人格の同一性

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  • 人格の同一性
    ... 哲学における「人格の同一性」という問題は、そんな疑問から始まる。 「汝自身を知れ」という格言がある。「私とは何か」という問題と同じである。それらの問題は文明の歴史と同じだけ古い。人格の同一性という問題は、それら歴史的な哲学的課題に挑む問題である。 同一性(identity)とは、変化しながらも存在し続ける個の基本的性質である。ちなみに論理学の「同一律」とは同一性の律である。自己同一性(self identity)と言うときは、或るものがそれ自身(self)と等しくある性質をいう。 人格の同一性(personal identity)とは、或る人物が生涯を通じて心身ともにさまざまに変化するにも関わらず、なお同じ人格であり続けているとみなすための十分条件とは何かという問題である。人格の自己同一性とも言われる。この問題には、そもそも「人格」および「自己」とは何で...
  • 意識の統一性
    概説 人格の同一性問題との関連 意識の時間的統一の問題 概説 人間には五感がある。しかし同時に複数の感覚があった場合、それらは独立して存在しているのでなく統一された意識の内部にある。たとえば繁華街を歩いていると様々なものが見え、同時に様々な音が聞こえ、同時に様々な匂いがある。それらの感覚は統一的な意識の内部にあり、意識は全一的なものとして存在している。これが意識の統一性である。 ジョン・サールは次のように論じている。 いま私は、指先の感覚や首まわりのシャツの圧迫感、落葉の風景だけを経験しているわけではない。これらすべてを単一の統合された意識野の一部として経験している。病理的なところのない通常の意識は、統合された構造とともにある。カントはこの意識野の統合を「統覚の超越論的統一」と呼び、そこから多くのことを引き出した。そして彼は正しかった。これから見ていくように、それは...
  • テセウスの船
    ...レク・パーフィットは人格の同一性の問題において、人間の脳細胞を他者の脳細胞と徐々に置き換えていくという同型の思考実験を行っている。(この場合はテセウスの船と異なり自己について重大な問題が派生する) プルタルコスは以下のようなギリシャの伝説を挙げている。 テセウスがアテネの若者と共にクレタ島から帰還した船がある。アテネの人々はこれを後々の時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、やがて元の木材はすっかり無くなってしまった。 テセウスの船は哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。 プルタルコスは、全部の部品が置き換えられたとき、その船が同じものと言えるのかという疑問を投げかけている。また、ここから派生する問題として、置き換えら...
  • 意識の超難問
    概説 心理学的分析 分析哲学からの批判 人格の同一性問題から派生する意識の超難問 概説 意識の超難問(harder problem of consciousness)とは、オーストラリアの人工知能学者ティム・ロバーツが提起した問題で、「なぜ私は他の誰かではないのか?」というような、高度な自己意識(自我体験)に関するものである。 第一回と第二回のツーソン会議でデイヴィッド・チャーマーズが、意識のイージープロブレム( easy problem of consciousness )と意識のハードプロブレム(hard problem of consciousness)の問題提起をして大きな影響を及ぼした。ティム・ロバーツは1998年の第三回ツーソン会議で、意識のハードプロブレムよりも、さらに難しい問題として「意識の超難問」を以下のように提起した。 たとえいわゆる意識の「難問」...
  • 形而上学
    ...表記する。 人格の同一性問題とは、その〈私〉の持続の問題である。還元主義では〈私〉というような物的でも心的でもない主体を否定するので、「今この私」は一個の瞬間的なクオリアだということになる。逆に〈私〉のような非還元主義的主体を認めるならば、主体内部のクオリアは生成消滅するが、主体は時間を通じて存在し続けると考えることができる。 なお「死」は形而上学の重要問題であるが、これは時間の存在論と人格の同一性問題の枠内にある。人格の同一性における還元主義が正しいならば、前述のように通時的同一性を維持する主体が否定されるので、「今この私」は瞬間的な存在者になる。つまり還元主義ではクオリアが変化するごとに新たな「私」が生じ、以前の「私」は死ぬとみなす。しかし時間の存在論における静的宇宙論が正しいならば、各時点の「私」は永久に存在することになる。ただその場合でも静的宇宙論では「2秒前...
  • スワンプマン
    ...ッドソンが考案した、人格の同一性問題を考えるための思考実験。 ある男が沼にハイキングに出かける。この男は不運にも沼の傍で突然雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷がすぐ傍に落ち、沼の汚泥に不思議な化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一形状の人物を生み出してしまう。 この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。スワンプマンは原子レベルまで死んだ瞬間の男と同一の構造をしており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一である。沼を後にしたスワンプマンは死んだ男が住んでいた家に帰り、死んだ男の家族と話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みながら眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。 同様の思考実験は1976年、Boorseが目的論的機能主義を批判...
  • デイヴィッド・ヒューム
    ...や肉体を超えて個人の人格の同一性を担保する「何か」の存在を認めるのは、自然科学の立場上困難だからだ。しかし「心」というものを継起する知覚の束であるとするヒュームの立場を取るならば、その「何か」を想定する必要が無いのである。 イマヌエル・カントはヒュームが解体したルネ・デカルトの「コギト(自我)」を、「物自体」を想定した上で、さらに全ての表象に「我思う」を伴わせる力として悟性の統覚の能力を想定して「形式」として復活させた。しかしその物自体も厳密に分析し、解体していけば、やがて時間や延長さえ必要のないものになり、最終的には単に表象をもたらす「能力」にまで還元できる。そのことを見抜いたショーペンハウアーは物自体を「意志」と置き換えるわけであるが、ヒュームの哲学からすれば、その「意志」は自然の「法則」であり、かつ斉一性があるに過ぎないということになる。 派生問題――知覚の同一...
