II.


あの日・・・僕が通勤している会社の産業医から,精神科・心療内科へ通うように言われたあの日から,一週間が経った.

結局僕はあの日,いつもの勤務を終えて,その産業医が勧めてくれた病院の精神科に行ってみた.その精神科へ行くまでの間は,これで,あのよく分からない夢とオサラバできるのかと思っていたし,また同時に,あの声だけでしか確認できなかった,オペラ「マリアとドラクゥ」を歌ったことのある女性の「小話」は一度も聞けず終いになってしまうのかと内心では非常に残念がっていたものだ.

そうこう考えている内に,例の病院の精神科があるフロアに既に着いていることに気付いた.時刻は夕方,勤め人はちょうど帰宅ラッシュの人ごみの中でもみくちゃにされている頃だ.僕は,恐る恐る「精神科」と上に書かれてある自動ドアへ近付いた.精神科,と聞いて僕は何を想像したのだろうか.今となっては忘却の彼方だが,少なくとも,何かしらの先入観や偏見を持って行ったわけではないことは確かだ.何故なら,そんなことを思って精神科へ訪れても,ただ自分が惨めになるだけだし―どうしても「先入観」や「偏見」というと,僕には悪いイメージの言葉しか思い浮かばなかった―,それに大学での一般教養の講義で習った,唯一今でも覚えている言葉があって,その言葉に従いたかったからだ.「偏見は教育の最大の敵だ」と.

ともあれこのようにゴチャゴチャ考えごとをしながら,精神科の受付へ向かっていった.すると,受付にいる数人の女性の内の一人が僕にこう聞いてきた.
「本日は初診の方ですか?」と.
僕は反射的に,はい,と応えると,その女性は,僕が想像していたこととは全く別の言葉を言ったのだった.
「申し訳ありませんが当院では完全予約制となっており,そうですね・・・来週のこの辺りでしたらご都合の良い日にちに初診ということになると思います」
と.僕は一通りそういった説明を聞いた後,適当に自分がまたこの精神科へ行くことができる日にちを決め,そのまま自宅へ帰り,その日は悶々としていた.てっきり,行ったその日から診てもらえるものだとばっかり思っていたからだ.

そういった経緯があり,僕はまた,例の深夜帯に特別に組まれている番組である,「日本の隠れた名曲たち」を,開始30分前からこうしてテレビに向かって身を構えながら,ここ一週間にあったことを思い返しながら見ている・・・.初めてこの番組を観た時に,一つ思ったことがあった.それは,「これで日々の楽しみができた」ということだ.毎日,この週一回だけ放送されている番組を観るために,たったそれだけの希望だけを頼りに,また一日を生きていける.あれ・・・?不思議だな,この感覚・・・.ずうっと昔にも味わったことがあるぞ・・・?

と色々考えている内に,あっという間に30分が過ぎてしまい,「日本の隠れた名曲たち」が始まった.今日は,「仲間を求めて」という曲をオーケストラで演奏するんだったな.一体どんな曲なのだろう?音楽の知識ゼロの僕でも,勿論その番組は楽しめる内容になっていて,今回も,というか今回は,曲だけだったが,またしてもテレビに映し出されている,楽器を演奏している人に釘付けに,勿論曲自体も素晴らしいとしか言えないものだった.音楽知識ゼロの僕は,下手なことも言えず・・・いや,もし言うとするならば,「何か」に向かってゆく感じ?・・・曲を聴いていて,そういう気がした.番組が終了しても,数十分間程放心状態でいて,更に寝る前も興奮状態が治まり切らずにいた.

