キンチェム(競走馬)

登録日:2023/12/29 Fri 23:15:00
更新日:2024/01/30 Tue 03:08:28
所要時間:約 22 分で読めます




Kincsem(キンチェム)(1874/3/17〜1887/3/17)とは、かつてオーストリア=ハンガリー二重帝国で生産・調教された元競走馬・繁殖牝馬。
19世紀所か競馬史上最強牝馬の最有力候補として真っ先に名が挙がる伝説的名牝にして、その圧倒的ではとても足りない戦績から神話生物の領域に片脚、否、半身は余裕で浸かってるハンガリーの至宝である。
なお、キンチェムとはハンガリー語で「私の宝物」的な意味合いを持ち、夫婦やカップル間で使うと「マイダーリンorマイハニー」みたいな意味になる。
後述の通り「私の」では済まなくなりました








血統背景

カンバスカンは英クラシック戦線で勝利こそしなかったが、2000ギニー2着・ダービーステークス4着・セントレジャーステークス3着と好走し、短距離重賞ジュライステークスなどの勝馬。
スプリント〜超長距離においてなかなかの万能性を示したことで種牡馬入りしている。

ウォーターニンフは英オークス5着馬ザマーメイドの娘で、ハンガリー1000ギニー*1の勝馬。ちなみに引退後は乗馬目的でオーナーに買われたが、周囲の説得で繁殖入りしたという経歴の持ち主。もしそのまま乗馬になってたら史上最強メスゴリラは産まれてなかった。
そして母父コッツウォルドはサーハーキュリーズの孫と、当時としては中々の良血統であった。

キンチェムはウォーターニンフの2年目産駒に当たり、元々はバッカニア*2という種牡馬が付けられる予定だったのだが、生産元の国立牧場が盛大にやらかしてカンバスカンが付けられたため誕生した、という経緯があった。
牧場のやらかしで最強無敵神話級ゴリウー爆誕とか、世の中本当に何が幸いするかわからんもんである。
何せ、当初の予定通りウォーターニンフが乗馬になってたらそもそも産まれてなかったし、仮にバッカニアが付けられたとして、今日語られるほどの神話生物級牝馬として君臨したという保証は神にさえできないのだから。





前史〜19世紀ハンガリー競馬の超大雑把な解説〜

競馬にあまり詳しくないアニヲタ諸氏におかれましては「え、ハンガリーって競馬強かったん?」とお思いであろう。安心していただきたい、ぶっちゃけ筆者もそうだったしどんな競馬ファンだって最初はそんなもんだ。
実際、現在のハンガリー競馬ははっきり言って弱小である。何しろパートⅢ国に名を連ねてない時期すらあったんだからもうね……。なお2023年現在はパートⅢ国。
ところがぎっちょん、19世紀のハンガリーは列強国オーストリア=ハンガリー二重帝国の片割れであり、その財力と帝室であるハプスブルク家のコネと権威に物を言わせて優秀な繁殖馬をガンガン輸入できたので、競馬強豪国を名乗って恥じない程度には強かった。何ならキンチェムの1世代前のキシュベルが英ダービー獲ってたくらいには強かった。
現在?05年クラシック世代のウーヴェルドーズが独伊重賞を4勝して「ブダペストの弾丸」って話題になったくらい……かなぁ?

以上書き連ねはしたが、要は「当時のハンガリー競馬は英仏とも渡り合える水準だった」とだけ覚えていただければよろしい。





生涯

誕生〜デビューまで

上記のようにまだハンガリーが競馬強豪国だった頃の1874年3月17日、当時20代の青年貴族エルンスト・フォン・ブラスコヴィッチ氏が国立牧場に預託していたウォーターニンフが1頭の牝馬を産んだ。これが後のキンチェムである。
ちなみに昔も今も馬産には莫大な金がかかる事から、由緒正しい馬産家は大体王侯貴族か豪商がやってる事が多い。以上余談。
ともあれ、1歳の頃にキンチェムはブラスコヴィッチ氏の所有するタピオセントマルトン牧場に移動し、どうやらここで馴致が行われたようだ。この頃の彼女は他馬と打ち解けられずぼっちをやっていたようで、いつもうつむき加減で半ば目を閉じていたらしい。

