そもそもの発端は、
 「俺。ちょっと遊んでくるわ」
  唐突な会話から始まったのだった。
  日に当たると金茶色。赤毛の混じった枯れ草の髪。鳶色の瞳。やや猫背気味の、それでも十分に長身。トレードマークのサングラスを、その日も鼻の頭に乗せて、ヒューはカークに向かって言い放った。
  部屋の片付けをしていた背後から、いきなりの発言にカークは振り返る。
 「お前はどうする」
  びっ。
  指で指され、けれど直ぐには気の聞いた返答も思いつかず、カークは困ったときのいつもの癖で首を傾げた。
  主の意図が理解できなかった。
 「遊び――ですか」
 「おう」
  久しぶりに大きな仕事をこなして、ヒューの懐具合は割と温かだ。
 「何をして、遊ぶのですか」
 「何を、って」
  カークの問いにヒューは眉根を寄せて見せた。次の言葉に詰まり、頬を掻く。
 「判らないか?」
 「――何がでしょう」
 「……あのな。カーク」
  大袈裟に大きく肩を落として、
 「お前、人間の生体反応学習してるか?」
  男はカークにそう言った。
 「はい」
  カークは頷く。大抵の知識は、人並み以上に学習済みだ。
  人間であれば、一生かかっても覚えきれない膨大な量のデータを、僅か数分で彼は学習することが出来る。全てのD-LLがそう、と言う訳ではないのだが、少なくとも彼は設計段階でそう造られた。
 「あー。だから。人間には、男と女があるよな」
 「はい」
 「まぁ、D-LLにもあるか。マルゥは……女だな」
 「どこから見たってフィメールよ」
 「はい。マルゥは、フィメールタイプですね」
  ソファの定位置から雑誌を流し読みし、聞くとなしに聞いていたらしいマルゥが茶々を入れる。
  頷いたカークの表情が僅かに翳った。
  彼に性別は無い。
  どちらもあるのではなく、両性共に無いのである。
  生まれた時よりそうだったから慣れてはいたが、気にしていないといえば嘘になる。不定形な己は、ある種のコンプレックスだ。
  それとなく俯きかけたのだろう。カークの頭にひょいと大きな手のひらが乗った。そのまま乱暴に頭を掻き撫ぜられる。
  気にするな。
  そう言ってくれているのだろう。
 「人間の男に、たまに必要なコトってあるよな。……判るか?判れ」
 「え、あ――」
  含みを十二分に聞かせた男の無言の圧力と、こちらは理解しているらしい物言いたげな視線を送るマルゥの意味深な顔に、カークは数瞬呼吸に詰まり、それから不意に思い当たると羞じらった。
 「その――つまり、」
 「つまり。そう言うコトだ」
  で。
 「お前はどうする」
  もう一度尋ねられ、その意味を今度は理解できたカークは小さく首を振った。
  女ではない。しかし、男でも無い彼には不必要なものだ。
  そちら系統の欲望には淡白な様子のヒューではあったが、勿論たまには夜の街へと出かけてゆく。付き合いのある女性でもいればまた違うのだろうが、生憎ヒューにそう云った女性の出来る気配は未だ無い。
  見た目は問題ないとカークなどは思う。
  むしろ、どちらかと言えば女性が憧れるタイプなのでは無いか。
  茶目っ気があり、金払いも良い。物にも無欲で、あまり拘る性質ではない。甘え上手のようで、その実頼りになる。
  問題となる一点はきっと、破天荒なこと。
  思いついた瞬間に、既に実行に移している。口の挟む隙が無い。また、おそらく言っても聞かない。その癖放っておけばおいたで、また拗ねる。天邪鬼だからだ。
  包容力と忍耐を兼ね備えた女性がいたらば、きっと主と似合いになるのではないかとカークはマルゥに漏らしたことがある。
  切って捨てられた。
  ――アンタ以上にマスタに尽くせるタイプって、そうそういないわよ。
  否定できなかったのが悲しい。
  とにかく。
  そうして出かける時、カークはいつでも留守居役に回った。
  自信が男では無いとか、人間では無いとか、付いて行かない理由はそれでは無い。
  無論、必要性を感じないのも理由の一つではあったが、もっと原始的な理由がある。
  そもそも、カークは人間が怖い。
