ザ・グレート・ムタ

登録日:2024/03/13 Wed 14:16:23
更新日:2024/04/07 Sun 23:39:43
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The Great Mutaは1989年4月2日米国のルイジアナ州ニューオーリンズ・ルイジアナ・スーパードームにて誕生(デビュー)したプロレスラー。

日米を股に架けた天才プロレスラー武藤敬司悪の化身と呼ばれる。

2023年1月22日に現世での宿主である武藤敬司に先駆けて引退マッチを行い、魔界に帰還した。

漢字表記は愚零闘武多

また、テーマ曲は本体である武藤のテーマ曲を和風アレンジされたものが用いられ、技名も和訳・漢字表記になる。
ムタ本人は喋れないという設定の為に、後述の“パパ”であるカブキの引退時等を除いては本体の武藤が代理で会見やインタビューに応える。


【誕生までの経緯】

元々は武藤が最初の凱旋帰国に失敗(というよりはUWF勢が出戻った当時の新日本プロレスでは武藤の望む純プロレスが出来なかったことから。)したことにより、88年1月に自主的に二度目にして無期限の海外遠征に出たことがきっかけとなった。

武藤はプエルトリコの大物プロモーター・カルロス・コロン(後にWWEで活躍したカリートのバパ)のWWC*1に定着し、前回の遠征と同じくニンジャキャラの“スーパー・ブラック・ニンジャ”を名乗り所属。
それに目を付けて後のWCWの前身となるジム・クロケット・プロモーションズに勧誘したのが、かのザ・グレート・カブキをプロモーションした名マネージャーのゲーリー・ハートであった。
ハートは、武藤に“カブキの息子”のギミックを与えると、コスチュームはそのままにハンサムな顔面をペイントで隠した“ザ・グレート・ムタ”をプロデュース。
因みに、ムタとは英語では“武藤”を正確に発音出来なかったことから、その時に聞こえていた“Muta”をそのままリングネームにしたものであり、つまりは直訳すると偉大な武藤である。(表記もあやふやで“Muta”になっていたのをそのまま使ったという説もある。)

日本人でありながらナチュラルにスーパーヘビー級と呼べる体格ながらも、やっぱり海外でも異常なレベルの運動能力を活かしたローリングソバットやムーンサルトプレスにカブキ譲りの毒霧といったムーブにより話題を呼んだムタこと武藤は瞬く間にスター選手となり、何とNWA世界王者リック・フレアー、肉体美と溢れる才能と努力で若くして頭角を現したスティングに続くNo.3の座を獲得。

こうして武藤は、異国の地にて若くして少年時代のロック様も憧れた名レスラーとなったのであった。*2

続いて、もう一つのメジャーであるWWF入りも考えていたという武藤だったが、1年程の活躍の後(90年4月)に坂口征二社長より日本に呼び戻されることになり、以降は先んじて帰ってきていた蝶野と橋本と共に三銃士のエース路線が展開されることとなり、渋々ながらも武藤も日本を主戦場としていくことになったのであった。

尚、WWF(WWE)への登場は武藤の引退まで遂に果たせず、未登場に終わったWCW系の最後の大物と呼ばれたが、23年にWWE殿堂に迎え入れられた。


【日本でのムタの変遷】

ムタが日本に初登場したのは90年9月のサムライシロー(越中詩郎)戦であったが、これはムタ(武藤)史上で見ても伝説的な大凡戦となったことで有名である。

……と、言うのも前述の通りで元々のムタとは海外でウケそうな扮装をしただけの武藤であり、武藤人気と共に高まった「ムタが見てみたい」という要望を叶えてはみたものの、単にコスチュームと毒霧だけではインパクトを与えることが出来なかったのである。

しかし、これにプライドを傷つけられた武藤は1週間後の馳浩戦にて伝説的な大流血戦を展開……普段の武藤からは考えられない余りの無法ぶりと額を割られた馳の流血量から観客席からは悲鳴が挙がった。*3

