飯野賢治

登録日:2024/03/10 Sun 11:32:52
更新日:2024/04/10 Wed 18:58:30
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飯野 賢治(いいの けんじ)(1970年5月5日〜2013年2月20日)は、日本の起業家。ゲームクリエイター(企画・脚本・作曲)。故人。
株式会社WARPの代表として、90年代中頃からのTVゲームの大転換時代に、若くして時代の寵児として持て囃されると共にゲーム業界に留まらず多数のメディアに取り上げられ、タレントとしても活躍したことで知られている。

また、クリエイター名として自身の名字の発音に合わせたENO(イーノ)とクレジットすることもあった。
2013年2月20日に高血圧を理由とする心不全により逝去。享年42歳。


【略歴】

それまでのドット絵による2D表現がされていたTVゲームの世界にて、先んじてポリゴンを利用した3D表現の時代が“家庭用ゲーム”にも来ると予見し、ドラマ性とリアリティを意識した謎解きアドベンチャー『Dの食卓』(95年)を世に送り出して注目を集めた。*1

その、日本人としては大柄で長髪に肥満体で顔つきや喋り方も特徴的……と、特異な見た目をしている時点で良くも悪くも非常に印象に残りやすい人物であり、その只者ではなさが余計に飯野の認知度を高めていったのは間違いないことだろう。 (それこそ、10人が見たら9人は初見でも名前か顔を覚えてしまえるだろう位に個性的な人物であった。)

尚、世間的には『Dの食卓』を引っ提げてポッと出できたように認識されている向きもあるだろうが、WARPの設立時点で弱冠23歳という若さであったのは確かだが、実は18歳の頃からゲーム作りに携わり、19歳の時には独立して下請けとして表には名前が出難かったものの、既に4年近くもゲーム業界に携わってきた人物であり、更に言えば中学1年生*2の時にはエニックス主宰のゲームプログラミング大賞で優秀賞を獲得、それ以前からパソコンで『パックマン』等の再現に挑んでいたパソコン少年であった。

そして、その飯野が始めて自分の作家性やキャラクター、そして代表となったWARPという新会社を前面に押し出したのが『Dの食卓』を世に送り出した(より正確には3DOに参入した)タイミングだったという訳である。

初めて、2Dドットゲームよりも3D表現を用いたCGゲームをメインに打ち出していくと宣言し時代の扉を開いた3DOは自らが開こうとした新しい潮流には乗れずに消えていくことになったものの、3DOの登場から1年程の後にセガサターン初代プレイステーションが登場。
この2機種により目論見通りに家庭用ゲームでも3D表現されたゲームが一般的となり、同時期よりプレステを擁するSONY(SCE)も“ゲームクリエイターの作家化”という流行を推し進めたのに伴い、それまでは本当に一部のクリエイターのみが名前を知られていたゲーム業界そのものにもスポットライトが当たることになり、先んじて名前を売っていた飯野が余計に注目を集めるようになった部分もあった。

また、そうしたクリエイター達の中にあっても自身のゲームに関する話題に留まらず、常に業界の未来や世の中に於けるゲームというのものを意識した発言をする人物でもあり、それが少なくない批判やトラブルを引き起こすこともあったものの、当人なりには常に真剣に考えた末での発言であり、それ故に熱狂的なファンも獲得できた。

『Dの食卓』の次回作となったのはサターンで発売された『エネミー・ゼロ』(96年)だが、このゲームの発売を巡って、プレステ版『Dの食卓』の出荷本数と流通を巡る件にてSONYの担当者とトラブルを起こして、以降はSEGAオンリーでゲームを出すことになったことでも有名。

『エネミー・ゼロ』もヒット作にはなったが、この件で更に作家性が尖ってしまい、志(盲目の人も遊べるゲームを作りたい)は高いものの世間的には困惑が大きかった『リアルサウンド〜風のリグレット〜』(97年)以降は、相変わらず話題は振りまくが業界の問題児・キワモノ的な扱いを受けるようになっていく。WARPが最大時でも全社員を含めても30人程の会社で、一つのゲームを作るのに全員が一丸となる形で他のクリエイターや別班による売れ筋のゲームを用意できなかったことも原因だろうか。
この97年には講談社より自伝『ゲーム super 27 years life』を発売。

そして、プレステとの戦いに敗れたSEGAが今度こそ流行に先んじるべく送り出したドリームキャストにて、長らく予告していた『Dの食卓2』(99年)を発売。
本作は飯野が自信を見せるのに違わぬ映像美や技術力が込められた作品……ではあったものの、作家性が極まりすぎていた為かシナリオの電波度が高く、ゲームそのものは普通に遊べる、受け入れられやすそうな方向性なのに余りユーザーからの評価を得られなかった。
更に、対応ハードのドリキャスのトラブルによる普及の遅れもあってか売上はスマッシュヒットはしたと予測されるも新技術に投資したことを考えると十分なものだったとは言えず、飯野はひっそりと業界から姿を消していったのだった。

