<<月へと還る獣>>

   皇都、エスタッド

       1

  白蛇の月、晦日の一件の襲撃事件以来、キルシュの皇都までの道程には、特にこれと言って事件らしい事件も起きてはいない。
 「公女は、厳しい寒さにも体調を崩すことなく、無事皇都に到着す」
  と、エスタッド公式記録には記されている。
  公式上では。
  実際は復路の山越えが、往路よりも時間がかかったために、必要最低量しか用意してなかった水が足りなくなったり、腹を空かせた野犬の群れに襲われるなどして、当事者たちはえらく苦労したようだ。
  後に、ダインが語ったものを記したとされる、「傭兵記」にはそう書かれている。
 「金輪際、護衛の仕事はやらんぞ」
  そうぼやいたそうだ。
  襲撃の際に手傷を負った仲間の騎士や、トルエの護衛兵たちが、足を引っ張ったせいでもある。
  それでもまだ、本人の意識と身体がはっきりしていて、乗馬さえできれば、後は馬が運んでくれるのだから、救いはある。
  問題だったのは、重傷を負った者たちだ。
  一人では起き上がれない。
  乗馬など、出来ようはずが無い。
  担架には、手が足りない。
  ともすれば、エスタッドに辿りつく前に、息を引き取るかもしれない。
  通常、軍紀では、足手まといの負傷兵は、その場に置き去りにすることになっている。
  これは、生き残った動ける者たちが、一行に負傷者を抱えることで、無駄に疲弊することを抑えるためである。
  我と、我が身を庇うだけでも精一杯なのに、仕事はさらに「要人の護衛」である。
  そこには、怪我人を気遣う余裕が全く無い。
  また、気遣って共倒れになっては、本末転倒である。
  無傷だったもの、まだ自力で動けるものは、負傷者を置いてゆくことを主張した。
  非情なのではない。
  任務を遂行するためには、ある程度の犠牲は仕方が無いのだ。
 「すまない」と。
 「恨むなら、恨んでくれ」と。
  残される方も、己の運命を諦めた。
  血生臭い仕事を選んだ以上、割り切るより他、無い。
 「置いて、ゆくな」
  そこで口を挟んだのは、キルシュだった。
  それまでおとなしく一団に従っていた彼女の、初めての抗議だった。
  当然の事ながら、ダインが反発する。
  彼とて、仲間を置いていきたくはない。
  元傭兵と言う性質上、仲間意識は、実はそんじょそこらの兵士よりも強いのだ。
 「……だがな、公女さん」
  そこを、敢えて意見しなければならないところに、護衛隊長に任命された悲しさがある。
 「置いてゆくなと言っても、どうやって彼らを運ぶ?感情論では連れて行けねぇ。だが、ヤツらは自分で馬に乗れねぇ。担架を作る材料も道具も無ぇ。運ぶ手が無ぇんだ」
