に就いてもらった方が良かったと思われる*8こと、
後者に関しても、朝廷や幕府の財政を鑑みれば富子が蓄財に尽力したのは私欲ではなく幕府(運営)の為だった可能性もあることから、
現在では「富子が義尚を将軍にしようとしたというのは『応仁記』の虚構なのではないか」「それが虚構なら富子は本当に『悪女』だったのか?」という議論が交わされている。


【援軍と西幕府の成立】

しかし、西軍側に大内政弘率いる援軍が到着したあたりから状況が変わり始める。
細川勝元と対立する大内政弘の西軍参戦は当然と言えば当然だが、しかし西国で一大勢力を築く大内の大軍勢は情勢を一変させるには十分であった。
折しも室町幕府に反義視である伊勢貞親が復帰したこともあり、足利義視は西軍に寝返ることとなる。
これに義政が激怒し義視討伐を指示したことで決着がさらに遠のいた。
同時に大内氏の援軍を得た西軍によって山城国が制圧され、しかし西軍の勝利に至るまでの力はなく、戦闘は膠着状態に陥る。
また、東軍もやられてばかりではなく越前の斯波家臣・朝倉孝景を越前守護を条件に寝返らせることに成功し、山名(但馬・因幡など)と斯波(越前・尾張など)との連携を絶っている。

ちなみに朝廷までも東軍が抑えていて完全に官軍であるという状況を受けて、
西軍内では自称南朝の生き残りとされる西陣南帝を擁立して新たな朝廷を作り出す計画も浮上したが、
これに関しては西軍内部からさえも「流石にそれは…」と反対の声もあった。

《この時点の勢力図》
東軍(室町幕府正規軍)
  • 細川勝元(総帥)
  • 足利義政、義尚
  • 畠山政長
  • 伊勢貞親

西軍(西幕府軍)
  • 山名宗全(持豊)(総帥)
  • 畠山義就
  • 足利義視
  • 大内政弘


【1473年:両軍総帥の死去。しかし戦いは終わらず…】

しかし、長く戦うと厭戦感情も大きくなると言うもの。

1472年にもなると、宗全も勝元も和議を考えるようになる。
この時は山名の再侵攻を恐れた赤松政則*9が強硬に抵抗したため失敗に終わった。
更に勝元は猶子である勝之を廃し、実子で敵軍総大将の宗全の孫でもある魔法使い政元を擁立して剃髪。
宗全は宗全で突然自殺を図ろうとし(制止されている)、孫である政豊に家督を譲る騒動を引き起こした。
一応、これは二人の「戦いはこれで終わりにしよう」と言うアピールだったとされているが……。

翌年の1473年、宗全と勝元が相次いで死去。総大将が揃っていなくなる結果に陥ってしまった。
政治面で義視と対立していた伊勢貞親も1471年に失脚、2年後の1473年に没した。
その後足利義政の隠居などを経て義尚が将軍となる。

これにて応仁の乱は終結。
とおもいきや、貞親の死後も義視は義政の元に戻らずその処遇も決まらなかった上に
守護大名の皆さん「俺たちの問題は終わってないんだよ!!」
跡目争いや勢力争いもあって諸大名はなおも戦いを続けた。


【1477年:終結】


数年して和睦交渉が行われ、西軍の義視が義尚に降伏し、主力であった大内政弘も東軍に降伏し守護職を安堵されたことで軍を撤退。
他大名も追随するように撤退したことで応仁の乱は決着する。
洛中から戦火が消えるには、宗全・勝元が亡くなり将軍も交代してからさらに4年の歳月が必要となった。


なぜこんなにグダグダしたの?