  中でも触れ合うことが極度に怖い。
  肌を見せたがらない己がいる。全身を無駄なく覆い隠していることに、隠した後に気付いた。
  理由は判らない。
  ヒューはそれを口にはしない。けれど判っている。
 「そうか」
  だから、必要以上に問うことも無い。このときもあっさりと頷き、
 「じゃ。俺は行って来る」
  そう言ったのだった。
 「明日の朝には戻る」
 「はーい」
 「はい」
  調子を合わせたマルゥは勿論、カークに依存は無い。おとなしく、リビングで頷いたのだった。
  日がな一日、久しぶりに訪れた自分のためにだけ使える時間。マルゥは主のヒューほどに手は掛からない。ゆっくりと流れる時間を、誰に邪魔されることも無く、本を開いて過ごした。
  依頼を受けていないので、訪れる人間も無い。
  暗くなり、夜が更けても穏やかな夜だった。
  だのに、眠りは浅かった。
  夜中。
  防音ガラスを通して細く聞こえた、遠くのクラクションに、彼は目を覚ます。
  無駄なものが一切無い、と言うよりはパイプベッドだけしか物がない。その唯一の家具が中央に置かれた己の寝室を出て、そこでソファでうたた寝したまま眠ってしまったのだろう、マルゥの小さな寝姿を見つけて思わず苦笑を漏らした。
  二人して、これではまるで置いていかれた子供ではないか。
  たかだか主が一晩か二晩、家を空けた。それだけのことだ。何を不安がることがあるのだろう。
  何故か湧き上がる妙な不安感を自身で笑って吹き飛ばして見せた。

  が。
  幾ら待っても、
 「――七日――か」
  浮かんだ言葉を思わず一人ごちて、曇ったガラス窓越しに外を眺める。
  その日何度目になるか判らなくなった溜息を、カークはまたひとつ吐いた。
  帰ってこない。
  勿論ヒューは子供ではない。ついでに出かけた理由が酷く干渉しにくい事柄だ。帰宅時間が半日や一日遅れたところで、口を出すことでは無いと判っている。
  判っては、いるのだが。
  けれど何の連絡も無いままに四日が過ぎ、五日が流れ、六日を迎えて。
  とうとう一週間になった。
  流石にカークは、このままじっと待っていてはいけないのではと言う思いに駆られる。違う。疾うに駆られていた。ただ、じっと我慢していただけだ。
  しかし。
  果たして遊郭街に様子を覗き見に行ってよいのかどうか、それもまた悩む。
  ヒューは大人の男だ。
  のこのこと様子を伺いに行き、女性とよろしくしている現場に立ち会ってしまったら、自分は一体どういう顔でその場にいたらよいのだろう。
  余計なお節介なのかもしれない。
  そう言って、既に一週間、音沙汰も無いまま、ぼんやりと帰りを待つだけと言うのも、少々薄情な気がしないでも無い。
  こまった。
  愚図愚図と悩んでいたカークの尻を叩いたのは、、結局マルゥの方だった。
  そうやって悩んでいたって仕方ないでしょ。
  言われて、ようやくカークは重い腰を上げ、ピックアップで遊郭街のある外殻都市までやってきたのだった。
  着くと直ぐにヒューの足取りの手がかりを探し始める。
  なにしろ情報を集めるという点では、カーク以上の適任者はいない。どんなセキュリティ・プログラムも彼の前では意味を為さないからだ。
  調べてカークは頭を抱えた。
  全く手がかりがなかったからではない。足跡は山ほど点在していた。
  調べて判った主の行動が、らしいといえばあまりにらしくて、その期待を裏切らない破天荒ぶりに頭を抱えたのである。
  外郭都市を訪れたヒューが、いつどの時点でその場に居合わせたのかは知らない。
  判っているのは、五日前。
  その辺り一体を仕切っているといえば聞こえが良い、実際は手当たり次第やりたい放題、我が物顔にのさばっている一味がいた。
  ドルマと名乗るリーダーを頭に、ろくでなしばかり揃っているらしい。
  その日も彼らはパブを一つ貸り上げて飲めや歌えやの騒ぎだったようだ。
  どんなに派手に騒ごうと、金さえ落としてくれるならと店のものも最初は眼瞑り、見てみぬ振りで我慢を重ねていたらしい。
  堪忍が限界突破したのは、深更。