  • 自己
    ...ができる。この問題は人格の同一性というテーマで考究されている。 還元主義と非還元主義 哲学においては、自己について対極的な二つの考え方があり、デレク・パーフィットは双方の立場を以下のように「還元主義」と「非還元主義」と呼び分けた。(ただし、パーフィットがいう還元主義は、心的な現象は物理現象に還元できるという還元主義とは意味が異なるので注意が必要である) 1、非還元主義 自己がそれ自体で存在するという立場である。心の哲学においては観念論や実体二元論がこの立場である。素朴心理学的な考えであり、自己を継起する知覚や持続的な意識を担う「主体」としての存在とみなす。古くは「魂」が自己というものの本質であると考えられてきた。現代の哲学者でこの立場を取る者は少ないが、英国のリチャード・スウィンバーンは魂の存在を主張している。また日本では永井均が〈私〉という用語で、自己が個別の肉体...
  • 永井均
    ...ックジャック』では、人格の同一性問題において、デレク・パーフィット思考実験――自分の複製体が作られた場合、どちらが〈私〉になるかという問題については、「今の〈私〉には関係ない(中略)未来には――過去もだけど――独在性原理は働かないからね。それぞれ現在の〈私〉の統覚原理だけが働いて作られているというべきだな」(p.110)と、時制を限定した表現になっている。そして2004年出版の『私・今・そして神 開闢の哲学』では、「開闢」というそれ以上遡行不可能な「奇跡」があるとし、あとから他のものとの対比が持ち込まれて〈私〉とか〈今〉とか〈現実〉という概念になるという。つまり他人との対比が持ち込まれれば〈私〉であり、過去や未来との対比が持ち込まれれば〈今〉ということである。〈 〉で囲んだほうが存在することが世界の開闢そのものであるが、しかし対比が持ち込まれた後では、「他人」――「私」というように、...
  • 心の哲学全般
    ...象に還元できるという人格の同一性問題における「還元主義」は全く意味が異なるので注意が必要である。 心的性質と物理的性質は一つの実体の両面であると考える立場の「中立一元論」は、「二面説」や「二相理論」、時に「同一本体相貌説」とも呼ばれるが、ほとんど同じ意味である。なお「性質二元論」とは、世界には物理的性質と心的性質の二つがあるという立場であるが、その二つはあくまで「実体」ではなく「性質」としているのであり、存在論的には中立一元論を前提としており、同じ二元論であっても「実体二元論」とは全く異なるので注意が必要である。 自然主義 心の哲学には様々な立場の学者がいるものの、どの学者も心を科学的に扱おうとする「自然主義(naturalism)」を前提にしている点ではほぼ共通している。心を自然科学の対象にしようとする学者たちの会議がツーソン会議や国際意識科学会である。 自...
  • 独我論
    ...かの集合であるとする人格の同一性における還元主義を含意しており、ヒュームの場合それは観念論的な立場の「知覚の束」であったが、ラッセルは中立一元論の立場から「出来事」と呼んでいる。 参考文献 永井均『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書 1996年 バートランド・ラッセル『哲学入門』高村夏輝 訳 筑摩書房 2005年 ジョン・R・サール『MiND 心の哲学』山本貴光・吉川浩満 訳 朝日出版社 2006年 S・プリースト『心と身体の哲学』河野哲也・安藤道夫・木原弘行・真船えり・室田憲司 訳 勁草書房 1999年 参考サイト 独我論 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E6%88%91%E8%AB%96 フッサールの方法とその諸問題 http //mrmts.com/jp/docs/husserl.html
  • 無主体論
    ...レク・パーフィットが人格の同一性問題において、「還元主義」と呼ぶ立場も無主体論に近い。 「無主体論」という用語は、M.シュリックが「意味と検証」において、『論理哲学論考』以降のウィトゲンシュタインの考え方をそう呼んだことから始まり、P.F.ストローソンの『個体と主語』に受け継がれたものである。 直接経験は無主体であるという発想は一種の「思考型」といえるものであり、同種の考え方はデイヴィッド・ヒューム、エルンスト・マッハ、バートランド・ラッセル、大森荘蔵、西田幾多郎にも見出すことができる。ただしシュリックやストローソンは言語哲学の立場から主張したものであり、直接経験の帰属先として暗に「肉体」が主体として想定されている。それに対しヒューム、マッハ、大森は現象主義という形而上学的な立場から心身二元論を否定しており、全く性質が異なる。彼らの立場は「形而上学的無主体論」というべ...
  • ドナルド・デイヴィッドソン
    ...則一元論を主張した。人格の同一性問題に関してはスワンプマンの思考実験を考案している。 デイヴィッドソンは唯物論者であり、どんな心的出来事も物理的に正しく記述できるという立場であるが、実際には人間は自由意志で行動しており、従ってその自由意志を包括した唯物論が見出されなければならないと考えた。心的なものと物理的なものは事実として相互作用している。相互作用するならばその科学法則は決定論的――法則論的であるはずである。しかし心的出来事は非法則的である。これは一見矛盾しているように見える。矛盾を回避するためにデイヴィッドソンは、心脳同一説におけるトークン同一説に近い理論を提唱する。すなわち、それぞれの心的出来事は何らかの物理状態と同一であるが、それぞれの物理的出来事がある心的出来事と同一であるとは限らないというものであり、これが非法則一元論である。そして物理的出来事についての知識が十分...