以降は社名をスーパーワープ→フロムイエロートゥオレンジと変えつつ存続させるも誇りを持っていた筈のゲーム作りからは離れ、ネットワーク事業やデパート用のタッチパネルの開発等を行っていたとされる。
一方で、散発的には個人でも活動しており2003年には講談社の『ファウスト』創刊号にて清涼院流水と組んで小説家デビュー。
2004年には朝日新聞で人生相談のコーナーを持った。

2008年には『moon』を送り出したゲームクリエイターでもある西健一と共同開発したiphonese/iPad Touch用アプリ『newtonica』をリリースして好評を得る。

2009年にはWii用ソフト『きみとぼくと立体。』の企画とディレクションを担当して久しぶりにゲームに関わった。

2011年には幻冬舎より『息子へ。』を出版。

常に、作り手である自分と共にユーザー自身もクリエイターになることを望んでいた飯野はネットワークが発展してきた世の中の変化を喜び積極的にTwitter(X)等での発信を行い、このTwitter上でのやり取りからFIELD OF VIEWの浅岡雄也、GLAYのHISASHI、電子音楽作曲家のAoki takamasa等と交流を持ち、お互いのパートのデータを交換し合って一つの楽曲にするネット上で成立するバンド『Norway』に参加したりと当人も新しい方向性の活動を続けていた。

そんな中、晩年には炭水化物抜きダイエットを実行する等して相当に痩せていた一方で長年の持病となっていたと言われる高血圧を理由とする心不全により2013年2月20日に東京の自宅で逝去。
既に世間では多くの人々に“忘れられていた人物”である一方で、当時を知る人間からはいつか復帰してくれることを望まれていた男との別れとなった。

そして、没後10年を経て当時のWARPスタッフや『〜風のリグレット』でシナリオを担当し、飯野が希望していた“300万本売れるRPG”でもシナリオを書くように依頼されていた脚本家の坂元裕二らが飯野との思い出を語り、改めて飯野の功績とゲーム業界に留まっていたら……という話題が盛り上がった。


【人物】

東京都荒川区出身。
しかし、物心が付いた頃に父親の仕事の都合で埼玉県越谷市に引っ越し、独立するまでをここで過ごすことになる。
引っ越し先では既に近場の幼稚園が定員いっぱいになっていた為に高度な教育を受けさせてくれる少し遠くの幼稚園に通うことになり、そこで後年に高IQと評された地頭の良さが育てられる。

小学2年生の時に母親が失踪。
中学1年生の時に一度だけ帰ってきたが父親に金の無心に来ただけで翌朝には再び消えており、マクドナルドを手土産にしていたことと合わせて“お前はファストフードか”と思ったといい、内心は傷つきつつも表立って母親のことを話題に出さなくなる。

幼稚園で基礎学力を高めた賜物か成績はよかったそうだが同時に問題児ではあり続け、中学生ともなると毎日のように職員室で正座をさせられていたような生徒だったという。
小学生の頃からビートルズとY・M・Oにハマり、秋葉原にもよく足を運んでいたことから父親に無理を言って電子音楽を鳴らす為にパソコンを買ってもらうが、それが高じてプログラミングも学び、前述のゲームプログラミング大賞での入賞に至り、この時の賞状を父親が貼っていてくれたことがきっかけで後にゲーム業界に飛び込むことになった。

中学時代は最初こそ体育会系のバカ教師に出会い辟易したというが、その後の教師運には恵まれ、バスケットボール部を退部して以来は帰宅部だったのがブラスバンド部に入ることになり熱中すると共にクラシックへの造詣を広めたり、別の先生の勧めで哲学を読み始めるようになる。

高校は内申が悪すぎて絶望的と言われていた上に真っ先に滑り止めで合格した川越の進学校があったことからその後の受験をサボってしまい、結局はその学校に入学。
しかし、満員電車での通学の酷さから自転車通学に変えたのが悪かったのか学校に向かわずに付近の散策をしたり、バンド活動に熱中したり、市民ブラスバンドに参加したりしている内に高校は中退。

