チャド戦争

チャド戦争


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System=:シェラルドの中の人(yasai/vegetable_104)の企画、シナリオによる


チャド戦争(ちゃどせんそう、英:Chad war、142年 - 142年)は、神聖ローマ帝国ビュザンティウム連合のアフリカ内地探検において、チャド湖畔で両国の武装探検隊が衝突したことで発生した植民地戦争である。
チャド戦争
        



        目次[非表示]
 1. 概要
 2. 背景
  2-1. クリミア戦争
  2-2. アフリカ進出
 3. 開戦
 4. 開戦後の経緯
  4-1. チャド湖畔の戦い
  4-2. ンジャメナ籠城戦
  4-3. マルアの戦いとンジャメナ降伏
 5. 終戦と講和
  5-1. ンジャメナ休戦協定
 6. 影響
 7. 関連項目
 8. 参考文献
チャド湖畔の戦い
ンジャメナ休戦交渉
戦争:チャド戦争
年月日:2020年11月17日 - 2020年11月21日
場所:チャド、カメルーン
結果:BUの勝利
交戦勢力
トラキア・ローマ帝国
シェラルド王国
最も高貴な共和国モレラ
マルタ辺境伯領
指導者・指揮官
ユリウスⅥ世
エリックⅠ世
コルネリウス・レギルス元帥 ウジューヌ・ド・ペリニョン
アドルフォス・ゲオルギオス首相
マルタ辺境伯
アフリカ調査団 マルタ指揮官
投入戦力
8,000人
兵士4,000、探検隊200
兵士3,000、探検隊200人
1,000人
損害
死者・負傷者1,100人
死者2,300人
死者800人
0,000人

 概要

クリミア戦争で黒海油田を失ったHREは、和解したマルタ辺境伯領軍を伴い、新たな策源地としてアフリカ内地の探検に乗り出した、これに対抗しBUもアフリカ探検を行った。両国は正規軍部隊を随伴した武装探検隊を沿岸の植民地に上陸させ、内地の征服へ送り込んだ。
両国はそれぞれカメルーン、ナイジェリアを探検したため、目的地は共に奥地のチャド湖であった。到着も同時期であり、両軍司令官は交渉を行ったものの、両軍が武力衝突に突入すると、現地の支配権を巡る植民地戦争となった。チャド湖畔の戦いにBU軍が勝利すると、HRE軍はンジャメナに撤退した。BU軍はンジャメナを包囲し、HRE軍は慣れないアフリカでの籠城戦に苦しみ、高温多湿の環境下で飢餓や疫病を発生させ、多くの死者を出した。
HREの援軍はマルアでBU軍を破りンジャメナの包囲を解いたが、間一髪でンジャメナのHRE軍の指揮官ペリニョンは降伏していた。ペリニョンは独断でBUとチャド地域における両国支配域境界線を定めるンジャメナ休戦協定を締結し、戦闘が停止された。HRE皇帝エリックはペリニョンを非難したが、劣勢を理由に協定を追認し、チャド戦争は終結した。BUはチャド湖畔地域の支配を確立させた。
初の植民地戦争であり、世界各国に影響を与えた。BUは勝利によってアフリカでの戦争に自信を持ち、さらなる拡大の道へ向かった。HREは敗戦を受け南下政策に切り替え、中央アフリカ地域の支配を進め、南に植民地を持つceltoに接近した。
抗戦勢力。赤がBU(うち参戦国は濃い赤)、緑がHRE(うち参戦国は濃い緑)。今戦争は植民地戦争であったため、ヨーロッパ本国では戦闘が発生していない。