ところで、ブラスコヴィッチ氏は所有する1歳馬を個人取引でセット販売する方式を取っていた。なのでキンチェムも同期の6頭とひとまとめにされ、オルツィ男爵という貴族が購入する契約となっていた。
ところがこの男爵、キンチェムともう1頭の牝馬の購入を拒否したのである。なぜ要らん子扱いしたのか一応残っており、男爵曰く。

「ひょろっとしてるし栗毛の毛色悪いしこんなの走るわけないやろ。要らん」

だそうな。うーん、いつの時代どこの国にもいるガバ穴ダディーよりガバガバな相馬眼。
ちなみにこの頃のひょろくて弱っちそうな見た目はカンバスカン譲りだったそうな。

この取引より前とも後ともあやふやなのだが、キンチェムはある夜に一度行方不明になり、発見された時にはロマ(当時の記述によればジプシーだが差別用語なので……)の一団とともにいた。まあ要は誘拐されたわけだ。
で、取り調べの際に警察が「なんでこの馬を誘拐した?他にもっと見栄えのいい馬いただろ?」と問いただすと、ロマの一人がこう答えたという。

「確かに見てくれはそんなに良くねぇな。だが中身は相当なタマだったぜ、
だからあいつを選んだんだ。ありゃあ将来大物になるぜ」

このオルツィ男爵とは格が違う相馬眼(ガチ)な名も無きロマの予言が証明……どころかもっとぶっちぎったことになるなど、この場にいた誰も思っていなかっただろう。
そら普通はロマのおべっかだって思うわな

まあともかくそんなわけで、キンチェムはブラスコヴィッチ氏を馬主に競馬デビューすることになり、ロバート・へスプ調教師に預けられた。
なおひょろっちかったのは幼少期だけで、デビューする頃には体高16ハンド超のすらりとした馬体に成長していた模様。


2歳時〜至宝の胎動、神馬の目覚め〜

ここからは彼女の無双顕現な戦歴について記載していくこととなるが、何しろ映像記録なんぞ残っちゃいない時代の競馬である。
約150年前なのにあらかた記録が残ってるという時点でとんでもないが、散文的な事実の列挙以上になりえないことはご留意いただきたい。

※時々出走間隔がイミフ通り越してSAN値直葬なアレですが誤植ではありません、ご了承ください

というわけで初出走である。1876年6月21日、ドイツ開催の第一クリテリウム(ベルリン競馬場、芝1000m)で、生涯の相棒となるM.マデン騎手を背に後続に4馬身差つける圧勝でデビュー。
続いて7月2日のフェアグレイヒス賞(ハノーファー競馬場、芝1000m)を1馬身差楽勝。連闘で同9日、ハンブルク競馬場のクリテリウム(芝950m)を1馬身半差快勝。さらに同29日、エリネルンクスレネン(ドベラン競馬場、芝947m)を前走と同馬身差で勝利。なおこのレースでは129ポンド(約58.5kg)という2歳牝馬に課すもんじゃない斤量が与えられたが、ご覧の有様である。
月が変わって8月20日、ルイーザレネン(フランクフルト競馬場、芝1000m)を128ポンド課されながら10馬身差にちぎり捨てるフルボッコ。同31日、中1週で挑んだツーフンクツレネン(バーデンバーデン競馬場、芝1000m)を「不良馬場?何それ?」とばかり大差勝ち。

ハンガリーに舞い戻ってまるまる1ヶ月休養後、10月2日のボルガルデューユ(ショプロン競馬場、芝1200m)に挑みこれまた大差勝ち。続けて15日のケーテヴェシェックヴェルシェニエ(ブダペスト競馬場、芝948m)を半馬身差で勝利。
22日、オーストリアでクラッドルーバー賞(ウィーン競馬場、芝1600m)を連闘ながら10馬身差のフルボッコ。
さらに連闘で29日、チェコに移動しクラッドルーバークリテリウム(プラハ競馬場、芝1400m)を大差勝ち。

以上。10戦10勝で2歳戦線を終え、独帝国と二重帝国の両帝国を渡り歩き全戦全勝*3であった。
ゆーても欧州内の遠征でしょ?って思うかもしれないが、時は19世紀。当然ながら航空輸送などという気の利いたものはない。長距離陸上移動はどこに行くのも汽車である。そう、あのクッソけむくてうるさい汽車移動で、しかもガンガン連闘しまくってこれなのだ。
いくら比較的近隣国を渡り歩いたとはいえ、馬という生き物が大変デリケートという生物学的なアタリマエが通じてなさすぎる。
ついでに当馬は移動を苦にしないどころか見えると喜ぶレベルで汽車が大好きだったとか。
??????「「親近感を感じる」」

