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俗・人として袖が触れている 序章

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  • 序章


 季節は夏。
 熱い日差しが坪四桁は超えようという雄大な建物を照りつける。
 檜皮葺(ひわだぶき)の屋根に、趣のある木造住宅。
 庭にある池には釣殿(つりどの)も悠然と立ち並び、一目見ただけでそれらが上流階級のものであるのが窺える。
 その屋敷の一室に『彼』……みさおは居た。
 日差しの熱と気温に負けて体を仰け反らせながら、みさおは削り氷(けずりひ:かき氷)の皿を顔に押し当てる。
 冷たいそれが脳を弛緩していく快楽に身を預けながら、彼の口から溜息が漏れた。
 それが部屋に控えていた女房(にょうぼう:小間使い)の耳にも届き、「またか」と同じく溜息を漏らす。
 それをみさおの耳には届かないようにするのが女房の嗜みだ。
 そのまま彼のの溜息も聞き流し、顔を笑顔に戻す。
「春宮(はるのみや)様、削り氷のおかわりは?」
「ん、頼むわ」
 トプン、と皿に水の波打つ音がする。
 顔の熱で溶けた氷も、大分熱を持ってきた頃合。
 春宮……帝の第一子であるみさおには、悩みがあった。
 とうとう彼にも譲位の日、つまり帝になる日が近づいている。
 陰陽道(おんようどう:占い)で決まったその日を後は待つだけなのだが、その前に一つ重要な行事が待っていた。
「とうとう明日ですね」
 女房が代わりの皿を差し出し、声をかける。
 それを受け取ると、また顔に押し付けて熱を発散する。
「ああ、だな」
 投げやりに彼が返事をして、また体を地面に投げる。
 別に暑いわけではない。
 いや、暑いという語彙が不適切なだけ……彼の顔は、『熱い』のだ。
 それも全て、その女房の言う『明日』の行事の所為で。
「……別に、気にする程じゃないけどさ」
「? 何か?」
 みさおの口から洩れたボソボソという小さい声が僅かに耳に届き、女房が思わず尋ねる。
「何でも!」
 しかしそれに該当する返事はなく、代わりに大声が返ってくる始末。
 このままでは八つ当たられると素早く察し、そのまま一礼して部屋を出て行く女房。
 彼女の蔀戸(しとみど)を閉める音と氷が皿の中で溶けてぶつかる音が、重なる。
 その衝撃がみさおの頭から脳に貫通し、それと共に何かを思い出す。
 皿を持つ手とは逆の空いた手で、耳を擦る。
 何か聞こえてくるわけではなく、そこにあった感触を思い出そうとしているだけ。
 もちろんそこが、突然千切れんばかりに引っ張られることなどそうそうない。
 いや、あるはずがなかったのだ。
「……ぷっ」
 あははっ、と一人になった部屋にみさおの笑い声が響く。
 彼の人生は特に障害があるわけではなかった。
 恵まれた環境、安定した生活、不安のない将来。
 だから彼には考えた事もなかった。
 自分がこんな感情を持つなんて。
 まさか自分の耳を引き千切らんばかりに引っ張るような人が居るなんて。
 その痛みが脳まで劈いたのを思い出して、また笑う。
 そしてその空笑いも弱まっていき、もう一度溜息。
 それから皿に入った氷を口に一気に口に流し込む。
 襲ってくる頭痛は凝り固まった彼の脳みそには丁度良かったらしく、そのまま立ち上がり蔀戸を蹴り開ける。
 そして庭や廊下を伺い、適当に何かを探し歩く。
「おい、そこの」
「はい?」
 門まで来たとこでようやく目的のものを見つけ、声をかける。
 帯刀(たいとう:警備兵)の彼も春宮に気がつき、慌てて背筋を伸ばす。
「ちょっと来て」
 と、手招きするみさお。
 もちろん一般の帯刀の彼に断れるはずもなく、素早く彼の後についていく。。
 そのまま先程の寝室にまで連れられ、押し込められる。
「いいか? 誰が来ても入れないよーに」
「へっ? えっ……へぇっ!?」
 訳も分からず困惑する帯刀を背に、みさおが蔀戸を固く閉める。
 これが彼のいつものやり方。
 所謂影武者だが、これがなかなかに効果的だ。
 用立てなければ女房も入って来ないし、緊急の用事なんてそうそうない。
 そのまま彼は庭に飛び降り、帯刀の居なくなった門から悠々と外に出た。
 みさお、18歳。
 明日に結婚を控えた日の事だった。


