実体

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  • 実体
    概説 実体概念の誕生と変遷エレア派 デモクリトス プラトン アリストテレス スピノザ ライプニッツ ヘーゲル 仏教 (管理者がWikipediaの文を加筆修正) 概説 実体とは、哲学用語で真に実在するものの意。性質や様態のように何かに属していたり、何かによって構成されているようなものではなく、「真に在るもの」を指していう。その様々な特性が、属性と呼ばれる。 ギリシア哲学におけるアルケー、またはウーシアとその同義語としてのヒュポスタシスに由来し、「本質」および「実在」とは語源的にも哲学的にも深い関連を有する。 実体概念の誕生と変遷 エレア派 実体の概念はエレア派の存在についての思考に負うところが大きい。エレア派は物事を考える上で誰しも前提にせざるを得ない同一律、矛盾律を厳密に突き詰めれば、生成変化は有り得ないとと考えた。 パルメニデスはいう「事物は在...
  • 実体二元論
    実体二元論とは 実体二元論の利点と問題 エネルギー保存則の問題 概念上の批判 発展可能性 実体二元論とは 実体二元論(英:Substance dualism)とは心身問題に関する形而上学的な立場のひとつで、心的なものと物質的なものはそれぞれ独立した実体であるとし、またその心的な現象を担う主体として「魂」のようなものの存在を前提とする説である。代表的な論者はルネ・デカルトである。 実体二元論と対置される性質二元論では、精神と脳の状態を同一の実体の両面と見ている。この考えでは脳が作用を停止すれば精神現象は消滅する。しかし実体二元論の立場では、脳が作用を停止しても精神現象を担っていた主体である「魂」は存在し続けることになる。また性質二元論では、心的なものと物質的なものは相互作用しないと考えるが、実体二元論の一種の相互作用二元論では、心的なものと物質的なものは相互作用すると考える。...
  • 性質二元論
    ...、この世界に存在する実体(physical substance)は一種類だが、それは心的な性質(mental property)と物理的な性質(physical property)という二つの性質を持っているという考え。中立一元論と類似の概念である。なお Property Dualism は特性二元論、、特徴二元論、属性二元論などとも訳される。 同じ二元論に分類される実体二元論は、物理的実体とは別に、心的実体を置く。それに対し性質二元論は、クオリアなどの心的現象と脳の物理的現象はある一つの実体の二側面であると考える。したがって性質二元論は、存在論的には一元論を前提にしている。歴史的に初めてこの考えを主張したのはスピノザである。 性質二元論の構図 物理的性質と心的性質という二つの異なる性質に関して、一方を他方に還元することができないと考える。この点で物理主義全般...
  • スピノザ
    ...はヘーゲルがスピノザ実体概念を自分の絶対的な主体へ発展させている。またスピノザの思想は無神論ではなく、むしろ神のみが存在すると主張する無世界論(Akosmismus)であると評している。 スピノザの形而上学の中核は「実体」概念であり、それはアリストテレスからスコラ学者を経てデカルトへ受け継がれてきた実体概念の影響を受けている。スピノザは主著『エチカ』において実体とそれに関連する概念を以下のように定義している。 「実体」とは、それ自身の内にありかつそれ自身によって考えられるもの、言い換えればその概念を形成するのに他の概念を必要としないもの、と解する。(定義3) 「属性」とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。(定義4) 「様態」とは、実体の変状、すなわち他のものの内にありかつ他のものによって考えられるもの、と解する。(定義5) ...
  • 一元論
    ...一の、または一種類の実体だけが存在するという考え方である。 一元論という語は、心身問題において主張されていた様々な説を分類するため十八世紀にヴォルフ(Wolff)によって作られた。その後適用範囲が拡大され、形而上学だけでなく認識論や倫理学の分野でも用いられている。 現代の心の哲学においては、心的なものだけが実在であるとする観念論的な一元論、物理的なものだけが実在であるとする物理主義的な一元論、そして心的なものと物理的なものはある種の実体の属性であるとする中立一元論の、三つの立場がある。いずれも心と体が存在論的に異なるものだという主張を認めない考え方であり、物理的なものと心的なものという二種類の実体があると説く実体二元論や、たくさんの実体があると説く多元論(pluralism)と区別されるが、これらの入り混じった思想も存在している。 一元論の種類 一元論には様々...
