アイネスフウジン(競走馬)

登録日:2023/08/10 Thu 03:34:16
更新日:2024/03/06 Wed 09:10:00
所要時間:約 8 分で読めます






これが競馬だ

騎手は技術の限りを尽くし、絶妙なペース配分と 隙のないコース取りを試みた。

馬は豊かなスピードと ありったけの勝負根性で 後続を完封してみせた。

これが、これこそが競馬だ。

そして19万の観衆は 全身全霊を掛けたその戦いに

惜しみない称賛を送るのだった。

───JRA 2021年 名馬の肖像「アイネスフウジン」より

アイネスフウジン(Ines Fujin)とは日本の元競走馬

メディアミックス作品『ウマ娘 プリティーダービー』にも登場しているが、そちらでの扱いは当該項目参照。
アイネスフウジン(ウマ娘 プリティーダービー)


目次

【データ】

誕生:1987年4月10日
死亡:2004年4月5日
享年:17歳
父:シーホーク
母:テスコパール
母父:テスコボーイ
調教師:加藤修甫 (美浦)
主戦騎手:中野栄治
馬主:小林正明
生産者:中村幸蔵
産地:浦河町
セリ取引価格:-
獲得賞金:2億3,600万円 (中央)
通算成績:8戦4勝 [4-3-0-1]
主な勝鞍:89'朝日杯3歳ステークス、90'東京優駿(日本ダービー)

【誕生】

1987年4月10日生まれの黒鹿毛の牡馬。父はシーホーク、母はテスコパール。
母親のテスコパールもなかなかに数奇な運命を辿った馬である。詳細は是非調べて見てほしい。
幼駒時代は両親の名前を組み合わせた「テスコホーク」の名で呼ばれていたが、
加藤厩舎への移動の際、小林氏の高校生の娘2人により、冠名のアイネスと風神の名称を組み合わせた「アイネスフウジン」と名付けられた。

【戦歴】

3歳の9月に中山競馬場の芝1600mでデビュー。
デビュー戦ではフジミワイメアに敗れて惜しくも2着となるも、3戦目の未勝利戦で見事に初勝利を飾る。
そして続くレースに選ばれたのがG1の朝日杯3歳ステークス。
4戦2勝で他2戦も3着以内のカムイフジ、G2の京成杯3歳ステークス含め3連勝中のサクラサエズリといった多くのホープが集まる中、アイネスフウジンは5番人気で出走。
好スタートを切ったサクラサエズリと並びながら最終コーナーに差し掛かり、
先手を切ってサクラサエズリが仕掛けるも、アイネスフウジンは遅れることなくその後を追い続け、残り150メートル地点で逆転。
最終的に2馬身半の差をつけての勝利となり、嘗ての怪物"スーパーカー"マルゼンスキーの不滅と称されたレコードと並ぶ1分34秒4を記録するという圧倒的なものだった。

この圧倒的勝利により当時の競馬評論家から「相当の大器」と称えられるほどで、事実1989年JRA最優秀3歳牡馬にも選ばれている。

4歳になってからはG3の共同通信杯4歳ステークスでの勝利。
弥生賞においてライバル、メジロライアンに敗れての4着入賞を経た先、
クラシック三冠の第一戦となる皐月賞に出走することになる。
この時点でメジロライアン、ハクタイセイと共に三強と称される程の人気と評価を得ていた。

1枠2番というポジションを活かしての逃げ戦術を想定していたのだが、
両隣のワイルドファイアー、ホワイトストーンに挟まれる形で十分なスタートダッシュを決めれずに出遅れてしまい、
同様に逃げを選択していたフタバアサカゼに先を行かれてしまうことに。
その後もフタバアサカゼの遅めのペースに自身のペースを乱されてしまい、
最終的にハクタイセイに差し切られてしまったことでクビ差の2着という惜敗に終わった。

この敗北から騎手の中野にも責任を追及する声が挙がったものの、調教師である加藤氏の一声によりコンビ続投が決定。
2週間の休養を経た先、遂に運命の大舞台である東京優駿(日本ダービー)に出走することになる。

12番からのスタートとなるものの、内枠のライバルたちをけん制しながらハナを奪いつつ第1コーナーを通過。
その後も自分のペースで逃げ続けて後方に4馬身以上もの差をつける独走を展開してみせる。
この時のラップタイムは、後続の騎手たちに「アイネスフウジンでも無謀なのではないか」と思わせる、判断が難しいペースであった。もちろん、これは中野騎手が意図的に作り出した策である。