何れにせよ、この試合にてムタを開眼させた武藤は、以降の試合ではムタとして出場する時には普段の武藤とは全く違う試合を行えるようになり、それに伴い武藤とは別にムタ人気も高まっていくことになった。
余りにムタの方の人気が高まりすぎて*4“嫉妬”した武藤が封印宣言をしたこともあったものの、その後は武藤として新日本のエースと呼べる活躍をしたことから96年4月の新崎“白使”人生戦にて復活。
この試合は、ムタ史上に残る名勝負として記憶されており、WWF帰りとはいえ本来は年齢、キャリア、体格からもレスラーとして武藤と並び立つには厳しい筈の人生のキャラと魅力を最大限に引き出しつつもムタが圧倒して勝利するという理想的な構図に。
……特に、人生の額から溢れ出た血で卒塔婆に”の文字を描いてTVカメラに向けたシーンは現在では発禁物になりかねないパフォーマンスであった。

以降は、再びビッグマッチでのムタの登場も増えていったが、これ以降は武藤も余裕を持ってムタに変身できるようになった。

相変わらず特別感のあったムタだったが、97年6月から9月にかけては“グレート・ムタ”として盟友・蝶野正洋が展開していたnWoジャパンに加入して毎試合をムタとして出場して小川直也と異種格闘技戦を行ったりG1クライマックスにもムタのままで出るという意外な姿を見せた。

結局、ムタのままでは不都合が出るので10月からは武藤としてnWo入りしてベビーでもヒールでもないポジションとなったものの、これに伴い“パパ”であるカブキの引退試合に華を添えるべくタッグを結成する等、ムタも単なるベビーやヒールを越えた特別枠となっていく。


【全日本プロレス以降のムタ】

その後の武藤は蝶野の負傷欠場後のnWoジャパンを支えつつ自身もIWGP王者としてエースの責務を果たす一方で、総帥・アントニオ猪木のプロレス業界への最接近に伴う新日本プロレスの迷走の開始に直面すると逸早く海外に逃げてムタとしてWCWに復帰。
……しかし、00年頃にはWCWも末期状態となっており1年後には帰国した。

この時の日本での復帰を新日本ではなく猪木の主導する大会(『INOKI BOM-BA-YE 2000』)で行ったことで蝶野に疑われてしまったりもしたが武藤としては相変わらず“普通のプロレス”が出来る場所が欲しかっただけのようで、御大・ジャイアント馬場の逝去に伴い浮き彫りとなった対立から選手の大量離脱騒動を起こして存続の危機に陥る中で新日本に接触を図ってきた全日本に参戦する中で“普通のプロレス”が出来る全日側に傾いていき、遂には小島聡とケンドー・カシン、有力なフロント5名を連れて全日本に移籍してしまい、新日本が暗黒時代に突入する要因の一つを作ってしまうことに。

全日本の内情の予想以上の酷さには武藤も驚いたというものの(近年では武藤の無責任ぶりも明かされてきているが)武藤も新社長にしてエースとして活躍。
そして、2002年には全日本でもムタが復活。
この時のファンの大きな話題にして議論となっていたのは00年末の日本復帰にてスキンヘッド(ハゲ)となった武藤がどうやってムタになるのか?ということだったのだが、これ以降は毒蜘蛛をモチーフとしたハーフマスクにペイントを組み合わせた新スタイルのムタとして復活。
コンスタントに試合を行うようになった。(ムタの復活以前にはチームを組んでいた人生に肖った僧侶スタイルで麻雀好きであることから命名された“黒師無双”を名乗った変身を見せたりしていたのだが殆ど武藤と認識されていた。)