 背景

クリミア戦争

黒海油田を巡るモレラ=アナトリア間の対立は紛争へ発展した。この隙をついて月の谷はクリミアへ侵攻。モレラ、アナトリア両国はこれに干渉すべくコンスタンティノープル和平交渉を開始した。しかしこれは紛糾の末に破談。この間に月ノ谷はクリミアを掌握した。
黒海の制海権を巡る争いは、シェラルド=アナトリア艦隊がエーゲ海海戦でモレラ艦隊に勝利したものの、直後に黒海で嵐にあい壊滅。結果モレラが握ることとなった。モレラ、トラキア連合軍はクリミアへの上陸作戦を行い、シェラルド=アナトリア王国軍はカフカス経由の北上を計画したが、月の谷軍が反乱軍を手引きし先制してカルス要塞を占領した。モレラ、トラキア連合軍は海上支援を受けヤルタ上陸作戦、バラクラヴァの戦いに勝利するも、月ノ谷、ユークバニア連合軍の猛攻と補給線攻撃、またアナトリアへの警戒もあって全力が出せず苦戦した。セヴァストポリ要塞包囲戦は長期の消耗戦となった。
シェラルド=アナトリア王国軍がカルス要塞へ動いたことで、モレラ、トラキア連合軍はセヴァストポリへ総攻撃をかけ奪取し、またケルチを占領したが、月ノ谷、ユークバニア連合軍の抵抗とカルス要塞の奪回もあり再び膠着した。
シェラルド皇帝エリックが無茶なロシア遠征を計画したことで、これを阻止したい外務大臣ラ=プラティエが暗躍。両陣営を講和の席へ着かせた。会議では月ノ谷軍のクリミアからの撤退及び不干渉が要求され、艦隊壊滅のなか黒海の勢力均衡を志すラ=プラティエの提案で海峡条約の破棄が交換条件となり、月ノ谷は合意した。また、モレラのクリミア及び黒海への影響力増加を阻止すべく、ラ=プラティエは黒海油田を妥協することで、クリミア不干渉をモレラ含む条約締結国すべてに飲ませた
パリ講和会議
 

アフリカ進出

クリミア戦争の結果、黒海油田を失ったシェラルド=アナトリア連合王国は、これに代わる新たな策源地として、未だ未開のアフリカ内地へ目を向けた。アフリカ中部は、沿岸部こそ各機構の植民地が存在しており、シェラルド王国が率いる神聖ローマ帝国は、カメルーン地域の沿岸都市であるサナガ河口のドゥアラや、ビオコ島のマラボを領有していた。皇帝エリックはサナガ川伝いに内陸部を探検、征服する計画を立てた。直ちに武装探検隊の派遣が決定し、ヴァルキア王国との低地戦争を抱えていたため、シェラルド兵に加え、和解したマルタ辺境伯領の兵を合わせて総勢2万名で出発した。指揮官にはペリニョン准将が充てられ、将軍への出世へ意欲を見せた。
一行はマラボへ寄港し、次いでドゥアラへ上陸した。隊は二手に分かれ、バフサム、ヤウンデ、ベルトゥア等を征服し、植民地へ加えながらサナガ川を北上し、バンキム湖、ムバカウ湖などの水源を発見する成果を上げた。当初の計画ではこれら水源となる湖の発見で以て探検を終了する予定だったが、ペリニョンは捕虜からさらなる奥地に存在する幻の巨大湖の情報を得て、探検の続行を上奏した。エリックはこれを喜び許可をだした。ペリニョンは占領地の維持や傷病兵を残し、4,000名で奥地へ向かった。
一行はヌガウンデレを占領すると、ベヌエ川を発見し、川沿いにさらに北上した。途中ペリニョンは熱病に罹るもガルアで二週間療養すると完治した。同地を探検拠点と定め2,000の兵を残すとさらに北上しシャリ川へ到達し、ンジャメナへ至った。ンジャメナを1,600名で発ったペリニョンは遂にチャド湖を発見し、国旗と隊旗を掲げた。
ペリニョンは喜び勇んで祖国へ報告を送ったが、しかし、斥候が対岸にトラキア旗を発見すると自体は急変した。ちょうど同時期に、BUの部隊がチャド湖を発見し、対岸に旗を立てていたのだ。
ジャングルを進むシェラルド兵