  いい加減酔いの深まったドルマは、給仕の娘に淫らに手を出し始めた。
  娘は嫌がる。
  店主が止める。
  ここは、そう言う店ではないのだと、柔らかにけれどきっぱりと漢を見せたようだ。
  話の通じる相手ではない。話の通じる頭を持っていたなら、もう少しマシな性格になったろう。
  ドルマは単純に激した。
  止める店主をぶん殴り、悲鳴を上げる娘の胸倉を掴んだまま、見せしめだと怒鳴って店の外大通りへ引き摺り出た。
  娘を裸に引き剥き、路上に押し倒す。
  ドルマの獰猛さを知る余り、辺りのものは手を出せない。
  取り巻きは当然囃したてる。
  泣き喚く娘の頬を数発張って、彼女の身体に圧し掛かりかけた。
  ぐいと。
  強姦魔の首根っこを掴み、無造作に脇へ突き飛ばした命知らずがいる。たまたまその場に通りかかったようだ。
  ヒューだった。
  聞いた話を思い出し、カークは思わず眉間に寄りかける皺を伸ばしながら、息を吐く。
  事情を知らなくても、或いは知っていたとしても、通りがかった路上で抵抗する全裸の娘によって絡む男がいたとしたら、そうして男が娘に手を上げたとしたら、
  間違いない。主は必ず、問答無用で男をブン殴るだろう。
  取り巻きに抱き起こされたドルマは、一瞬自身の状況が理解できなかったようだ。しかしやがて自分が何をされたのか判ると、莫迦のように喚き散らし始めた。
  訂正する。はっきりと、莫迦だった。
  その莫迦と向かい合って、カークの主は、

  ヒューは。
  ヒューは喚き散らしている男を見下ろす。上背がある分、それは結構な威圧感で、酔った男も思わずたじたじとなりかけ。
  ――お、俺を。俺を誰だと思ってやがる。俺は、俺は貴様のような低下層のクズが、気軽に話しかけるどころか、姿を拝むことすら出来ねぇエリートなんだぞ。
  ――ゴチャゴチャゴチャゴチャうううううっるせぇよ。王様だろうと神様だろうと、女に手を上げるヤツは全部まとめてみんなクソだ。どんな理由があったってな。クズの俺より高等なお脳ミソ持ってるってんなら、少しは人間様らしい常識にみちみちた行動をしようって気にゃあならねぇのか。
  ――クズが。偉そうな口利きやがって。
  ――そのクズに説教されるアンタは相当なクズだな。
  ――貴様。
  このままで済むと思うなよ。
  顔を歪め棄て台詞をまさに吐き捨て、よろよろと立ち上がると夜の闇へと顎をしゃくる。
  一人では勝てない。ならば。
  幸い取り巻きは相当数いたし、数で勝てると踏んだのだろう、明らかに報復する腹積もりなのは見て取れた。
  そんな男と指し示された闇へ視線を送っていたヒューは、ふん。鼻を鳴らし肩を竦めると、礼を言いかける娘に目もくれず、飄々と、

 「――これでは飛んで火にいる夏の虫ですよ」
  咎めるやさしい声がした。
 「……カー……」
  床上に転がった己の身体の側に寄り添って、座り込む気配がある。
 「探しました」
 「可愛い女と楽しんで」
 「――……いる予定だったのならば、お邪魔するつもりはなかったのですが――ここは、少し――、寒いですね」
  スチール床。剥き出しの配線。カーペットの一つも愛想も無いそこは、
  地下室。
  己のいる場所を改めて確認して、それからヒューはうっすらと瞼を上げる。
 「俺の特等室へようこそ」
  半ばおどけて目をやれば、嬉しいような悲しいような。複雑な顔をして微かに笑った彼のD-LL……カークのいつもの顔がある。
  足腰も立たないほどに半殺しに殴られて、叩き込まれたのだった。
  腫れた頬に床が気持ち良いと、捨て鉢な気分で転がっていたところなのだった。
 「何日経った」
 「――一週間です」
 「一週間か……」
  ヒューは呟く。
 「ひどい顔ですね」
  そう言ってカークは、ヒューの顔に手を伸ばした。
  低体温の彼の手のひらはその時もひんやりとしていて、
  ああ……また……だ。
  つい数ヶ月前に依頼と称して拉致監禁されて。新種のドラッグを次々と試され、陥った中毒気を抜かれた病院を、ヒューは思い出していた。
