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&bold(){ノストラダムスの往復書簡}は数十通単位で残っている。多くはノストラダムスが受け取った手紙だが、そこで言及されている様々な情報は、生前のノストラダムスの状況をうかがい知る上で貴重な史料である。また、数は少ないが、ノストラダムス自身が書いた手紙の数々は、直接的にノストラダムスのプライベートな言動に触れる一層貴重な史料といえる。
まとまった書簡集としては[[BN ms. Lat. 8592]]があり、誰が転記したのか特定されていない写本とはいえ、専門家たちから内容の真正性は認められている。もともとの手紙は息子の[[セザール・ド・ノートルダム]]が保管していたもので、その性質上、ノストラダムスが書いた手紙(10通)よりも、ノストラダムス宛の手紙(41通)の方がずっと多い。ノストラダムス自身の手紙が手許に残っているのは不自然なようだが、彼は秘書に清書させたりしていたので、そうした過程で残った手稿や写本が伝わったものだろう。
それ以外の手紙はそれぞれ1、2通程度が独立して保存されているに過ぎないが、いずれも重要な情報源であることは言を俟たない。
*手紙一覧
推測される執筆順に示す。丸カッコは手紙に書かれている日付などで、亀甲カッコは推測されている日付などを示す。*印は[[BN ms. Lat. 8592]]に含まれる書簡、【献辞】とあるのは暦書などに掲げられた献辞である。
-[[ノストラダムスからタンド伯クロード・ド・サヴォワへ (1554年3月19日)>Ein Erschrecklich und Wunderbarlich zeychen]]
-【献辞】 司教ジョゼフ・ド・パニスへ (1554年1月27日)
-[[ジャン・ブロトー]]からノストラダムスへ (リヨン、1557年9月20日)〔1554年9月20日〕*
-ジャン・ブロトーからノストラダムスへ 〔1561年以前〕*
-【献辞】 [[フランス王アンリ2世へ (1556年1月13日)>アンリ2世への手紙 (1557年)]]
-【献辞】 [[フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスへ (1556年1月13日)>カトリーヌ・ド・メディシスへの献辞 (1556年)]]
-ガブリエル・シメオーニからノストラダムスへ (リヨン、1556年2月1日)*
-【献辞】 [[ナヴァル王アントワーヌ・ド・ヴァンドームへ>アントワーヌ・ド・ヴァンドームへの献辞]] (1556年3月21日)
-【献辞】 ラ・ガルド男爵へ (1557年2月17日)
-【献辞】 [[リヨンの有力者ギヨーム・ド・ガダーニュへ>ギヨーム・ド・ガダーニュへの献辞]] (1557年5月1日)
-ピエール・ド・フォルリヴィオからノストラダムスへ 〔1557年11月〕*
-ヨハンネス・キボ・ボエリウスからノストラダムスへ (ストゥルラーノ、1557年11月16日)*
-[[フランソワ・ベラール]]からノストラダムスへ (アヴィニョン、1558年3月12日)*
-ペトルス・マルチュル・カルボからノストラダムスへ 〔1558年〕*
-【献辞】 マコン司教エマニューへ (1558年8月12日)
-【献辞】 アヴィニョン教皇副使ジャコポ・マリア・サラへ (1558年8月14日)
-オルリア・ド・カドネからノストラダムスへ (パリ)〔1550年代後半?〕*
-【献辞】 タンド伯クロード・ド・サヴォワへ (1559年3月10日)
-【献辞】 リヨネー地方の長官サヴィニへ 〔1559年〕
-シギスムンドゥス・ウォイイッセルからノストラダムスへ (パドヴァ、1559年3月19日)*
-[[ロレンツ・トゥッベ]]からノストラダムスへ (ブールジュ、1559年11月4日)*
-S. オスワルドゥスからノストラダムスへ (エクス、1559年11月24日)*
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1560年1月1日)*
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1560年3月16日)*
-【献辞】 サヴォワ公妃マルグリット・ド・フランスへ 〔1560年〕
-匿名の聖職者からノストラダムスへ 〔1560年〕*
-S. ポールからノストラダムスへ (エクス)〔1560年頃〕*
-[[ジャン・ド・シュヴィニー>ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]からノストラダムスへ (エクス、1560年9月1日)*
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1560年9月20日)*
-ノストラダムスからジャン・モレルへ (1560年10月30日)〔1560年11月30日〕
--レオニの著者やデュペーブの著書に収録。
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1560年12月1日)*
-ジェローム・ド・ピュルピュラからノストラダムスへ 〔1560年〕*
