「……よかった」

静寂が訪れた後、エリナ・ジョースターはほっと息を吐き、そう言った。
そしてそう言い終わった後に自分でも何にホッとしたのかわからず、首をかしげた。
洞窟内に反響した数々の名前。その中で夫の名前が呼ばれなかった事は彼女にもわかった。
けれども夫の名前が呼ばれなかったからと言って、一体何を安心することがあるのだろうか……?

「―――……あ、頭が」
「エリナッ!」

答えはわからなかった。だがその事を考えていると突然鋭い痛みを頭に感じ、彼女は思わずよろめいた。
青い顔で立ちつくしていた男は慌てて彼女の体を受け止める。
うろたえた様子で彼は妻の名前を呼び、頬を撫でる。彼女は弱弱しく微笑むと、そんな男に向かって笑いかけた。

大丈夫、何でもないの。ただ少しめまいがしただけ。
少しでも心配かけまいと彼女はそう強がった。
しかしその強がりは容易に見透かされたようだ。地上まではもう少しのとこだったが、大事を取って休みを取ろうと男は提案した。

手ごろなサイズの石を見つけると、彼はエリナを優しく導き、その上に座らせてやった。
背負っていたデイパックから透明な水筒を取りだすと彼女に向かって恭しく差し出す。
少しばかりに自分が情けなく、また男の優しさが大袈裟な気がして、エリナは困ったように笑った。
だが決して嫌ではなかった。『ジョナサン・ジョースター』のそんな優しさを、彼女は何よりも愛していた。

「ありがとう、『ジョナサン』」

彼女がそう言うと、男はぎこちなく笑う。
そのことに少しだけ違和感を覚えたが、そのことを考えるとまた頭痛がひどくなりそうな気がしてエリナは考えるのをやめた。
喉を潤し、呼吸を整える。夫にも休憩を取るように薦め、彼女は席を譲るように立ちあがった。

全然疲れてないよ。僕は平気さ。
そう言う夫を半ば強引に座らせ、それでも強情を張ろうとするので、終いには拗ねた振りを使ってまでエリナはなんとかして夫に休息を取らせようとした。
困ったような表情を浮かべる『ジョナサン』。それでも夫にニッコリ笑いかけてやると、彼も観念したように笑い、そして隣に座った。
エリナは笑った。夫に身体を預け、その体温を感じながら彼女は和らかな笑みを浮かべた。

自分は何故こんな暗い洞窟を歩いているのだろうか。
未だ記憶はあやふやだし、どこに向かい、そして今ここがどこなのかすらわからない。
だが隣にはこの世で一番愛する夫がいる。この世で一番頼りになる男がいる。
それだけわかっていれば他に何が必要だろうか。『ジョナサン』がいるならばどこにだって行ける気がした。

なぜなら彼女は『ジョナサン・ジョースター』の妻なのだ。夫に寄り添い、夫を支える。それが妻としての役目だろう。
ならばここが例え真っ暗闇の洞窟であろうと。大船眠る海の中であろうと。私は歩いて行ける。どこにだって行ける。
それこそ、この行く先が地獄の釜の中だとしても。

「私は幸せです。夫とともに生き、そして死ぬ。私はそれだけで幸せなのです……」

エリナはそっと目を瞑り、囁くようにそう言った。
男の体に緊張が走る。目を開いて見上げれば、彼の顔は強張っていた。
エリナは不思議そうに首をかしげた。何か間違ったことでも言っただろうか。夫婦の愛を言葉にしただけなのに、彼は石のように固まっていた。
今さら照れ隠してでもするような関係ではあるまい。一体どうしたのだろう。不審に思ったエリナが声をかけようとした、次の瞬間。

猛獣の唸り声のような響き、そして風を切る物音。
男がエリナを突き飛ばすのと同時に、一人の影が…… ――― 突如として、二人に襲いかかってきた!