 結婚。
 誰もが憧れるその言葉に、みさおは少しうんざりしていた。
 当今(とうぎん:天皇)の父からは毎日のように夫としての嗜みを教え込まれる。
 正室である母がそれを助けてくれるわけもなく、更衣他は見て見ぬふり。
 それを毎日のように繰り返され、鬱憤は溜まるばかりというわけだ。
 だが何もそれが我慢出来ないということではない。
 こうやって逃げ出してストレス発散すればすぐにでも忘れるような簡単なもの。
 それに彼の大雑把な性格は、それぐらいの悩みなどはあまり気にも留めない。
 だから日ごろの溜息の原因は、もっと彼にはどうしようもできないところにあった。
「んんーっ」
 人々が行き交う東の市で、体を伸ばす。
 狩衣(かりぎぬ)に身を包んだその姿を見て、誰も彼を春宮と気がつく人はいない。
 公の場ではほとんど顔を出す機会もないので、それも当然といえば当然だ。
 そのまま気長に市を歩きながら、目的の場所を目指す。
 手狭に押し込まれた宮廷に居るよりはまだ気は晴れるというもの。
 騒がしい雑踏や芳しい汗臭さが、彼にとっては至福らしい。
 しかしその眼に、あるものが映った。
 それを眼にしてから、進めていた足を数歩戻す。
 市に売っているような、安物の小物入れ。
 それを見てまた、彼の頭に一人の少女が過ぎった。
 それと一緒に耳に痛みが走った気がした。
「……ふむ」
 勢いで買ったそれを見ながら、また足を進める。
 色鮮やかな女物のそれを、彼が身につけるはずもない。
 それを身に着けた少女の姿を思い描くだけで、彼の顔が緩む。
「喜んでくれっかなぁ……『かがみ』」
 少女の名前が口から漏れ、彼の頬が熱を持つ。
 その少女こそが、彼の悩みの一端。
 この浮かれっぷりを見れば分かるとおり、彼の所謂……想い人。
 ちなみに告白もすでに済ませており、見事に砕け散っている。
 その返事によっては彼の悩みも、もう少し軽くなったのかもしれない。
 それを思い出したのか、熱を持った顔からまた溜息。
『ごめん』
 ただの三文字の言葉がみさおの胸に突き刺さる。
 何度租借しても、飲み込めないその単語。
 それは拒絶という、彼の告白への返事。
 それを思い出し、落ち込む。
 確かに彼にも自惚れている所はあった。
 自分でも男前だと自負もしているし、何より春宮という位。
 それを知って断る女性が居るとは、考えてもいなかった。
 それの所為かは分からない。
 だが日に日に淡かった気持ちが次第に色濃くなっていくのを、彼が一番噛み締めていた。
 彼にだって分かっていた。
 これは、馬鹿げた気持ちだと。
 いくら想っても、相手は女房。
 自分の身分との間には、壁があることくらい。
 だから分かっていた。
 自分の女々しさも、醜い嫉妬も全部……意味のないものだと。
 この贈り物も、いつも買ったところで終わる。
 渡しに行く勇気がないわけじゃない。
 彼は怖かったのだ……彼女に会う事が。
 彼女に、軽蔑の言葉を吐き捨てられるのが。
 それほどの事を彼はやってしまった。
 それこそが彼の……本当の悩みだった。