スプリントで大差勝ちだのマイル戦で10馬身差フルボッコだの、この時点で既に何かがおかしいどころか何もかもがおかしいが、残念ながら2歳時の成績は前座も前座である。
というか翌年からもっとおかしくなるので諦めていただきたい。


3歳時〜進撃のキンチェム

3歳となる1877年は4月27日、母国ハンガリーのトライアルステークス(ブラチスラヴァ*4競馬場、芝1800m)で始動。問題なく1馬身差で勝った。
続けて連闘で5月6日のハンガリー2000ギニー(ブダペスト競馬場、芝1600m)をぶっちぎりの大差勝ちすると、中1日でハンガリー1000ギニー(同競馬場、芝1600m)を1馬身半差快勝で母子制覇……いや中1日て。なぜそれで勝てるのか、コレガワカラナイ

さらに21日、中欧最強決定戦オーストリアダービー(ウィーン競馬場、芝2400m)では集結した強豪どもが束になってかかったが、大差で蹂躙されて乙。短距離のみならずクラシックディスタンスでも最強だと出走陣営にわからせた。
ここから中2日でトライアルS(同競馬場、芝1600m)を2馬身差、さらにまたしても中2日でカイザー賞(同競馬場、芝3200m)を10馬身差フルボッコという超連闘を敢行。だからなぜ勝てる、というかなぜ無事で済む?

ここまでスプリントでもマイルでもロングでもエクステンデッドでも余裕の最強っぷりを魅せつけているキンチェムだが、当然この程度では終わらない。
ドイツに移動し、ハノーファー大賞(ハノーファー競馬場、芝3000m)を6馬身差圧勝。続けてハンブルク競馬場に転戦、2週間後のレナードレネン(芝2800m)を4馬身差圧勝。
さらに4週間の短期休養を挟みバーデン大賞(バーデンバーデン競馬場、芝3200m)を3馬身差快勝。次いで中4日でヴェルトヒェン賞(フランクフルト競馬場、芝2400m)に殴り込み10馬身差フルボッコ。

ここからハンガリーに舞い戻ると、アラームディーユ(ショプロン競馬場、芝2400m)を連日出走で連勝し同一年内連覇という「何を言ってるのかわかんねーと思うが俺にもわからん」な異形、じゃなかった偉業を達成。どうも記録されてる出走馬数を見るに、マッチレースの連日開催という形だったようだが……。
さらに連闘でハンガリーセントレジャー(ブダペスト競馬場、芝2800m)を10馬身差にねじ伏せると、いつぞや以来の中1日でカンツァディーユ(同競馬場、芝2400m)を3馬身差制圧。何この強行軍と呼ぶのもおぞましいアレは、そしてなぜ勝てるし。

ここからまたまた中4日で臨んだフロインデナウアー賞(ウィーン競馬場、芝2400m)は他陣営が全力逃走し生涯初の単走を経験。
さらに中6日でカイザー賞(プラハ競馬場、芝2400m)を135ポンド課されながら1馬身差で仕留めると、マジでいい加減にしろよ中1日でカイザー賞(同競馬場、芝3200m)を単走勝利し、同一競走を二階級制覇というイミフ極まることをやらかした。

そんなわけで3歳時は17戦17勝。しかも連闘や中○日をこれでもかとこなしてこれである。頭おかしいどころじゃねーだろ陣営
そして平然と全勝で帰ってくるキンチェムは陣営のヒトミミ以上におかしかったわけだが。スレイプニルとかペガサスの親戚かなにかでらっしゃる?