  • ジョージ・バークリー
    ...覚する精神と神のみを実体と認めた。なお彼の言う「観念」とは知覚、思考、意思など経験されるもの全てを含んでいる。その観念を疑いえない実体と認めたのは、それが「現に経験されている」からである。この彼の哲学は認識論におけるコペルニクス的転回といえる。パルメニデス以来の哲学者は、生成変化する現象世界の「変化」という矛盾を解消するため、変化する感覚と不滅の実体を区別し、感覚は信頼できないものとしていたからだ。バークリーはその伝統的な認識論を覆したのである。しかしこのような極端な説は受け入れられ難いだろうと考えた彼は、『知覚新論』をまず発表して人々をある程度彼の考えに慣らし、続いて彼の哲学の核心である『人知原理論』を発表するという手順をとった。にも関わらず彼の哲学は主観的観念論、独我論などと批判されたが、彼の現象主義という方法論は後のデイヴィッド・ヒューム、また近代の科学者エルンスト・マッハやウ...
  • ライプニッツ
    ...は時間と空間を一種の実体として見るものだったが、ライプニッツによれば、空間とは存在しているものたちの関係あるいは秩序であり、時間とは存在しているものたちの変化とその順序である。このライプニッツの論理からすると、もし宇宙に存在するものが一切なくなれば、時間も空間もないということになる。ライプニッツは微分法の創始者でもあり、無限分割に関するゼノンのパラドックスは、時間と空間を関係ではなく実体と見なすことから生じるとしている。 オプティミズム(最善観) 現代の分析哲学においてしばしば用いられる「可能世界論」は、可能性と現実性についてのライプニッツの主張から始まっている。ライプニッツは我々のこの世界を最善の世界であるとしたのは、神がそうなるように選択したからという根拠に基づくものだった。しかし可能性においては、神はこの世界とは違った世界を作ることもできたはずであるが、「現実」に神が創...
  • 二元論
    ...間的であるゆえ異なる実体だとした。これが実体二元論(Substance dualism)である。そして機械論的な存在である物質的肉体と、自由意志をもつ精神(魂)を対置し、両者は相互作用すると考えた。なお彼の哲学では各個人がそれぞれ「魂」のような「主体」を有していることが前提になっており、精神現象を魂の作用と見る点で後述の性質二元論とは存在論的に全く異なっている。 実体二元論と対比させられるのが性質二元論(Property dualism)である。性質二元論では魂のような主体は前提されず、かつ心的な性質は物理的な性質と相互作用せず、両者は同一の実体の両面であると考える。つまり心的性質を脳の物理状態に還元することはできないものとみるが、かといって脳と独立して存在する別の実体であるとは考えない。性質二元論は精神と脳の状態を同一の実体の両面と見ているため、存在論的には一元論の範疇に入...
  • 現象
    ...現象をもたらす普遍的実体があることを想定する観念論的立場。プラトン、プロチノス、J.ヘルバルト、R.ロッツェなどに代表される。 (2) 現象界を叡智界から区別し、現象をもたらす実在・本体 (noumenon)を想定し、それがわれわれの意識に現象をもたらしていると考える立場。イマヌエル・カントは「物自体」を想定し、人間には物自体は認識不可能であり、認識可能なのは現象界だけだと考えた(不可知論)。 (3)実体や物自体の存在を認めず、現象の認識だけを認める立場で、現象主義と呼ばれる。経験主義と実証主義の方法を進めた思考型である。ジョージ・バークリー、デイヴィッド・ヒューム、エルンスト・マッハ、A.J.エイヤー、大森荘蔵などに代表される。現代でも論理実証主義や操作主義(operationalism)でその方法論が用いられている。 哲学の歴史では、紀元前のパルメニデス...