「『ジョナサン』ッ!」

狭い洞窟内、幾つにも増幅されたエリナの声が男の鼓膜を揺さぶった。
途端、脳裏に走る鋭い痛み。だがそんなことに気を取られてはいられなかった。
気をとられて戦えるほど、やわな相手でなかった。

右から横薙ぎで迫る鉄槌を海老反りのような形で間一髪、かわす。
反撃に出ようとするも闇に目が慣れてないのもあり、ジョセフの初動が遅れる。
再び迫る鉄鎚。カウンターは間に合わない。青年は無理せず撤退を選択した。とりあえずは相手を見極めなければうまく戦うことすらできやしない。
狭い洞窟、壁を上手く利用していく波紋戦士。ジョセフは大きく跳ね、壁を蹴り、器用に相手を飛び越えた。
固い地面を転がりながら、勢いを殺し、ようやく一息つくジョセフ・ジョースター。遠く離れたところでエリナがほっと安堵の声を漏らすのが聞こえた。


互いに間合いを伺う微かな時間。相手は動かず、ジョセフも動かず。その時間を利用して彼は闇に浮かんだ男の顔に目を凝らす。
見知らぬ相手であった。顔をあげてみれば目の前に立つ男は憎悪のこもった眼差しで自分を睨みつけている。
だというのに彼が誰であるのか、ジョセフには全く心当たりがなかった。


(……いや、違う)


ジョセフは唇を噛み、危うく口から飛び出るところだった言葉を押しとどめる。
アンタ、まさかお爺ちゃんの知り合いなのか。まさかアンタ“も”俺のことを『ジョナサン・ジョースター』と勘違いしてるのか。
そう問いかけてやりたい衝動をジョセフは堪えた。そう問い質してやりたかったが、彼は口をつぐんだ。
そうするわけにはいかない。少し離れたところで立ちすくむ祖母の前で、そんな言葉は口が裂けても言うわけにはいかない。

ジョセフの身体をどっとした疲れが襲う。盛大にため息を吐きたい衝動をなんとか我慢した。
本日何度目になるかわからない、言葉にならない怒りのような悲しみのような感情。
或いはそれは苛立ちだったのかもしれない。虚しさだったのかもしれない。

ジョセフにとって騙すという行為は得意技だ。嘘をつくなんてことも日常茶飯事だ。
だが決して! 決して祖母の前だけでは! 彼は嘘をつかず、自分を偽らず、いつだって素直な孫であり続けてきた。
それを許さなかったのは他でもない、エリナ・ジョースターだったのだから。


もう考えるのはよそう。頭をよぎるいくつもの雑音。身体をがんじがらめに捕える数々の言葉。
ジョセフの苦悩は色濃かった。迷いに膝をつきそうになるほどに、青年は抱えきれないほど多くの物を背負わされていた。
波紋の呼吸を思い出せ。ジョセフはゆっくり、大きく息を吐く。心に平静を取り戻せ。
独特の呼吸音を聞いて対面の男の顔が大きく歪んだ。
構えなおした鉄鎚が妖しく光る。勘違いしているならばそのままでいい。どちらにしろ、戦いは避けられない。


(おばあちゃんを傷つけさせるわけには……いかねーぜッ)


波紋疾走! 鋭い一撃、拳にのせて打ち放つッ!
敵を捕えることはできなかったが、ジョセフはそのまま立て続けに拳を、そして蹴りを繰り出していった!
対峙する戦士は器用にかわしつつも、隙のない攻撃に、まずは防戦一方だ。
何重にも張り巡らされた拳の嵐、なんとかすり抜け、黒騎士ブラフォードは吐き捨てるように彼の名を呼んだ。


「『ジョナサン』……ジョースターッ!」
「……ッ」


ジョセフの心が、鋭いナイフで抉られたように痛んだ。
それを誤魔化すかのように、彼はもう一度拳を振るった。






拳がとび、鉄鎚が地面を窪ませ、戦いは激しさを増していく。
数度の交戦。ジョセフの蹴りをブラフォードは辛うじて受け止め、そして彼は反撃に打って出る。

振り下ろされた鉄槌、ジョセフがそれをさけたところで横からブラフォードの髪が束になって襲いかかった。
青年は驚愕に一瞬足が止まり、危うくのところで拘束から逃れる。
なんとかして避けることができた。しかし一度つかまってしまったらそこでおしまいだろう。