 開戦

両軍は自軍こそ先に湖を発見したのだと信じて疑わず、我先にと湖畔に陣地を築き睨み合った。初日の発砲騒ぎでは両軍に2、3名の死傷者が出てあわや一触即発といった事態に発展したが、両指揮官は厳しい内地での不毛な戦いを避けたいという思惑で一致し、交渉が行われることとなった。
交渉は湖畔の漁師小屋を奪って行われた。小屋の主人は抵抗したため、銃殺され湖に遺棄された。両指揮官は軍事境界線の策定に着手したが、BU側がシュリ川を境界線とする提案を出したのに対し、HRE側は少しでもより豊かな左岸側へこれを動かそうと望んだため、交渉は難航した。
依然交渉中のある日、ひとりの酔ったトラキア兵が湖へ放尿中に、フランス兵に突き落とされ溺死する事件が発生し、これに激怒したトラキア兵がフランス陣地を襲撃し数名を連れ去った。交渉中の両指揮官は慌てて仲裁に乗り出したものの、連日の酷暑と飢え、渇きにストレスを溜めていたトラキア兵はおもむろに捕虜のフランス兵を惨殺して見せしめにしてしまった。ことここに至っては収拾がつかなくなり、遂に両軍は全面的な衝突へ移行した。
探検ルート(赤がBU、青がHRE)。両国はチャド湖畔でぶつかった。

 開戦後の経緯

チャド湖畔の戦い

両軍は湖畔沿いに野戦陣地を築いて向き合っていたが、BU軍のローマ式工兵が築いたそれは、HREのものを凌駕していた。また兵数もBU側が多かった。
最初の湖畔での戦闘は、フランス兵のBU陣地への突発的な突撃から始まった。そのため、BU軍の組織だった反撃の前にHRE軍は多大な損害を出した。後続のマルタ騎士が入れ替わり殿を務め、なんとかHRE陣地へ後退した。その後、勢いを得たBU軍はHRE陣地へ逆攻勢を仕掛け、脆弱なHRE陣地を攻略した。HREは地形の悪さから、自慢の騎兵や大砲を使えなかったことも災いした。ペリニョンはなんとか規律を維持し、重装備や物資を放棄しシュリ川沿いのブランクア村まで後退した。BU指揮官は追撃を命令したが、一部のBU兵はストレスからHRE陣地の略奪に走り、途中小屋の火薬庫が爆発し数百人のBU兵が爆死、湖の藻屑となった。
ペリニョンはブランクア村、ニャナティール村と両村の中央に部隊を配置し、BU軍を迎え撃った。規律の乱れたBU軍は村での待ち伏せに合い大きな犠牲を出したが、途中で火薬庫小屋の爆発音が届き、敵軍に大砲があると錯覚したニャナティール村のHRE兵がパニックを起こし潰走したため、包囲の危険にさらされたペリニョンは止む無くンジャメナへの全面撤退を決行した。BU軍は立て直しの為追撃せず、HRE軍はンジャメナへ退避することができた。
チャド湖畔の戦い
 

ンジャメナ籠城戦

ンジャメナへ退避したHRE軍に対し、BU軍はシュリ川対岸のクッセリ地区や、後背のブム=ブム村を占領し、ンジャメナを孤立させ包囲下に置いた。チャド湖畔の戦いで物資を放棄していた上に元々貧しいンジャメナに籠らざるを得ないHRE軍は深刻な水、食料不足に直面した。ペリニョンは止む無く無制限の徴発を許可し、ンジャメナは略奪により荒廃した。報復で殺されるフランス兵も多かった。ペリニョンは後方ガルアに残した部隊へ再三救援要請の伝令を出したが、行きと違い、ンジャメナの略奪によって協力してくれる現地人の水先案内人が得られず、伝令の殆どは迷子となりアフリカの樹海に消えることとなった。ようやく一人の若い騎兵がガルアへたどり着くころには手遅れとなっていた。
HRE軍の無法に対し、相対的に現地人に助けを求められることとなったBU軍は、現地人を通じてンジャメナのこうした窮状を正確に伺い知ることが可能であった。また、チャド湖畔の戦いで得た戦利品によって物資にも多少の余裕が生まれたため、包囲戦を続けた。
ンジャメナ籠城軍とペリニョン准将
 

