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『4seasons』 冬/きれいな感情(第五話)

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匿名ユーザー

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『4seasons』 冬/きれいな感情(第四話)より続く
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
§8

 鎮守の森には、今年もツグミがやってきた。

 二階にある私の部屋の窓からは、鬱蒼と茂る鎮守の森を見渡すことができる。その森には毎年冬になるとツグミが渡ってきて、そうして春になってまた北国に戻るまでの一時を過ごすのだ。
 今も、バサリと木の葉を散らして、ツグミの群れが飛び立った。
 だんだん小さくなっていく鳥影は、やがて薄雲のたれ込めた灰色の空に吸い込まれて消えていく。
 そんな空を眺めながら、私はこのところ晴れ間をみていないな、なんてことを思う。
 少なくともあの日、太宮駅前でこなたが男の子の名前を呟いてからは、埼玉の天気はずっと薄曇りだ。冬将軍は猛威を振るっていて、今年は記録的な厳冬になるかもしれないと誰かが云っていた。
 私もとうとう暖房をつけることを自分に解禁して、やっと水も漏らさぬ完全武装から解放されることになった。冷暖房に頼るのはなんだか正しくない気がして厭だったのだけれど、風邪を引いてしまったら元も子もないだろう。それに、いくら家の中とは云っても、ぶくぶくに着ぶくれただらしない格好をしていると気が滅入ってくるというものだ。
 モヘアのセーター、バルーンスカートにレギンスという、近所に買い物に行くくらいには耐えられる格好になると、少しでも勉強を進めようとして私は机に向かった。
 学期末試験が終わったばかりと云っても、気なんて抜けるはずもない。本番はそろそろお尻に火がつき出すほどには近く、そうしてまだまだ先が見えないほどには遠いのだ。
 そう思って、私は机に向かう。
 けれどふと気がつけば、思考はいつでもあの日の夕暮れ時に舞い戻っていて、そうして私は大きなため息をついている。
 オレンジ色の夕陽に照らされて、驚きに目を見張ったこなたの顔は群青色に陰っていた。
 目の前にいた男の子も、その隣の女の子も、スローモーションのように通り過ぎていく雑踏の人並みも、すぐに視線を逸らしたサンタクロースも。全てがオレンジと群青の二色に染まっていて、だからあの街の光景は、モノクロ写真のような階調で私の心の中に焼きついている。

 あのとき二人の間に流れていた空気を、見誤るはずもない。
 あのときの二人の声音に満ちていた感情を、聞き違えるはずもない。

 あの日あのときあの場所には、私がみたこともないこなたが立っていた。

 それを思い出すと、喉から何かがせり上がってくるような不快感を感じる。舌の奥の方、何か苦い物を噛みつぶしたような味がする。
 わかってる、これは嫉妬の味だ。他人のことを羨んで、どうして私がそれを持っていないのかと妬む。そんな思いが私の心をざらつかせるのだ。
 あの男の子はきっと私が見たことがないこなたを知っていて、私には引き出せすことができない、こなたの可愛いところも知っている。それを、私は妬んだのだ。
 こんな風にあの男の子のことを羨んでいる私は、私が望むきれいな私からはほど遠い。そんな醜い私が厭で厭でどうしようもなくて、そうして私はまたため息を吐いている。
 暖房は暖かい空気と引き替えに窓の結露をもたらしていて、曇った窓には物憂い表情で頬杖をつく私が映し出されていた。
 たわむれに窓を拭って外を見渡せば、何羽かのツグミが森に舞い戻ってきていて、やがて梢の奥に消えていく。ここで窓ガラスにこなたの名前でも書けば、絵に描いたような傷心の乙女ができあがるのだろう。けれどそんなことをするまでもなく、私の心にこなたの名前はくっきりと刻まれているのだった。

 ――中学のときの同級生なんだ。

 帰りの電車で、こなたはぽつりとそう云った。
 長く気詰まりな沈黙のあと、まるで云い訳するような口調でそう云った。
「――つき合ってたの?」
 できる限り柔らかく、できる限り優しく、できる限り気にしていない風に、私はこなたに問いかけた。
 少なくともそのときの私には、そうすることができていた。
 これが例えば春や夏の出来事だったならば、私は到底そんなことは訊けなかったに違いない。自分の感情を制御するのが精一杯で、こなたの様子まで気を回す余力などなかったに違いない。けれどこの八ヶ月間が、私を少しだけ強くした。この八ヶ月間があったから、私はその質問を発することができたのだ。
 けれど返ってきた返事は肯定でも否定でもなかった。
 それは、言葉ですらなかったのだ。