「ぅおーッス、あやのー」
「あ、みさちゃん。いらっしゃい」
 女房に連れられて入った部屋で彼を待っていたのは女性。
 彼の幼馴染であり、内大臣正室のあやの。
 そのまま適当にみさおは腰を下ろすと、案内していた女房も席を外す。
 この邸ではもう見慣れた光景のため、誰も気にしないというわけだ。
「とうとう明日だね」
「んがっ」
 幼馴染の言葉がいきなり尾てい骨に直撃し、みさおがばつの悪そうな顔をする。
 それを察したのか、あやのがみさおに聞こえるように溜息を漏らす。
 彼の前でこの溜息が漏らせるのも、幼馴染の彼女ぐらいなもの。
「……みさちゃん、まだ踏ん切りつかないの?」
 彼女にはもちろん全部分かっている。
 何が彼を悩ませ、何に間誤付いているのかも。
「だ、だってなぁ……」
「大納言家の一人娘に、文句でもあるの?」
 結婚には、身分というものがつきまとう。
 春宮のみさおにとってはそれも例外でなく、当然高貴な人間が選ばれる。
 そしてその白羽の矢に立ったのが、大納言家の令嬢。
 もちろん、春宮の相手としては十分な身分を持っている。
「そういうわけじゃ……ないけどさ」
 みさおの語尾が下がっていくのを察し、あやのがもう一度溜息をつく。
 そして、確信をみさおに突き付ける。
「……まだ、好きなの? あの女房の子」
「んなぁ!」
 それが強制的に頭に入り、奇声。
 それから沸騰して、爆発した。
 もちろんそれが、図星だから。
「やっ、だ、だから『かがみ』は、そっ、そんなんじゃなくてだなぁっ」
「はぁ……」
 間誤付き狼狽するみさおに、あやのが呆れる。
 そして溜息をつきながらみさおを諭す。
「いい? みさちゃん……もう全部段取りは進んでるの。日にちだって明日を延ばせば次は半年後なんでしょ?」
 結婚の日取りもまた陰陽道で決まる。
 それによると明日は吉日。
 しかも三日続けて物忌み(外に出てはいけない)も方違え(住む場所を変えなくてはいけない)もない日が続くもってこいの日。
 その三日間男性は女性の下に通い、三日連続で一夜を共にする。
 それを済ませ、三日夜の餅を一緒に食べて露顕(ところあらわし:披露宴)をすませれば晴れて婚約成立となる。
 明日はその、初日というわけだ。
 それはまぁいい。
 相手も大納言家の令嬢だ、問題はない。
 だけどそこにみさおの想い人が絡むと……いささか事情がややしくなる。
「自分で文を送って、返歌も貰って……全部段取りもすんでるの。わがまま言っちゃ駄目だよ」
「わ、わがままってわけじゃ」
「だってようは遠慮してるんでしょ? かがみちゃんだっけ?」
「……」
 幼馴染に悩みを全て見抜かれ、沈黙するみさお。
 それが彼を悩ませてる種。
 彼が恋文を送った相手。
 つまり彼の婚約者こそ、彼の想いを寄せる少女の……想い人。
 その自己嫌悪が棘になって、彼の胸を締め付ける。
 決められた結婚ならば良かった。
 自分の意思じゃない、と大義名分もあるだろう。
 ……それも格好が付くわけではないが、今回は別。
 わざわざ手紙をしたためて、送ってしまったのだ。
 恋文を、しかも直接。
「最低、だよなぁ……」
「うん」
 声に出して肯定され、みさおの中でさらに自己嫌悪が溜まっていく。
 あやのも知っていた。
 彼が自分を『最低』という理由も。
 何故恋文が、その大納言家の少女の元に送られたのかも。
「だって、知っててやったんだもんね」
 わざと強い口調で、あやのが彼の行為を戒める。
 彼にとっては、軽い仕返しのつもりだった。
 恋文を受け取ってもらえなかった、腹いせだった。
 少し懲らしめてやろうと思っただけだった。
 自分の方を少しだけでも、見てほしかった。
 そして彼は選んでしまった……最悪の選択肢を。
「し、知らなかったんだよ。あいつがそんなにあのちびっ子の事……好きなんて」
 それを思い知らされたのは、もう数ヶ月の前の事だ。
 婚約者となる女性に文を送ったあの日。
 彼の想い人は泣いていた……彼の、腕の中で。
 ……憧れのようなものだと、みさおは思っていた。
 想いを寄せる彼女は大納言家の女房。
 だから彼女の想いは、彼女の主人に対する忠誠心みたいなもの。
 まさかそれが自分と同じ愛情だと、思いもしなかった。
 その、溢れる涙を見るまでは。
 その時……全ては遅かったのに。
「……じゃあいっそ、本人に会ってきたら?」
「ふぇ?」
 言い訳しか口に出さないみさおにとうとう愛想が尽きたのか、あやのが立ち上がる。
「今日ね、実はその大納言家に呼ばれてるの。みさちゃんも行くでしょ?」
 あやのと大納言家の一人娘に、それほどの縁があるわけではなかった。
 だが時を遡って数か月前、牛車(ぎっしゃ)の事故で大納言家に世話になって以来文を交わす間柄になっていた。
 それで結婚前日の今日になって、何故か遊びに来てほしいという文が来ていたのだ。
 その理由も、あやのには大体検討がついているらしいが。
「あ、会え……って? かがみ、に?」
 みさおの心臓が跳ねて暴れる。
 その文を送った日以来……つまり泣き叫ぶ彼女を抱きしめたあの日以来、その彼女には会っていない。
 なぜなら彼女にとってみさおは、大事な人を奪う相手。
 遭えばきっと、非難をされるだろう。
 いいや、相手をしてくれるのはまだましかもしれない。
 相手にすらされなかった時のことを考えると、みさおの足はなかなか前には進んでくれなかった。
「会って、踏ん切りつけないとね」
 あやのから笑顔が返ってくる。
 それに幼馴染の直感が働き、考えた言い訳が口から出ていかない。
 本能が悟ったらしい……これは逆らえない、と。
 穏やかな表情をしているがその下の鬼面を幼馴染の彼は知っていた。
「……でっ、でもだなぁ。そういうのは、こうなんていうか準備というか心構えというか……」
「みさちゃん」
 やっと口から出た優柔不断な言い訳も、その一声と威圧感に一蹴される。
 まだ踏ん切りのつかないみさおに、冷たい視線が突き刺さる。
 柔らかい笑顔。
 なのにそこから滲み出る迫力を前に、常人が耐えられる術はない。
「男の子なら、ちゃんとしようね?」
「……はい」
 その言葉に。
 その氷の微笑に、みさおは頷く事しか出来なかった。


 これはすでに、終わったはずの物語。
 もう紐解かれる事のなかったはずの物語。
 だけれどここに、燻った火種が一つ。
 一人の青年の、心に残った僅かな蛍火。
 その最後の残り火をどうか、ご賞味ください。















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