 「車があるだろう」
  キルシュはそう言って振り返る。
  ダインも釣られて振り返った。
  振り返った二人の視線の先には、キルシュがトルエから乗ってきた、二頭引きの小型の馬車がある。
 「アレに乗せればよい」
  事も無げにキルシュは言う。
 「アレに乗せるって……、アンタはどうする」
 「代わりに馬に乗ろう」
  そう言って呆れるほど手早く空馬に乗り、反論しかけるダインの口を封じた。
 「――陛下」
  様子を伺っていたエンが、器用に馬を操りキルシュに近づく。
  流石に、早駆けの速さには着いてゆけないが、行軍程度であったら、エン一人でも馬に乗れるのだ。
 「なんだ。小言は聞かぬぞ」
 「ダイン殿を困らせるものではありません。恐れながら、陛下の我がままは、全体に影響いたしまする。今の命は、撤回なされませ」
 「撤回せぬ」
 「陛下。この騎士たちは、陛下の御身をお守りするために、エスタッドから使わされた者たちでございます。任務を遂行するためなら、我が身を厭いはしませぬ。これは、トルエから付いてきたものも、また然りにございます。私もまた……然り」
  最後の科白を聞いた一瞬、キルシュの瞳がほんの僅か、閉じられた。
  動揺である。
  しかし、その場にいた誰も気付かない。
  次の瞬間には、彼女はきりりと眦を開いていたからだ。
 「感傷なのは判っている。こなたの気持ちも、騎士団長の気持ちも、痛いほどよく判る。……しかしわたしはこれ以上、人を踏み付けて生き延びる人間にはなりたくは無い」
 「陛下」
 「置いていかれる彼らはどうなる。自刎せよと、武器を残してゆくのか。腹を空かせた野犬の群れに、食われるのを待つか。それともそれは忍びないとして……、彼らを殺して先に行くのか」
 「……」
 「こなたは、わたしを人殺しに仕立て上げたいか。人殺しの施政者に人は付いてくるか」
  静かに問いかける少女の声は、決して激してはいない。逆に淡々と、考えを述べているように見える。
  しかしダインには、彼女のそれが、血を吐く絶叫にしか聞こえなかった。
  エンにも伝わったのだろう。
  それ以上咎めることなく、腰を折るとおとなしくキルシュの意見に従う姿勢を見せたのだった。
  場の空気を彼女一人、完全に呑んでいた。
  まだ、15の小娘が、である。
 「器を見た気がする」
 「傭兵記」でダインはその時の様子を、そう語っている。
 「あれは、人の上に立つ器だ」と。
  あまり、人を褒める言葉を知らない彼にとって、それは最大の賛辞だったはずだ。