 返事の代わりに、こなたはぎゅっと私の手を握ってきた。
 うつむいたまま、無言で私の手を握ってきた。
 私が握れなかった手を、こなたの方から握ってきてくれたのだ。

 そうしてこなたは、電車から降りるまで、ずっと私の手を握ったまま離さなかった。

 はあ、ともう一度ため息。さっき拭った窓は、気がつけばもう曇ってしまっていた。すぐに曇ってしまうんだな。そんなことを私は考える。
「お姉ちゃん」
 コンコンとノックの音をさせて、つかさが部屋に入ってきた。
「ゆきちゃん、きたよ?」
「お邪魔いたします、かがみさん」
 その後ろで、みゆきが柔らかな笑顔を浮かべて立っていた。
「あ、え? あれ? いつの間に?」
「……さっきチャイムの音したのに。聞こえなかったの?」
 まるで聞こえていなかった。
 どうやら、チャイムの音にも気がつかないほど深く物思いに耽っていたらしい。そんな自分がなんだか酷く乙女チックに思えて、少しだけ自分が恥ずかしくなった。慌てて机の上に拡げていたノートや参考書を閉じると、私は座布団を取り出して座卓の周りに置いた。
「悪いわね、わざわざ家まで来てもらっちゃって」
「いえいえ、とんでもありません。落ち着いたところで一度お話したいと思っていましたし」
 そう云って、みゆきはにっこりと笑いながらコートを脱ぎだした。その下は当たり前だけれど制服のままで、それがまた私の罪悪感を少しだけ刺激する。わざわざ電車を一本遅らせてまで家にきてもらったのだ。こなたに気づかれないように。
 みゆきが着ていた服をハンガーに掛け、桟に吊したところでつかさが戻ってきた。お盆の上、ティーコージーに包まれたポットの中はオレンジペコー。それと最近つかさが凝っている手作りラング・ド・シャ――それは、私がこなたにお腹をつままれることになった原因の一つだ。
「まあ、これは……評判のお店で買ってきた物と遜色ないくらいですね。本当に美味しいです」
「えへへ、ありがと」
「本当にね、少しくらいは手を抜いてくれないと、私のお腹が心配だわよ」
「あら、またダイエットをされていたのですか? 太ったようには見えませんが……」
「そりゃ、冬服で見た目に出てたらもう末期症状じゃないの」
「でもお風呂上がりとか見てても前と変わんないよ? 相変わらず羨ましいくらいスレンダーだと思うけどなぁ」
「ありがとうつかさ……。でもね、こういうのは勉強と同じで日々の積み重ねが大事なのよ。いつかボタンが吹き飛んでからじゃ遅いんだからね」
「うう、お姉ちゃん、ダイエットでも真面目だよぅ……」
 つかさがそんな風に云うとみゆきもくすくすと笑って、場の空気はいつもの教室のようになる。
 けれどそこには、いつもいるはずのこなたがいない。
 いつも私たちの中心にいて、私たちを動かす原動力となる泉こなたが、ここにはいないのだ。
 なぜならこれは、こなたのことを話し合う会合なのだから。

 ――こなたが少しおかしい。

 それは、あの太宮での出来事があってから開けて月曜日のこと。いつものように糟日部駅で待ち合わせて、いつものようにバスの一番後ろに座って、いつものように教室に入って。そのころにはすでに、つかさとみゆきは気がついていたという。
 一見普段通りで、いつものやる気なさそうな顔でふにゃふにゃしているけれど、時折ふとスイッチを切り替えるような一瞬に、能面のような無表情がかいま見えるのだ。それは普段からこなたのことを見ていなければ気がつかないほど微妙な変化だ。けれど、これまでずっと一緒に過ごしてきた私たちにとっては、自明な変化なのだった。
 つかさもみゆきも、それとなく何かあったのかとこなたに訊いたようだった。けれど返ってきた返事は『何もないよ』という言葉と、どこか痛々しく見える微笑だけだった。そうみゆきは云った。
 あの日のできごとを、私はまだつかさにもみゆきにも話していない。こなたのプライベートに関わるだろうことを、私が勝手に推測して他人に話すことをためらったということもある。月曜日から始まった期末試験で、一息吐く間もなかったということもある。
 けれどやはり一番の理由は、私があの日の出来事をまだ十分に咀嚼しきれていなかったせいだろう。
 あの夕焼け、あの茜色。
 こなたの声音に宿った、あの切なさ。
 それを思い出す度、私は今でも胸をかきむしられるような気持ちになるのだった。
「――お話、していただけますね?」
 真剣な顔でみつめてくるみゆきに、私は小さくうなずいて口を開いた。こうなってしまえば否も応もない。なんといっても、この二人にとってもこなたは大の親友なのだから。