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1561年1月20日)*
-[[ハンス・ローゼンベルガー]]からノストラダムスへ (フィーバーブルン、1561年3月11日)*
-【献辞】 ローマ教皇ピウス4世へ (1561年3月17日)
-ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1561年4月8日)*
-【献辞・手稿】 ローマ教皇ピウス4世へ (1561年4月20日)
-【献辞】 [[文人ジャン・ド・ヴォゼルへ>ヴォゼルによる百詩篇第3巻55番の解釈]] (1561年)
-ヤコブス・セクリウァグスからノストラダムスへ (リヨン、1561年5月1日)*
-ヤコブス・セクリウァグスからノストラダムスへ (リヨン、1561年5月29日)*
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1561年6月7日)*
-ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1561年6月18日)*
-ノストラダムスからロレンツ・トゥッベへ (サロン、1561年7月15日)*
-ノストラダムスからある貴族たちへ (サロン、1561年7月29日)*
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1561年8月9日)*
-ノストラダムスからハンス・ローゼンベルガーへ (サロン、1561年9月9日)*
-ノストラダムスからロレンツ・トゥッベへ (サロン、1561年10月15日)*
-ノストラダムスからハンス・ローゼンベルガーへ (サロン、1561年10月15日)*
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (アントウェルペン、1561年11月15日)*
-ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1561年12月15日)*
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (アウクスブルク、1562年1月19日)*
-ノストラダムスからドミニク・ド・サン=テチエンヌとジャモー・パトンへ(サロン、1562年1月20日)*
-ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1562年1月24日)*
-ノストラダムスからオランジュの大聖堂の参事会員たちへ (サロン、1562年2月4日)
--1714年に復刻された失せ物探しの手紙で、レオニの著書などに再録されているほか、[[竹下節子]]の著書に要約がある((竹下 [1998] pp.116, 118))。
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (アウクスブルク、1562年4月13日)*
-ノストラダムスからロレンツ・トゥッベへ (サロン、1562年5月13日)*
-【献辞】 将軍フランチェスコ・ファブリツィオ・セルベロニへ (1562年7月20日)
-フランソワ・ベラールからノストラダムスへ (アヴィニョン、1562年8月13日)*
-ノストラダムスからフランソワ・ベラールへ (サロン、1562年8月27日)*
-フランソワ・ベラールからノストラダムスへ (アヴィニョン)〔1562年?〕*
-ジャン・ド・シュヴィニーからノストラダムスへ (サロン、1563年5月7日)*
-ヨハンネス・ベルギウスからノストラダムスへ (アジャン、1563年10月15日)*
-【献辞】 フランス王シャルル9世へ (1564年4月14日)
-ブノワ・ド・フランドリアからノストラダムスへ (ガップ、1564年5月1日)*
-【献辞】 タンド伯オノラ・ド・サヴォワへ 〔1565年〕
-ハンス・ロベットからノストラダムスへ (リヨン、1565年6月13日)*
-ノストラダムスからハンス・ロベットへ (サロン、1565年7月7日)*
-ハンス・ロベットからノストラダムスへ (リヨン、1565年7月23日)*
-ノストラダムスからハンス・ロベットへ (1565年8月5日もしくは7日)
--デュペーブの著書に収録。
-ハンス・ロベットからノストラダムスへ (リヨン、8月16日)〔1565年〕*
-ハンス・ロベットからノストラダムスへ (リヨン、1565年11月19日)*
-ノストラダムスからハンス・ロベットへ (サロン、1565年12月12日)
--デュペーブの著書に収録。
-ノストラダムスからハンス・ロベットへ (サロン、1565年12月13日)*
-[[ノストラダムスからカトリーヌ・ド・メディシスへ (サロン、1565年12月22日)>王太后への書簡]]
-ノストラダムスからジョアシャン・ド・クレロンへ (サロン、1566年2月25日)
--ギナールのサイトと論文で紹介されている。ウプサラ大学図書館に残っていたのを発見された。
-【献辞】サヴォワ公エマヌエル・フィリベルトへ (1566年4月22日)
-【献辞】ビラーグ殿へ (1566年6月15日)
