不意に安定したハンドルに、未だ痛みの残る眼を無理矢理にこじ開けて、ようやく取り戻した霞んだ視界へ、思い当たるプラグをひと睨み。次いで飛び込んだのはドルマの野卑な笑みだ。
遅れを取るヒューへ、弱みを衝かれて怯んだヒューへ、笑っていた。
クラッシュすると踏んでいたヒューの車が、危うげながらも、追走し続けることに驚きながら、それでも勝利を確信した笑みだった。
最後に飛び込んだトンネルの出口が、そのままゴール地点である。
車一台の幅しか無い内で、並走できるポイントは既に無い。
例え、事故に見せかけて殺し損ねたとしても、勝ってしまえばこちらのもの。弄り殺されるのは目に見えている。
勝ち誇る笑みを見た瞬間、ヒューは瞬時に沸騰した。
どうもこの男とは根本的に馬が合わない。見ているだけで苛立つ。何かを為せば気に障る。
その男が前方を走ることに我慢がならない。
女を殴っただとか、賭けの結果だとか、カークの行く末だとか。それらを差し置いても、どうしても、どうしても我慢がならない。
単純にムカついたといえばそれだけなのかもしれない。
餓鬼臭い感情だとは判っている。けれど、判別が付くことと、分別が付くかどうかはまた別だ。
考える前に体が動いていた。
ハンドルを、一旦右に回し、反動で即座に左へ。回し返すと、ぶ、と。車体がブレて、ヒューのジープの右半面が跳ね上がる。車体が90度傾いて、左半面で加速を続ける。路面上を走らない、エアロ・ジープだからこそ出来た技だ。
後先は考えなかった。どうせ、自分の車ではない。
驚愕の色を浮かべたドルマのジープに、壁面を走るという形でヒューは併走した。
相手の驚く隙を衝いて、加速し、前に躍り出る。
たちまちに前後が逆転した。
「……んだとォ……ッ?」
ありえない。
ドルマの悲鳴。
一旦先頭に立てば、後は同等の加速力。命知らずな点ではヒューが上。ドルマの手下は、被害が頭に及ぶのを恐れて、張り巡らした罠を起動することが出来ない。
ちらりとプラグを見下ろす。
そうしてヒューのジープは、最高に信頼できるD-LLが守っている。
ええ、ですから、その。
続く言葉を躊躇って、口に出来なかった青年の顔を思い出し、
……私も一緒に走りますから……、……か?
後に続く言葉を、ふと彼は思い巡らせた。
言いそびれたのはきっと、彼が口にするのに照れたせい。
迷うことなく、アクセルを踏み込んだままに突っ切った。
「莫迦ね」
人ごみの中からはらはらと、スクリーンと高台の上の賞品であるD-LLを、眺め比べていたマルゥは、歯痒さに思わず舌打ちをした。
おとなしく椅子に腰掛けているようにも見える賞品である<それ>は、形だけおとなしく見えているだけ。
固く握り締めた拳が、蒼白な顔色が、<それ>が甘受している衝撃の強さをそのまま表している。
おそらく、あのポンコツジープの肩代わりをしている。
遠目でもそれが判った。
彼なら、やりかねない――と言うよりは、きっと、やるに違いないという確信がある。
主を守るためになら、自分の身が傷付くことを恐れないから。
一年と少し前。
廃棄場から拾い上げられてまだ間もなかった頃、今と同じように、主が仕事を受けてきたことがあった。
下層区域の、今は既に使われていない廃工場の調査と云う名目。
工場の持ち主は、その辺りで活発に活動していた“ソドムとゴモラ”の、活動拠点になっているのではないかと疑っていた節があったようだ。
踏み込んでみたものの、何もなかった。
杞憂だったらしい。
ただし、当時既に使われていなかったそこは、あちらこちらが酷く傷んでおり――、うっかり踏み抜いた床から、簡単にぼろ、と崩れたのだ。
声を立てる間もなかった。
何層にも組み上げられていた足場から宙に投げ出され、吹き上げてきた風の強さで瞬時にマルゥは覚悟を決める。
痛みを。
数階の高さはあったろう。
……ああ。アタシは叩きつけられる。
落下と共に、先に意識を手放し、
次に彼女が気が付いたときには、湿気ったコンクリートの上だった。
跳ね起きた。
――マルゥ。
どんな時でも大抵落ち着いている声が、
――怪我は。
いつも通りの声音で聞いた。
――平気。どこも……怪我してない。。
答えてから、先刻を思い出したマルゥだ。
――落ちたのよね。
――ええ。
呆けた頭で呟いて、ようやく、己の左手がきつく何かを握っていることに気が付く。
折れそうに戦慄く、その細いもの。
――カーク。
握っていたのは、彼の手首だった。
――はい。
――……ヒューは?