  黒蜥蜴(くろとかげ)の月15日、トルエ公国の公女キルシュ・エ・ネラ・トルエは、動けぬ負傷者を馬車に乗せ、誰一人落伍させることなく、皇都エスタッドへ到着したのだった。

       2

  執政室。
  窓際を向いて一人、鼻歌でも歌いそうなものがある。
  玲瓏美貌との言葉がまさに相応しい。
  きりりと吊りあがった柳眉が、時折、背後の声に楽しそうに持ち上げられる。
  言い直す。
  心底、楽しんでいた。
  大国エスタッド皇国の頂点に位置する。すなわちエスタッド皇帝その人である。
 「予想通りではあったがね」
  くぐもった忍び笑いが声には含まれていた。
 「……意地が悪ぃよ」
  不貞腐れた声を出して、背後に立つのはつい五日前、トルエ公国の公女の護衛任務を無事に終えた、騎士団長。
  元傭兵ダインである。
  公式の報告は、戻った翌日に済ませていたものの、詳細を聞きたいとの皇帝からの要請で、颯爽と――は、表向き、
  内心嫌々執務室を訪れたダインだった。
 「君は心底優しい性格だ。必ず彼の公女に肩入れするとは、まぁ……踏んでいたのだ」
 「じゃあ、最初からそう言やぁいいじゃあねぇか。殺すだの殺さないだの、俺の純真な心を弄ばないでくれ」
 「物騒なことを口にするものではない。そもそも、私は指示した覚えも無いよ」
  くく、と喉を鳴らして皇帝が振り返る。
  細い細い金糸の髪が、肩から滑り落ち、さやさやと鳴った。
  長い睫毛の向こうから、煙った視線を投げかけてくる。
  改めて対面したダインの背が、ぞくと震えた。
  エスタッド皇。
  これだけ大国の皇帝であるから、勿論、各国の公式文書に、彼の名は連ねられている。
  エスタッドの、最も繁栄した時代を担った皇帝である。
  各個人の自叙伝にも、その名は幾度も現れた。
  その上、この風貌である。
  幾人もの詩い人が、競い合って皇帝その人に、詩を捧げた。
  しかしこの皇帝、自らの名を名乗ったことは、実は一度もなかったらしい。
 「長い。面倒くさい」
  そう言い放ったそうである。
  確かに、貴族の名は長い。
  氏名に加えて、家名、職名、性別名、属する領地名。エスタッド皇には更に、代々の皇帝名と国名が入る。
  しかし、
  自分の名前がいかに長いからと言って、憶える気を毛ほども見せない者は、そうそう無い。
  それをこの皇帝、堂々と言い放ったのだから、恐れ入る。
  更に、生粋の天邪鬼であったから、仮に下の者が正しく長い名で呼んだところで、振り向きもしなかったろう。
  公式の場であっても、時には素知らぬ顔で通したそうだから、よほどの変わり者である。
  謁見室の呼名係は、恐らく泣いたことと確信する。
  故に。
  周りの者も、各人の好きに、皇帝の名を呼んでいたようだ。
  呆れていただけかもしれないが。
  であるから、ここでも彼を「エスタッド皇帝」、そう呼称する。
 「陛下。あまり、苛めて下さいますな」
 「おや」
  見兼ねたのだろう。
  思わず口を噤んだダインに代わって、同じく並んで控えていた鬼将軍――ミルキィユが、口を挟んだ。
  兄である皇帝の言葉に、普段口答えの一つもしない彼女からすると、これは相当珍しい光景だ。
  部屋の隅に、置物のようにじっと立って、場の空気を眺めていた側近のディクスも、興味を惹かれて片眉を上げた。
 「可愛い妹から制止をされては、これ以上イジりようが無いね」
 「陛下」
  困った声を出して、皇妹将軍は首を傾げた。
 「なんだね」
 「ご冗談が過ぎます」
 「……ふむ」
  白皙に手を当て、皇帝はそこで初めて考え込む姿勢を見せた。
 「まぁ。今までのは前座として、だ。私はね。騎士団長殿、君のその人物鑑定眼『だけ』は、高く評価しているのだよ」
 「『だけ』とかあああもう。いちいち引っかかる言い方する皇帝サマだな」
  がりがりと頭を掻いて、ダインが唸る。
  隣で、心配そうな視線を送るミルキィユには、無頼漢、気付かなかった。
 「君が公女をこの国まで警護してきた。と、言うことは、君は公女を生かしたい、何らかの理由を見付けたと言うことだ。それが、どんなに些細なことであっても、だ。それだけで、私が彼の者に会う口実には……なった」
 「そう言うのは最初っから言え」
 「事前の余計な情報は、君に先入観を与えるだけだろう。何事も、告げれば良いと言う訳ではない。安直に過ぎては、国の政治は務まらぬのだよ」
  むう。
  皇帝の、実に面白がっている返事を聞いて、ダインが腕組んで溜息をつく。
 「理由と言うか。なんと言うかな……。肝は据わっている」
 「ふむ」
 「巧くは言えねぇよ。ただ……、旅の途中で一度だけ、あの公女、俺に言いやがった」
 「ほう」
  どんな。
  栗色の視線を流し、美貌の皇帝は無言で先を促した。
  同じ色の視線を、横に並ぶ少女も向けてくる。
  ――騎士団長。
  ――騎士団長ダイン卿。
  護衛とは名ばかりだ。
  囚われの公女の、張りのある声を思い出して、ダインが複雑な顔になる。