 ※     ※     ※

「――なるほど、そんなことがあったのですか」
 私の声は、少し震えていたと思う。
 けれどみゆきはそれに気がつかないふりをした。つかさは気がついて、ぎゅっと私の手を握ってくれていた。
「出会った後、会話はあまりなかったのですね?」
「……そうよ。たっぷり硬直したあと近づいていって、かすれた声で『久しぶり』とか『元気だった?』とか……二言三言話しただけ」
「そうですか……。それでかがみさんは、お二人の関係をどう見たのですか?」
「……私にそれを云わせる気?」
 むっとした声でそう云う私に、みゆきは顔色一つ変えず滑らかに反駁する。
「かがみさん以外に訊ける人はいません。その場にいたのはかがみさんとこなたさんだけなのですから」
「ゆきちゃんっ」
 優しいつかさは、私たちが険悪な雰囲気になっていると思ったのだろう、慌てた様子でみゆきの名前を呼び、その腕を手にとった。
「大丈夫よつかさ。みゆきが云ったことは正しいもん」
 つかさに微笑みかけてから、私は薄く目を閉じる。
 眼裏にあのときの光景を蘇らせて、その印象がぶれていないかを確認する。そうして眼を開けて、できるだけはっきりとした口調でこう云った。
「――どうみても昔の恋人同士っていう感じだったわね。それも、手ひどい別れ方をしたような」
「……そう、ですか」
 みゆきが小さな声でそう云って、そうして部屋を沈黙が支配する。話し合うとは云っても、この中の誰一人として男の子とつき合った経験がないのだ。三人とも兄弟はいないし、身近に男の子がいたことすらあまりない。ましてや男の子とつき合ったときにどういう問題が立ち上がるのかなんて、ドラマや小説の中でしか知り得ないのだった。
『なんでわたしたちにはロマンスってないのかねぇ』
 つまらなそうにそう云った、こなたの顔が思い浮かぶ。
 けれどそう、ことこなたに至ってはきっとロマンスはあったのだ。過去の話ではあるけれど。それが果たしてロマンスと呼べるほど素敵な記憶であったかはわからないけれど。
 そう、私たちが今話しているのは、そういう話なのだった。
「……こなちゃんが男の子とつき合ってたなんて、聞いたことないよ……」
「そうね。でも、思い出したくないくらいの喧嘩別れだったのかもしれないし。あれでやたらと気を遣う奴だから、云い出せなかったとしてもおかしくないわよ」
 私がそう云うと、なにやら考え込んでいる風だったみゆきがふと顔を上げた。
「お二人とも覚えていらっしゃいますか? いつだか昔のお友達のことをかがみさんが訊かれて、こなたさんがお答えになったときのこと」
「ああ、魔法使いさんか。そりゃ覚えてるわよ、こなたのことだもん。でもそっか……あのときのこなたも、ちょっと変だったわね。なんだか寂しそうな顔してて、あんまり云いたくなさそうだった」
 思い出す。あれは確か二年の春頃のことだったか。なんだか随分昔のように感じるけれど、たった一年と八ヶ月ほど前のことだ。
 あの頃私は、いつだってこなたのことが気になっていた気がする。窓からグラウンドを見下ろしてE組の体育の授業を眺めているときも、こなたの青い髪を真っ先に探してしまっていて、それがどうしてなのだろうと不思議に思っていた。
 そのとき私たち四人はすでに親友と云っていい仲だったけれど、今から考えると随分お互いのことを知ってはいなかったのだなと思う。
 あの当時、私たちは学校で見せる部分以外、こなたのことをほとんど何も知らなかった。私はそんな秘密主義なこなたのことをもっと知りたくて、あれこれと折に触れて訊ねていた気がする。家族構成や昔の話や家のこと。けれどその度、なんだかよくわからないオタクネタで交わされては口惜しい思いをしていたのだった。
 そんな中ふと漏らしてくれたのが、中学校のときの友人で、卒業文集に“夢は魔法使いになること”と書いた奇妙な人のことなのだ。
「その男の子が、魔法使いさんだったってこと? こなちゃんが友達って云ってたから、女の子だと思ってたけど……」
「私もそう思ってたわよ。いくらこなたがオヤジ臭いっていっても、男の子と普通に“凄く仲がよい友達”になれるのかしら? あれで意外なほどちゃんとした女の子なのに」
 それは確かにテレビでみた男性アイドルの話をしたり、格好いい男の子のうわさ話をしたりなんてしないけれど。
 それでも一緒にでかけるときにはちゃんと可愛い格好をしてくるし、甘い物も大好きだし、細々としたこともよく喋る。
 それに何より、私たち四人は典型的な女の子同士の仲良しグループなのだと思うのだ。
 見た限りでは、男の子同士ではこんな風に四六時中一緒にいるような関係を築いていないように思う。元々男の子はドライな性格を持っているのか、育った環境によってそんなことは恥ずかしいと思ってしまうのか、それはわからないけれど。
 こなたが男の子と話しているところを見たこともあるけれど、いつも通りにあっけらかんとしているようで、どこか無理しているような堅さを感じたものだった。
 そんなこなたは、やはりどこまでも女の子だ。
 丁寧な言葉遣いだとか、恥じらいの気持ちだとか、奥ゆかしい仕草だとか。そんな誰かに押しつけられたような“女の子らしさ”とは別の次元で、こなたは可愛い女の子なのだ。
 ――だから、私は好きになった。
「ええ、その男の方が魔法使いさんだと云う訳ではないのです。ただ、あのこなたさんが、仲が良かったという友達と今は全然連絡を取っていないと仰っていたのが私は不思議で……」
「あ、それわたしもおかしいなって思ってたよ。凄く仲が良かったなら電話なりメールなりすればいいのに、なんですっぱり切れちゃったんだろうって。こなちゃん、そんな冷たい子じゃないのに」
「そうね……そうか。改めて考えたら不思議よね」
「中学生のとき仲が良かったと仰るなら、まず間違いなく同級生でしょう。その太宮駅の男の方も――」
「同級生だったって、云ってたわね。……もしかして、何かあったのかしら」
「な、何かって……?」
「喋りたくなくなる何か。親友と連絡を取りたくなくなる何か。そして、三年が過ぎても会うなりに固まってしまう何か、よ」
 私がそう云うと、部屋がしんと静まりかえった。云った私がその台詞から厭なことばかり想像してしまい、胃の辺りがずしりと重くなっていく。
 なんだか酷く息苦しい。
 息を継ぐようにしてカップに残った紅茶を飲み干せば、まだ少しだけ暖かい。例え凍えそうな部屋であっても、そこに残る暖かさもあるはずだ。そんなことを私は考える。
「それだけでは、ありませんよね」
 ゆっくりと、噛みしめるようにみゆきは云う。
「……なによ」
「その出来事は、思い出してしまうとかがみさんの手を握って離したくなくなるような、そんな出来事のはずです」
 そんなみゆきの言葉に、私は思わずカップから離したばかりの右手を眺めやる。