3コーナーではあえて距離的に短い最内を避け、その外にある「グリーンベルト」と呼ばれる、芝があまり痛んでいない場所を選んで走らせていた。
後方のハクタイセイを含む先行馬たちは、なんとか捕まえて挽回しようと、3コーナーを過ぎた辺りから馬を上がらせ始めた。
しかしアイネスフウジンは「それを待ってました」とばかりに再加速を始め、先行馬たちは息を入れられないまま最終コーナーを迎えることとなる。
嘗ての皐月賞と同様に、ライバルのハクタイセイが内から迫ってくる。
それでも今回は最後まで先頭を守り続け、外から迫るメジロライアンも寄せ付けずに見事1着でゴール。
1988年日本ダービーでのサクラチヨノオーの記録を1秒も更新する圧倒的な走り、2分25秒3でレコードを記録してみせた。

アイネスフウジンが逃げ切りました!2着にメジロライアン
中野栄治、若者には負けてられない!
──1990年5月27日 第57回 日本ダービー実況(堺正幸アナ・フジテレビ)

レース後、アイネスフウジンは全てを出し切ったのか、速歩でゆっくりと、スタンド前から退場することに。
その姿を観客たちが注目し、やがてアイネスフウジンがスタンドに近づくにつれて、徐々に騎手の中野を称える「ナ・カ・ノ、ナ・カ・ノ」というコールが湧き上がる。
最初は小さかったそれはやがて競馬場全体を包み込む大歓声となっていった。
これが所謂「ナカノ・コール」というもので、勝利した競走馬や騎手をコールで称えるようになった文化の起源と言われている。
そして、競馬が「ただのギャンブル」から「本物のスポーツ」として認識されるきっかけにもなった伝説のレースとなった
この時のダービー入場者数、19万6517人。近年は新型コロナウイルス対策による入場制限もあり記録更新には程遠い状況ではあるが、未だなお破られていない記録として君臨している。

その後、アイネスフウジンは左前脚に屈腱炎が発症し、しばらくは温泉療養などを駆使してのレース復帰を目指していたが、
8月30日の初時計後に再び足元に不安が見られたことから、遂に復帰が叶わぬままにその短い競走馬生を終えることになった。
短期間ながらも日本ダービー含めて鮮烈なレースを多く見せたことから、JRAから引退式の開催を打診されたものの、
「脚部不安での引退で馬場に出すわけにはいかない」という理由で見送られることになった。

【引退後】

引退後、試情種付けをクリアするまで3日かかったものの種牡馬入り。
種牡馬としては帝王賞・東京大賞典を制した(迷実況のせいで負けたことばかり有名な)ファストフレンドを輩出したが、他は地方重賞馬を数頭出した程度に留まった。
最後は2004年4月5日、腸捻転を発症したことにより、17歳でその生涯を閉じることになった。
現在では晩年暮らした牧場で、一足先にこの世を去ったツインターボらとともに祀られている。
また、彼が叩き出した日本ダービーのレコードは、奇しくもこの年あのキングカメハメハによって更新されている。

【創作作品での登場】

女子力高めのバイト戦士。大家族*1をバイトで支える*2お姉ちゃんであり、クラスメートからも姉扱いされている。「はろはろ~」「○○なの」といった口調が特徴的。
『うまよん』では一度は勧誘を断るも給与が出るということからスマートファルコンが立ち上げたアイドルもといウマドルユニット「逃げ切りシスターズ」に追加メンバーとして加入している。
バイト戦士になったのはおそらくダービー前の中野栄治騎手の発言が元*3だと思われる。
後述するメンコの「AF」も勝負服でご丁寧に再現されている。
なおアニメ版『うまよん』ではマックイーン達が牛丼屋へ行く時にガイドとして登場しているが、馬主の最後の食事が牛丼だったと伝えられており、とんでもないブラックジョーク史実要素だったりする。