単純に両軍の実力が拮抗していたことも要因の一つだが、最大の要因は各勢力それぞれの目的がバラバラだったことにある。

例えば同じ大乱でも、安土桃山時代末期に起こった関ヶ原の戦いは、
「石田三成の下打倒徳川家康を目指す西軍」VS「徳川家康の下石田三成を中心とした文治派を打倒するため武断派が集結した東軍」
と、両者が何を目的としていたか非常にわかりやすい(どさくさに紛れて勢力拡大を狙うやつもいたにはいたが)。
そして家康が総大将として上手く東軍諸将をまとめ上げたことが早期決着の要因の一つと言われている。

しかし応仁の乱は具体的な事例は後述するが、ぶっちゃけた話多くの守護大名にとっては「将軍家の家督争い」も「細川と山名の対立」もあまり関係なく、
『敵の敵は味方』の理屈でケツ持ちを頼むかわりに参戦したような状況だった。
ゆえに、講和しようにも大名ごとに求めているものが違うので、交渉は難航する。

さらに、各大名は戦乱に乗じて幕府内での有力派閥についた上で勝利することで幕府内での地位を確保し、各々の目的を達しようと目論んだものの、
肝心の幕府がこの乱によって弱体化していたため、もはや戦う意味がわからない状況となった。
開戦から数年もすると細川・山名両氏の間で厭戦感情が高まっており、山名宗全が自殺未遂を起こすような事態になってもやめ時がハッキリとせず、
結局両大将が亡くなってやっと停戦するというのがこの乱の恐ろしいところ。
なお中央では畠山が懲りずに争いを続けているように、地方での争いがそう簡単に終わるはずもなく、各地域での小競り合いが集結するまでには多大な時間を要した。


その後の室町幕府


当然ながら、幕府の権威は大幅に下落し、私有地である荘園を奪われた公家もまた弱体化することとなった。
また、これまでは京都に常駐していた守護が領地を守るために各自の領国に引き上げ、幕府の命令に従わなくなる。
それどころか公家が荘園へ自ら下向し、戦国大名のような存在になるといった事態も起きている。
更に、9代将軍義尚の早世、その後将軍となった義視の子義材が細川勝元の後継者政元によって将軍の座を下される(明応の政変)、その後政元が将軍に据えた義澄も義材改め義稙の復讐にあい敗北する等の出来事が重なり、
ただでさえ応仁の乱で下落した幕府の権威は、代を増すごとに更に下がっていった。

守護は味方を得るため、これまでの身分を無視した受勲などを行ったことで、国人(領内の一般武士)などが力を握るようになる。
幕府の権威の低下に加え、下の身分の者が力を得たことが、下克上戦国時代の産声となった。


各家の結果とその後


ここでは応仁の乱に関わった各守護大名の動向を個別に説明する。
前述のとおり各家が違う目的を持って参戦しているので、時系列でまとめるよりも各家の動向を個別に語る方が理解しやすいだろう。
なお、ここでは中央(幕府)直轄の守護大名に話を絞る。*10

【細川家の場合】

細川家は一族のほぼ全員が東軍に与し、勝元死後も嫡男・政元のもとでまとまっていた。
このため、他家が軒並み勢力を弱めていく中で勢力を維持した政元は将軍の首もすげ替えるなど事実上、幕府の最高権力者となっていた。

…こうして政治権力を掴んだ政元だが、一方で修験道にどっぷりはまっていたため生涯童貞独身のままであった。
最初は平安時代からの有力家である九条家から養子を迎えて後継者としたが(細川澄之)、家臣の反発もあって廃嫡しさらに細川の分家から養子を迎えた(阿波細川家:細川澄元、野洲細川家:細川高国)。
しかし突然廃嫡された養子の方も納得はしておらず、直系後継者の不在と後継者選択に揺れた結果家内で対立が起き、政元は家臣に暗殺されてしまう。
親父世代から何を学んだんだこいつは!

戦国時代前期の畿内情勢はある意味、政元のやらかしによる負の遺産の清算でもある。
とはいえそれでもなお細川家は紆余曲折を経ながらも常に管領として畿内の中心勢力であり続けるが。が……

ちなみに安土桃山時代に頭角を現した細川幽斎は、一応(詳細については諸説あるが)管領の細川氏から南北朝期に分家した家系の後継者であり、
かつ、本人は養子のため、血縁上は政元の系譜とはほぼ関係ない。
そして江戸時代、幽斎とその子である忠興の子孫(肥後細川家)が大名となる一方、政元の末裔(細川宗家、京兆家)は大名家秋田氏の家臣として細々と存続していたという…。