  • 心脳同一説
    概説 タイプ同一説 トークン同一説 同一説への批判 概説 同一説(英:Identity theory)、または心脳同一説とは、心身問題に関する立場の一つで、「心の状態やプロセスとは、脳の状態やプロセスそのもののことだ」という考え方のことである。心的なものの存在を物理的なものの存在に還元して説明しようとする還元主義でもある。英語圏では「Mind is Brain」と、be動詞を強調することによって心と脳の同一性を表現する。心の哲学においては、行動主義の失敗を反省し、物理主義の一種として二元論一般と対立する文脈で語られる。 心脳同一説は性質二元論や中立一元論の考えに似ているよう思えるが、大きな違いがある。性質二元論や中立一元論では、心的状態と脳状態は同一の実体の二つの側面であり、たとえるならコインの表裏の関係である。しかし心脳同一説では、「雲とは水粒である」「稲妻は電荷の運動で...
  • 無内包の現実性
    ...の思考可能性でなく、人格の同一性問題における〈私〉の「通時的同一性」の思考可能性においてのみ認められる。 ・二つの現実性の哲学 入不二の無内包の現実性には永井のような思考可能性はない。入不二の場合でも現実の内容が変わることは思考可能である。たとえば総理大臣が安倍晋三から入不二基義に変わるというように。あるいは、安倍晋三の身体がそのままでありながら精神のみが入不二基義に変わる思考可能性も認めるかもしれない。しかし入不二の場合は、各人の身体と精神がこの現実世界と同じでありながら、〈私〉という世界の開闢点のみが、入不二基義から安倍晋三に変わるということは思考できない。 入不二には[永井的現実]に類した主張はない。入不二も「〈私〉とは何であるか?」と問われたなら、「無内包の現実性である」と答えると思う。ただしそれは[入不二的現実]の意味であり、遷移可能な世界の開闢点としての...
  • 渡辺恒夫
    ...している) 人格の同一性や意識の超難問においても、肉体と精神の関係を一対一とする限り解決困難なアポリアが生じることを、私は論じた。 アポリアを生じさせる原因は実在論、特に時間と空間の実在性を前提にしていることだと私は考える。もし時間と空間が実在しないと仮定すれば、遍在転生観の問題や、心の哲学における意識のハードプロブレムは解消されるだろう。従って私は、梵我一如の世界観を背景にした渡辺の思想とは異なり、時間と空間そのものの実在性を否定した古代ギリシャのエレア派の一元論によって独在性の問題を考えている。(この問題についてはエレア派の一元論の合理性として考究しているので参照されたい) 感覚で捉えられる世界は生成変化を続けるが、そもそも「変化」とは在るものが無いものになることであり、無いものが在るものになることである。理性で考えれば「無」から「有」が生じたり、「有」が...
  • 現象主義
    ...のを否定する。つまり人格の同一性問題において、「自己」や「自我」が通時的に人格の同一性を成り立たせているという考えを否定する。現象主義では、デカルトのコギトを単なる〈意識内容(コギタティオ)〉の告知とみなし、「I think, therefore I am」ではなく、「It thinks within me (ラッセル)」と言い換えようとする傾向がある。 論理実証主義 論理実証主義の思想は、現象主義の代表的な人物であるマッハの科学的世界観、感性的要素一元論と呼ばれる現代経験主義に基づいて起こった初期の科学哲学である。またラッセルとウィトゲンシュタインの論理哲学にも強く影響され、特にウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は論理実証主義者にとって聖書のような扱いを受けており、「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」(「ものの総体」とは「物自体の総体」と解釈された)、また「語...
  • 多重実現可能性
    概説 派生問題 概説 多重実現可能性(multiple realizability)とは、心の哲学において、一つの心的現象はさまざまな脳の作用から生じうるとする説。特定の心的現象は特定の脳作用と同一であるとする心脳同一説のタイプ同一説に対する批判として、ヒラリー・パトナムが主張した。 例えば「痛み」という心的状態は何らかの脳状態で実現される。「痛み」を神経科学に還元するためには、「痛み」と何らかの脳状態との同一性を示すような「橋渡し法」(bridge law)を構築する必要がある。即ち、「痛みが生じるのは○○であるときに限る」という文を神経科学の語で完成させなければならない。例えば、「痛みが生じるのは神経線維Aが発火するそのときに限る」というようなものである。 これに対して多重実現可能性は障害になる。「痛み」を持つのは人間だけでなく各哺乳類、鳥類、爬虫類も「痛み」を...
  • 現象的意識の非論理性
    ...た。 私は「人格の同一性」において変化と同一性の問題を論じた。この問題は意識の現象的側面、つまりクオリアにおいても根源的な問題なので、ここで再論したい。 ・変化の論理的不可能性 変化とは果たして論理的に不可能なのかを改めて考える必要があるだろう。まず「無からは何も生じない」というのは世界の根本原理である。物理学にはエネルギー保存則がある。宇宙の原因であるビッグバンは「無」から始まったと説明されることもあるが、それは哲学的な意味での「無」ではなく、量子力学的に一定の「確率」を持った存在だと説明される。なお物理学的な意味での「真空」とは「最低エネルギー状態」と定義されている。またそのような小難しい物理学の知見を援用するまでも無く、自分の部屋にいきなり黄金の山が出現しないという事実によって、「無からは何も生じない」という原理は疑うことも無意味だと直観できるはずだ。また仮に...