ムタとしてボブ・サップや曙とも対戦する等していたが、特に07年のハッスル!での活躍が話題となっており、ハッスル!を席巻していたインリン様(インリン・オブ・ジョイトイ)との対戦にてインリン様のM字固めを切り替えして股間に毒霧を噴射。
このムタ(武藤)の天才的な閃きからインリン様が“ご懐卵”したというストーリーが作られ、なんとムタの“息子”としてモンスター・ボノ(曙)が誕生。
ムタ、インリン様、ボノの揃い踏みも実現した。

08年には久々に新日本プロレスに復帰。
次世代の主役の一人であった後藤洋央紀に勝利。

13年からは武藤が全日本を離脱してWRESTLE-1を旗揚げしたのに伴いムタも移籍。
新日本の他、米国TNAにも参戦した。

19年11月にプロレスリング・ノアに初参戦。
20年にWRESTLE-1が活動停止したのに伴い、以降は武藤と共にノアを主戦場とするようになる。

22年6月に武藤が引退を口にする中でムタも含めた引退ロードが発表。
23年1月にかつての米国時代のライバルであるスティングとダービー・アリンと組んで白使、AKIRA、丸藤組に勝利。

23年3月には、遂に現役時代には登場できなかったWWEにてWWE殿堂に迎え入れられた。
インダクターは米国時代のライバルであり大先輩であり友人でもあるリック・フレアー。


【コスチュームの変化】


初期

誕生初期は武藤がニンジャキャラだったこともあってか、元々のニンジャ風パンタロン+ペイントであり、日本での初期イメージもほぼそのまま。
入場時には頭巾で顔を覆い、その日のペイントの色を隠していた。
ペイントは“色々と試した”とのことだが、最終的には昔の武藤のハンサムでシャープな顔立ちに合わせて両頬に“忍”と“炎”と描くパターンで落ち着いた。(米国時代は“忍”と“者”だった。)
尚、ペイントは自分で鏡を見ながらしていたので“忍”の字が反転していたことでも有名。

中期

“白使”戦で復活して以降は初期からのスタイルを踏襲しつつも、装束が更に派手になり特に頭巾がオーバーボディと呼びたくなるレベルに派手になった。
ムタとしてnWoジャパン入りした時にはペイントで“nWo”と書いたnWoムタにもなった。

後期

90年代中頃には隠せなくなっていた“カッパ状態”が進行した末に00年末の日本復帰試合にて遂に本体の武藤がスキンヘッドになったのに伴い、毒蜘蛛モチーフのマスクを付けるように。
ペイント時代を知るファンからは「ペイントのが良かった」と言われるが……どないせえと言うんや


【主な得意技】

キャリア初期はまさに「忍者」と呼ぶにふさわしい派手で大胆なムーヴを持ち味としていたが、程なくして反則技を織り交ぜた巧みなインサイドワークと華麗な大技で緩急を付けた、独自のスタイルを作り上げた。
※ファイトスタイルは大きく違うものの(特にペイント時代)、必殺技に関しては武藤を基本としつつも表記が日本語訳・漢字表記になっている。

■月面水爆固め
ムーンサルトプレス
武藤としては勿論、ムタとしても最大の必殺技であった。
尚、米国ではムーンサルトプレス自体の通称が“ムタ・プレス”となっておりムタの技として認識されてもいたり。
00年にWCWに再登場した時には扱いが悪かったにもかかわらず試合では「これで決めてくれ」と言われたらしく、90年代後半以降は既に両膝が悪いのが知れ渡り目に見えて影響も出始めていたのに律儀に毎試合の決め技として余計に膝を痛めてしまった、とのこと。

■閃光妖術
シャイニングウィザードのこと。
和訳、及び黒師無双が使うと“閃光魔術”だが、ムタが使うとこの技名になる。
マスク時代以降は武藤と同様にメインの必殺技となっていった。

■ドラゴンスクリュー〜足4の字固め
95年のUWFインターとの対抗戦に於ける高田延彦との対戦以降に武藤のメインの決め技、攻撃パターンとなった技をムタも使用。
ペイント時代に蝶野とWCW遠征していた時には武藤との差異の為か4の字固めではなくアキレス腱固めに繋いでいるのを確認出来るが、後には膝の悪化の影響もあってか武藤もムタも使える技が限られる→ファイトスタイルに変化が付け難くなったこともあってか普通に4の字固めを使用するようになっていった。