暗闇に妖しく光る鉄鎚。人間を超える怪力を持つ吸血鬼、屍生人。
その馬鹿力で一撃でも叩きこまれたならば? 生身の身体では生きていられないだろう。
更なる追撃を抑え込むように、ジョセフは拳を打ち放つ。ブラフォードは巨体に見合わない華麗なステップでその攻撃をかわした。

そう、ジョセフは気がついていた。
戦いの最中にでもわかるほどにブラフォードの身体は傷だらけのボロボロ。そのくせ血が一切流れ出ていなかった。
彼が人間ならざるもので憎しみの果てに彼が再び生き返ったことは、なによりも醜く歪んだ顔がそれを物語っていた。

吸血鬼。それがわかった時、ジョセフの脳裏に先の女性が思い浮かんだ。
彼は無理矢理戦いに集中した。手に焼きついた感触を打ち消そうと、何度も何度も拳を振るう。
だが、ジョセフの拳がブラフォードを捕えることはできなかった。


「『ジョナサン』……!」


後ろで心配そうに見守る女性がそう言った。
もうその名前で呼ぶのはやめてくれ。エリナの叫びは甲高くヒステリックで、洞窟内では尚よく響いた。

『ジョナサン』……そうだ、祖父の名は『ジョナサン』だ。おばあちゃんによく話を聞いた。
彼女は祖父の話をするのが好きだったからよく覚えている。自慢の夫です、決まって彼女はそう話を締めくくっていた。

父は? あまり覚えていない。自分が物心つく前に空軍事故で亡くなったと聞いている。
ただ話を聞く限りでは心優しく、とても明るい人だったようだ。
息子のことを多くは語らないが、彼女は彼の名を呼ぶ時、必ず優しそうな顔をしていたので覚えている。
そう、『ジョージ』とその名を呼ぶ時には。


「KAAAAAAAAAA!」
「……ッ! 波紋、疾走!」


ブラフォードが攻める時間が増えていく。苦しい状況が続いた。
その度にエリナは心配そうに夫の名を呼び、ジョセフは身を切り裂かれるような思いで、大丈夫だと叫び返した。
内心では戦士の鉄鎚よりも深く、彼女の言葉が心を切り裂いていた。心配してくれているからこそ、尚更辛かった。
ジョセフは苦し紛れに波紋を流し込む。身体を捕えていた髪は焼き切ったものの、本体までには届かない。
ブラフォードは一向に手を休めない。鉄鎚が何度目になるかわからない跡を大地に残し、また振り上げられる。そして、また。
危ない場面を何度か迎えながら、次第にジョセフの意識が薄れていく。吸血鬼も女性の叫びも、どこか遠くの世界のように現実感がなくなっていた。


“ジョージ・ジョースターⅠ世”“ジョージ・ジョースターⅡ世”


聞き逃さなかった。仮に聞き逃したとしても、名簿にはちゃんとその名前が刻まれていた。
それが本当のものであることを確かめるために、ジョセフはその部分を何度もなぞったのだ。
間違いない、その名前は確かに記されていた。
エリナ・ジョースターに配られた名簿にも載っていた。二人は実在する人物だ。いや、少なくとも『6時間前』までは実在『していた』。


(ジョージ……?)


定かではない。だが曾祖父の名もジョージだった気がする。いや、別人だとしたらできすぎだろう。
ならば『それ』は『そう』なのだろう。二人のジョージはジョセフのご先祖だ。自分に生を託し、死んだはずの人間だ。


(……じゃあ、放送で呼ばれたのは誰なんだ?)


死んだはずの人間が生き返るわけがない。実は死んでいなかったのだろうか。まさかそんなことがあるはずがない。
それに生きていたとしたならば、曾祖父は100数歳になっているはずだ。馬鹿馬鹿しい、そんなことがあってなるものか。
曾祖父は化け物かなんだろうか。死なない身体、年老いない人間なんぞいるはずがなかろう。


(まさか、波紋戦士?)