――あなたの脇に。
不安な色が声に出たのだろう。敏感に察した彼が、彼女を安心させるように、
――まだ意識を失っていますが、ケガも無く無事です。じきに気が付くと思いますが。
的確に答えた。ひとまずの無事を確かめて、マルゥはほっと息を吐く。
――床下が空洞化してた……のね。
――おそらくは。
二人の声が、わんわんと響き、その反響具合を見るに、かなりの高さから落下したことが窺えた。はっきりとは判らない。辺りは鼻を摘まれても判らないほどに真っ暗であったからだ。正直目を閉じていようと開いていようと、なにも変わらない。
――どのくらい落ちたのかな。
話していないと、自分までが闇と同化してしまいそうで、マルゥは無理矢理言葉を繋げる。
――そうですね、
暫く声が返るまでに間があった。
――四階……五階程度かもしれません。
――はぁ?五階?
驚いて、マルゥは跳ね起きた。首を回す。肩の具合を確かめる。頭も、尻も節々も、どこにも異常は無い。
――どこか、痛みますか。
あまりに静かな声だった。
不審を感じるほどに、静かな声だった。
――……ちょっと。
思い当たるのは一つだ。マルゥは咎めるように険しい声を出して、
――はい。
――アンタはどうなのよ?
詰問する。
――わたし――は、
――なーんで五階の高さから落ちて、アタシもマスタも打撲ひとつナイのかしらね。
――それは、
彼が言い訳を考える間を与えずに、マルゥはぐいと彼の腕を引く。
――……ちょっと。
ぬる、と。
カークの顔に触れたはずのマルゥの指先が滑った。いつでも低体温の彼の体液は、やはり冷たくて。
――ちょっと!
小さく叫んでいた。
――アンタが怪我してんじゃないのよ……!
やっぱり。予感が的中した悲しい思い。摺り寄ったマルゥの鼻先に、不意に濃い鉄錆の香りが届く。
血の。
――カーク!
――はい。
呼吸が短い。
起きたときから感じた違和感の正体は、これだ。彼の返す言葉が、あまりに短い。
――……アンタ、ちょっとダメージの程度を言ってみなさいよ!
――平気です。じきに、修復機能が働きま――
――……カーク!アタシは、言い訳を聞きたいわけじゃないのよ。どこをどう怪我したかって聞いてるの!
――その、
もう一度、応えるまでに間があって
――脊髄を、
損傷したのだと思います。
落ち着き払った声が答えた。
首か、背か。骨折しているのだろう。人ならば即死できる。
きり、とマルゥは唇を噛む。
落ちた時間は一瞬だった。
叫びを宙に置き去りにしたまま、身体が先に落下して。その時ぐいと、強く腕を引かれた記憶がある。
何故引かれたのか、考えてもみなかった。
誰が引いたのか、考えもしなかった。
――アンタ。アンタ、アタシたち庇って下になったのね……!
自身の身体を緩衝材にして、引き寄せた二人を守ったに違いない。
何故全く怪我が無いのか、考えも及ばなかった。
悲鳴になりかける声を押し殺し、見えない彼の頬を親指でさすると、その頬が僅かに緩んだ。
微笑んだのだろう。
――私は、D-LLですから。
なんて。なんて完璧な答えだろう。
――そんなこと聞いて無いわよ!D-LLだから、マスターである人間を守るのが義務とでも言いたい訳?それを言うならアタシだってD-LLじゃないのよ!先輩のアタシ差し置いて、自分だけイイトコ見せてどうするのよ!
――マルゥ。大きな声を出すと――ヒューが、起きてしまいますよ。
――どうだっていいわよそんなこと!