  • 大森荘蔵
    ...※この大森の考えは、人格の同一性問題においてはデレク・パーフィットに近い還元主義である。 立ち現れには「背後」がないと強調される。背後に同一不変の何かがあって、それがさまざまなものを立ち現すのではない。実在論は拒否されている。立ち現れは時々刻々その姿を変えるが、それは背後にある同一不変の実在を元に立ち現れるのではなく、ただ「同一体制」の下で立ち現れるのである。 したがって立ち現われには虚実がないということになる。この説明に大森は「錯覚論法(argument from illusion)」と呼ばれるものを逆用している。例えば、私が道で蛇を見て足を止める。その時私は本当に蛇を見たと思っている。しかし後でよく見れば実は縄だったという場合もあるし、やはり本物の蛇だったという場合もある。仮に縄だった場合、最初私が見たのは単なる蛇の表象だったということになる。しかし本物の蛇だった...
  • 固定指示子
    固定指示子(rigid designators)とは、ソール・クリプキが主張する概念。全ての可能世界において、つねに同一の対象を指し示す表現と定義される。人物の名前などがこれにあたる。心の哲学では心脳同一説に対する批判として用いられる。 サマータイムの発案者であるベンジャミン・フランクリンは固定指示子である。しかし「サマータイムの発案者」という表現はベンジャミン・フランクリンを指し示すものであっても固定指示子ではない。ベンジャミン・フランクリンがサマータイムの発案者でない可能世界は容易に想像できるからだ。なおこの場合、固有名の用い方は現実世界に準拠しているという点が重要である。ベンジャミン・フランクリンという名の猫がいる可能世界が仮にあったとしても、その猫は何の関係もない。 固定指示子の概念からクリプキは同一性文「AはBである(AとBが同一であることを示す文)」の考察を進め...
  • 意識の境界問題
    概説 意識の統一性 中心と周辺 組み合わせ問題 きめの問題 解決へのアプローチ 概説 意識の境界問題(英:Boundary Problem of Consciousness)とは、人間の意識が宇宙の構造のあるレベル、つまり「脳」という単位において、統一的に、かつ境界をもって存在しているのはなぜなのかという問題。心の哲学において意識のハードプロブレムと関わる問題のひとつとして議論される。2004年にアメリカの哲学者グレッグ・ローゼンバーグによって提起された。 個人が体験するのはこの世界にある意識体験のごく一部である。例えば隣にいる他人が酷い虫歯の痛みに苦しめられていたとしても、自分がその痛みを感じるということはないし、また地球の裏側で誰かが幸福の絶頂を噛み締めていたとしても、自分がその喜びを感じるということはない。つまり意識体験は境界を持って個別化されている。 意識は...
  • ピーター・ストローソン
    ピーター・フレデリック・ストローソン(Peter Frederick Strawson, 1919年11月23日 - 2006年2月13日)は、日常言語学派後期のリーダー的哲学者。日常言語の論理的特徴について非形式的な哲学分析を行った。また、カント的な方法でユニークな形而上学も構築した。主著は『個体と主語』である。 ストローソンによれば、われわれが「心的」や「物理的」という概念を使用できるのは、「人格(person)」という根本的概念を使用できるからである。自己と他者の概念も人格の概念に依存している。それが心的なものと物理的なものの区別に繋がるのである。すなわちデカルトの推論とは全く異なり、主観性と客観性の問題は心身問題に先立つと考えたのである。 では一体、われわれはどうして「自己」という概念を持ちうるのか。ストローソンは経験には多種多様なものがあり、「自己」は経験のうちの...
  • クオリア
    概説 意識とクオリアの違い 歴史と類義語 クオリアについての論争 還元主義的物理主義と二元論 外在主義と内在主義 クオリアに関する思考実験 クオリアの全一性 概説 クオリア(英:複数形 Qualia、単数形 Quale クワーレ、またはクアリ)とは、客観的には観察できない意識の主観的な性質のこと。日本語では感覚質と訳されることもある。もとはラテン語で「質感」を表す単語であるが、1990年代の半ばから意識の不思議さを象徴する言葉として科学者や哲学者の間で広く使われるようになった。「現象」「表象」「感覚与件」は類似の概念である。 クオリアという用語は厳密に定義されておらず、論者によって用いられ方が異なる。ブレンターノやフッサールは志向性が意識の本質だとし、心的状態は全て志向的だと考えた。この"ブレンターノ・テーゼ"に従ってクオリアも志向的であるとする論者がい...
  • イマヌエル・カント
    概説 物自体と認識の形式 統覚 アンチノミー 補足 概説 イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、プロイセン王国出身の思想家で大学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書が有名である。認識論における「コペルニクス的転回」という方法論は、経験そのものでなく経験を成り立たせている条件を考究するものであり、「超越論的哲学」と呼ばれる。「超越論的」を「先験的」と訳すこともある。また認識の構造と形式だけを扱うので「形式主義」とも呼ばれる。ドイツ観念論の哲学者たちは超越論的哲学を引き継いでおり、カントは近代において最も影響力の大きな哲学者の一人である。 カントはイギリス経験論、特にデイヴィッド・ヒュームの懐疑主義に強い影響を受けた。そしてライプニッツ=ヴォルフ学派の形而上学を「独断論のまどろみ...