  当てられた手のひらに覚えがある。忘れさせられた大切なこと。
  あの時に聞きそびれた、
 「カーク」
 「――はい?」
 「聞いてもいいか」
 「何をでしょう」
 「その……、俺が小さい頃に熱を出したときにも、そうやってお前は手を当てていた……な?」
  問うた言葉に、予想以上。彼がひどく動揺したのが伝わった。
  当てられた手のひらが慄いたから。
 「――夢でも――見たのでしょう――」
  しばらく訪れた沈黙に耐え切れなくなったのは、カークが先だ。
 「夢か」
 「それよりここから出ることを」
  考えませんか。
  明らかに話を逸らそうとする。
  ……言いたくはない……か。
  目を閉じたまま、ヒューは眉根を寄せた。見えないように顔を横へ向ける。
 「……つか、お前が何でここにいる」
  自身にとってカークが側にいることがあまりに当たり前すぎた。通常直ぐに湧いて出るはずの疑問が遅れて顔を出す。
  気になる疑問を棚上げだ。多少拗ねた声になることはこの際勘弁してもらいたいとも思う。
 「それを言うとまたあなたに叱られそう――なのですが」
 「叱るか」
 「はっきり叱ると思います」
 「聞かせろ」
  先程とはまた違った躊躇いの声が、背後から聞こえる。興味をそそられてヒューはぐるりと振り返った。
  どう告げたらよいものか。
  青年が思案している様子が見て取れる。
 「その。……――事前に断っておきますが、マルゥの安全は保障されています」
 「で。」
 「それと、このプランは飽くまでも私個人の思い付きですので、マルゥに責任はありません」
 「で。」
 「最後に一つ、口を挟むのは最後まで待っていて欲しいのですが」
 「で。」
  前もって遠回しに釘を刺しフォローする時は、彼が言い難いことを口にする時の癖。
 「――賭けを提案しました」
 「ドルマと」
 「はい」
 「条件は」
  どんな。
  無言で先を促す。促されカークは深い深呼吸を吐いた。頭ごなしに叱られる覚悟を決めたようだ。
 「明日PM11:00。種目はカーレース。賭けたものはヒューの身の解放……対してD-LL一体」
 「……そのD-LLは……演算が好きなインドア派のD-LLだな」
 「そうだと思います」
 「家事全般、ハウスキーパーロボなんかよりよっぽど気の利く」
 「そうありたいと思います」
 「カーク君」
 「はい」
 「素敵な首飾りをしているね」
 「はい」
 「言うことは終わったかね」
 「はい」
 「そこへなおれ」
 「はい」
  一度覚悟を決めたら後は、小憎らしいほど冷静だ。ヒューの指した床にカークは、おとなしく正座し背を正す。

 「レースは……――お好きですか」
 「レースか」
  呆気に取られたのは一時のことだ。次第に剣呑な光を取り戻しながら、値踏みをするように上から下まで、ドルマはカークを眺め回す。
  その視線に動じることなく、平然とカークは立っている。
  レースはお好きですか。もう一度カークが繰り返した。
 「明日。私の提案する条件を呑んで、待ったなし一番の勝負をしませんか」
 「提案、とは」
  命懸けのカーレースは好きだ。勝てる勝負はもっと好きだ。
  気を惹かれてドルマは身を乗り出した。
 「数日前……、あなたに手を上げた男がいましたね」
 「ああ……あのバカか」
  青年の言葉に思い当たって、ドルマは頷く。苦々しげに顔が歪んでいた。
 「歓待してやってるが」
 「――あの男を解放すること。それが私の条件です」
 「ふん」
  ドルマは粘ついた視線で再びカークを舐め回す。
 「てめぇの大事な御主人様って訳か。命乞いに来たか」
 「命乞いではなく――、レースの挑戦状で」
 「挑戦状を破り捨てるとは思わないでここに来たのか?随分」
  甘い考えじゃないか。
  いいながらドルマは目の前の獲物の腕をぐいと引いた。たいした抵抗もなく、獲物はそのまま、優しい匂いと共に彼の胸へと倒れこむ。
  倒れ込んだ獲物の首筋に、ドルマは何気なく目が行って、
 「おい!」
  ぎょっとなってせっかく引いた獲物を突き飛ばしていた。
 「てめぇ、」