そうであったならばどれだけいいだろう。ジョセフはそう思った。
それならばまだあり得る話だ。リサリサを見ろ、あれで50なのだ。ならば波紋戦士が100を超えて生きていてもおかしくはないかもしれない。
だが同時に、ジワリと暗闇が迫るように、ジョセフは一つの可能性を思いついていた。
目をそむけたくなるような現実が何故だか不思議とジョセフを捕えて離さなかった。
……そう、吸血鬼。闇に生きる生物もまた、年老いることなく生き永らえるのだ。それこそ、数十年も。もしかしたら数百年も。


「…………ッ!」


戦いは続いていた。だがジョセフはいまやそれどころではなかった。
間一髪の時が何度立て続けに彼を襲おうと、祖母の悲鳴がどれだけこだましようと。
ジョセフ・ジョースターの心がゆっくりと揺れ動きだした。ゆらり、ゆらりと。
それはまるで死に誘うように。


(……吸血鬼?)


いや、待て。問題はそこじゃない。正直どうでもいい。今は、それは考えなくていい問題だ。
いや、考えなければならない問題だがもっと大切な事を見落としている気がする。
それはきっと考えなくていいことなのだろう。ジョセフは本能的にそう悟る。だが彼は考えずにはいられなかった。
そんな重大な欠陥が、この理論、状況から見落とされている気がする。そう彼は思った。

考えろ、ジョセフ・ジョースター。思いだすんだ、一族のことを。記憶を掘り起こせ。お婆ちゃんとの会話を思いだせ。


(……エリナ、おばあちゃん?)


そうだ、“エリナ・ジョースター”の存在だ。
そもそも彼がこんな目にあっているのは他でもない、おばあちゃんの存在だ。
おばあちゃんのはずのエリナ・ジョースターが若くなって彼の眼の前に存在している。
波紋戦士が逆立ちしても思いつかない、そんな性質の悪い冗談みたいな現実が、ことの発端で間違いないはずだ。

嘘をついてる? 実は別人? いいや、ジョセフはそれを否定する。
彼は騙されない。いつも騙す側にいる彼は人一倍嘘や偽りに敏感だ。
あれは嘘をついてる顔じゃない。そして彼をはめようとしてるわけでもない。
彼女は白だ。少なくとも嘘はついてない。
心の底から自分のことをエリナ・ジョースターと信じ、誰よりも夫、『ジョナサン・ジョースター』の身を案じている。
誠実で慈愛に満ち、優しく偉大な女性。
それは彼女がエリナ・ジョースターである以外にない。それはもう、確実だ。


 ――― 「『ジョナサン』!」


けど……ならば、だとしたならば。
エリナ・ジョースターのおなかの中にいる“彼”は、一体誰なんだ。
おばちゃんの子はジョセフの父親だ。だけどおばあちゃんはおばあちゃんじゃない。
そして彼女は波紋使いじゃなければ、吸血鬼でもない。
例えお婆ちゃんが若返ったとしても、何かのはずみでこんな姿になっていたとしても……。
説明がつかない。祖母の後に父が生まれ、父の後に自分が生まれる。順番が入れ替わることなんてあり得るはずがない。


 ――――――「『ジョナサン』ッ!」


ジョナサン? 『ジョナサン』?
俺は……ジョセフ・ジョースターだ。イギリス生まれ、ニューヨーク育ち。
彼女は、今はいない。昔は沢山いたが、今はいない。代わりにと言っちゃ変だが、とにかく妻がいる。
スージQ、イタリア人の妻。抜けてるところもあるが、まぁ悪くないヤツだ。
肉親はいない。一緒に暮らしている家族は一人だけ、祖母のエリナ・ジョースター。
優しくて強くて頼りがいのあるおばあちゃんだ。俺の唯一の家族、とても大切に思ってる。
そうだ、間違いない。俺は『ジョセフ・ジョースター』。俺は誰でもない、正真正銘の……



 ――――――――― 「『ジョナサン』ッッッ!!!」

(……『ジョナサン』?)



放送で読み上げられた名前が唐突に、彼の頭を横切っていった。
鼓膜に焼きついていたかのように、名簿に見つけた二人の名前が目の前に浮かんだ。

『ジョージ・ジョースターⅠ世』
『ジョージ・ジョースターⅡ世』

『ジョナサン・ジョースター』
『ジョセフ・ジョースター』



知らず知らずのうちに、言葉が口より零れ落ちる。


 「『ジョナサン……ジョー、スター』?」


そして混乱の果てに、『彼』は思った。


 (俺は、いったい、誰なんだ……―――?)