  • ライプニッツ
    概説 オプティミズム(最善観) モナド(Monades)モナドとモナドとの関係 自我と魂 概説 ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646年7月1日(グレゴリオ暦)/6月21日(ユリウス暦) - 1716年11月14日)はドイツ・ライプツィヒ生まれの哲学者・数学者。「モナドロジー(単子論)」を提唱した。心の哲学においてライプニッツのモナド論は「予定調和説」として位置づけられる。 ライプニッツの思想は、哲学、形而上学の範囲にとどまらず、論理学、記号学、心理学、数学、自然科学などの極めて広い領域に広がる。また同時に、それらを個々の学問として研究するだけでなく、「普遍学」として体系づけることを構想していた。ライプニッツは通常、デカルトにはじまる大陸合理論に位置づけられるが、ジョン・ロックの経験論にも学んでいる。精神と...
  • 命題的態度
    概説 解釈主義 概説 命題的態度(propositional attitude)とは、その内容を示す命題とそれに対する態度という構造をもつ心的状態のことである。バートランド・ラッセルが案出した。 たとえば地球は丸いという信念は、「地球は丸い」という命題に対して「信じる」という態度をとる心的状態である。水を飲みたいという欲求は「水を飲む」という命題に対して「欲する」という態度をとる心的状態である。 命題的態度は以下のような形式を持つ(*1)。 x は p を信じる y は q を望む。 z は r かどうか疑っている。 「x、y、z」が志向的システムを指すもの。「信じる、望む、疑う」が志向的システムが持つ態度。「p、q、r」がその態度の内容、すなわち命題である。 命題とは、人々が信念を固定したり測定したりするのに用いられる理論上の対象であ...
  • ルネ・デカルト
    概説 心身二元論 「我思う、ゆえに我あり」についての解釈と批判 概説 ルネ・デカルト(仏 Rene Descartes, 1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者であり、数学者でもある。近代哲学の父とも称される。1637年の著作『方法序説』によって、真理を探究するための方法としての懐疑主義を透徹し、精神に現れた全ての事象が疑いうるものだと仮定しても、その疑っている何かが存在することは否定できないとし、「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム、Cogito ergo sum)」という根本的な原理を導き出す。デカルトの方法は、もっぱら数学・幾何学の研究によって培われた明晰・判明さに依拠し、その上に哲学体系を構築しようとするものであった。それゆえ彼の哲学体系は人文学系の学問を含まない。 Cogito ergo sumはフランス語で書かれた...
  • 言語的批判
    概説 拡張解釈 ウィトゲンシュタインの誤用 概説 心身問題を解決しようとする試みは、物理主義であっても性質二元論であっても、大きな難問を抱え込むことになる。ウィトゲンシュタインの言語的哲学の影響を受けたギルバート・ライルなどの人々は、そうなってしまうのは概念的な混乱――カテゴリー錯誤が背後にあるからだとして、心身問題を消去しようとする。 ライルによれば、心的状態を記述する言語のカテゴリーは、物理的な脳を記述する言語のカテゴリーとは異なっている。従って心的状態と生物学的状態が適合するかどうかと問うのは間違いである。脳の心的状態を探し求めるのはカテゴリー錯誤、つまり推論の誤謬なのである。 ウィトゲンシュタインは「私的言語」や、意識の「私秘性」について語ることに反対している。彼にとって言葉の意味とは使用法であり、心の中にあるものではない。心的状態は公的な言語では表せない。...
  • 還元・創発・汎経験説
    概説 還元説 創発説デイヴィッド・チャーマーズによる解説 汎経験説 諸説への批判 概説 クオリアというものが一体どこから、どのようにして生じているのかは全くの謎である。現代の科学においても、脳の神経細胞の作用に対応して存在していることだけが事実として認められている。言い換えると脳科学が明らかにしたのは、心的現象と脳の作用に因果的な隣接関係が見出せるということのみであり、脳の作用は心的現象を生じさせる十分条件であると論証できないどころか、必要条件の一つであるとも論証できないのである。多数の哲学者や科学者たちを取材したスーザン・ブラックモアは、学者たちの間では旧来の「脳が意識を生み出す」という表現から、「脳と意識は相関する」という表現に変えるのが流行しているという。 歴史的には心的現象は「魂」の作用であるとする二元論的な立場と、心的現象は物質の運動に還元されるとする原子論的な立...
  • 実践理性の方向
    ...ったからである。次に人格の同一性と時間の哲学を研究し始めたのは、そのクオリアがいかに時間変化を通じて同一であり得るかを知りたかったからである。私はずっと「私」を研究しているのである。 「汝自身を知れ」という格言がある。「私」の全体量を知ることができなければ、私は自身を知ることができない。「私」を探求する過程で最大のハードルとなるのが時間変化の問題である。「我思うゆえに我あり」と「私」を発見したつもりでも、その「私」は変化によって次の瞬間消えてしまうように思われる。デカルトはこの問題を深刻に受け止めていた。それが実体二元論と世界連続創造説として表されていると私は解釈している。 私は時間変化を否定して無世界論という極端な反実在論を構想した。この理論哲学だけでは「私」の全体量は全く不明であり思考することも適わない。しかしそれにグローバルな構造実在論を加えて、四次元主義が何ら...