そうやって・・・そうやって,やっとのことで意識が途絶え,いや,何かが遠のいた感じがした頃・・・.その遠のいた先から,今度は逆に声が聞こえてきたのだ.「今晩は.また会えたわね」と.今回は,しっかりとした視界を以てその声の主・・・彼女の姿をきちんと認めることができた.両の腕は黄色のスリーブで隠し,胸から腰にかけては,橙色の,ボディラインがすごく目立つ,チューブトップを着ていた.肩の部分が大きく開いていて鎖骨がまじまじとみてとれる.大変セクシーだ.髪は金髪で,イヤリングをつけていて,高級そうな椅子に足を組んで座っていて落ち着いた表情を見せる彼女に,僕は話しかける.
「君は一体,誰なんだ?」
と.すると,彼女は,残念そうな,でもどこか話し相手にである僕に安心感を与えもする,そんな表情でこう返したのだった.
「残念だけどその質問には・・・答えられないわ.だって"ここ"で私の名前を言ってしまったら,私は"ここ"から消えてしまうんだもの.よくあるじゃない?どこかの物語でも,欲しいものの名前を言ったら,手に入らなくなるっていう話が」
僕は,なるほどそういうことか,と納得する.じゃあ,彼女の正体を聞くのは諦めて・・・何を話したらいいっていうんだ?・・・と色々とぐずっている僕に対して,彼女は椅子から立ち上がり,コツコツとヒールの音を立てて,両手を後ろにして握り,椅子の周りをゆっくりと歩き始めた.・・・まるで僕からの発言を待ってくれているみたいだ.やがて,僕が
「明日,病院へ行く日なんだ」
と何気なしに言ってみると,彼女は歩くのを止め,こっちの方を見ると,こんなことを言ったのだ.
「病院,って・・・あの精神科のことよね?・・・あなた,あのお医者さんに言われた通り,確かに脳が疲れているようね.私も昔,そういう時期があったわ.そういう時は,アートセラピーの一環として,ローズトピアリー作りなんていうのをおじいちゃんからおそわったことがあってね?なんでも『集中力が脳を鍛え,心を癒してくれる』そうよ.でも・・・それでも,あなたみたいに,時折よく分からない夢・・・私の場合はしょっちゅう悪夢ばかり見るっていうのがあったけどね」
僕は,その彼女の言葉を聞き,少しだけ疑いの念を持ってしまった.しばし黙っていた僕のことを思ってくれたのか,彼女は「どうかした?」と気遣いの言葉をかけてくれた.隠してもしょうがない,という気持ちと,今まで女性にここまでされたことがなかったので・・・.と2つの気持ちを抑えきれるはずもなく,僕はありのままの思いを彼女に打ち明けた.
「君と僕がこうやってやりとりをしているこの夢も,その,脳が疲れている原因なのかなって思ってみたんだよ」
彼女は何かとても大事なことを聴く時のような姿勢で・・・両の手を少し折った膝の上に置き,一度だけだけど艶っぽく金色の髪を耳にかけ,何度も頷きながら僕の言葉を真剣に聴いてくれた.やがて聴き終わると,あたふたしつつも,まるでとても大事なことを教えてくれるかのようにゆっくりと話し始めた.
「いいえ,決してそういう風に捉えて欲しくないの.一言で『夢』と言っても二つの夢があることは,あなたにも分かるでしょう?所謂,寝るときに見る『夢』と,目標という意味での『夢』よ.今あなたが言ったのは,一つ目の意味での夢でしょう?でも私がこうやって"ここ"に現れている理由は二つ目の意味の方の夢を持って欲しいからなのよ.そのために,とっておきの話を用意してきたんだから」
僕はすぐさま返した.
「それが前に君が言っていた,『私が持っている小話』ってやつかい?」
すると,彼女は嬉しそうに微笑むと,
「ええ,そうよ!ちゃんと覚えてくれたのね,良かった・・・」
と応えた.
「じゃあ,早速だけど,その話,聞かせてくれないか?」
と僕が問うと,彼女は
「ええ,分かったわ」と応えるとのと同時に,指パッチンをしたのだった.

歯切れよく鳴らされたその音を境に,彼女の姿がフェードアウトし,彼女が座っていた椅子もいつの間にかフェードアウトしていた.そして,僕の視界に新たにフェードインして来たのは,あの日に見た,コンピュータグラフィックで描かれた空と大地とそれを横一線に画する地平線だった.あの日と同じように,僕はまた具合の悪くなるような映像を見せられるのか,と思った時だった.両肩に何かが乗った感じがすると,先程の女性の声が後ろから聞こえた.
「こっちは準備できたわ.あとは,あなたが今夜に聴いたあの曲を奏でるだけ」
「あの曲?それってもしかして・・・」
「そう.あの,曲よ」
僕は頭の中で「仲間を求めて」を奏でると,空は夕焼け空に染まり,そしてこれは何か・・・空を飛ぶものだろうか,大きく分けて上と下の部分があったが,上部の流線形の部分が異様に目立つ飛行船のようなものが加わった.すると,僕の両肩に自分の手を静かに乗せなおした彼女は,
「やったわ!幻想跳躍,スタート!」
と叫んだのだった.

ゲンソウチョウヤク―――?

何も知らないまま,視界は段々と暗転していった.






最終更新:2012年10月10日 13:25