直後、青年がぬかるんだ地面に足を取られた。あ、と叫ぶと同時に視界の端で鉄槌が振り上げられる。
そこからはまるでコマ割り映画のようだった。
迫る凶器。どうしようもできない身体。立て直しの効かない状況。鈍く光った鉄鎚。


そして数瞬。
『ジョセフ・ジョースター』は背中に強い衝撃を感じた。そして地面に強く叩きつけられる。
目の前の光景が信じられなかった。自分の身に起きたことが信じられなかった。
全てがまるで夢の中の出来事だったかのようで、痛みすら感じなかった。




エリナ・ジョースターが彼を突き飛ばした。容赦ない鉄槌が彼女の体を捕えた。




狭い洞窟内に、グシャリ、と耳を覆いたくなるような、鈍い打撃音がこだました。
ジョセフ・ジョースターの絶叫が、地獄まで轟くように、暗闇を切り裂いた。










湿った砂を踏みしめる音が聞こえてきた。エリナの血をたっぷり吸いこんだ、真っ赤な砂。
ジョセフは振り返らなかった。
そんなことを気にかけていられる余裕が今の彼にはなかった。ジョセフ・ジョースターは祖母を抱きしめ、繰り返し、繰り返し彼女の名を呼んだ。
祖母の頬を撫で、名前を呼ぶ。逆の腕で傷口に波紋を宛がい、必死の治療を続ける。ジョセフもまた血みどろだった。

じわり……と広がる血の池。出血が止まらない。このままではマズイことになる。このままいけば、エリナ・ジョースターは死んでしまう。
はらはらと流れ落ちた涙が女性の頬を濡らす。ジョセフは泣いていた。ジョセフの涙が降りかかっても、エリナ・ジョースターの瞳は固く閉じられたままだった。
ジョセフは、祖母の名前を呼び続けた。それでも彼は名前を呼んだ。


黒騎士ブラフォードは既に撤退済みだ。鉄槌をエリナに叩きこんだ時にできた隙、そこにジョセフは渾身の波紋を込めた一撃をぶちかました。
身体を焼く炎のような感触に男は怒り吠えた。屍生人である彼にとってその一撃は確かな痛手となったのだ。
最後に憎々しげにジョセフを睨みつけると、彼は闇へと姿を消した。それ以上戦えばタダじゃ済まないことを黒騎士は悟ったのだろう。
結局彼は最初から最後までジョセフのことをジョナサンと誤解したままだった。


足音が確かなものとなって、ジョセフの鼓膜を震わせた。
次第に大きくなっていく音、無視できないほどに近づいてくる。
それでもジョセフは無視した。無視せざるを得なかった。
それほどまでに近づいているとわかっていても、今の彼には他に為すべき事があったのだから。

狭い洞窟、うるさいと思えるほどにジョセフの声がこだまする。
その声にこたえるかのように、エリナ・ジョースターが意識を取り戻した。たっぷり一分と時間をかけて、彼女はゆっくりと眼を見開いた。
まるでそうすることにすらエネルギーを振り絞らなければいけないと言わんばかりに。
男の腕に抱かれてまま、女性がそっと腕をあげる。涙が滴る夫の顔を、彼女は優しく撫でてやった。


「エリナ……! エリナ……!」
「……泣か、ないで。泣いちゃ、だめ……。わた、しは ――― 貴方が無事で、本当に良かった……。貴方が助かって、本当に―――」
「エリナ、僕は ――― 僕は…………!」
「大丈、夫、きっと ――― 大丈夫だから……わた、しは……大、丈夫だから……」
「……駄目だ、エリナッ! エリナ、駄目だ、駄目だ、駄目だ! 死ぬな……死んじゃ、駄目だ、エリナッッッ!」


腕の中で女性が少しずつ軽くなっていくような気がした。ジョセフは必死で波紋を流し込む。少しでも彼女を助けようと、虚しい努力を繰り返す。
信じたくなかった。考えたくなかった。死が、恐怖が、ジョセフを蝕んでいた。
こんなはずじゃなかったはずなのに。こんなこと、思ってもみなかったのに。
自分のせいで祖母が死んでしまうだなんて、そんなこと、絶対に嫌だ。そんなことがあってたまるか。そんなことがあっていいものか。

どんなことがあっても絶対に守ってやるって、誓ったはずだった。
唯一の肉親だ。たった一人の家族なのだ。
今までどれだけ迷惑かけたと思っているんだ。どれほど心配させ、どれほど祖母の気持ちを揉ませたと思ってるんだ。
今度は自分が守ってやらなければ。今度は自分が守られてきた分、守ってやらねばと思ってたはずなのに。

必死で耐えてきた。偽るのは辛かった。騙すのは心痛んだ。
だけどそれもこれも、全ては祖母のためだった。祖母のためだったというはずなのに!