 そこにまだ、温もりが残っている気がした。

 あの日繋いで離さなかった、こなたの手の温もりが。
 ならば、もしかしたら大丈夫なのかもしれない。こなたは私の手に温もりを残してくれたのだから、きっと全部大丈夫なのかもしれない。私は不思議とそんな風に思っていた。
「気づいていらっしゃるのでしょう、かがみさん」
 みゆきが重ねて云う。
「そりゃ、ね」
 ――あれ以降、こなたはどこかおかしい。
 それは私たちが心配している、どこか無理に作ったように見える笑い声や、演技しているような表情のことだけではない。
 こなたは、なぜだか妙に私たちに甘えるようになっていた。いや、それは云い方としては正しくない。甘えるというより、スキンシップが多くなったと云った方が正確で、その対象は私たちというより、主に私なのだった。
 気がついたらいつも私の隣にいて、何かを云う度に手や腕に触れてきて、冗談めかしては胸やお腹を揉んでくる。
 そんなこなたの態度は、あのはしゃぎ回っていたお墓参りの頃の印象と重なって、そうして私はあの日こなたがしたアマガエルの話を思い出している。
『アマガエルってさ、あんなにコロコロ身体の色変えて、元の自分が誰だかわかんなくなったりしないのかな?』
 そう云ったこなたはなんだか酷く寂しそうだった。そう、それは中学時代の親友“魔法使いさん”の話をしていたときと同じように寂しそうだった。
「――こなたのやつ、何を一人で背負ってるんだろう。私たちにも少しくらい分けてくれてもいいのに」
「きっとこなたさんなりに色々と思うところがあるのでしょう。これは根拠のない印象でしかないのですけれど、もしかしたらかがみさんには云えないようなことなのかもしれません」
「え? 私にだけ云えないってこと?」
「かがみさんに伝わる恐れがなければ、ぽろっと云ってしまえるような、そんなことなのかも、と……すみません、やはり上手く云えないのですが」
 困ったようにうつむいて、頬に手を添えながらみゆきは云う。私はみゆきが何を云おうとしているのかわからなくて、一人で首をひねっていた。そんなところに、つかさが口を開いてみゆきに助け船を出したのだ。
「ゆきちゃんが云いたいこと、わかる気がするよ。こなちゃんにとって、お姉ちゃんって凄く特別なんだよね……それがどういう特別なのかはわからないけど。だから、お姉ちゃんにだけは云えないってこと、なんだか納得できるかな?」
「それって……」
 私が云いかけたところでみゆきが慌てて口を出してくる。
「すみません、まだよくわかりません、全然違うかもしれません。だから……そういう期待はしないでください」
 泣きそうな顔でみゆきがそう云って、部屋に沈黙が訪れる。
 期待――期待、か。わかっていたはずだ、そんなことは。こなたは私のことを好きでいてくれているはずだけど、それは私の好きとは違う意味だということは。
 けれどみゆきに釘を刺してもらってよかったと思う。こなたにとって特別だと云われたことで、そのとき私は勘違いしてしまってもおかしくはなかった。
「――うん。わかってるわよ、そんなこと」
「――はい」
 泣きそうな声でみゆきが呟いて。
 時計を見上げるともう予定時間は過ぎていた。元々今日一日で何か明確な結論が出るなんて思ってはいない。他人のことなんて、いくら憶測を連ねたところでわかりようはずもないのだ。だから今日は現状の認識と問題を共有するための集まりで、そうしてその目的はすでに達していたのだった。
 駅まで送ると云った私とつかさを丁重に断って、みゆきは一人で帰っていった。
 冬の曇天は地に覆い被さるように垂れていて、そんな寒空の下で一人の女子高生の姿はとても小さなものだった。遠ざかっていくみゆきの後ろ姿を見送りながら、私はつかさと二人、なんとなくぼんやりとしながら玄関の前に佇んでいた。
「……ゆきちゃんはああ云ったけど」
 ぽつりと、つかさが呟いた。
「わたしは、ひょっとしたらって思うんだ」