  • 書評2
    『現代哲学ラボ 第4号 永井均の無内包の現実性とは?』 『現代哲学ラボ 第4号 永井均の無内包の現実性とは?』 本書は永井均の「無内包の現実性」という概念をテーマに、2016年9月23日早稲田大学で行われた永井均、入不二基義、森岡正博の三者による議論を電子書籍化したものである。 「無内包の現実性」には自我論と時間論という二つの論点があり、この二つは私の関心の対象でもあるので、それぞれを論じてみたい。 ※なお本書はamazonのkindle版につき表示環境によってページ数が異なると思われるので、引用の際のページ表記は省略する ・〈私〉の存在論 永井は「現実の〈私〉が一人だけいる」という事実は「事象内容的な問題と無関係」と語る。たとえば自分の複製人間がいて、自分と同じ物理構造をしていて同じ意識現象があっても、〈私〉は端的に一人である。つまり物理構造や意識という事象内...
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  • 廣松渉
    認識論 心身問題 廣松渉(ひろまつ わたる、1933年8月11日 - 1994年5月22日)は日本の哲学者。東京大学名誉教授。 高校進学と同時に日本共産党に入党。東京学芸大学に入学するが、中退して東京大学に再入学する。当初はエルンスト・マッハに対する関心が強かったが、指導教官の勧めなどがあってカント研究に専念。東京大学大学院に進学し、1965年に博士後期課程を単位取得退学している。共産党との関係では、1955年の六全協を受け復党するも、翌1956年に出版した共著書『日本の学生運動』が問題とされ離党した。1958年12月に共産党と敵対する共産主義者同盟(ブント)が結成されて以降、理論面において長く支援し続けた。 認識論 廣松は主観・客観図式による伝統的な認識論を批判する。主観・客観とされているいずれの側も二重になっており、全体として世界の存在構造は四肢的だと指摘し、...
  • カント『純粋理性批判』の検証
    1 観念論の困難 2 『純粋理性批判』の目論見1――世界の観念性の証明 3 『純粋理性批判』の目論見2――自然科学の根拠付け 4 純粋理性と実践理性の境界 1 観念論の困難 私は超能力で自由自在に空を飛べる。何年か前には地上から三千メートルぐらいの高空を飛んだことがある。綿のような白い雲を突きぬけ遥か下方の街並みを見ながら飛び続けたのだが、飛んでいる最中ふいに超能力が消えて転落してしまうのではないかという不安もよぎった。そんな不安を駆逐するように自分は空を飛べるのだと強く信じて風を切りながらひたすら飛び続けた。転落の恐怖と戦いながら遥かな高空を飛び続けるのは痺れるほどの快感であり、これは人生で五番目ぐらいの素晴らしい経験だった。 夢での経験を上のように位置づけていけない理由はない。特に私は存在論的に反実在論の立場である。この立場では夢の経験も現実の経験も「経験」ということで...
  • 夢と現実と真実と
    ... 四次元主義は人格の同一性を次のように説明する。ワーム説によれば昨日の「私」と今日の「私」は同一ワーム内にあるゆえに数的に同一の存在者であり、それぞれの時間で異なった性質を持つ。一方の段階説によれば昨日の「私」と今日の「私」は異なる段階であり、数的にも異なる存在者である。 グリーンは段階説の立場から一見、変化を上手く説明しているように思える。人が時間変化の本質だと思っている時間の流れの感覚も、永久的な存在者として整合的に説明されている。実際グリーンと同じように時間を説明をする物理学者は少なくない(*13)。 しかしグリーンの説明では、やはり変化の矛盾は解消できない。それは次のような理由による。 変化とは、或る物事が別の物事に「なる」ことである。これは当然である。第3章第7節でも論じたことであるが、全ての物事が永久的に存在しているとする宇宙モデル(ブロック...
  • 汎神論
    概説 心の哲学における汎神論 汎神論論争 概説 汎神論(英 Pantheism)とは、宗教・哲学における神の解釈の一種で、全ての物体・法則に神性が宿っている、または一切が神そのものである、とするものである。万有神論ともいわれる。古くはウパニシャッドの梵我一如、ストア学派の哲学、近代ではスピノザ、シェリング、ヘーゲルの思想がこれに属する。 汎神論を意味する英語の pantheism は、ギリシア語の pan(全て)と theos(神)を語源にする語で、文字どおり「全ては神」、または「神は全て」を意味する。 汎心論は万物に心的なものが宿っているという考えであり、汎神論の「神」を「心」に置き換えただけとも解釈できるが、大きな違いは、汎神論の場合は世界全体に統一的な意思の存在を想定している点である。ヘーゲルの「絶対精神」はその典型である。 心の哲学における汎神論 心...
  • 水槽の脳
    概説 派生問題 概説 水槽の脳(すいそうののう、Brain in a vat)とは、自分が体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ているバーチャルリアリティなのではないか、という懐疑主義的な思考実験で、1982年哲学者ヒラリー・パトナムによって定式化された。物事の実在性を哲学的に問う際に使用される。水槽脳仮説とも呼ばれる。デカルトが『省察』において、方法的懐疑として行った「夢の懐疑」と同型のものである。 ある科学者が人から脳を取り出し、脳が死なないような成分の培養液で満たした水槽に入れる。脳の神経細胞を電極を通して脳波を操作できる高性能なコンピュータにつなぐ。意識は脳の活動によって生じるから水槽の脳はコンピューターの操作で通常の人と同じような意識が生じる。われわれが現実に存在すると思っている世界は、実はこのような水槽の中の脳が見ている仮想現実かもしれない。世界が実は...