ちなみにこの頃には同世代も古馬も牡馬も牝馬も束になっても一切関係なく勝ち続けるキンチェムの人気はいろいろと愉快なことになっており、出走と観客殺到がイコールで結ばれていた。
強すぎて退屈なんてのはスポーツや格闘技にまれにあるが、それも度が過ぎれば一周回ってカリスマ化するらしい。
また当時の二重帝国君主フランツ・ヨーゼフ帝も彼女の熱烈なファンであり、国内でキンチェムが走る際は万難を排してでも競馬場に凸し、勝利を見届けてはブラスコヴィッチ氏に個人的な祝福をしていたそうな。
なおフランツ・ヨーゼフ帝が「朕の愛馬が!!」と言っていたかは定かではない。まあ少なくともずきゅんどきゅんどころじゃなかったのは確かなわけで


4歳時〜英仏屈服〜

1878年、キンチェムも古馬として若き優駿からの挑戦を受ける立場になり、同時に3歳馬ゆえの軽斤量という恩恵もなくなった。
4月22日のエレフヌンクスレネン(ウィーン競馬場、芝1600m)を始動戦にシーズンインすると、144ポンド(約65kg)というエグい重斤量もものかは、2馬身差楽勝。続けて中2日でプラーター公園賞(同競馬場、芝2000m)を148.5ポンド(約67kg)課されながら3馬身差快勝。牝馬とは。
中1周でハンガリーに戻りアラームディーユ(プラチスラヴァ競馬場、芝2400m)を152ポンド(約70kg)課されながら5馬身差圧勝。さらに中1周でアラームディーユ(こちらはブダペスト競馬場、芝3200m)を148.5ポンド背負ってまたもや5馬身差圧勝。いやマジで牝馬とは。
ここから中1日でキシュベル賞(同競馬場、芝2000m)を153ポンド課されつつ3馬身差完勝。さらに中2日でアラームディーユ(同競馬場、芝2400m)*5でも153ポンド課されながら大差勝ち。

次いで連闘でウィーンに舞い戻りシュタット賞(芝2800m)を1馬身差押し切り、またも中1日でトライアルS(同競馬場、芝1600m)を大差勝ちし、続けざまに中2日でまたしてもシュタット賞(同競馬場、芝1600m)を5馬身差圧勝。馬とは。
ここまで1ヶ月ちょっとで9連戦というマジキチを超えたマジキチローテである。生きてるって素晴らしい……いやマジでなんで生きてるの?心臓の代わりにGNドライヴとか縮退炉か何か積んでて骨格がヴィブラニウムとかガンダニュウム合金か何かでできてらっしゃる?

さて、陣営はここから6月いっぱいまでをまるまる休養に、7月を移動に充てて汽車と船を乗り継ぎ遠征することにした。そう、英仏遠征である。祖国の上半期レースをあらかた総なめにしたこともあり、満を持しての競馬先進国挑戦となった。
そして8月、グッドウッドカップ(グッドウッド競馬場、芝21ハロン)に参陣。「ハンガリーの至宝・無双の女傑キンチェム来たる!」の報は英国の競馬ファンに「イキのいい挑戦者が来たじゃないか!」と大きな盛り上がりをもたらし、最強無敵の英国馬たちがいかにハンガリー最強牝馬をわからせるかが注目された。
実は輸入馬の系譜であるキンチェム自身はわりとゴリゴリの英国系血統だったりするのだが、まあそこは言わぬが花であろう

……ところが、当のグッドウッドカップは有力馬が軒並み出走回避しわずか3頭立て開催という有様に。これには英国競馬ファンも一同ズコー。
どうも「たかがハンガリーごときの馬に負けたら自分とこの馬の評価ガタ落ちして恥ずかしいし……」という理由だったそうな。お前ら某ギャルゲーのラスボスか。というか格下()相手に逃げた方が評価ガタ落ちな気がするんだが
なお本番では3頭立ての3番人気を鼻で笑うかのように2馬身差楽勝。ピノキオの鼻より高く伸びていた英国競馬界の鼻は無事根本からへし折られた。
その後17日かけて渡仏と調整を行い、ドーヴィル大賞(ドーヴィル競馬場、芝2400m)に出走し半馬身差で問題なく勝利。「ブリカスがハンガリーごときに負けやがってざまぁwwww俺らは勝つしwwww」とNDKムードだったフランス競馬界も無事顎が地面に落ちる羽目になった。

