原文
Pour le plaisir d’edict1 voluptueux2,
On3 meslera4 la5 poyson dans l’aloy6:
Venus sera en cours7 si vertueux,
Qu’obfusquera8 du Soleil9 tout aloy10.
異文
(1) d’edict : d’Edict 1557B 1649Xa 1656ECL 1668 1672 1712Guy, dedict 1627 1653 1665
(2) voluptueux : Voluptueux 1712Guy
(3) On : Oo 1627
(4) meslera : mslera 1611B
(5) la : le 1589Rg 1656ECLa 1712Guy 1716
(6) l’aloy : la loy 1588-89 1594JF(p.232) 1656ECL 1668 1840, la Loy 1605 1628 1649Xa 1672 1712Guy, la foy 1597 1600 1610 1611 1627 1644 1650Ri 1653 1981EB 1665 1716
(7) cours : Cours 1656ECL
(8) Qu’obfusquera : Qu’ofusquera 1590Ro, Qu’offusquera 1644 1649Ca 1650Ri 1650Le 1653 1656ECL 1665 1668 1712Guy, Qu’obsusquera 1605, Qu’obfnsquera 1627
(9) du Soleil : du soleil 1568A 1568B 1568C 1588-89 1590Ro 1981EB, Soleil 1600 1610 1716, le Soleil 1627 1644 1650Ri, le soleil 1653 1665 1840
(10) aloy : à loy 1568I 1590Ro 1597 1600 1610 1611 1627 1644 1649Xa 1650Ri 1653 1981EB 1665 1716, a loy 1605 1628, à soy 1840
(注記)ECL は p.117とp.163に登場しているが、1箇所だけ些細な食い違いがあるため、前者を ECLa としている。
校訂
日本語訳
享楽的な王令の望むところのせいで、
品位に毒が混ぜられるだろう。
ウェヌスが流れにおいてあまりにも力強くなるだろうから、
太陽の品位をことごとく暗くするだろう。
訳について
1行目 plaisir について、現代フランス語では普通 「喜び」 の意味だが、一部の成句に残るように、「望み」「意図」などの意味があり、クレベールはその意味に解釈している。
エドガー・レオニ、
ピーター・ラメジャラー、
リチャード・シーバースらはいずれもそのまま pleasure と英訳しているが、その語の示す範囲も広い。
2箇所の
aloy(未作成) はひとまず 「品位」 と訳した。「金位」 と訳すことも可能で、
ピエール・ブランダムールらの読みに従うならそうすべきだろうが、より中立的な訳を採った。
同じように3行目のcoursは中立的に「流れ」と訳したが、一部の論者の読みを尊重するなら、「流通」と訳してもよいだろう。
既存の訳についてコメントしておく。
大乗訳について。
3行目 「金星は大いなる需要のもとにあって」は、元になっているはずの
ヘンリー・C・ロバーツの英訳をほぼそのまま転訳したものだが、「需要」(request) の根拠が不明。
4行目 「太陽の混ぜものすべてを暗くするだろう」 は、aloi に 「合金」 の意味もあるので 「混ぜもの」 は一応理解できないこともない。
山根訳について。
2行目 「毒が法に混入されよう 宮廷で」は、前半は la loy で校訂した結果としても、最後の 「宮廷で」 はおそらく3行目の en cours を訳した結果だろうから、2行目にあるのは不自然。また、cours (流れ) と cour (宮廷) は別で、宮廷の意味ならここで複数形にする必然性が分からない。
4行目 「太陽の栄光 ことごとく翳りをおびよう」 は元になったはずの
エリカ・チータムの英訳をそのまま転訳したものだが、aloy が 「栄光」 となる根拠が不明。
信奉者側の見解
ジャン=エメ・ド・シャヴィニーは、前半を1576年5月の王令の予言とした。これは第5次ユグノー戦争を終わらせたボーリュー王令のことで、プロテスタント側の礼拝の自由などを認めたものだった。カトリックだったシャヴィニーは、それが 「法」(聖なる法=キリスト教) に 「毒」(=プロテスタント) を混ぜるものであったと解釈した (彼は2行目の 「品位」 aloi を 「法」 la loy としている)。後半については、当時の宮廷が享楽にふけり、君主の世評が翳ったことと解釈した。
同時代的な視点
これに対し、
ロジェ・プレヴォはドイツでトマス・ミュンツァーらが蜂起した1524年には、フランス各地でもプロテスタントの運動が盛り上がっていたことが影響しているとした。
【画像】H.-J. ゲルツ 『トーマス・ミュンツァー―神秘主義者・黙示録的終末預言者・革命家』
ピーター・ラメジャラーは1535年のクシー王令 (檄文事件に端を発したプロテスタントへの迫害を停止し、亡命者の帰還も許した) がモデルと判断した。
当「大事典」としては、貨幣下落がモデルになっていると考える方が自然だろうと考える。しかし、仮にプロテスタントに対する宥和的な王令を描写したものだとしても、ラメジャラーが示したように、ノストラダムスがこの詩を書く以前にも宥和的な王令は存在していたので、信奉者らのようにノストラダムス死後の事件を的中させたと考える必要はないだろう。
※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
最終更新:2013年09月12日 18:35