  • パルメニデス
    概説 思想とその影響 「ある」の解釈 パルメニデスのアポリア 心の哲学におけるパルメニデスのアポリア 概説 パルメニデス( Parmenide-s 紀元前500年か紀元前475年-没年不明)はギリシアの哲学者で、エレア派の祖。「ある」と「ない」の概念を考究し、西洋哲学において最初に一元論を主張した。形而上学の創始者といわれ、また感覚よりも理性による判断に重きを置いたため合理主義の祖であるともいわれる。アナクサゴラスの弟子クセノパネスに学んだとも、ピュタゴラス学派のアメイニアス(Ameinias)に師事したとも伝えられる。 「あるものはある」「ないものはない」という自明な前提から、存在を論理的に限界まで考究したパルメニデスの哲学は、それまでの哲学の常識を覆す途方もない試みであり、生成消滅、運動変化、多数性といった自然現象の根本原理を否定するものだった。 プラトンによれ...
  • 実体
    概説 実体概念の誕生と変遷エレア派 デモクリトス プラトン アリストテレス スピノザ ライプニッツ ヘーゲル 仏教 (管理者がWikipediaの文を加筆修正) 概説 実体とは、哲学用語で真に実在するものの意。性質や様態のように何かに属していたり、何かによって構成されているようなものではなく、「真に在るもの」を指していう。その様々な特性が、属性と呼ばれる。 ギリシア哲学におけるアルケー、またはウーシアとその同義語としてのヒュポスタシスに由来し、「本質」および「実在」とは語源的にも哲学的にも深い関連を有する。 実体概念の誕生と変遷 エレア派 実体の概念はエレア派の存在についての思考に負うところが大きい。エレア派は物事を考える上で誰しも前提にせざるを得ない同一律、矛盾律を厳密に突き詰めれば、生成変化は有り得ないとと考えた。 パルメニデスはいう「事物は在...
  • スピノザ
    概説 心身関係論 自我と自由意志 概説 バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza, ラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ Benedictus De Spinoza, 1632年11月24日 - 1677年2月21日)はオランダの哲学者、神学者。デカルト、ライプニッツと並ぶ合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は「神即自然 (deus sive natura) 」といわれる汎神論的な一元論である。 一元的汎神論や能産的自然という思想は後の哲学者に強い影響を与えた。近代ではヘーゲルがスピノザ実体概念を自分の絶対的な主体へ発展させている。またスピノザの思想は無神論ではなく、むしろ神のみが存在すると主張する無世界論(Akosmismus)であると評している。 スピノザの形而上学の中核は「実体」概念であり、それはアリストテレスからスコラ学者を経てデ...
  • 性質二元論
    概説 類似の概念 概説 性質二元論(英:Property Dualism)とは、心身問題に関する形而上学的な理論のひとつで、この世界に存在する実体(physical substance)は一種類だが、それは心的な性質(mental property)と物理的な性質(physical property)という二つの性質を持っているという考え。中立一元論と類似の概念である。なお Property Dualism は特性二元論、、特徴二元論、属性二元論などとも訳される。 同じ二元論に分類される実体二元論は、物理的実体とは別に、心的実体を置く。それに対し性質二元論は、クオリアなどの心的現象と脳の物理的現象はある一つの実体の二側面であると考える。したがって性質二元論は、存在論的には一元論を前提にしている。歴史的に初めてこの考えを主張したのはスピノザである。 性質二元論の構図 ...
  • 梵我一如
    概説 ブラフマン アートマン 参考 概説 梵我一如とは、宇宙全体としての「梵(ブラフマン)」と、個体としての「我(アートマン)」が本質的には同一であるとする思想。また、同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダ哲学の究極の悟りとされる。代表的な思想家は、シャーンディリヤ、ウッダーラカ・アールニ、ヤージュニャヴァルキヤなどである。 ブラフマンとは普遍的に存在する万物の原理・生命の源と考えられている。宇宙全体、宇宙精神ともいうべきニュアンスがある。アートマンとは単なる自我というより、真の自己(真我)、といったニュアンスがある。この世に多数の人間として存在しているように見える多数の自我はマーヤー(幻)であり、真我はひとつとされる。 人間が梵を吸収することにより生命力が増すという思想もある。 ヴェーダにおける解脱とは...
  • シャンカラ
    概説 不二一元論 概説 初代シャンカラ(Adi Shankara)は、マラヤーリ人の8世紀に活躍した中世インドの思想家。梵我一如思想を背景とした不二一元論を提唱した。ヴェーダーンタ学派の代表的な哲学者である。 「神の御足の教師」として知られた彼は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の教義を強化する最初の哲学者であった。彼の教えは、唯一にして真の実在であるブラフマン(梵)と、個々のアートマン(我)は同一であるという主張に基づく。スマートラの伝統において、インド神話ではシャンカラはシヴァ神の異名である。 全てが現存しているというサンスクリットで書かれた彼の著書は、アドヴァイタ(非二元性)の教義を確立することに関する。シャンカラは教えを説く際に、ウパニシャッドや他のヒンドゥー教の聖典の広範囲から引用を行った。更に、サーンキヤ学派や仏教に似た考え方を持つ一派の批判に対する反駁...