マルアの戦いとンジャメナの降伏

ペリニョン准将の放った伝令のうち一人、プジョン少尉がHRE軍の探検拠点ガルアに到着し、指揮官アレクサンドル・モンブラン大佐へンジャメナからの救援要請を伝えた。モンブランは兵2000を率いガルアを出立した。これを察知したBU軍はシュリ川沿いに散っていた兵を集結させ、モンブラン隊の行軍ルートに合わせて、真っ直ぐメイヨー・ルーリ川沿いの街道を北上した村マルアにトラキア兵を、東へ迂回した際のシュリ川の分岐点ヤーグアへ村モレラ兵を分け待ち構えた。最短ルートを志したモンブランはマルアルートを選択していたが、BU軍は騎兵の陽動によって、シュリ川ルートが本命と誤認した。
同胞の救出に燃えるHRE軍は恐るべき速さで機動をおこない、マルアのトラキア軍がヤーグアへ援軍要請を出す機会を奪った。モンブラン隊は夜間にメイヨー・ブーリ川を渡河し村内に橋頭保を築くと、日の出と同時に総攻撃をかけた。トラキア軍とは激戦となり両軍共に被害を出したが、下流から迂回していたモンブラン直卒の騎兵で背後から急襲すると、遂にBU軍は崩れ敗走した。この頃ようやくヤーグアのモレラ軍が到着した。モレラ軍はパラザで渡河中に攻撃を受け、戦死120、溺死200超の大損害を受け退却した。包囲を解いたモンブランは急ぎンジャメナへ向かった。
一連の戦闘の報告を受けたンジャメナ包囲BU軍はこれに慌て、市井にモンブラン隊敗北の偽情報を流すなどして、ペリニョンの降伏を急かした。この時点で、ンジャメナのHRE軍はその7割が赤痢、チフスなどでの病死か餓死かで失われており、ペリニョン自身も発熱で朦朧としながら交渉の席についていた。モンブランは目先に迫っており、ブム=ブムのBU軍と戦端を開いていたが、BU軍使がこの大砲の音がBU軍の演習のものだと嘘をつくと、遂にペリニョンは屈し降伏を受け入れた。その場でンジャメナ休戦交渉が始まった。
降伏文書に調印するペリニョン

 終戦と講和

ンジャメナ休戦協定

BU軍は戦勝を手にし、有利な状況でHRE皇帝に対し無断で、現地で勝手に植民地の軍事境界線を定める協定を結んでしまおうとした。この協定によって、BUはチャド湖及びンジャメナ、マルア、またガルア市を除くベヌエ川北岸一帯を植民地として手にした。また、バハル・アウク川以北の原住民との独占交易権も認めさせ、チャド地域での覇権を確立した。ペリニョンら傷病者はBU軍の下で治療を受けることが許され、BU軍司令官はペリニョンの剣を代わって副官のレイ中佐より受け取った。レイは撤退軍を率いブム=ブムでモンブランと会い、激しく罵倒されたという。
暫くして、一連の報告が本国に届いた。HRE皇帝エリックはペリニョンを批判したが、協定については追認せざるを得なかった。また、モンブランはその戦いぶりを絶賛され、戦後旅団長に昇進となった。
策定された軍事境界線

 評価

本戦争は、機構同士の初の植民地戦争として評価され、後の各機構の植民地政策や、アフリカ中央地域での戦略、戦術の発展において、興味深い研究対象とされた。終盤こそモンブラン大佐の活躍もあったが、ガルアからの強行軍でンジャメナ解放まで至ることができたかは疑問であり、一貫してBU側が優勢であったと言えるだろう。また、BUはンジャメナ休戦交渉に見られるように、政治面でもHREを出し抜いている。これらには、やはりトラキア軍のローマ式兵站術に支えられた大兵力の投入や長年の植民地政策などに、一日の長があったためといえるだろう。そして、この戦争に従軍したBU調査員がチャド湖地域の学術調査を行い、アフリカ暗黒大陸の解明へ偉大な貢献をされたこともここに記しておきたい。
一方、HRE側で特筆すべき点としては、これが半島戦争以来の、シェラルド王国と旧holynation、すなわちマルタ島政府との和解を経ての共同戦線であった点であろう。結果敗戦であったとはいえ、これが両国融和の偉大な一歩であったことは否めない。HRE内では低地戦争など不和が続くが、エリックの帝国の行く末はいかなものか、注目したい。
戦争を通して、両軍とも戦闘での死傷者よりも、病死者の方が多かったとされ、アフリカ内地への軍隊派遣の困難さを示した。
チャド湖にはためく唯一の旗となったトラキア旗

 関連項目

● クリミア戦争
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 参考文献

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最終更新:2020年11月21日 16:31