ダービー後休養のため「馬の温泉」に行く所で初登場したが、温泉内に「ダービーでの着順による序列」形成されていたせいで、その時古株だった先輩コクサイトリプル(1988年ダービー3着)との顔合わせ時かなり気まずいムードになった。
最もその後クラシック戦線不参加のオグリキャップが温泉に再来訪して序列がどうでもよくなったり、温泉を去った後『オグリキャップ編』のみ収録のウィナーズサークル・ホクトヘリオスとの引退会見回にて休養と引退の真意について記者や騎手から厳しい目を向けられたリしていた
また引退後新米種牡馬による繁殖牝馬とのパーティに参加し同時に繁殖入りしたコクサイトリプルやオグリキャップと再会したが、最後に後の怪物と遭遇する事に…


【余談】

メンコ

名馬の肖像などの写真を見るとわかりやすいが、ピンク色の地に緑の差し色が加わったメンコを装着していた。
正面の目立つ場所には「AF」という文字がプリントされている。
普通に考えれば「アイネスフウジン」のイニシャルだろうが、当記事冒頭でも示したように当馬の英字表記は「Ines Fujin」である。
なぜこんな堂々と間違えられているかは永遠の謎。

乗り心地

名馬と呼ばれる馬の中には走り、特に騎手が乗り味に惹かれると言ったエピソードが多いのだが、
ことアイネスフウジンに関しては「走ってる状態から停止しようとしたら幾度となくずっこけて調教助手落馬させまくる」、中野騎手が乗り味を称して「前輪パンクした自転車」と言う等割とボロクソ
これは体格こそ良く、特に後駆が良く発達している割に前駆が貧しいと言うアイネスフウジンの馬体の特徴から来た物である。
かなり食欲が旺盛な馬でも知られていて、引退後はそれこそ放牧地の草を食べ尽くす勢いで毎日ムシャムシャやっていたらしい。

騎手・中野栄治

中野騎手はアイネスフウジン騎乗前は中堅騎手であったが様々な失敗で競馬界での信用を失い、騎乗する機会が遠のいていた。
しかしアイネスフウジンの調教師が騎乗を依頼しこれに中野騎手と馬主も承諾、以後二人三脚でダービー制覇を成し遂げた。
当時競馬場には府中市の人口とほぼ同じの約20万人が集い、会場ではナカノコールが響き渡りまさに絶頂期であった。

だがアイネスフウジンはそのまま引退し、中野も愛馬を失うと再び騎乗から遠のいてしまい、1992年には年間0勝のダービージョッキーとしてTV特集を組まれ、結局1996年に調教師に転身した。

馬主・小林正明

馬主は自動車用品販売業などを営んでいた小林正明氏。
ダービー馬のオーナーになることは一国の宰相になることより難しい」と世間一般で知られている*4ように、
またダービーは「最も運のある馬が勝つ」と言われていることなどから、ダービー制覇はホースマンにとって至上の栄誉として称えられている。
アイネスフウジンの馬主である小林氏だが、中央競馬の馬主登録から2年、それもアイネスフウジンが初めての所有馬*5にしてダービーオーナーに輝いた。

いままで生きてきて、事業をやってきてもあまり怖いなあ~っ、と感じたことはなかった。それがこんなに早くダービーをとって、いま、とっても怖いなあと感じているところです。
こんな幸運があっていいのだろうか、という気持ちで、有頂天にならずにしっかりと気を引き締めていかないといけない、と心から思っています。
雑誌『優駿』のインタビューより

──しかし時はバブル経済崩壊の直前。
一転して不況の時代になったことで本業の自動車用品販売会社が経営難に陥り、1998年に似た境遇にあった取引先の会社の社長と共に心中を図り死去。会社もその2日後に自己破産という結末を迎えた。
馬主登録から10年、ダービーを制した8年後のことであった。

追記・修正は、ダービーを取る事を夢見ながらお願いします。

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最終更新:2024年03月06日 09:10

*1 史実での母馬であるテスコパールは繁殖牝馬を20年近く続けて計16頭の馬を世に送り出しており、アイネスフウジンは7番目の仔にあたる。

*2 作劇の都合か、本作におけるレースは「報酬があるかどうか」を曖昧にされており、そのせいで「レースで活躍しながらバイトもする」という描写になっている。

*3 前売りから想定して1番人気でないだろう事を指して「アルバイトや借金をしてでもアイネスフウジンを1番人気にしてやりたい」と言っている。

*4 イギリス首相、ウィンストン・チャーチルの発言と言われていたが、現在では後世の創作であることが確認されている。

*5 当歳時に購入している為、その後購入した1歳馬などアイネスフウジンより前に出走させた馬はいる。