以降はそれなりに稼げる工場勤務でアルバイトしつつ趣味の旅行と読書と音楽に興じる日々を過ごしていた。

一方、学歴の為に大検を受けるが失敗。
流石にショックを受けたというがこれを機に前述の通りに下請けゲーム会社に入社。
プログラマーとして雇われるも規格がMS-DOSに変わっていたのでプログラミングではやっていけなかったが、まずは作曲、そして企画とシナリオを手掛けるようになる。
約1年後に会社の規模は大きくなっても待遇面での改善がされないことに不満を持ち年の近い同僚と共に独立。
最初は企画屋のようなことをやろうとしていたというが、HAL研究所のイケダ部長の勧めで会社法人を作るように進められて“EIM”を設立して19歳にして社長になる。
EIMでは『わんぱくコックんのグルメワールド』のように一部で有名なオリジナルゲームも出したものの、基本的には相変わらずのバンプレストの下請けのキャラゲーが多く、会社は軌道に乗り資金は増えたもののこの時のフラストレーションが後に「版権、続編、移植はゲームの三大悪」と本人も座右の銘のように繰り返すようになった。*3

そして、フラストレーションを溜めた末に代表でありながら出社を拒否するようになり見捨てるような形でEIMを潰す。
その後、共同創始者の一人であったミウラ氏のみには連絡を取り、そこから徐々に人を集めていき“WARP”を設立し、前述の『Dの食卓』の発売に至るのであった。

また、3DOに参入したのが縁で日本での販売を手掛けていた松下電器に通う中で担当者であった後の奥様から熱烈なアピールを受けることになり、当人も悩んだと言いつつも貯金を食いつぶしながらの遠距離恋愛を経て25歳で結婚。
2男を授かっている。
生前は積極的に家族旅行に出る等、元々の旅行好きらしい善きパパさんだったという。


【主な著作】


インターリンク時代

  • 『ウルトラマン倶楽部2 帰ってきたウルトラマンクラブ』
  • 『SD総決戦 倒せ!悪の軍団』
  • 『獣王記(FC版)』

EIM

  • 『ぱられるワールド』
  • 『たいむゾーン』
  • 『わんぱくコックんのグルメワールド』
  • 『アドベンチャークイズ カプコンワールド2』
  • 『みやすのんきのクイズ18禁』
  • 『Casino Kid 2』

WARP

  • 『宇宙生物フロポン君』
  • 『宇宙生物フロポン君P!』
  • 『突撃機関メガダす!!』
  • 『Dの食卓』
  • 『おやじハンターマージャン』
  • 『フロポンワールド』
  • 『ショートワープ』
  • 『エネミー・ゼロ』
  • 『リアルサウンド〜風のリグレット〜』
  • 『D2/Dの食卓2』

フロムイエロートゥオレンジ

  • 『きみとぼくと立体。』


【余談】

  • 自他ともに認める頑なな性格の持ち主として知られ、自分と気の合う仲間だけいればいいと考えるタイプ。
    それ故に名声を得ると共に親交を持った元namcoの遠藤雅伸が『エネミー・ゼロ』のテスト版をプレイした際に「(せっかく新規性のあるゲームなのに)難しすぎてやる気が起きない」と言われても頑なに変えなかった。
    同じく、当時のCAPCOMの開発部長だった岡本吉起からも「もっと遊ぶ客のことを考えるべき」と忠告されたが受け入れなかったが、奇しくもこの指摘は『Dの食卓2』でも同じ評価を受けることになってしまった。

  • その岡本からは共にイベントに参加した際に岡本の「ゲーム開発者にゲーム好きはいない」との発言に対して「俺はゲーム好きだよ」と反論した際に「だからお前だけは二流なんだよ」と言われたことに本気で怒り、携帯電話から電話番号を抹消した。

  • 任天堂の宮本茂に噛みつくことが多かったが、宮本茂のゲームこそ王道と思っているが故に大人に歯向かわなければいけなかった若者の義務のようなものを感じていたのではないかと分析されている。

  • 一番の業界紙として有名な『ファミ通』とは当初は友好な関係だったものの『エネミー・ゼロ』(『〜風のリグレット』説もあり)を酷評された際の「『エネミー・ゼロ』(『〜風のリグレット』)を評価するなら10点満点か評価不能にしろ」と批判した一件にて悪化して以降は飯野当人を取り上げる機会が無くなったと言われる。

  • WARPでの活動をしばしばバンド活動に例えており、毎日放送製作の『情熱大陸』の出演の際にもナレーションに言わせている。





追記修正は『300万本売れるRPG』を完成させてからお願い致します

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最終更新:2024年04月10日 18:58

*1 より正確には、既にnamcoやSEGAはアーケードにてポリゴンゲームの開発の実績は作っていたし、他の老舗メーカーも研究は進めていた。飯野はその中で最も世に出すタイミングが早かったと言うべきであろう。

*2 開発自体は小学6年生の頃から。

*3 とはいえ、当人も『Dの食卓』や『エネミー・ゼロ』を他機種でも展開したことについてはツッコミを受けている。…もっとも、批判する人間は飯野のこうした経歴を知らずに言っている人間が殆どなのであろうが。