百詩篇第2巻8番

原文

Temples sacrés1 prime façon Romaine
Reieteront les goffes2 fondements3,
Prenant leurs loys4 premieres5 & humaines,
Chassant, non tout, des6 saints7 les cultements.

異文

(1) sacrés : Sacrez 1672
(2) goffes : goffres 1557B 1568 1590Ro 1597 1600 1605 1610 1611 1628 1649Xa 1660 1716 1772Ri
(3) fondements : Fondemens 1672
(4) loys : Loix 1672
(5) premieres : premiere 1650Le
(6) des : de 1672
(7) saints : Saincts 1611B 1644 1650Ri 1653 1660 1665 1672

日本語訳

聖なる殿堂はローマの当初のやり方で、
粗雑な土台を拒絶するだろう。
最初の人間的な法を手に入れて、
全てではないが聖人崇拝を駆逐しつつ。

訳について

 大乗訳1行目「寺々は聖別され初期のローマへの道は」*1は誤訳。ヘンリー・C・ロバーツが façon(様式、方法)の訳として使っていた way を「道」と訳してしまったのだろう。
 なお、ピエール・ブランダムールによれば、この場合の Temples sacrés(聖なる殿堂/神殿/寺院)は、単なる église(教会堂、聖堂)を意味するに過ぎないようである。この読み方は、ピーター・ラメジャラーなども支持している。

 山根訳4行目「聖人信仰をほぼことごとく追放する」*2の「ほぼことごとく」は、高田・伊藤訳で「払拭とまではいかずとも」、ブランダムールの釈義で「完全にとまでは言わずとも」となっていることを踏まえるなら*3、否定の度合いが強すぎて適切とはいえないだろう。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエールは、この詩を宗教改革の始まりに関連付けていた。ヘンリー・C・ロバーツのようにこれを支持する論者もいるが、フランス革命以降は、アナトール・ル・ペルチエによる以下の解釈が有名になっている。

 彼は、フランス革命中にキリスト教が弾圧された一方で、理神論的な「最高存在」が規定されて、その祝祭が大々的に行われたこと(1794年6月8日)の予言と解釈した*4。この解釈は、チャールズ・ウォードアンドレ・ラモンに引き継がれた*5

同時代的な視点

 ピエール・ブランダムールは、ガランシエール同様、宗教改革がモデルになっていると理解した。ブランダムールの場合、ここでノストラダムスが述べているのは、宗教改革に対抗するためのローマ教会の改革案だとしている。つまり、ノストラダムスは初期キリスト教会の理念に立ち返った上で、聖人崇拝について大きく制限すべきだという考えを抱いていたというのである*6

 カルヴィニスムと関連付けるロジェ・プレヴォ、カルヴィニスムやカトリック内の改革と捉えるエヴリット・ブライラーなど*7は細部が異なっているものの、16世紀当時の宗教改革に関連付けるという点では基本的に一致しているといえるだろう。


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百詩篇 第2巻
最終更新:2009年10月13日 22:34

*1 大乗 [1975] p.73

*2 山根 [1988] p.80

*3 高田・伊藤 [1999] pp.122-123

*4 Le Pelletier [1867a] p.195

*5 Ward [1891] p.277, Lamont [1943] pp.99-100

*6 Brind'Amour [1996]

*7 Prévost [1999] p.206, LeVert [1979]