【畠山家の場合】:山城国一揆

畠山家の家督争いはまったく終わっていなかった。
政長は紀伊と越中を地盤に、義就は河内と大和を基盤にして共に乱終結後も山城国にて対立を激化させていたのである。
しかし、徳政一揆など、力をつけていた庶民がこれに反発。両軍を領内から追放し、8年間山城国にて自治を行うこととなった。
とはいえこれは山城だけの話。

一旦は明応の政変に巻き込まれる形で義就が勝利するが結局この2人の代どころか子孫の代に至るまで、
政長の尾州家と義就の総州家の両家は中央政局に振り回されつつ戦国時代を通して対立し続けることになる。

ちなみに総州家は最終的に戦国時代末期に滅亡したが、尾州家は大名としては滅亡したものの子孫が何とか復権し、江戸幕府の高家旗本として生き延びている。


【斯波家の場合】

三管領の中でも斯波家の弱体化は深刻だった。
最終的に東軍に属していた斯波義敏が生き残ることになるが、乱の最中、朝倉家に対する東軍の引き抜き工作の結果越前国を失う。
朝倉家に対し、これまで斯波家当主が任じられていた越前守護職を餌にして引き抜いたのだ。
以後朝倉家は5代約100年もの間、守護として越前国を支配し続ける。
斯波義敏には容認しがたい出来事であって東軍の中で朝倉といがみ合うような形に。

さらに戦国時代前期に今川家との抗争に大敗し遠江国を失い*11、これによって残る尾張国での求心力も失った。

そして尾張国では、求心力を失った斯波家の代わりに、守護代が実権を握るようになる。
その守護代こそ、後に室町幕府を滅ぼし、『天下布武』を掲げた織田信長を輩出する織田家であった。*12
まあ信長の織田弾正忠家は守護代織田家からいつ別れたのかすら定かではない、さらに傍流だったりするのだが。


【今川家の場合】

上述のとおり斯波家とは遠江国を巡って対立関係にあり、当時の遠江守護が西軍の斯波義廉であったことから今川義忠は東軍として参戦、上洛する。
ちなみにこのとき、伊勢家から妻・北川殿を娶ったとされる。
後に斯波義寛(義敏の子で尾張守護に任じられた)や細川成之(三河守護)とともに遠江で義廉派の撹乱を図るが、
遠江守護代・甲斐敏光が東軍に寝返ったことで遠江が味方勢力になってしまう。
それでも遠江を諦めきれない義忠はなんとこの3人と対立。現地で東軍同士が争った挙句、義忠は討死する。わけわかんねぇよ応仁の乱…

このとき義忠の嫡男・龍王丸(氏親)は幼少、かつ管領家の一門と争ったことを危惧した一門であり関東の勢力にツテのある家臣の小鹿範満が龍王丸を廃嫡しようとしたことにより後継者問題が発生。
幕府もこの事態を気にしたのか*13、収拾を図るべく調停役を派遣。
そして調停役として駿府を訪れたのが伊勢貞親の甥であり北川殿の兄とも弟ともされる伊勢盛時(北条早雲)であった…


【山名家の場合】

山名家では、宗全とその次男で備後・安芸の守護を務めていた是豊の折り合いが悪く、是豊だけが東軍で参戦した。
是豊は細川家の支援を受けた安芸(若狭)武田家とともに大内家と戦うが、大内家の前には歯が立たずフェードアウト。

獅子身中の虫を排除できた山名家だったが、山陽では赤松家に播磨などを奪回されたことが響き影響力が低下。
山名一族たちが各地で内乱を起こしたことで勢力はどんどん縮小。
山名四天王と呼ばれる有力豪族たちは派閥争いや他所の大名に従うなどといったことを起こす佞臣と化し宗全時代の栄華は過去のものとなっていくことになる。


【赤松家の場合】

赤松家は嘉吉の乱によりいったん改易。
その後幕府の混乱に乗じて決起した南朝残党を討伐することにより加賀半国守護大名として復帰するが、本貫の地である播磨は(嘉吉の乱を鎮圧した功績で)山名に抑えられていた。
赤松政則が東軍である理由は西軍の山名家から旧領の播磨を奪還することであるが、当時の勢力の差は歴然で細川家の支援が必要な状況であった。