  • トロープ説
    概説 心の哲学におけるトロープ説 概説 トロープ(Trope)とは現代の分析形而上学における用語で、個物の個別的性質のことである。個別的属性とも呼ばれる。 たとえば赤い郵便ポストの前に赤い車が停まっているとする。その場合「赤」という普遍的性質が、郵便ポストと車に個別化して存在しているものが「赤」のトロープである。 個物とトロープの関係は「全体」と「部分」の関係の一種であり、トロープは全体の構成要素である。ただし個物なしでは存在できない「依存的存在者」である点が、通常の全体と部分の関係と異なる。丸いボールの「丸」のトロープの場合、個物であるボールが消えると同時に「丸」のトロープも消える。 普遍とトロープの関係は、「タイプ」と「トークン」の関係に似ている。しかしトークンとは普遍的な性質の実例であるのに対し、トロープとは普遍的な性質がある場所と時間において個別化し...
  • デイヴィッド・チャーマーズ
    概説 意味の一次内包と二次内包 構造的コヒーレンスの原則 構成不変の原則 情報の二相説 汎経験説 補足 概説 デイビッド・ジョン・チャーマーズ (David John Chalmers、1966年4月20日 - )はオーストラリアの哲学者。1982年、高校生のとき数学オリンピックで銅メダルを獲得する。インディアナ大学で哲学・認知科学のPh.Dを取得。2006年現在オーストラリア国立大学の哲学教授であり、同校の意識研究センターのディレクターを務めている。心の哲学において意識のハードプロブレムをはじめ多くの問題提起をし、この分野における指導的な人物の一人となっている。 チャーマーズはクオリアと呼ばれる内面的な心的体験を、実体(英 entity)的に捉え、質量やエネルギーなどと並ぶ基礎的な物理量のひとつとして扱い、その振る舞いを記述する新しい物理学を構築すべきだと主張する。そして...
  • 非法則一元論
    非法則一元論とは、心の哲学における物理主義的な立場のひとつ。ドナルド・デイヴィッドソンにより主張された。「非法則的」とは「法則論的」の逆の意味であり、心的出来事に法則が当てはまらないとすることで「非法則的」であるが、心的出来事が物理現象(脳の状態)と同一であるとすることで「一元論」である。 非法則一元論は、物理主義でありながら、心的なものを物質的なものに還元できないと考える。このようなタイプの物理主義を「非還元的物理主義」という。心的性質を物理的性質と同等のものとみなすため、非還元的物理主義は物理主義的一元論を自称していても性質二元論の一種とみなされることもある。 デイヴィッドソンは、心身の関係には以下の三つの原理があるとする。 (1)因果的相互作用の原理――心身の(限定的な)相互作用 (2)因果性の法則論的性格――出来事の原因と結果の厳密な法則性 (3)心的な...
  • 表象主義
    概説 志向性と表象 機能主義と表象主義の関係 批判 概説 表象主義(Representationalism)とは、人が何かを知覚した場合、その知覚は実在する対象を表すイメージだと考える哲学的立場である。たとえばテーブルを見た場合、光がテーブルという物体に反射して人の視覚で捉えられ、テーブルの知覚像が作られると考える。 近代では心身二元論の立場から、知覚像は物質からもたらされるという表象主義が主張されてきたが、この立場には知覚因果のメカニズムが解き難いという問題が指摘されてきた。 表象主義は近代哲学と現代の分析哲学では大きく異なっている。分析哲学では「表象理論」と呼ばれることが多い。近代哲学では物質的対象に属するのは質量や延長量(一時性質)のみとされていたが、分析哲学の表象理論では色や音や味(二次性質)も物質的対象に属すると考える。 以降は分析哲学での表象主義...
  • 唯心論
    概説 仏教の唯識論との違い 概説 唯心論(spiritualism; idealism)とは観念論の一種で、物質的なものは実在ではないと考え、心的なものだけが実在であるとする哲学の立場。その反対が唯物論である。類似の思想的立場に現象主義があるが、現象主義は経験主義から出発し、実在や神など人が経験できないものは不可知であるとするのが大きな違いである。 歴史的には三世紀頃、新プラトン主義の哲学者プロティノスが唯心論的な形而上学を残している。プロティノスの思想はプラトンのイデア論を受け継ぎながら、その二元論を克服しようとしたものである。 プラトンの『パルメニデス』に説かれた「一なるもの」(to hen)を重視し、これを神と同一視した。 彼によると、唯一にして無限の宇宙的意識である「一者」が存在し、万物(霊魂、物質)は「一者」から流出したヌース(理性)の働きによるものである(流出説...
  • 動物の心
    (以下は管理者の見解) 動物にも何がしか「心」のようなものがあるというのは大半の動物学者が認めていることである。根拠のひとつは振る舞いが人間と似ているということである。動物には自分の心の状態を報告する人間的な言語を持たないが、猫でも石が当たって怪我をすれば人間のように痛みを感じているよう振る舞って泣き声を上げる。もうひとつの根拠は人間同様に目、耳、鼻といった感覚器官をもち、神経構造もまた人間と似ているということである。特に哺乳類の場合は人間と類似した構造の脳――意識活動に十分と推定できる脳細胞を持っている。それらから動物にも心のようなものがあると類推することができる。 成長したチンパンジーの知能は一般的に人間の三歳児ぐらいといわれる(科学的な根拠は不明)。人間の一、二歳児に心があると認めるならチンパンジーに心がないと考えることの方が難しいだろう。しかし動物にも心があると仮...
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