  男か女か。はっきりとしない無性別の美しいそれの首筋に、細く光るレジメンタル・タイによく似た銀の輪。
  任意で起爆のできる遠距離操作型の爆弾だ。
  小さいからと言って侮るなかれ。軽く周囲100メートルは跡形もなく吹き飛ぶ。
  デス・ティニーと呼ばれているものだった。
 「俺を殺す気か……ッ」
 「――まさか」
  獲物だと思った目の前の脅迫者は、角度を変えて俯く。能面のようだとも思う。薄く微笑んだようにも見える。
 「レースをしようと、そう提案しているだけです――」
 「て、てめぇは何を賭けるって言うんだ?まさか、10:0の条件でコトを進めようとしてるんなら、」
 「ですから。……――私を」
 「は?」
 「あなたが勝った暁には、私を煮るなり焼くなりご自由にしていただいて結構です。私はD-LLです。それなりな値段で、売れることでしょう」
  賭け好きで派手好きで、男だろうと女だろうと綺麗なものに目が無い。力で奪う。
  言ってみれば運転気違いで、けれどその運転は酷く荒く、クラッシュ事故を数度起こした経験がある。
  命を賭けることに躊躇は無い。
  あるならばそれは、命を惜しんでではなく、賭けるほどの価値が無いと判断したときのことだ。
  ネット上で集めることの出来た、ドルマの情報はそういったもので、カークの提案は、そうした経緯を踏まえてのことだった。

  ――……叩かれる。
  前に仁王立ちし、手を上げたヒューを見てカークが眼を瞑った。
 「あのな。俺は嫌なんだよ」
  叩くつもりは端から無い。彼の頭に手を乗せて無造作に掻き混ぜれば、触れた柔らかな黒髪の感触に思わず手が離せなくなった。
 「いくら交渉の仕様が他になかったと言ったって、お前やマルゥがモノ扱いされるのは」
 「――」
  ガラスは疾うに割れて、無い。ドアの覗き窓に近づくと、嵌め込み型の鉄格子。格子の向こうの廊下には煌々と明かりが見える。表通りが近いのだ。
  今は夜だが、この光は月光ではなくネオンライトだろう。何故なら下層に月は無いからだ。
  太陽の直接の光や、月が拝めるのは、ほんの一握りの――、上層に住む、高額納税者か、高級店に限った。ほとんどの住民は、擬似ライトで生活している。
  自覚は無いまま住んでいるがヒューのいるアパートが破格なのである。
  ……無理か。
  デジタル式の施錠ならば、背後にいる彼が難なく開けられる。期待して近付いては見たが、それは旧式のシリンダー錠。外郭都市は中央都市の下層地区よりもずっと、開発が遅いのだ。
  腕組みを解きながら隣を見やると、そのあまりに細い指先で、カークが鉄格子に触れていた。無機質の冷たい感触は、鉄格子も指先も、似たようなものだ。
 「……おい。聞いてるのか」
  何かリアクションしろ。
  不機嫌に持ちかけると、ゆっくりと視線をずらしたカークが、黒いガラス玉を彼に向けてくる。
  吸い込まれそうでヒューは立ち眩む。
 「――明日はヒューがきっと勝ちますよ」
  勝負を挑むのは、話の成り行き上ヒューだ。当然レースも彼が行う。賞品は隣に立つ相棒のD-LL。
 「そうして俺の機嫌を取ろうとしても、俺ぁ騙されねぇぞ」
 「機嫌を取っている気は無いですよ」
 「じゃあ俺の話を聞け」
 「――モノ扱い――ですか」
  困ったように首を傾げる。
 「されるべきなのでしょうね。――本来ならば」
  P-C-CにおけるD-LLの生存権利とは、それ程度のものだ。保護されて初めて居住権が生まれる。
  保護者のいないものは、D-LLハントの対象になるか、闇市場で買い叩かれるか。どちらにしろ、ろくな未来では無い。
  好色を含んだ、下卑たドルマの顔を思い出して、ヒューは思わず渋面を作った。
 「ヒューが変り種なんですよ」
 「変種だろうが変人だろうが、嫌いなものは嫌いだ」
 「私は、D-LLです」
 「だからなんだ。お前もマルゥも。確かに根っこの部分はD-LLだろうさ。頭が良くて優しくて出来た人格で。従順で言うことを基本的にはよく聞いて。丈夫で年を取らなくて。俺が人間をやめることが出来ないのと同じで、それは一生変えられねぇ。……それでも、」