結果として赤松家は播磨を奪還し、山名家から守り切ることに成功した。
しかし以後は家中で力を持ちすぎた備前の浦上家との関係や出雲の守護代尼子家との対立に悩まされていく。


【大内家の場合】

大内家は東軍の総大将たる細川家との間に、「瀬戸内海での利権」の対立がありこれを理由に西軍として参戦している。
乱後は足利家の手を離れた勘合貿易の利権を巡っても対立し、1523年には両家の使者が明で武力衝突を起こして外交問題にまでなってしまった。(通称・寧波の乱)

さて、大内家は京都でも西軍の主力として活動したほか、安芸でも武田元綱(安芸在住の武田一族)や毛利豊元(元就の祖父)を押さえ込み、本国で起こった東軍や石見国人らの支援による大内道頓の反乱も制圧して見せるなど応仁の乱では細川家と並ぶ勝ち組となる。
その後も勢力を維持し、大内義興の代には上洛を果たし一時幕府の管領代として栄華を極めるなど西日本トップレベルの戦国大名として順調に進化を遂げていくはずだったのだが…

【若狭(安芸)武田家の場合】

甲斐の名門・武田家の分家。
承久の乱の功により安芸に所領を得て安芸武田家が誕生、室町中期に若狭守護も得て若狭武田家に変化した。

この時代の安芸は隣接する大内家の侵食を受けており、対大内家で利害の一致した細川家と手を組んで対抗していた。
これが大きな要因となり東軍で参戦する。
だが、安芸の戦線は山名是豊の支援を得てもなお大内家に歯が立たず、現地の武田元綱は単独で大内家に屈服する道を選ぶ。
これで安芸と若狭は袂を分かつことになった。

安芸武田家は大内家に屈した時点で「大内傘下の安芸国人衆の1つ」同然の扱いとなり、後年尼子家と組んで自立を画策するも、大内派だった毛利元就によって滅ぼされる。

若狭武田家は丹後の一色家相手に押し気味の戦いを続け丹後にも侵食するが、和議の結果「丹後守護は一色家」となり無念の撤収。
戦国時代も延々と一色家と争い続け、やせ細りつつも戦国時代をほぼ完走したかに見えた、が…

朝倉義景「代々若狭を支援してきたけど、うちが直接支配したほうが早くね?」

と気づいてしまった朝倉家により若狭は接収。朝倉家滅亡後は信長に仕えるが

丹羽長秀・羽柴秀吉「おまえ明智光秀派だろ?首おいてけよ!なぁ!」

最後の最後で本能寺の変のどさぐさに巻き込まれ、宿敵・一色家もろとも歴史の表舞台から退場した。

【一色家の場合】

一色家は室町時代中期、義貫の代に三河・若狭・丹後などの守護を兼ね最盛期となる。
「出る杭は討たれる」のが室町の流儀、義貫は足利義教に謀殺されてしまう。
遺児・義直が足利義政の支援を受けて復帰するが、任命されたのは丹後・伊勢(半国)の守護職だった。

一色家の憎悪は三河・若狭を奪う形になった若狭武田家と細川家に向かい、応仁の乱ではこの2ヶ国奪回を目指して西軍に付く。
両国にいる一色派諸勢力を動員して奪回を目指すものの、若狭は武田家にがっちり防がれる。
三河では細川方の守護代・東条国氏を討ち取るものの、伊勢家の命を受けた地元国人衆の松平信光・戸田宗光らも加わった東軍に手を焼き、
和議の結果「三河守護は細川家」となり三河を放棄。伊勢も全土支配を目指して東軍に付いた国司・北畠家によって追われてしまう。

戦国時代の一色家は残された丹後に全戦力を集中。おもに若狭武田家と争い続け、やせ細りつつも戦国時代をほぼ完走したかに見えた、が…

細川幽斎・忠興「おまえ明智光秀派だろ?首おいてけよ!なぁ!」

最後の最後で本能寺の変のどさぐさに巻き込まれ、宿敵・若狭武田家もろとも歴史の表舞台から退場した。

【おまけ】その後の三河

細川家も東条国氏の討ち死にが痛恨の一撃となったのか、その後の三河は守護も守護代も記録がない。
一色家だけでなく、細川家も三河を放棄してしまった。
後に元禄赤穂事件で壊滅的被害を被る地元在住の名門・吉良家もあてにならず三河は国人衆の抗争となるが、
伊勢家のお墨付きに便乗して西三河一帯に勢力を伸ばした松平信光により松平家が台頭のきっかけを作る。
当主暗殺・一族内訌・他家からの介入といったおなじみの難儀を乗り越え、100年後…