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&bold(){ノストラダムスの往復書簡}は数十通単位で残っている。
多くはノストラダムスが受け取った手紙だが、そこで言及されている様々な情報は、生前のノストラダムスの状況をうかがい知る上で貴重な史料である。
また、数は少ないが、ノストラダムス自身が書いた手紙の数々は、直接的にノストラダムスのプライベートな言説に触れる一層貴重な史料といえる。
まとまった書簡集としては[[BN ms. Lat. 8592]]があり、誰が転記したのか特定されていない写本とはいえ、専門家たちから内容の真正性は認められている。
もともとの手紙は息子の[[セザール・ド・ノートルダム]]が保管していたもので、その性質上、ノストラダムスが書いた手紙(10通)よりも、ノストラダムス宛の手紙(41通)の方がずっと多い。
ノストラダムス自身の手紙が手許に残っているのは不自然なようだが、彼は秘書に清書させたりしていたので、そうした過程で残った手稿や写本が伝わったものだろう。
それ以外の手紙はそれぞれ1、2通程度が独立して保存されているに過ぎないが、いずれも重要な情報源であることは言を俟たない。
*手紙一覧
推測される執筆順に示す。丸カッコは手紙に書かれている日付などで、亀甲カッコは推測されている日付などを示す。*印は[[BN ms. Lat. 8592]]に含まれる書簡、【献辞】とあるのは暦書などに掲げられた献辞である。
-[[ノストラダムスからタンド伯クロード・ド・サヴォワへ (1554年3月19日)>Ein Erschrecklich und Wunderbarlich zeychen]]
-【献辞】 司教ジョゼフ・デ・パニスへ (1554年1月27日)
-[[ジャン・ブロトー]]からノストラダムスへ (リヨン、1557年9月20日)〔1554年9月20日〕*
-ジャン・ブロトーからノストラダムスへ 〔1561年以前〕*
-【献辞】 [[フランス王アンリ2世へ (1556年1月13日)>アンリ2世への手紙 (1557年)]]
-【献辞】 [[フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスへ (1556年1月13日)>カトリーヌ・ド・メディシスへの献辞 (1556年)]]
-ガブリエル・シメオーニからノストラダムスへ (リヨン、1556年2月1日)*
-【献辞】 [[ナヴァル王アントワーヌ・ド・ヴァンドームへ>アントワーヌ・ド・ヴァンドームへの献辞]] (1556年3月21日)
-【献辞】 ラ・ガルド男爵へ (1557年2月17日)
-【献辞】 [[リヨンの有力者ギヨーム・ド・ガダーニュへ>ギヨーム・ド・ガダーニュへの献辞]] (1557年5月1日)
-ピエール・ド・フォルリヴィオからノストラダムスへ 〔1557年11月〕*
-ヨハンネス・キボ・ボエリウスからノストラダムスへ (ストゥルラーノ、1557年11月16日)*
-[[フランソワ・ベラール]]からノストラダムスへ (アヴィニョン、1558年3月12日)*
-ペトルス・マルチュル・カルボからノストラダムスへ 〔1558年〕*
-【献辞】 マコン司教エマニューへ (1558年8月12日)
-【献辞】 アヴィニョン教皇副使ジャコポ・マリア・サラへ (1558年8月14日)
-オルリア・ド・カドネからノストラダムスへ (パリ)〔1550年代後半?〕*
-【献辞】 タンド伯クロード・ド・サヴォワへ (1559年3月10日)
-【献辞】 リヨネー地方の長官サヴィニへ 〔1559年〕
-シギスムンドゥス・ウォイイッセルからノストラダムスへ (パドヴァ、1559年3月19日)*
-[[ロレンツ・トゥッベ]]からノストラダムスへ (ブールジュ、1559年11月4日)*
-S. オスワルドゥスからノストラダムスへ (エクス、1559年11月24日)*
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1560年1月1日)*
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1560年3月16日)*
-【献辞】 サヴォワ公妃マルグリット・ド・フランスへ 〔1560年〕
-匿名の聖職者からノストラダムスへ 〔1560年〕*
-S. ポールからノストラダムスへ (エクス)〔1560年頃〕*
-[[ジャン・ド・シュヴィニー>ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]からノストラダムスへ (エクス、1560年9月1日)*
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1560年9月20日)*
-ノストラダムスからジャン・モレルへ (1560年10月30日)〔1560年11月30日〕
--レオニの著者やデュペーブの著書に収録。
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1560年12月1日)*
-ジェローム・ド・ピュルピュラからノストラダムスへ 〔1560年〕*
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1561年1月20日)*