「なんで……」


ジョセフの声が震えた。波紋を流し続ける両手が真っ赤に染まり、手のひらに伝わる感触が生々しい。途端、まざまざと蘇った記憶に今の光景が重なった。
そう、数時間前に彼が波紋を流し、一人の女性を殺した時のような。
命がその手を滑り落ち、二度と返ってこないような。ゾンビの最後の生命力が塵となっていく光景に、今のエリナが重なった。

呼吸が乱れる。心臓が高鳴る。ジョセフはエリナ・ジョースターの顔を見た。女性の顔は死人のように真っ青で、生気が全く感じられなかった。
青年の息が止まり、彼は何も考えられなくなる。目の前の光景が急速に薄れていった。女性の呼吸が止まっていた。
エリナ・ジョースターの心臓が、止まっていた。



「 ――― ジョセフ・ジョースターだな?」


 ―― その時だった。突如、声が聞こえてきた。

青年の大きな肩に手が置かれる。乾いた、がらんどうのような声が、止まりかけたジョセフの思考を揺さぶった。
黒い山高帽子をかぶり、薄いナイフのような目つきをする男がそこいた。身体はそこまで大きくない。
警戒心の高い、成長しすぎたトカゲのような、そんな気配を感じさせる男がジョセフの傍らに立っていた。

カンノーロ・ムーロロは女性の意識がないことをもう一度確かめると、ジョセフの腕から半ば奪い取るようにして、エリナの身を地面に下ろした。
優しくはないが、かといって乱雑に扱うわけでもない。引っ越し業者が高級品の家具を取り扱っているかのような態度だった。
頬を何度か叩き意識を確かめる。瞼をこじ開け、じっくりと眼球の様子を伺う。心臓の鼓動を、手首の脈を。手慣れた感じで男は淡々と調べを進めた。
ジョセフは何もできずに、呆然としたままその様子を見つめていた。目の前の光景に、現実感が湧かなかった。

時間にして1分もかからなかった。
全ての点検を終え、ムーロロはエリナを地面にそっと置きなおした。そうして服についた砂を払い落す。
山高帽子の位置を直し、軽く咳払い。ジョセフは何も言わない。彼が何も言わないのでムーロロはもう一度咳払いした。
青年の眼が焦点を取り戻すまで、男はじっと辛抱強く待っていた。そして話が聞ける状態になったのを待って男は口を開いた。

ジョセフ・ジョースターだな。
もう一度、そう念を押すように言った。ジョセフは頷く。
ムーロロは何も言わなかった。彼は確認に納得がいったのか、小さくうなずき、そうかと独りつぶやいた。

懐をごそごそとまさぐり、男はトランプのカードを取りだす。
状況がいまいち飲み込めていないジョセフに気をはらうことなく、彼はカードを操る手をすすめた。
説明する気がないのか。今はその時ではないのか。カンノーロ・ムーロロは無言のままにシャッフルを続けた。

「アンタはその女を助けたいのか?」

ジョセフ以外にこの場にいない以上、それは確実に彼に向けられた言葉だろう。
だがムーロロの視線は虚空に向けられ、まるでジョセフ何ぞいないかのような態度だった。青年はそんな様子に、曖昧に頷くしかなかった。
助けたいにきまってる。助けられるならどれほどいいだろう。ジョセフはそう思った。だが願いとは裏腹に、彼はわかっていた。わかってしまっていた。


だけど、もう駄目だ。もう……間にあわないんだ。
おばあちゃんの身体はもうゆっくりと死んでいくだけだ。波紋は万能の力じゃない。波紋は生命力。
なら死にかけのおばあちゃんは……もう、間にあわないんだッ!