  その日最後の点呼を終え、ダイン自身そろそろ見張り交代の時間まで、一眠りしようかと、グラスの中身を一気に呷り、焚き火の側を立ち去りかけた、その時だった。
 「ダイン卿」
 「……なんだ。驚かすな。公女さんじゃあねぇか」
  彼と同じく、炎に当たりに来たのだろう。
  寒さのせいか、もともとの生まれ育ちのせいか。透けるほどに青白い肌のトルエ公女キルシュが、幽鬼のように立っている。
  キルシュが自身のテントを離れることも稀であったし、
  彼女から個人的に、名を呼ばれたのは思えば初めてだったので、何かしら興味を覚えて、ダインは振り返った。
 「何か用か」
 「いや。用と言うほどの用ではない。ただ……、一言言いたかったのだ」
 「……なんだ」
  複雑な胸の内は別として、仮にも相手はトルエ公国の統率者である。
  失礼の無いようにとの考えが働いて、ダインは彼女に向き直った。
  元より、引き止めるつもりは無かったのかもしれない。
  思わず声を掛けてしまったと言う風情で、ダインの様子を見たキルシュは、僅かに苦笑した。
  焚き火の赤が、長くうねる黒髪に映えている。
 「噂名高い卿の戦いぶりを、先日、しかと見せて貰ったろう」
 「ああ……、一昨日の、襲撃の時な」
  思い当たってダインが頷く。
 「うむ。あの時ほど、こなたがトルエにいなくて良かったと、思ったことは無い」
 「……ぅん?」
  頷いたままの首が、今度は横に傾げられた。
 「俺が?トルエに?」
 「そうだ。こなたが、トルエに」
  キルシュがゆっくりと頷いた。
 「どう言うことだ」
 「こなたがトルエにいたならばな、わたしは間違いなく、エスタッドやアルカナなどと同じように、国取り合戦に名乗りを上げていたであろうからな」
 「……」
  言葉を失ったダインに向かって、公女は艶然と微笑んだ。
  少女の微笑ではない。
  人を呑む性質を持つものだけが浮かべる、微笑だった。
 「猛獣がトルエにいたらば、わたしは小国であることも忘れて、覇道を目指してしまうところだった」
  よかった。
  弾かれたように顔を上げたダインは、返答の言葉に詰まって、目を白黒させた。
 「……呼び止めて済まなかった。眠りの邪魔をしたようだ」
  微笑を口に浮かべたまま、キルシュは去って行った。
  結局、ダインは何も言えなかった。

       3

 「言えなかったか」
 「……言えなかったな」
  くく、と皇帝がまた喉を鳴らして笑った。
  今の話を聞いても尚、すこぶる上機嫌であるらしい。
 「面白い」
  そう呟いている。
 「君の話を聞いて、ますます、彼の公女に会うのが楽しみになった」
 「陛下」
  諌めるように、ミルキィユが顔を上げる。
 「公女は未だ15歳。お手柔らかにお頼みします」
 「なんだ。君まで公女に肩入れするかね」
 「肩入れかどうかは。……ただ」
 「『ただ』、なんだ」
  問われてミルキィユが瞼を伏せる。
  伏せた横顔を眺める内、ぼんやりとトルエ国の公女と並べ比べたダインだ。
  こちらが春を待ちわびながら、けれど、真っ直ぐ前を向く白い水仙ならば、あちらは黒百合。
  未だ開きかけの蕾ながら、濃厚で甘く、気だるい芳香を放つ気配を漂わせる、黒百合だ。
  側に控えたあの参謀は、その葉陰で獲物を待ち受ける蜘蛛、だろうか。
 「……その。故ルドルフ公が公女に行った悪業は、又聞きではありますが、わたしも聞き及んでおります。国を抵当に、抵抗できないのを逆手に取った、許せない卑劣な行為です。ですから、」
 「そうは言うがね。あれは、表向きは挙式まで行った正式なる婚姻だ。この身分とは言え、夫婦の生活にまで口出しは出来ぬよ」
  皇帝の声が、僅かに陰りを帯びた。
  もう十年も近く経つとは言え、彼がはっきりとその手で行った調印である。
  失政と認めてはいても、口にすることは立場上、許されない。
  それは、ミルキィユにも判っている。
 「判っております。判ってはおりますが、」
 (……しっかり肩入れじゃあねぇか)
  横目で皇帝に奏するミルキィユを眺めながら、ダインは心の中で舌打ちをした。
  公女の参謀――エンと名乗ったあの男が、皇帝へ彼女からの口添えを頼む以前に、既にミルキィユは知らぬ振りができないほどに、事情を知ってしまっている。
  良くも悪くも、竹のように真っ直ぐな気性だ。
  ダインや皇帝が、いくら止めても聞き入れはしないだろう。
 (それとも、これもまた。策の内……か?)
  襲撃の直前に、エンの見せた意味深な笑いを思い出して、ダインは眉間に皺を刻み込んだ。
  まったく。
  実直を自負するダインには、付き合いきれない。
  どいつもこいつも、ヒネくれに過ぎる。