-[[ハンス・ローゼンベルガー]]からノストラダムスへ (フィーバーブルン、1561年3月11日)*
-【献辞】 ローマ教皇ピウス4世へ (1561年3月17日)
-ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1561年4月8日)*
-【献辞・手稿】 ローマ教皇ピウス4世へ (1561年4月20日)
-【献辞】 [[文人ジャン・ド・ヴォゼルへ>ヴォゼルによる百詩篇第3巻55番の解釈]] (1561年)
-ヤコブス・セクリウァグスからノストラダムスへ (リヨン、1561年5月1日)*
-ヤコブス・セクリウァグスからノストラダムスへ (リヨン、1561年5月29日)*
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1561年6月7日)*
-ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1561年6月18日)*
-ノストラダムスからロレンツ・トゥッベへ (サロン、1561年7月15日)*
-ノストラダムスからある貴族たちへ (サロン、1561年7月29日)*
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1561年8月9日)*
-ノストラダムスからハンス・ローゼンベルガーへ (サロン、1561年9月9日)*
-ノストラダムスからロレンツ・トゥッベへ (サロン、1561年10月15日)*
-ノストラダムスからハンス・ローゼンベルガーへ (サロン、1561年10月15日)*
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (アントウェルペン、1561年11月15日)*
-ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1561年12月15日)*
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (アウクスブルク、1562年1月19日)*
-ノストラダムスからドミニク・ド・サン=テチエンヌとジャモー・パトンへ(サロン、1562年1月20日)*
-ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1562年1月24日)*
-ノストラダムスからオランジュの大聖堂の参事会員たちへ (サロン、1562年2月4日)
--1714年に復刻された失せ物探しの手紙で、レオニの著書などに再録されているほか、[[竹下節子]]の著書に要約がある((竹下 [1998] pp.116, 118))。
-ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (アウクスブルク、1562年4月13日)*
-ノストラダムスからロレンツ・トゥッベへ (サロン、1562年5月13日)*
-【献辞】 将軍フランチェスコ・ファブリツィオ・セルベロニへ (1562年7月20日)
-フランソワ・ベラールからノストラダムスへ (アヴィニョン、1562年8月13日)*
-ノストラダムスからフランソワ・ベラールへ (サロン、1562年8月27日)*
-フランソワ・ベラールからノストラダムスへ (アヴィニョン)〔1562年?〕*
-ジャン・ド・シュヴィニーからノストラダムスへ (サロン、1563年5月7日)*
-ヨハンネス・ベルギウスからノストラダムスへ (アジャン、1563年10月15日)*
-【献辞】 フランス王シャルル9世へ (1564年4月14日)
-ブノワ・ド・フランドリアからノストラダムスへ (ガップ、1564年5月1日)*
-【献辞】 タンド伯オノラ・ド・サヴォワへ 〔1565年〕
-ハンス・ロベットからノストラダムスへ (リヨン、1565年6月13日)*
-ノストラダムスからハンス・ロベットへ (サロン、1565年7月7日)*
-ハンス・ロベットからノストラダムスへ (リヨン、1565年7月23日)*
-ノストラダムスからハンス・ロベットへ (1565年8月5日もしくは7日)
--デュペーブの著書に収録。
-ハンス・ロベットからノストラダムスへ (リヨン、8月16日)〔1565年〕*
-ハンス・ロベットからノストラダムスへ (リヨン、1565年11月19日)*
-ノストラダムスからハンス・ロベットへ (サロン、1565年12月12日)
--デュペーブの著書に収録。
-ノストラダムスからハンス・ロベットへ (サロン、1565年12月13日)*
-[[ノストラダムスからカトリーヌ・ド・メディシスへ (サロン、1565年12月22日)>王太后への書簡]]
-ノストラダムスからジョアシャン・ド・クレロンへ (サロン、1566年2月25日)
--ギナールのサイトと論文で紹介されている。ウプサラ大学図書館に残っていたのを発見された。
-【献辞】サヴォワ公エマヌエル・フィリベルトへ (1566年4月22日)
-【献辞】ビラーグ殿へ (1566年6月15日)
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