■毒霧
“パパ”ことザ・グレート・カブキのパフォーマンスを引き継いだものだが、ムタは更に明確に攻撃手段の一つとして用いており、その噴射のタイミングやえげつなさも話題に挙がるようになっていった。
後に、同じく米国メジャーであるWWEで活躍したTAJIRIやASUKAも引き継いでいるが、カブキが正当な後継者と認めているのはムタとTAJIRIのみ、自分をも越える独創性を称えているのはムタのみである。
色はカブキが最終的にたどり着いた“緑”と“赤”をムタも踏襲。
上述のように発射タイミングが抜群で、技の切り返しとしても頻繁に使用。前述のようにインリン様の股間も染めた。
“毒霧”雪崩式フランケンシュタイナーという、聞くだけでもエゲつない大技が飛び出したこともある。

■ブレーンチョップ
武藤の一飛びでトップロープに乗った後にミサイルキックを放つ動きから、ムタはチョップを放つことが多かった。

■拝み渡り
新崎人生からラーニングした技で、難易度が高いと思われるこの技を、膝が悪いはずなのに高い運動神経で簡単に模倣してしまった。
“黒師無双”も使用。

■各種反則
リング内外で様々な反則を行うが、あからさまな反則というのは少なく凶器の使い方もなかなかに独創的だった。
大舞台(大会場)での花道ラリアットやリング設営用のロープを使ったターザン攻撃等を見せたことも。
頻繁にリング下に潜り込んで姿を消す動きもムタが広めた動きだったりする。


【主な類似・模倣レスラー】

その、余りにもキャッチーで真似しやすそうな変身方法から多くのレスラーがムタの模倣をしている。

■ザ・グレート・カブキ
偉大なる“パパ”にして、元祖オリエンタルレスラーであり、東洋風ペイントレスラー。
カブキのみは寧ろムタのオリジナル……と言うべきだが実際にはペイントのデザインやファイトスタイルの点でカブキとムタは全くの別物である。
ただし、米国時代のムタがローリングソバットや当てることは無かったもののキレ味のいい回し蹴りを披露していたのはカブキへのリスペクトだったとのこと。

■GREAT MUTA
02年の新日本プロレスにて、元チャイナのジョニー・ローラーがボディガードとして連れてきた偽物と、04年の全日本プロレスに登場した偽物が存在。
後者は正体がジョニー・スタンボリーだと明かしているが、前者は不明である。

■ザ・グレート・ニタ
大仁田厚が変身。

■愚零斗狐士
小島聡が変身。

■グレート・ルタ
TARUが変身。

■グレート・ボノ
曙が変身。

■グレート・カズ
宮本和志が変身。



追記修正は毒霧からの編集オリエンタルマジックデお願い致します。

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最終更新:2024年04月07日 23:39

*1 尚、武藤が所属していた88年7月にコロンによるブルーザー・ブロディの刺殺というプロレス史に残る事件が発生している。そして、この同月には闘魂三銃士が初結成されてもいる。

*2 尚、ロック様は憧れだったムタとプロレスは出来なかったが顔を合わせる機会があった武藤から電話番号をゲットし「俺はムタの電話番号知ってるんだぜ!」と自慢しまくっていたとか。…因みに、WWEでトップ張っていた現役時代の話である。

*3 余談だが、奥様(元タレントで蝶野の同級生だった芦田久恵)が交際中に両親を連れて観戦に来たのがよりにもよってムタの試合でドン引きされた上に「結婚を考えろ」と言われたというエピソードがあるが……この試合だったのだろうか?

*4 実際、一時期はビッグマッチは武藤ではなくムタばかりで、IWGPシングルの初戴冠もムタとしての方が先だった。