 そんなつかさの言葉を、私は聞こえなかったふりをした。


§9

 朝、境内の掃除を手伝っていたら、ツグミが一羽死んでいた。

 それは短い試験休みも明けた二十三日。終業式の朝だった。その日一日登校すれば冬休みに入り、そうして年があければセンター試験まで一直線。
 そんな日の朝だった。

 参道の石畳の上に墜ちていたツグミは、何か他の生き物に襲われたのだろうか、それとも天を目指そうと飛ぶうちに力尽きたのだろうか、死因なんてわかるはずもないけれど、とにかくツグミは死んでいた。
 私は、なぜだかそれが酷く悲しかった。
 なんでそんなに悲しかったのか、それは自分でもよくわからない。私はぽろぽろと涙を流しながら、ツグミの亡骸を森の中に葬った。そんな行為は偽善以外の何物でもないのだけれど、それをわかっていながら、私はどうしてもそのツグミの亡骸を無視することができなかったのだ。

 家に戻り、穢れを祓うためにシャワーを浴びながら、私はこの一週間のことを思い出していた。

 こなたのことはずっと気になっていたけれど、積極的に何かをしたわけではなかった。本人が悟られないようにしている以上、周りがあれこれと世話を焼くのは、こなたの意志を無碍にするようで厭だった。
 こなたからはことあるごとにメールや電話が掛かってきた。別に異常な頻度というわけではない。ただ以前より少しだけこまめになったくらいで、話す内容もいつも通りのんべんだらりとしたものだ。私も素直にそれを楽しんで、そうして最後に“気を抜くなよ”だとか“ちゃんと暖かくしなさいよ”だとかツンデレ口調で云って、こなたが喜ぶ声を聞きながら電話を切るものだった。

 秋頃から編んでいた編み物は、ようやく完成した。
 三つのミトンと、一つの手袋。
 初心者にしては、我ながらよくできていると思う。つかさもにこにこと笑いながら凄くいいと太鼓判を押してくれた。けれど最後に『こなちゃん用の手袋だけ随分凝ってるよね』なんて意地悪を云うので、私は思わず赤くなって拳を振り上げてしまったのだった。
『ツンデレ萌え~』なんて云いながら部屋を飛びだしていったつかさは、なんだかしっかりしてきたと同時にこなたに似てきた気もする。

 受験勉強の方には、多少手応えを感じていた。こればかりは蓋を開けてみなければわからないけれど、以前みゆきに指摘された欠点も、最近は改善されてきたと思う。
 まだまだ気は抜けないけれど、例え明日試験だと急に云われたとしても、慌てずに対処できると思えるくらいの自信はあった。

 ――ふと、なんだか妙な脱力感に襲われて、私はシャワーを浴びながら動きを止めた。急に腕を上げるのもコックを捻るのも億劫になった。私は悄然と立ちつくしながら、上を向いて水流が落ちてくるのを眺めていた。
 ――なんだろう、何かが酷く間違っている気がする。
 けれど、一体何が間違っているのかは、いくら考えてもわからないのだった。
 きっと気のせいだ。受験が近づいてナーバスになっているだけなんだ。
 自分にそう云い聞かせながら、なけなしの意志を総動員させて錆びついた腕を動かすと、私はシャワーを止めてお風呂場を出た。
 洗面所でドライヤーを当てていると、ぶるると携帯が震え、こなたからのメールの着信を知らせた。『今日は久しぶりに会えるね』そんな内容のメールだった。そんな文面を見るだけで、私の心は喜びに震えてほっこりと暖かくなるのだった。
 ――大丈夫、何も間違ってなんかない。
 私はそう自分に云い聞かせる。今私は、こなたからのこういうメールを自然に受け取ることができる。こなたはこういうメールを自然に送ることができる。今がそんな今であるためには、私が選んだ以外の選択肢なんてありえなかったのだ。
 こなたからのメールに、一体なんて返そうか。
 それを考えるだけで、私の口元はどうしようもなくほころんでいってしまうのだった。
 今の私は、きっと幸せなはずだった。