【土岐家の場合】

土岐家は南北朝時代、康行の代に美濃・伊勢・尾張などの守護を兼ね最盛期となる。
「出る杭は討たれる」のが室町の流儀、康行は足利義満によってフルボッコにされてしまう。
命は取られなかったが結局尾張は斯波家、美濃は分家の西池田土岐家に取られ、土岐家は伊勢と美濃に分断された。

一族の多くは本家の康行とともに伊勢に下ったらしく、美濃に残された西池田土岐家は守護代を国人衆から選ばざるをえなかった。
加えて西池田の直系は早期に断絶し、守護代・斎藤家を中心に「地元国人衆の動向で、土岐家当主が差し替えられる」ようになる。
当代の守護・成頼も「斎藤家が推して、一色家から養子として迎えられた」人物で、応仁の乱の時点で美濃は下克上の匂いで満ち溢れていた。

周りが西軍だらけ(斯波義廉・六角)のせいか、美濃の土岐家は西軍で参加。
斎藤家の重鎮・妙椿が国内はもちろん近辺でも暴れまくり、各所からも「美濃って斎藤妙椿が支配者じゃね?」という認識になる。
だが周囲の警戒心も高まり、妙椿が病死した途端に斎藤家が外部からの介入を受けるなどまた不安定になる。
美濃の情勢はその後も斎藤家を中心に動くが、ある時期にその斎藤家が後に「マムシ」と呼ばれる者たち*14に乗っ取られ…

【伊勢の土岐家(世保土岐家)の場合】

伊勢に下った康行の子孫(世保土岐家)は伊勢守護職を他家に取られたり取り返したりを続ける。
応仁の乱では「当代の伊勢守護が賊軍の一色なのはおかしいよね」という名分を使い東軍で参戦。
だが、伊勢の支配を狙って東軍に参加したのは世保土岐家だけではなかった。

伊勢に亡命してきた足利義視を保護する*15などしたたかに立ち回った国司・北畠家とも対立。
現地で東軍同士が争った挙句、世保土岐家は伊勢から追われ歴史の表舞台から退場する。わけわかんねぇよ応仁の乱…(2回目)


【京極家の場合】

京極家は宇多源氏・佐々木氏の庶流の一つであり、鎌倉幕府末期から南北朝時代までにかけてバサラ大名の異名を持つ佐々木道誉(京極高氏)の活躍により幕府の重鎮にまで成り上がった。
当主・持清と細川勝元が伯父・甥の縁戚関係にあったため東軍にオールインした…が、
乱の最中に嫡男・勝秀→持清→勝秀の嫡男・孫童子丸と3代立て続けに病死。
そして孫童子丸の後見人だった勝秀の弟・政経と孫童子丸の弟・乙童子丸で後継者争いが勃発。
形勢不利になった乙童子丸派は同じ近江源氏・佐々木家の流れを汲む六角家を頼って西軍に鞍替えした。

元服した乙童子丸改め高清と政経による内紛は35年の長きにわたり、その間に出雲・隠岐の庶流尼子家、飛騨の三木家*16と守護代が独立してしまう。
最終的な勝者となった高清は北近江を拠点に京極家の再興を図るが、2人の息子のどちらを後継者にするかでまた一悶着を起こしてしまう。
これがとどめになって北近江の国人衆、特に浅井亮政の台頭を許し北近江での影響力も失った。

【おまけ】「蛍大名」こと織豊期の復権


…大抵の守護大名は「こうして下剋上されてはい、おしまい」なのだが、ところが京極家は浅井家の後に豊臣秀吉が近江の支配者となった事で風向きが変わる。
名家スキーな秀吉は、嫁入り先の若狭武田家の滅亡で寡婦となった高清の孫の竜子をまんまと奪い側室(西丸殿、松丸殿)としており、また近江の安定化にも京極家の名跡は有用であった。
信長に仕えていた当主の高次は本能寺の変での光秀に付くという失策をするも、竜子の取りなしで不問とされ秀吉配下での復権に成功する。
若狭武田家「」