「―――選べ」


俯いた彼に突きつけられる、三枚のトランプカード。
クローバーのジャック、スペードのエース、そしてハートのキング。
陽気で奇妙な絵柄が彼を見返していた。見間違いでないならば、その絵柄は彼に向って一様に笑いかけ、手を振り、そして自分を選ぶように声をあげた。
ジョセフはなにがなんだかわからぬまま、ムーロロを見上げる。ムーロロは何も言わずにジョセフを見下ろす。

膝突く青年に黙って待つ男。沈黙の後に説明が必要だとわかると、ムーロロは乾いた声でこう付け加えた。


「選べ。カードは三枚、全部がJOKER、その上アンタは俺に大きな借りを作ることになる。
 だけどアンタは選んだんだ。なら選ぶしかない。選ぶ覚悟がないなら、その女がこのまま死ぬだけだ」


そして男は説明を続けた。エリナ・ジョースターを助けるための手段を。
サッと手が動くと魔法のように三枚のカードが一枚になった。クローバーのジャックがジョセフの前で陽気に踊る。


「一つ。アンタから見たら息子にあたる男に助けを借りる。
 スタンドと言う特殊な能力をソイツは持っていて、助けを借りれば確実とは言わないが高確率で死なずに済む。
 ただ今言った通り、ソイツはアンタの息子だ。“今”のアンタと見かけは同じぐらいの年。
 つまり祖母に抱いた通りの感情を、アンタの息子は抱く羽目になるかもしれない。抱かないかもしれない。俺にはわからない。
 その上二人の怪我人を抱えていて、今にでも移動する可能性もある。リスクは高く、後の面倒も多い」


最後の言葉を言い終わらないうちに、男の手がまたも素早く動く。
カードが風を切り、そして気がつけばそれは次の一枚に早変わり。スペードのエースがくるりと一回転、そして深々と礼をした。


「二つ。アンタから見た血縁上、叔父にあたる男に助けを求める。
 少年と言ってもいいぐらい若いが、確かな能力を持っている。頭も回る、度胸もある。冷静な判断力も魅力だ。
 ただその少年も前者と同じように怪我人を抱えている。そいつは他でもない、アンタの母親だ。
 面倒な事に変わりはない。だが話がこじれれば、もしかすれば治療を断られるかもしれない、断られないかもしれない。俺にはわからない。
 ちなみに彼は待ち人と約束を交わしている。つまり移動制限あり、おまけにタイムリミットつきだ」


言葉の意味がようやく飲み込めてきた。ジョセフの光宿さない眼が、徐々に輝きを取り戻す。
俯いていた彼が顔上げ、信じられないような表情でムーロロを見つめる。男は何も変わらず、代わりに手の中のカードが入れ替わった。


「そして、三つめ」


ハートのキングが狭い掌の上で踏ん反り返り、ジョセフの顔を面白そうに眺めていた。


「スタンドと言う能力、アンタは信じられないかもしれない。突然超能力で治療するなんて言われればそう思うのもわかる。
 誰だって信用ならないと思うだろう。当然のことだ。
 ならばこのカードが一番アンタにとって本当に信頼たるものなのかもれしれない。
 なんせアンタは実際にそれを見て、触れて、体験してきたんだ。なら信用せざるを得ないだろう。
 少なくとも俺はアンタが一番にしようするのはこれだと思う」

一瞬の沈黙の後、ムーロロが続ける。彼の言葉は一ミリも変わらない。
まるで彼には感情と言うものがないかのようだった。熱もなく波もなく、男は何も思っていないかのように話しを続けた。

「DIO、という男に手を借りる。彼はアンタから見たら血縁上、祖父に当たる男だ。
 そう、『ジョナサン・ジョースター』まさにその人だ。波紋使いであって、今は吸血鬼である男。
 彼ならば間違いなく、それこそ一度その女が“死んだ”としても、必ずや生き返らせてくれるだろう。
 治療どころじゃない。死すら克服する力。それをDIOはもっている」