  部屋へ戻ったのは、夜も更けてからのことだ。
  深夜に近い。
  エスタッド、あてがわれた郊外の屋敷近く。
  エンである。
  くたびれた。
  全身で深く息をつきながら、身体を戻りの馬車の揺れに任せた。ふっと気を抜けば、そのまま泥のような眠りに、引き込まれてしまうに違いない。
  眠ってしまう訳にはいかなかった。
 (……まだだ)
  鈍痛のし始めた頭を振って、エンは己に喝を入れる。
  数日後に迫った、エスタッド皇とキルシュの会合の前に、まだ、打つべき手がいくつも残っている。
  参謀であるエンに、眠る暇は無い。
  着きました、と出迎えた慇懃な馬丁の声に、ようよう身体を持ち上げて、エンは車を降りた。
  またひとつ、溜息が漏れる。
  連日の酷務に、身体が悲鳴を上げている。
  節々が痛い。
 「遅かったな」
  足を引きずりながら自室のドアを開け、聞きなれた張りのある声に、顔を上げた。
  愛想が一瞬遅れて顔に出る。
 「門限は日の沈むまでだぞ」
 「……陛下」
 「予想はしていたが、ひどい顔だ」
 「申し訳ございませぬ」
 「良い。疲れているのだろう」
  頭を下げかけたエンに向かって、キルシュが手を振る。
  洗いざらしの、ざっくりとスリットの入った、室内着を着ている。
  ひらひらと、一枚。
  いくら暖房器具が部屋に用意されているとは言え、
  そうしてエスタッドが、トルエよりも南に位置するとは言え、
  厳冬である。
  公式の場以外では、室内でもぶ厚い防寒着を着用するのが、通例であった。
  でないと、風邪をひく。
  どころか、身体を壊す。
 「無礼講だ。腰を下ろせ」
  だのに、まるで寒さを感じていない様子の少女は、己の向かいの席を示した。
 「は、」
  慇懃に応えたものの、エンはその誘いに応じようとはしない。
  じっと、キルシュより数歩離れた後方に、立ち尽くすのみだ。
 「……こなたは、固いな」
  飽くまでも上下を貫き通すエンに、キルシュが呆れて呟いた。
 「死人になっても、そうやって立っている気がする」
 「それがご命令とあらば」
 「忠義に過ぎるわ」
  面白くない声を出し、無言でキルシュがグラスを差し出した。
 「奉公、奉公、また奉公。こんな小娘一人に誠心誠意仕えても、こなたへの見返りは、残念ながら……何も無いぞ」
  慣れたものである。
  彼女が差し出したグラスへ、エンは、カヴダヴ酒を注いでやった。
  蒸留酒である。
  大陸の中で、強いとされている酒だ。
  口に含んだ瞬間から、かっと全身が燃えるように熱くなることから、「火酒」との別名もある。
  現代よりも暖房器具に事欠いたこの時代、手っ取り早い睡眠方法は、身体を温めて寝具へ潜り込んでしまうことである。
  寒さで目が覚めても、それまでの数時間は眠れると言う訳だ。
  体の温め方として一般的であったのは、
  熱い湯に浸かって温まるか、
  強い酒を飲んで温まるか、
  せいぜい二択であった。
 「見返りはございませぬか」
 「無い。そもそも、返したくとも返せるものを、この小娘何も持っておらぬ」
 「国の……存亡、とは出ませぬか」
 「出ないな。トルエ程度の小国、いずれどこぞに飲み込まれよう。それが今日か、一年後か、十年後か。それだけの違いだ」
 「合併と言う手もございます」
 「まーた婚姻を持ち出すか。こなたはほんとぉぅうに……、わたしを結婚させたくてたまらぬのだな」
  脱力した声で呟いて、キルシュはグラスから顔を上げ、エンを振り返る。
 「執念には感服する。参謀から仲人に転職してはどうだ」
 「お褒めいただき……」
 「ホめておらん。ケナしているのだ」
  胸に手を当て、再び頭を下げかけたエンを見て、キルシュが渋面になった。
  グラスを一気に呷る。
 「命令だ。座れ」
  そのまま、彼女の前の席を、指し示した。


最終更新:2011年07月21日 20:59