  それでも。
 「設計段階でメモリーに刻み込まれた命令です。おいそれとは薄まりません。これでも努力しては――いるのですが」
 「努力とか。そう言う問題じゃあねぇだろう。俺がいいって言ってるんだから、いいんだよ。遠慮も気兼ねもナシだと、口が酸っぱくなるほど繰り返しているじゃあねぇか」
  もういい。寝る。
  不貞腐れた子供だ。背を向けたヒューは再び冷たい床に横になり、
 「物分りがイイ分、マルゥの方がまだ可愛げがある」
  口を尖らせて抗議した。
  聞いたカークがまた困った声を出す。
 「でもマルゥを――彼女を、やつらの賭けの対象にさせる訳にはいかないでしょう――?」
 「当たり前だ。そう言うことを言ってるんじゃない」
  暫く、ぶつぶつと口の中で文句を呟いていたヒューは、しかしそれにも飽き、やがて夢も無い眠りに就いた。
  何かあったら有能な相棒が起こしてくれることだろう。
  ひどく安心した。


 「ヒュー?」
  カークの問いに応えは無い。そうっと近付いて覗き込むと、大きな子供。膨れっ面で眠っていた。
  言ってみれば敵陣だ。
  その中で堂々と寝てしまえる主に、感心する。
 「――昔……から――変わらない」
  複雑にない混ぜになった感情を滲ませて、彼は一人呟く。
  聞くものはない。
  起こさないようにおずおずと。今は蛍光灯に、青白く見える髪に触れてみる。
  近くにいるはずなのに遠かった。
 「……私は……どうするべきなのでしょうね……」
  寝顔に小さく呟く。答えが無いのは判っている。
  一度目に出会ったのが偶然だったのなら、二度目に出会ったのは運命だったのだろう。
  出会ったその瞬間は判らなかった。記憶が錯綜していたから。
  けれど。
  “小さい頃に熱を出したとき”。
  先刻、主がそう言った。苦し紛れに知らない振りをした。けれど忘れるはずが無い。例え忘れさせられてしまったとしても、忘れ続けるはずが無い。
  ヒューの言葉が怖かった。
  彼はきっと、あの頃を取り戻しているのだろう。いるに違いない。
  幼い頃と変わらない、真っ直ぐな瞳をしているから。
  小さな身体で精一杯負けん気で強がっていた、あの頃と変わらなかった。好奇心が溢れていてどんなものにも興味を示して、彼の話を食い入るように聞いていた、あの頃と変わらなかった。
  僕が。ずっとずっと、一緒にいる。
  空ろに己の生を嘆いていた彼に、真剣な瞳で約束した少年がいた。
  嬉しかったのに。
  ずっと一緒にいたいのだと、言えなかった。
  昔の話だ。

  そうして思うのだ。

  いずれ壊れてしまうのならば、
  直ぐに壊してしまうのと、最後まで足掻くのとどちらの方がより、……――。

  よそよそしい。
  最近になって、マルゥがよくカークに向かって口にする。
  言われてうろたえた。
  自身では、平常心を保っているはずであったから。
  無感情な能面であるはずの自身のポーカーフェイスも、所詮大したことないと自嘲もした。
  ヒューが怖い。
  その真っ直ぐな瞳を見るのが怖い。
  全てを見透かされそうで居た堪れなくなる。
  己が『管理者』として作られたのだと、記憶が振り戻ってから、そうして次第に鮮明になるそれと比例して、ヒューの視線を避けるようになった。
  私は、誤魔化している。
  カークは重い溜息を吐く。
  その昔。一人の男に連れられてP-C-Cを抜け出した。
  違う。抜け出したのではない。
  ――逃げ出したんだ。
  雨を見たかったのだと、マルゥに告げた。その言葉に嘘は無い。
  ただ、それ以上に、『管理者』として機能することが嫌だった。恐ろしかった。
  ほんのごく僅か。一握りの人間しか知らない。
  『管理者』は、中央管理局の定めた一定のルールに従って、P-C-Cに住まう人間を管理する。
  起床から就寝まで、果ては箸の上げ下ろしまで、全ての行動を逐一管理することが仕事だ。管理されている人間に、己の意思と云うものは存在しない。体内に埋め込まれたチップに一生気付かないからだ。