どちらも何も言わないまま、数秒の間沈黙が続いた。
だが両者ともに、何かを感じ取った。その数秒で様々な感情、理解、知性が飛び交ったことを理解した。
ジョセフ・ジョースターはゆっくりと立ち上がり、そして今度は逆に男を見下ろした。
大柄である彼は、眼の前の男を見下ろしているはずなのに、何故だかそんなふうには思えなかった。小柄なはずの眼の前の男が小さく見えなかった。

堕ちていくだけなのに、その闇がどこまでも続いて行く。そんな無限の可能性を、ジョセフは男の中に見た。
本能が告げている。同時に戦士の勘も囁いていた。
コイツはやばいヤツだ。掛け値なしの、関わっちゃならねェ“裏側”の人間だ、と。



「さぁ、選びな、ジョセフ・ジョースター。時間はない。俺もそう我慢強いほうじゃない。
 十数えるうちに一枚抜け。それでも選べなかったら、この話はナシだ」



どうする……? 無理矢理波紋でふんじばるか?
ぶん殴ってビビらせて、力づくで従わせるか? そんな街角のチンピラみたいな理論が、こいつに通じることなんてあり得るのか?
震える腕を持ち上げると、ジョセフは手を伸ばした。眼前に広げられた三枚のカードが踊る。ムーロロは踊らない。青年はごくりと唾を飲み込んだ。


空虚で脆い監視塔、嘘と偽りのトランプタワー。
ジョセフが、そっと、息を吐いた。いつの間にか彼の呼吸は、波紋の呼吸に戻っていた。





【D-4 北(地下)/1日目 朝】

【ジョセフ・ジョースター】
[能力]:波紋
[時間軸]:ニューヨークでスージーQとの結婚を報告しようとした直前。
[状態]:精神疲労(大)、体力消耗(中)
[装備]:なし
[道具]:首輪、基本支給品×3、不明支給品3~6(全未確認/アダムス、ジョセフ、母ゾンビ)
[思考・状況]
基本行動方針:エリナと共にゲームから脱出する
0.???
1.『ジョナサン』をよそおいながら、エリナおばあちゃんを守る
2.いったいこりゃどういうことだ?
3.殺し合いに乗る気はサラサラない。

【エリナ・ジョースター】
[時間軸]:ジョナサンとの新婚旅行の船に乗った瞬間
[状態]:瀕死
[装備]:なし
[道具]:基本支給品、不明支給品1~2 (未確認)
[思考・状況]
基本行動方針:ジョナサン(ジョセフ)について行く
1.???

【カンノーロ・ムーロロ】
[スタンド]:『オール・アロング・ウォッチタワー』
[時間軸]:『恥知らずのパープルヘイズ』開始以前、第5部終了以降。
[状態]:健康
[装備]:トランプセット
[道具]:基本支給品、ココ・ジャンボ
[思考・状況]
基本行動方針:状況を見極め、自分が有利になるよう動く。
0.???
1.情報収集を続ける。
2.今のところ直接の危険は無いようだが、この場は化け物だらけで油断出来ない。
[備考]
※依然として『オール・アロング・ウォッチタワー』 によって各地の情報を随時収集しています。
 制限とか範囲とか精度とかはもうノリでいいんじゃないか。



【ブラフォード】
[能力]:屍生人(ゾンビ)
[時間軸]:ジョナサンとの戦闘中、青緑波紋疾走を喰らう直前
[状態]:腹部に貫通痕、身体中傷だらけ、波紋ダメージ(中)
[装備]:大型スレッジ・ハンマー
[道具]:地図、名簿
[思考・状況]
基本行動方針:失われた女王(メアリー)を取り戻す
0:一旦撤退。戦況をたてなおす。
1:強者との戦いを楽しむ。
2:次こそは『ジョナサン・ジョースター』と決着を着ける。
3:女子供といえど願いの為には殺す。




投下順で読む


時系列順で読む


キャラを追って読む

前話 登場キャラクター 次話
086:愛してる ――(I still......) 前編 エリナ・ジョースター 115:死亡遊戯(Game of Death)1
093:全て遠き理想郷 ブラフォード 150:乖離
086:愛してる ――(I still......) 前編 ジョセフ・ジョースター 115:死亡遊戯(Game of Death)1
095:Panic! At The Disco! (前編) カンノーロ・ムーロロ 115:死亡遊戯(Game of Death)1

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2014年06月09日 23:49