こうして英仏の欧州二大競馬強国を纏めて屈服させたキンチェムはドイツに移動し、連覇のかかるバーデン大賞に凱旋出走する。これまで何度も勝ち続けた相手が主な為、彼女の勝ちは揺るがないはずだった。
ところがここでマデン騎手が渾身のクソ騎乗オブザイヤーを披露。酔っ払った状態で馬に揺られて文字通り前後不覚であり、後方からハンデ差活かしてかっ飛んできたキンチェム永遠の2番手もしくは被害者の会会長プリンスジャイルズに気付かず振り切れずで同着入線してしまったのだ。
なおこの時、3着馬は25馬身彼方でヒーコラやってた
両オーナーが「こんな結末認められるかオルァ!!」とキレたため、休憩を挟んでマッチレース形式で優勝決定戦が決行された。この時野良犬に絡まれ出遅れるアクシデントに見舞われるも、あっさり振り払って(蹴り飛ばしたとも)またたく間に追いつき5馬身差圧勝で連覇達成。
鞍上がクソボケかまさなければいささかの敗戦要素すら存在しないことを改めて満天下にわからせた。
その後はハンガリーに帰国し、アラームディーユ(ソプロン競馬場、芝3200m)を大差勝ち。中2週で臨んだリターディーユ(ブダペスト競馬場、芝2800m)は他陣営逃亡で単走、もう何度目だこれ中1日でカンツァディーユに出走し連覇達成でシーズンを終えた。

ということで4歳時の成績は単走1回を含む15戦15勝(優勝決定戦含めれば+1だが含めない場合がほとんど)。競馬最強国英仏を含む6ヶ国を渡り歩いての無双プレイである。船に乗ろうが汽車に揺られようが犬に絡まれようが最強。どうやって勝てと。
なお、同年限りでマデン騎手が主戦騎手の座をボッシュートされている。まあバーデン大賞での醜態を超えた醜態を鑑みれば、残当以外に言いようが、その……。


5歳時〜ハンガリーの奇跡よ永遠なれ〜

マデン騎手ボッシュートにつきウェインライト騎手(資料不足につき詳細不明)に鞍上交代し、1879年は4月末のアラームディーユ(プラチスラヴァ競馬場、芝2400m)で始動。158ポンド(約71.7kg)というエグい通り越してグロい斤量だが、一切意に介さず8馬身差圧勝。
続けてブダペスト競馬場に転戦しカロイー伯爵ステークス(芝3600m)を単走。中1日でアラームディーユ(同競馬場、芝3600m)を160.5ポンド(約72.8kg)課されつつ2馬身差楽勝。さらに中1日でアラームディーユ(こちらは芝2400m)を168ポンド(約76.2kg)背負わされながら2馬身差つけて余裕勝ち。
ここから中1週でウィーンに移動しシュタット賞を10馬身差フルボッコで連覇。そしてまたしても中1日でシュタット賞(こちらは芝3200m)を2馬身差完封。

その後ベルリンへの移動期間込みで1ヶ月の休養を挟み、シルバナーシルト(ベルリン競馬場、芝2400m)を3馬身差快勝すると、フランクフルトへの移動を兼ねて2ヶ月の休養を挟み、エーレン賞(フランクフルト競馬場、芝2800m)を4馬身差圧勝。
ここから連闘で3連覇のかかるバーデン大賞(T.バズビー騎手に乗り替わり)に挑み、後続を3/4馬身寄せ付けず完封で同レース史上初の3連覇達成。

最後はウェインライト騎手に鞍上を戻すと中3週でハンガリーに帰還し、ショプロン競馬場のアラームディーユ(3200mの方)を単走。次いでブダペストに移動しリターディーユをこれまた単走。そしてまたまた中1日でカンツァディーユを10馬身差フルボッコ、こちらも3連覇達成。
なおこの後も陣営は現役続行する気満々だったようだが、キンチェムが同厩馬と喧嘩し脚を負傷したためそのまま引退となった。他陣営はキンチェムに喧嘩売った馬に足向けて寝られんのでは?