  そうして少しでも、反乱分子を抱えた人間は排除する――。
  小さな動作一つなのだ。
  掛けボタンを外すより簡単なこと。
  P-C-Cに接続した管理者が、そのものを、その範囲を、抹消しようと念じるだけで、直結した回線は機能する。
  瞬く間に対象は消失した。
  呆気ないほどに。面白いぐらいに。
  己の為したことの意味を理解したのは、ずっと後になってからだ。
  ただただ、恐ろしかった。
  そして無性に、雨が見たかった。
  なぜなら。
  自身の存在はあってはならないもので。その場に居れば、管理者として機能するしか道は無い。けれどそれは嫌だった。だから。
  ――逃げ出したんだ。
  どこでも良い。自分が、自分として機能しなくても良い場所に行こうと思った。
  一度目は部落ごと消されて引き戻された。
  消去は一瞬だ。
  やめて欲しいと嘆願する暇すらなく、『村』は敢え無く炭化した。
  安心して全てを委ねていた『家』はたちまちの内に蒸発して掻き消えた。
  己を導いてくれた『男』は跡形もないほど撃たれて消えた。
  そうして何より大切に思っていた少年は、目の前で眼球を抉られて。壊れた人形のように力なく地面にもがいていた。
  自分が係わった。そのために優しいものたちは、なくなった。
  もう――やめようと思った。
  係わりを持つのは。
  P-C-C管理局の中央塔へ連れ戻されて、メモリーを抜かれ、データの全てを初期化されて、己を見失った後も哀しさだけがいつまでも残った。
  それはなにものにも埋められない。たったひとつ、あの真っ直ぐな瞳を持つもの以外は。
  そのときはまだそれが判らなくて。空白を埋める術を知りたくて、逃げ出した。
  自分が、自分として機能しなくても良いところへ。
  己の脱走は瞬く間に知られ、P-C-Cの出入り口と言う出入り口は全て封鎖されていた。荒野へ抜けることは不可能だった。当たり前だ。自身の内部にP-C-Cの機密の全てが詰まっている。
  仕方なく彼は下層へ潜んだ。血眼になって探し回る管理局の捜査の手は、皮肉にもカークには全て見通せた。
  全てのシステムを自分だけは何に邪魔されることもなく、潜り抜けることが出来るから。
  また『管理者』として機能させられる、それだけは嫌だった。
  彼の存在は人を裁く。そのために造られたから。
  そうしてそのうち、時間だけが過ぎて。
  何故だかひどく哀しくなった。
  ――私は一体何なのでしょう。
  自問自答の答えは出ない。
  ――私はどうしたらよかったのでしょう。
  存在してはならない、自分の存在とは一体何なのだ。
  降り落ちる、雨粒一滴にも劣る。
  全てを否定しかけた彼の心に、けれどやすやすと踏み込んできたものが居る。
  拒絶をものともせず、ぐいと、引っ張り戻した手のひらがある。
 「……私の世界は、また色を取り戻してしまった」
  何も無い空間に向かってカークは囁く。囁いてから苦笑が湧いて一人俯いた。
  恋ですかと、誰かが問うた。
  違いますとは答えることが出来なかった。
  けれど、きっと口に出すこともなく。伝えることもなく。叶うこともなく。希うこともなく。
  ……終わることもなく。
  静かに撫ぜていた金茶の髪の持ち主の、不貞腐れた寝顔を覗き込む。
 「あなたも……取り戻したのですね」
  夢を。記憶を。昔を。
 「私はきっと――あなたから離れたほうが良いのでしょうね――」
  呟きながらカークは目を閉じた。

  この張り裂けそうな胸の痛みはなんだ。


  ざわざわと人の群れる気配がして、はっとマルゥは身構えた。
  路地裏の、倉庫の一角にいる。
  廃倉庫なのを良い事に、こっそり駐車して一日。
  マルゥの主であると同時に、カークの主でもあるヒューの情報を集めてきますと言い残して、それから青年が帰ってくる気配は無い。
  そろそろマルゥの、そう長くは無い忍耐の紐も切れそうだった。
  何しろここは、無法地帯に近い外郭都市だ。
  少女であり、しかもD-LLであるマルゥが一人で留守を守るには、少し物騒に過ぎる。