高次は浅井三姉妹の次女、初を妻とし、秀吉体制で女の尻の光を借りた「蛍大名」なんて陰口を叩かれながらも順調に出世し6万石の大名となる。
秀吉没後の関ヶ原の戦いでも三成に気付かれないようこっそり東軍に参加して大津城に籠城。西軍の毛利元康*17や立花宗茂の猛攻で大津城は9月15日朝に開城するも、その日のうちに関ヶ原の戦いの決着はついていた。*18
両者を釘付けにして到着させなかった功績を評価した家康により高次は最終的に若狭9万石の大名となった。


独立・下剋上した尼子家・三木家・浅井家が戦国大名として滅亡し、京極家だけが近世大名として残る*19のだから皮肉なものである。


【六角家の場合】

近江源氏・佐々木家の本家と認められ、代々近江守護を務めてきた六角家だが、
西の延暦寺・北の京極家の存在に加え、例によって中央からの介入もあり、支配領域の南近江でも体制は盤石ではなかった。
特に分家でありながら幕閣に名を連ねる京極家との関係は常に微妙*20であり、
この関係から直系の当主・六角亀寿丸(後の高頼)を旗印に西軍で…となるわけだがそこはやはり応仁の乱、傍系の六角政堯が京極家を頼って東軍に付いた。

ところが京極家が前述の通り乱の最中に大分裂し、風は高頼に吹く。
頼みの綱を失った政堯は討ち取られて家中の争いは一段落…と思われたが、高頼はその後も足利義尚・義材の追討を受け、便乗して反高頼派が決起するなど相変わらず安定しなかった。
それでも高頼に幸運の風が吹きまくる。義尚は早世し、義材は明応の政変で失脚。
こうしたチャンスをがっちり物にして家中と大国近江をまとめ上げ、衰える他家を尻目に六角家は畿内屈指の強豪勢力となる。
だがそれは「細川家への対抗勢力として、中央政局に巻き込まれる」ことを意味していた…。

【富樫家の場合】:加賀一向一揆

富樫家は平安時代より加賀に定住した武家で、南北朝時代に足利尊氏に従うことで加賀守護の地位を手に入れた。
しかしながら守護大名としては加賀一国のみで足利家との関係も他の大名と比べて薄く、度々中央の介入を受ける。
これは中央の政局により加賀・富樫家が振り回されることを意味し、その中央がgdgdになった応仁の乱で富樫家が混乱するのもまた必然であった。

富樫家は当代の守護である政親(東軍)とその弟・幸千代(西軍)に分裂。
さらに幸千代派が北陸に広まっていた浄土真宗高田派の門徒に合力を依頼するのを見た政親は本願寺法主・蓮如に接近し本願寺門徒を決起させる。
つまり、内紛の解決に一向一揆の力を借りてしまい、これが後の富樫家の運命をも握ってしまう。

争いは政親の勝利に終わるが、門徒たちの力を恐れた政親は一転して本願寺門徒の弾圧に乗り出す。
しかし、怒りを爆発させた門徒達により、逆に政親が攻め滅ぼされてしまった。
幸千代達を駆逐してからわずか15年。「百姓の持ちたる国・加賀」が生まれた瞬間であった。


余談


  • 室町幕府は他の時代と比べると、小説などで題材にされることはおろか、歴史番組等で取り上げられる機会も少ない、不遇で日の目を見ない時代とされがちだったが、
    これに関しては室町幕府の一大事件であるこの応仁の乱が、余りにもグダグダで複雑すぎたことも原因の一端であるのかもしれない。
    が、近年では呉座勇一氏の『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)が40万部以上のベストセラーとなるなど、大衆の耳目を浴びる機会も増えてきている。