 ――けれど、ツグミは死んだのだ。

 久しぶりに会ったこなたは、普段とまるで変わりないように見えた。試験休みの数日の間に、こなたの中でも何かをふっきることができたのだろうか。待ち合わせ場所に現れたこなたは、いつも通りの自然な細目で微笑んでいた。
「いやー、やっぱり幾つになっても終業式は楽しみなもんだよね」
「楽しみってお前なー。学校がない分余計自己管理大変だろ」
 そんないつも通りのやりとりをしながらみんなでバスを待つ。あやのとみさおはメジャーリーグのなんたらいうバッターの話で盛り上がっていて、つかさはみゆきと二人でクリスマスに作るケーキのことを話していた。
「あ、明日の五時からだったよね、クリスマスパーティ」
 列の前にいたあやのが、こちらを振り返ってつかさに問いかけた。
「うん、そうだよ。でもあやちゃんたち本当にいいの? その、わたしは嬉しいけど……」
「ううん、いいのよ。せっかくお呼ばれしたんだもの、高校生活最後のクリスマスくらい、みんなでわいわいしたいわ」
「ってか、なんだかんだであやのと兄貴、あんま二人きりで会ったりしないよなぁ」
「ふふ、子供の頃からずっと一緒だったんだし、今更って感じがしちゃうのね。でも、来年からは二人きりで会うことが多くなると思うな」
「そっか、あやちゃんはカレシさんと同じ大学なんだもんね」
「まあ、受かったらの話だけどな」
 みさおがのほほんとそう云って、その場にいた全員が固まった。
 昔からそうだったけれど、本当にこいつは空気が読めない奴だと思う。天真爛漫な陽気さはみさおの素敵な魅力だけれど、それをそのまま裏返すと、相手の心情をおもんぱかることができない性格だとも云える。
 果たしてみさおは、あやのの複雑な気持ちにどれだけ気がついているのだろうか。そう思うと、この二人の先行きが少しだけ心配になった。
 けれどそんな心配は、まず自分のことを解決してからするものなのだろう。
 そう思って、私は隣で頭を抱えて身もだえしているこなたのことを盗み見る。けれどちらりとやったそんな視線も、すぐにこなたに捕らえられてしまうのだ。私がみていたことに気がつくと、こなたはつつと私の傍に近寄ってきて云った。
「かがみは一人で余裕だねー。ってかなんでそんなどっしりしてんのさ」
 そう云って脇腹に伸ばしてきたこなたの腕を捕まえて、私の身体から引きはがす。どうせまた、体重が増えたからどうのと繋げるつもりだったに決まっているのだ。
「別にー? 今更落ちるだのなんだの云われてもね。受験なんて、結局の所三年間どう過ごしてきたかの結果がでるだけじゃないの」
「うわっ、ここにオニがいるっ!」
「わかってんなら、せめてこれからはちゃんとしときなさいよ」
「今からちゃんとしても間に合うわけないじゃんかっ」
「受験の後の話だ!」
「へ? なんで受かった後もちゃんとしないといけないの?」
 心底不思議そうにこなたはそう云って。
 他の皆は力ない笑い声を漏らすのだった。

 私は呆れ顔を作りながらも、心の底では安堵感を覚えていた。
 よかった、こなたはいつも通りだ、と。
 昔何があったかは知らないけれど、それはもう克服できたことなのだと。
 そう思っていた。

 ――このときまでは。

 ※ ※ ※

「おーい、かがみさまー!」
「断る」
 チャイムが鳴るやいなや、スパンと教室の扉を開け放って矢のように飛び込んできたこなたに、私は云った。
「ぬわっ、なんという即断っ! さすがかがみん、繰りかえしはギャグの基本だよね~」
「ギャグのつもりで云ったわけじゃないんだけどな」
「ほうほう、では一体どういうおつもりで?」
「なんていうか、素であんたの存在を断ってみた」
「あう~ん」
 変な鳴き声を発しながら目をぎゅっと閉じ、その場でよろめいて机にもたれかかるこなたなのだった。
 終業式もつつがなく終わり、あとはもう帰るだけになっていた。桜庭先生は、受験生たちに対する激励を慣れた口調で滔々と述べたててから退室していった。きっと毎回同じ言葉を繰りかえしているのだろう。
 けれど教室の誰からも、休みに入ったことへの安堵感は微塵も感じられない。むしろ学校に見放されたように感じてしまうのか、妙な諦観に満ちたため息がそこかしこから聞こえてくるのだった。
「ちょっとトイレいってくんなー」
 そんな中、みさおが近づいてきて云った。笑顔を浮かべながら私たちに手を振ると、あやのと連れだって出口に向かっていく。
「おう、だしてらー」
 その背中にこなたが大声でそんな事を云って、私は余りの恥ずかしさに、赤らんだ顔を手で覆って隠すのだ。
 教室にはまだ十二、三人の生徒が残っていて、こなたの発言を聞いた近くの生徒たちも、同じように顔を赤らめていた。

 ――ふと。

 妙な視線を感じて振り向くと、近くの席の男の子がこちらをみつめていた。
 その視線が何だか妙に物云いたげで、私は少しだけ身構えた。
 その子は百八十cmを越える長身で、バスケ部で活躍していた子だ。見た目も割と良くて、進学校の陵桜に入っただけあって頭も悪くはない。普通ならば女の子にもててしかるべきだったけれど、あまりいい評判を聞かない男の子だった。他人の感情に無頓着で、踏み越えてきて欲しくない領域までずかずかと簡単に乗り込んでくる、そう云って嫌う子が多かった。
 きっと本人には悪気がなくて、ただ他人との距離感を取るのが不得手なのだろう。そうは思う物の、私もやはりどうしても彼のことは好きになれなかったのだ。
 こなたはそんな視線などまるで気がつかない様子で、ニマニマと笑いながら、楽しそうに明日のクリスマスプレゼントのことを話している。
 何か云いたいことでもあるのだろうか。こなたの言葉に返事をしながら、ちらとその子の方を眺めると、一瞬私と目があった。
 それで、声を掛けてみる気になったのだろうか。小さくうなずくと、彼はおもむろに口を開いた。その唇の動きを、私はなんとなく眺めていた。
「――なあ」
 声をかけられたことに驚いて、こなたが急に振り向いた。その瞬間こなたの顔に浮かんだ能面のような無表情に、私は思わずはっとする。
「おまえらってさぁ、なんか凄ぇ仲いいよな」
 ニヤリと笑って、彼は云う。
 どうしてそんな風に笑うのだろう。何がおかしいのだろう。これから面白いことでも云うつもりなのだろうか。そんなことを考えながら、とりあえず返事をしようと口を開く。
「べ、別に――」
 けれどその言葉を云い終わることはできなかった。続けて彼が云った言葉が私の発言に被さって、私はそれを最後まで云い終わることはできなかった。なぜなら私は彼の言葉を聞いた瞬間絶句したからだ。