  しかし幸い、この一日は廃倉庫に殆ど人の訪れもなく、紛れ込んだのは酔っ払った千鳥足の男が一人と、猫位のものだ。
  内蔵ブースター完備の身体であったので、いざとなったら人間の男の五人や六人、軽く捻る自信はあった……が。
  それでも気を抜くことなくじっと二人を待っていた彼女の耳に、明らかに数人以上のざわめき。
  ここは、中心部より遠く離れた倉庫街だ。
  人が集う場所ではない。
  全身を緊張させて、その声のするほうにそっと忍び寄る。
  出来得るならば、不意打ちといきたいところだった。
  力自慢には自負もある。
  素手ならば。
  けれど、相手が銃器を持っていたら、破壊されるとは言わずとも、暫く身動きは出来ないだろう。特に最近は対D-LLの武器も多い。規定以上の破損を負った場合、やはり自己修復には時間が掛かった。
  だから。
  灰色にくすんだコンクリートの壁に、乱れた文字で書きなぐられたものがある。赤茶のペンキ。書かれてまだ新しいようだった。
  お世辞にも達筆とは言いにくいその文字の前に、人が群れているのだ。不安と好奇の混ざった表情で、何かを口々に囁きあっている。
  彼女狙いでは、ないようだった。
  ほっと肩の力を抜いて、その人の輪に近づいたマルゥは、
 「あの」
  熱心に眺めている一人に尋ねた。
 「ちょっと聞きたいのだけれど」
  若い男だ。
 「これは一体……何の騒ぎ?」
 「キミ……ドルマ一味じゃあないだろうね?」
 「ドルマ?」
  振り返りざま一瞬、警戒の視線をじろりと向けた男は、マルゥが幼い少女と見るや、
 「ああ。違うか」
  自身の疑問に自身で答えた。
 「ドルマって、何よ?」
  眉根を寄せて繰り返し、マルゥが尋ねると、
 「キミ、アレか。中央部から来たんだろ?ここら外殻界隈に住んでて、ドルマ知らないってことはないから。……ドルマってのは、最近になって、ここいらを牛耳ってる若いヤツでね。大きな声じゃあ言えないけど、その腐れっぷりは中々にして上々さ」
  男はそう言う。
 「かなりのイヤなヤツってコトね」
 「ああ。キミ、可愛いし、目をつけられる前に退散したほうがいいよ。男でも女でも、人間でもD-LLでも。売れると見たら何でも取り上げちゃうヤツだしね。ここ最近で行方不明者の数は、前年の数倍。ひと月で百はいなくなるっていうんだから、始末に終えないね。狙った獲物を取り上げる為に、家一件焼き尽くすなんて、平気な顔なんだから」
 「イヤって言うか……ヒトとしてサイテーね……。……で。そのドルマが何かしたの?」
 「何やら、他所からきた男が、連中相手に喧嘩売ったらしいんだよ」
 「他所から……」
 「そう。その命知らず、数人いたようで、その内の一人がドルマに名指しでゲームを申し込んだんだそうだよ」
 「……ゲーム」
  心なしか顔が引き攣る気がして、マルゥは慌てて笑顔を取り繕った。
  直感は、意外に信じるほうだ。
 「明日正午に、G区画のストリート使って、一対一でカーレースだそうだ。でもきっと、ゲームと云う名の公開処刑だろうな。負けるはずが無い。あちらこちらにきっと、罠を仕掛けてある。どんな手を使ったって必ず、勝とうとするに決まってるんだ」
 「その……命知らずのお莫迦さんは、どんなヒトか、知ってる?」
 「さあ。詳しくは。……人間の男と別嬪のD-LL一体。そう壁には書かれてるね。賭けるのは男の身の釈放と、対してそのD-LLの自由だそうだ。エラく美人だそうだから、負けると判ってるレースを見に行くかは別としても、それを拝む価値はあるかもね。ドルマの方は、万に百分の一、負けたところで痛くも痒くも無いさ。割の合わない賭けだね。……ところで、キミ。一人なの?僕が家まで送ってあ」
  男の言葉の最後までマルゥは既に聞いていなかった。倉庫に全力で駆け戻りながら、小さく舌打つ。
  ドルマとやらにゲームを申し込んだ命知らず。
  間違いない。ヒューとカークだ。
 「……あんの莫迦マスタとD-LL……」
  低く唸る。


Act:19ニススム
人間と機械にモドル
最終更新:2011年07月28日 08:14