こんな感じで5歳時は12戦12勝だった。少ないと思うのは錯覚もしくは感覚の麻痺です。
これにて通算成績54戦54勝[54-0-0-0]。生涯完全連対かつ生涯無敗記録としては歴代最多である。この「昔だから」とかいうレベルじゃない連闘と過酷な遠征にまみれた戦歴で。
これが単なる連勝記録だとプエルトリコのカマレロが56連勝を達成してるのだが、こちらは77戦73勝と無敗ではない。


引退後

タピオセントマルトン牧場で繁殖入りしたキンチェムは、生涯5頭の産駒を出産。
初年度産駒ブダジョンジェは牝馬ながら独ダービーを制圧し、繁殖牝馬としてファミリーラインを形成。このラインはキンチェムから数えて13代子孫のポリガミーが英オークスを制し、その全妹ワンオーバーパーのラインからはモンジュー産駒の英国二冠馬キャメロットが出ている。*6
他にはハンガリーセントレジャー覇者のオッヤーンニチ、未出走ながら種牡馬として活躍馬を輩出したタルプラマジャル*7、こちらも未出走ながら名牝を送り出したラストクロップのキンチなどがいる。

キンチを産んだ後、キンチェムは疝痛を発症。奇しくも13歳の誕生日にこの世を去った。
彼女の死を報じたハンガリーの新聞は紙面を黒枠で囲む追悼仕様となり、各地に掲揚される国旗は終日半旗となった。またこの日、ハンガリー中の教会で追悼の鐘が鳴らされ続けたという。
死後、彼女の骨格標本はハンガリーの農業博物館に展示されており、観覧者を出迎えている。また生誕100年を記念しブダペスト競馬場がキンチェムパーク競馬場に改名され、銅像が建てられた。

なお、彼女の死後39日後に後を追うようにへスプ師もこの世を去っている。



エピソード

距離適性:万能(ガチ)

彼女を描いた絵、銅像、はたまた骨格標本。どれをとってもすらりとした胴長の馬体であることを示しており、少なくとも体型的な距離適性はステイヤー型であることが見て取れる。
が、前述の戦績から明らかなように、キンチェムは短いもので950m未満、長いもので21ハロン(4200mちょっと)というあまりにも多彩な距離を走りきり、そして勝ち続けている。
スプリントよし、マイルよし、インターミディエイトよし、ロングよし、エクステンデッドよし。まさかの現代競馬におけるSMILE区分完全制覇である。現代に蘇ってもどこかしらの距離帯で活躍できたのではなかろうか。

愛猫ナイチンゲール

キンチェムはナイチンゲールという白黒の雌猫と非常に仲がよく、どこに遠征するにも必ず彼女を連れていた。またナイチンゲールの方もキンチェムによく懐き、擬人化されたらキマシタワー建設不可避なラブラブっぷりだったそうな。
ところでこのナイチンゲール、英仏遠征時にも帯同していたのだが、フランス行きの船中で彼女がふらりといなくなってしまった。港に着いて2時間経っても見つからない。
取り乱したキンチェムは悲しげに鳴きながら波止場に立ち尽くし、見つかるまでテコでも動こうとせずゴネ倒す。しかしナイチンゲールがひょっこり姿を現すと、背中に飛び乗った愛猫に機嫌を直した彼女は何事もなかったかのように列車に乗り込んだという。

ちなみにナイチンゲール女史はネズミを追っかけ回して船内をパルクールしていたらしい。

ほのぼのエピソードあれこれ

キンチェムの担当厩務員はフランキーという若者で、姓のない身分の出身だった。
普段はマダオ(まるでだらしねぇお兄ちゃん)を地で行く奴だったようだが、職務というのを抜きにしてもキンチェムに献身的に尽くし、また彼女もそれを知ってかフランキー抜きには汽車に乗ろうとせず、彼が側にいることを確認せずに寝ることもなかった。
あるひどく寒い夜にキンチェムが目を覚ますと、フランキーが毛布もかぶらず自分の側で震えながら寝ていた。彼女はやおら自分の馬着を脱ぐと、それをフランキーにかけた。
その夜以後、フランキーがちゃんと防寒対策して寝ない限り、彼女は自分が馬着を纏うのを断固拒否するようになったそうな。
なおフランキーは後に従軍した際、同名人物が多いことから姓をキンチェムと名乗り、その後の生涯を「フランキー・キンチェム」で通した。また生涯独身を貫き、墓碑にもキンチェム姓で刻まれた。

馬主のブラスコヴィッチ氏はキンチェムがレースで勝つと、頭絡*8に花飾りを付けてやるのが習慣だった。
あるレースでのこと、表彰式にブラスコヴィッチ氏が遅刻してしまい、その間彼女は鞍を外すのを嫌がってゴネ続けた。馬主が到着して花飾りを付けてもらうと、ようやくキンチェムはおとなしくなった。
どうやら彼女はブラスコヴィッチ氏に花飾りを付けてもらうのが勝利の儀式だと薄々理解していたようで、それが遅れたため自分が勝ったという認識がなかった、あるいは祝福してもらわないと勝った気になれなかったフシがある。