「おまえら、実はレズなんじゃねぇの?」

 ――その時、私の世界が凍りついた。

 何を訊かれているのだろう。
 何を答えればいいのだろう。
 レズ? レズってなんだ? レズビアンのことか? 女性同性愛者のことか? 混乱した頭でそう思う。
 でも、だったら。それだけなのだったら。どうしてその単語はそんなに厭らしく響くのだ。彼の口から出たその単語は、どうして吐き捨てるような下卑た色彩を帯びるのだ。
 わかってる。わかってる。本当は全部わかってる。
 白熱したような視界の隅に赤黒い斑点がちらついて。
 私は返事をしようと口を開く。
 けれど喉がカラカラに干上がっていて、どうしても言葉が出てこない。
 おかしいな。声の出し方を忘れてしまった。
 口を開いて、それからどうすればいいのかわからない。
 こんなときにどうやってかわせばいいのか、どうやって誤魔化せばいいのか、幾つか考えてはいたはずなのに。頭が麻痺したように痺れていて、何も言葉がでてこない。
 ぐらぐらと水平線が揺れていき、世界を満たすのは狂ったようなパースペクティブ。揺れているのは自分なのだと気がついた。

「女同士ってあれだろ、貝合わせとかするんだろ? へへ、ネコとかタチとかあるんだよな」

 ドカン、と殴られたような衝撃を感じて、私は思わずぎゅっと目を瞑る。
 なぜか暴行から身を守るように、自然と腕が頭をかばって動きだしていた。
 けれどその言葉に篭められた暴力は、そんな防御などおかまいなしに私に襲いかかってくる。
 そうしてあらゆる抵抗を吹き飛ばして、私の心を丸裸にしていった。
 ずっと。
 ずっと心の奥に秘めてきた真珠のようなその思いを。
 恋こがれて、切なくて、悲しくて。胸をぎゅっと押さえながらうめき声を上げる眠れぬ夜の月明かりを。
 大事に大事に守ってきた、私の心の一番柔らかい部分を。
 こいつはニヤニヤ笑いながら白日の下へと引きずり出したのだ。
 裸だった。
 教室の中で、私は裸だった。
 身を守るものもなにもなく、一生誰にも見せるつもりはなかった秘密のその場所を、無遠慮な視線で眺め回されている。
 視線が痛い。
 教室中の視線が痛い。
 周りのことなんて目に入っていなかった。誰がこちらを見ているのかなんて、目には入っていなかった。
 けれど視線は痛かった。自分を眺める内なる視線が、反転して私を見つめる他人の視線になる。
 私は世界中の視線に晒されて、その中心で裸だった。
 そうしてじろじろと、私は眺め回されていた。

 そのとき私はツグミだった。
 参道の石畳の上、はらわたをはみ出させながら死んでいた、墜死した一羽のツグミだった。

 ――どうして。
 何かが軋んで壊れていって、その奥からどろりとそんな思いが吹き出していく。
 どうして、誰も守ってくれないのだ。
 どうして、誰も隠してくれなかったのだ。
 どうして、誰もそれを葬ってくれなかったのだ。
 みゆきも。
 つかさも。
 あやのも。
 みさおも。
 そばにいるだけで私が安心できて、そうして絶対私のことを守ってくれるはずの親友たちが、どうして今この場には誰もいないのだ。
 ――こなた。
 こなただけはいる。こなただけは聞いている。
 私が絶対にこなたにだけは聞かれたくなかった言葉を、こなただけが聞いている。
 その思いは私の心に残っていた最後の理性を打ち砕き、そうして私はどこまでも傾いでいく。
 ぐらり。
 真っ白だった視界が反転して真っ黒く染まっていく。
 目がちかちかして、赤い光が跳ね回る。
 ぐらり。
 けれどそうして倒れていった私の身体が、ふと柔らかいものに当たって支えられた。
 この感触、この匂い、この暖かさ。
 なんだろう。これはなんだろう。なんだか凄く大事な物だった気がする。宝物のように大事な存在だった気がする。
 そうだ、こなただ。これはこなただ。
 こなたが私を受け止めてくれているのだ。
 けれどこなたは、力の入らない私の身体を椅子の上に置くと、すぐにその傍から離れていった。
 ――行かないで、ずっとここに居て。
 そんな願いが心の中であふれかえっていて、けれどその気持ちは届かない。
 ぼんやりとした視界の中、こなたがその男に近づいていくのをただひたすらに眺めていた。
 男は未だにやにや笑いを浮かべていたが、その顔はどこか引きつって見えていた。きっと私がこんな反応を見せるとは思っていなかったのだろう。では一体どんな反応を期待していたのか。心のどこかで乾いた風が吹きすさぶ。
 ――こなたは。
 何をしているんだろう、こなたは。
 そっと伸ばした両手でその男の手を取った。
 何を勘違いしたのか、男はだらしない笑みをその顔に浮かべていて、私は何か見てはいけないものを見たような気持ちになっていた。
 そうしてこなたが男の手を取りながら上体を捻るように身をかがめた瞬間、それが起きた。