  • 一部の京都府民の鉄板のジョーク(?)に、「先の大戦」とは太平洋戦争ではなく応仁の乱を指しているというのがあるとかないとか……。
    まぁ、京都が戦禍に合うのは応仁の乱に限らず戦国、幕末としょっちゅうではあるが……。
    なお一説によると、とある古文書の所蔵を問われた元首相・近衛文麿が「先の大戦(応仁の乱)で焼けた」と返したのが元ネタらしい。

  • 『応仁記』には、応仁の乱によって焼け野原となってしまった都のありさまを嘆いた飯尾常房の和歌「汝や知る 都は野辺の 夕雲雀 上がるを見ても 落つるなみだは*21が収録されている。

  • 京都三大祭*22の一つである祇園祭は応仁の乱の影響を受けて33年間も中止することになってしまった。1500年に無事再開することになったが、今度は山鉾の巡行順(主に先陣争い)を巡って争いが激化。
    そこで山鉾巡行順をくじ引きで決めることになり、現代まで続く「くじ取り式」の文化が生まれることとなる。
    同じく三大祭の一つである葵祭は、前身となる賀茂祭が応仁の乱から始まった戦乱の影響で途絶えてしまうことに。
    賀茂祭は江戸時代に入ってからやっと復興され、この時様々なものを葵で飾ったため葵祭とも呼ばれるようになる。


先の大戦が応仁の乱な方、追記修正お願いします。

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最終更新:2024年04月21日 11:21

*1 鎌倉時代の守護が土着し権力を増したもの

*2 初代将軍足利尊氏とその弟に直義が尊氏側近の高師直との対立をきっかけに対立することになり幕府を二分し南朝までも巻き込んだ盛大な兄弟喧嘩

*3 室町幕府において将軍に次ぐ役職である「管領」になる資格を有した三つの足利家の分家のこと。いずれも何ヶ国もの領地と守護職を有している大大名である。なお足利家には他にも吉良、石橋、渋川といった一族がいたが彼らは足利家としての格が管領よりも上だが管領にはなれず、またそこまで大きい大名ではないという点でバランスを取っている

*4 義政が異母弟の政知を任命した関東管領側の新鎌倉公方

*5 渋川氏は斯波氏同様に足利氏庶流の一つで、この頃は三管領と同格の扱いだった

*6 当時の相模や武蔵の有力大名。顕房の分家筋

*7 室町幕府の侍所の長官を務める赤松、一色、京極、山名の四家のこと。土岐氏、伊勢氏(政所執事)、上杉氏(関東管領)も入れて七頭とする場合もある

*8 義尚を妊娠中に妹を義視を嫁がせた上にその基盤強化に力を貸しており、また、時代背景的に義尚が無事に成長するとは限らないことを考慮すれば、義視に将軍職に就いてもらった方が富子にとっては良かった可能性が高い。

*9 この時、山名は政則に播磨を含む三国を奪還されている

*10 東国(鎌倉府・奥州探題の管轄)や九州(九州探題の管轄)も当然巻き込まれているが、特に関東(享徳の乱)はそれだけでページが作れるほど中身が濃いので…

*11 遠江は室町中期に守護が今川家→斯波家に代わっていたため、今川家にとっては遠江奪還は悲願であった

*12 ちなみに、守護代織田家が清洲と岩倉に分裂したのもこの時の斯波家分裂がきっかけ。

*13 今川家は足利家の分家筆頭とされる吉良氏の分家

*14 以前は斎藤道三が一代にして『国盗り』を行ったとされていたが、近年の研究でその父と親子二代による『国盗り』であったことが有力視されつつある。

*15 亡命の理由は政敵・伊勢貞親の復帰

*16 戦国ファンには飛騨の元国司から自称した「姉小路」の方が有名だろうか

*17 毛利元就の八男

*18 開城後に関ヶ原に向かった立花勢は草津で西軍の敗北を知ったという

*19 若狭9万石→出雲隠岐26万石→末期養子のペナルティで播磨龍野6万石→丸亀6万石で明治維新

*20 この辺はだいたい京極高氏こと佐々木導誉のせい

*21 「お前は知っているか夕雲雀よ、栄華を誇ったかつての都も応仁の乱のせいで焦土になってしまった。そんな都でお前が空へ飛び上がるのを見ても、私は涙が落ちるだけだ」といった意味。

*22 といっても当時は時代祭は無かったが