キンチェム自身も花(特にヒナギク)が好きで、スタート前には必ず花を探していた(そしてもしゃもしゃしたとも)。
またスタート前にぼけっと考え事にふけることがあり、それで出遅れたレースもあったとか。まあ全部勝ってるんだが。
なお一度走り始めるとまるでどこがゴールか、何周すればいいのかなどをすべてわかっているかのように走り、そしてほぼ馬なりで勝ち尽くした模様。
身体能力や精神的タフネスのみならずレースセンスまで怪物とか、欠点is何……?

「無敗」の偉大さ

"生涯無敗"
競馬の世界において、この言葉の持つ意味の大きさは測り知れない。というのも、そもそも競馬は「勝ち続ける」ということがとてつもなく難しいスポーツだからである。だからこそギャンブルとして成立し、今日もどこかでオッサンの人生を狂わせているわけだが......

試しに、5戦以上戦ったうえで生涯無敗を貫いた日本馬を思い浮かべてみてほしい。ある程度知識のある競馬ファンでさえ、クリフジトキノミノルマルゼンスキーの三頭が関の山だろう。キタノダイオー*9を言えたあなたは誇っていい。
長きにわたる日本競馬史においても、(しっかり走りつつ)無敗のまま引退したサラブレッドは数えられるほどしか存在しない。皇帝英雄無双の閃光といった歴史的名馬でさえ、土をつけずに走り切ることは出来なかったのである。

世界に目を向けてみると、十数戦走ったうえで無敗を貫いた伝説的優駿は一応存在する。例えば、
  • イギリスやフランスといった競馬大国に積極的に遠征し、凱旋門賞キングジョージといった世界最高峰のレースで無双を続けた究極のサラブレッドリボー(16戦16勝)
  • 「マイルや2000mをスプリントG1以上のペースで走っている」「生物種としての格が違う」とまで言われた驚異のスピードを武器に、馬場不問、展開不問、相手不問の走りを披露し続けた"公式歴代最強馬"フランケル(14戦14勝)
  • 常識離れした筋骨隆々の馬体を武器に、いかなる斤量、いかなる舞台でも絶対に先着を許さず小さなミスが命取りになるスプリント戦において空前絶後の成績を残した最大最速最高のヒロインブラックキャビア(25戦25勝)
などが君臨している。

ただ、そんな神話的名馬でも10~20戦して無敗というのが一つの目安となっている。
怪我無く無事に引退させることが重要視されつつある今、54戦して無敗の馬というのは絶対現れないと断言していいだろう。
今のようなノウハウがほとんどなかった競馬黎明期に偶然現れてしまった特異点的怪物、それがキンチェムだといえる。







追記・修正は生涯無敗の方にお願いします。

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最終更新:2024年01月30日 03:08

*1 日本で言うところの桜花賞に相当するレース

*2 ハイフライヤー系最後の大物種牡馬と謳われた大種牡馬。東欧輸出前に残した産駒が大活躍してハイフライヤー系では最後の英リーディングサイアーを戴冠し、その後輸出先で計19回リーディングサイアーを戴くなど無双した

*3 現代の国境線に当て嵌めるなら、独、墺、チェコ、ハンガリーの4か国相当

*4 現在のスロバキア共和国首都。当時の名はドイツ語風のプレスブルク

*5 どうも当時のハンガリー競馬には同名競争が多かったらしいのでまたかよとか言わない。天皇賞的なタイトルだったのだろうか?

*6 ちなみにこのキャメロット、顔がキンチェムそっくりなんだそうな。隔世遺伝パねぇ……

*7 代表産駒のトキオ(東京の事)は34戦26勝(32戦23勝説あり)の好成績を残し、祖母に継ぐ人気を誇った

*8 手綱とハミを通じて馬を制御するための馬具。手綱に繋がった顔に巻かれてる紐みたいなアレである

*9 通算戦績7戦7勝、主な勝鞍に函館3歳S、北海道3歳S(共に当時)。類まれな素質を認められながらも怪我に悩みターフを去った幻の名馬。