 ――まるで、何かの冗談のようだった。

 その男の百八十cmを越える長身が、くるりとその場で一回転する。
 どすん、と遅れて響く地響きのような音。
 何が起きたのか、まるでわからなかった。
 けれど私の視界に映っているのは、地面に転がって呆然と口を開けている男と、その上に馬乗りになっているこなたの姿だった。
 パシン、と乾いた音が響く。
 パシン。
 パシン。
 何の音だろう。どうしてこなたは男の顔にむけて腕を突き出しているのだろう。
 赤い、何か赤い色が飛んでいる。
 パシン。
 パシン。
 パシン。
 そのころになって、ようやく私は正気づいていた。ようやく目に映るものを外界として認識し、それに対する思考を結べるようになっていた。
 そうしてそれを理解した瞬間、私の背筋がぞわりと総毛立つ。
 こなたが、男の胸の上に馬乗りになって、掌底で黙々と顔を叩いているのだ。男の鼻から流れ出した赤い血が、乾いた音が響く度にぱたぱたと床に飛び散っていく。下になっている男は呻き声を上げながら身をよじるけれど、何故か体重三十五Kgに満たないこなたの身体を払いのけることができない。

 ――そんなこなたは。
 無表情のまま他人を傷つけるこなたは。

 どこか、あの日見たこなたの姿と重なっていた。

 それはあの春の日に、高校生になった春の日に、権現道の桜堤で見た青い髪の幻影だ。
 怖いくらいに美しい桜に覆われた空の下、たった一人で悄然と立ちつくし、今にも桜の海の中に消えていってしまいそうだった、小さな小さな女の子の姿だ。

 ――そうだ、今のこなたはあのときのこなたそのものだ。

「こなたっ!」
 私は引き留めるようにその名前を呼びながら、こなたの元へと駆け寄った。ともすればもつれそうになる足を無理矢理動かして、こなたを抱きしめようと駆けだした。
 こなたがどこかにいってしまう。
 このままだと、こなたがどこにもいなくなってしまう。
 そんな理屈に合わない奇妙な思いにとらわれて、私は全身全霊を篭めてこなたの身体にとりすがる。
 けれど折しも振り上げたこなたの腕の勢いに、私も一緒に振り回されて手を離してしまった。こんな小さな身体のどこにこれだけのエネルギーが隠されていたのか。そんなことを思いながら、再び私はこなたの身体に抱きついた。
「――かがみ?」
 ふと我に返った様子でこなたは振り向いて。そうして不思議そうに小首を傾げる。
 その瞳の深い緑色に、思わず背筋が粟立った。
 一歩足を踏み外してしまったら、その瞳の底まで真っ逆さまに転げ落ちていきそうな。そんな深い深い、虚無に満ちた色。
「――どうして止めるの?」
 ぼそりと、こなたが呟いて。

「こなちゃん! お姉ちゃん! ど、どうしたのこれ!」

 そんな金切り声が降ってくる。
 その声に、そんなつかさの声に、私は心の底から安堵した。まるで非日常的な、悪夢のような光景の中で、その声はどこまでも現実的な色彩を帯びていて。
 そんなつかさの声に安堵して、私ははらはらと落涙する。
 ――ああ、よかった。やっときてくれた。
 つかさがきてくれたなら、きっともう大丈夫だ。
 そんな安堵感が、張り詰めていた私の心をほぐしていって。

 ――私の意識は、闇の底に落ちていった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『4seasons』 冬/きれいな感情(第六話)へ続く












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  • めちゃくちゃだ・・・。
    この男子生徒にめちゃめちゃ沸いてくる殺意
    めちゃめちゃ沸いてくる涙。
    そして、作者さんのめちゃめちゃな文章力
    すごすぎるww
    -- taihoo (2008-11-29 04:33:09)
  • この男子生徒の声は、間違いなく立木w -- 名無しさん (2008-07-03 21:27:48)
  • 死んだツグミの伏線が、かがみ自身にかかっていたとは!
    まったく予想できなかった。 -- ¥★~ (2008-06-24 01:15:11)
  • これはヤバい。脳内が侵食されてるようだ
    俺の頭が文字の羅列を欲している
    -- 名無しさん (2008-06-15 13:52:51)
  • 続きが気になる……

    感想はそれだけで十分伝わった………はず。 -- 名無しさん (2008-06-15 09:58:48)
  • こういう展開はこの二人を描いた作品だと幾度かあったと思います。
    けど、ここまでぞくっとなる事はなかった。文章力なんでしょうね。 -- 名無しさん (2008-06-14 19:33:26)
  • 読みました。心をえぐられた気分です。こっちまで切なくなってくる文章に作者は凄いなぁと、毎回思ってます。頑張ってください -- 名無しさん (2008-06-14 16:51:39)

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