高ぶった感情に思わず涙声になったマルゥの頭に、置かれたやさしい手がある。
そっと。
――二人が無事でよかった。
――な……――、
あなたがぶじでよかった。
二度目の音にならなかった声は、きっと床の上で未だ気付かない主に向けられたもの。
聞き取れるはずが無いのに、マルゥには何故かとてもよく判った。
何と返したら良いのか、言葉を選んでいる内に、頭に置かれた手のひらの動きが止まる。彼の体が力を失って、ずるずると床に崩れゆく。
それはもう動かない。
握っていた手首から、体温が失われてゆく。
とても悲しかった。
受けたダメージが大きかったために、自己修復を最大レベルにする必要があったのだろう。カークは仮死状態に入っていた。
呼吸も無い。
勿論、死んだ訳では無いと判っている。
数日もしたら、跡形もなく綺麗さっぱり治ってしまうことも知っている。
それでも臨終に立ち会っているようで、マルゥは思わず涙した。
優しすぎるのだ。このいきものは。
――莫迦ね。
あの時も同じ言葉を呟いたのだったか。
高台を見て、もう一度。マルゥは舌打つ。
「ホント……莫迦」
断片的に意識が飛ぶ。
――拙い。
ヒューの乗るジープから、直結している回線からの負荷がそろそろ限界だった。なんとか意識を引き戻しては、ジープのいかれた回線の肩代わりをしていたのだったが、許容範囲を遥かに超えたそれは、最早耐え難いほどの痛みに変わっていた。
と云うより、既にカーク内部のあちらこちらがショートを起こしかけている。
一気に上がった体熱で、燃えてしまいそうだと思った。
目を閉じているカークには、現在のゲーム状況までは判らないのだ。あと、何秒耐えたらよいのか、見えない。
食い縛った口の端から鉄錆の味がする。
小刻みに震えていた全身が、
――まだ……――駄目……――だ――。
がくんと身体がバランスを崩す。座る姿勢を保つことも出来なくなっていた。辺りに控えていたドルマの手下連中が、彼の異常に初めて気付いて、おい、どうした。騒ぎ出す。
その声も彼にはもう聞こえない。
それでも蜘蛛の糸のように、最後まで回線を手放さないのは悪い足掻きだ。
その。
一本の、細い細い蜘蛛の糸のような意識を瞬時に逆行して、アクセスを仕掛けてきた<なにか>がある。
普段は決してプロテクトを外さない、外そうとも思わない、鉄壁のガードのカークの内部へ、無造作に踏み込んできた<なにか>がある。
稲妻のように素早い動きだった。
咄嗟のことだったので、ぎょっとしたカークはプロテクトを掛け直すどころか、掛けようと意識上に上らせることすら、できなかった。
――ミ。
――ミ・ツ。
――ミ・ツ・ケ・タ――!!
声に。
声に、彼は確かに聞き覚えがあり、
何の抵抗も無い体内全てに響き渡って、
劈く。
瞬間。椅子から落ちかけていた彼は、痙攣と共に海老反って、台上へ転がり落ちる。
「あああああああああああああああああああああっっ」
顔を歪めて、叫んでいた。
刹那。ジープが並び立ってゴールラインを切る。
「カーク!!」
高台の<それ>が放つ、空間を切り裂くような悲鳴が、痛みのそれではなく絶望の声であるということに気付いたものは、その時いたか。
少なくとも、マルゥは瞬時に気付いていた。
理解していたといっても良い。
普段接している彼に――よほどのことが無い限り、冷静さを失わない彼に――毎日接していたからこそ判る。
あれは恐怖の声だ。
見兼ねて群集から飛び出したマルゥは、そのまま力任せに高座に数段飛びで這い登った。
変化に付いていけず、たじろいだドルマ一味を押しのけて、床上に転がったまま、戦慄くカークに近付く。
断末魔の声を上げたのは長いように思えて一瞬だった。
「カーク」
マルゥは彼の傍らにしゃがみ込む。今は既に小さな痙攣を繰り返している力の抜けた指先へ、おそるおそる、触れた。耳元に半ば聞こえはしまいと諦めながらも、叱るように囁く。
「しっかりしなさいよ。マスタが……ヒューが、ちゃーんと勝ったわ」
「――……マ」
閉じられていた白い瞼が、おそらくは渾身の力なのだろう。震えながら薄開きして、
「――マ。……ル……」
皺枯れた声を頼りなく紡ぐ。
焦点は既に定まらない。
「そうよ、アタシ」
握った手を励ますように幾度か振ると、その動きに力付けられたように、一度閉じられた唇が再度開く。
「――……い」
「え?」
ぱくぱくと呼吸を漏らすカークの口元に耳を寄せて、
「なに?」
マルゥは尋ねる。
「にげ、――なさ――……、い」
「……な……に言ってるの?マスタが……、勝ったのよ?」
「――わ――たしをおい、て――早――」
最早言葉にならなかった。
いつかのときと同じように、握った手のひらから力が抜ける。体温が瞬く間に奪われてゆく。
苦痛から解放され眠りについた顔は、相変わらずとても綺麗だった。
……ドルマ一味の報復を恐れた……?
一瞬そんな考えが彼女の頭に浮かび、即座にそれを打ち消した。
逃げなさい、と言ったのだ。
私を置いて逃げなさいと。
早く、とも言った。
「カーク。ちょっとカーク。どうゆうこと?」
「……マルゥ!」
背後からかかった声に、急いで彼女は振り返った。
「マスタ」
まるで死んだようにも見える、仰け反った白い顔を見て、異変を感じてジープから飛び降り、走り寄りかけたヒューの足がぴた、と止まる。
「カーク」
死んだのか?
視線が問うていた。首を横に振って答えとする。
「大丈夫。……自己修復に入っただけ」
言った瞬間、マルゥの世界は反転した。
何が起こったのか、全く理解できなかった。
最終更新:2011年07月28日 08:15