  • 実在
    ...にあるとされる不変の実体を意味する場合もある。しかし現象主義の立場では夢や現実に関わりなく認識される現象のみが実在であると考え、現象の背後にある世界は不可知である、または想定することをナンセンスであると考える。逆に現象背後の存在を認める立場が実在論となる。 なお「実在する具体的な何か」を実体とする場合もあり、実在と実体の概念は不可分の関係にある。 入不二基義によると、哲学的な実在の定義にはおよそ以下のようなものがある。 (1)本物性:みかけ(仮象)ではない「ほんとうのもの」であるという意味。 (2)独立性:心の働きに依存せず、それ自体で独立して存在するものという意味。 (3)全体性:ひとつの全体として存在し、部分から成り立っているのではない。 (4)矛盾を含まない整合的なものであるという意味。 永井均によると、哲学で使う実在という言葉には、けっして知る...
  • カテゴリー錯誤
    ...はデカルトを批判し、実体二元論を日常言語の誤用によって生み出された幻想だとする。カテゴリー錯誤という概念は、デカルト主義的な形而上学によって生まれた心の本質についての混乱を取り除くために用いられる。心身を分離し、身体を機械的なものとみなし、その身体に魂が宿るとするデカルト的な実体二元論を、ライルは「機械の中の幽霊」のドグマと批判した。 心の働きは身体の動きと切り離せず、心身は不可分である。実体という術語で心身を定義しようとするのは、ライルにとってはカテゴリー錯誤なのである。 あらゆる論述の誤りは、ある文をそれが属していないクラスに帰属させることであるから、すべての誤りはカテゴリー錯誤であると言える。しかし哲学的な意味でのカテゴリー錯誤は、最も厳密な形態の帰属の誤り、すなわち論理的に不可能なものを是認することである。例えば「海のビジネスは黄色い」という文章は統語論的に正...
  • 廣松渉
    ...り離して変数を独立の実体として捉えるところから、いわゆる「物象化的錯視」が生じるとする。「物象化 Verdinglichung」 という概念はマルクスに由来する。廣松哲学の立場からすれば、西欧哲学の基本概念である「個物」「普遍」「自我」「超越的主観」などはすべてこの物象化的錯視の所産ということになる。 心身問題 廣松は基本的にはマルクス主義を擁護しながらも、マルクス/エンゲルスの唯物論では心身問題の解決が困難であることを指摘しており、また廣松自身も「唯物論者」と呼ばれることは侮蔑と捉えていた。そして脳の作用が心的現象を産出するという唯物論の基本的セオリーを、唯心論とは同根で表裏の、一種の「オカルト」に等しいとみなしていた。 廣松はエンゲルスの、「人は将来、意識現象の本質は脳髄の分子運動に還元するであろう。だが、果たして、意識現象の本質は脳髄の分子運動ということで尽く...
  • ルネ・デカルト
    ...身体(延長)を二つの実体と考えて実体二元論を主張した。 デカルトの哲学は「精神」と「延長」である身体を分けるものであり、そしてその延長に対する機械論的世界観という側面がある。これは当時支配的だった神学的な世界観に対し、力学的な法則の支配する客観的世界観を展開したもので、ガリレオやニュートンと並んで近代科学の発展に重要な貢献をしている。デカルトは動いている物体は抵抗がない限り動き続けること(慣性の法則)、一定の運動量が宇宙全体で保存されること(運動量保存則)などをいち早く主張していた。 レナトゥス・カルテシウス(Renatus Cartesius)というラテン語名から、デカルト主義者はカルテジアン(仏 Carte sien; 英 Cartesian)と呼ばれる。 心身二元論 「我思う、ゆえに我あり」という結論からは、必然的に「その〈我〉とは何か」という問いが...
  • 心の哲学全般
    ...元不可能とする立場(実体二元論、性質二元論、中立一元論)に大別されることもある。 心の哲学の主要な説を分類すると以下のようになる。 ■二元論 ├実体二元論 | ├相互作用二元論 | ├予定調和説 | └機会原因論 ├性質二元論 | ├心身並行説 | ├自然主義的二元論 | └トロープ説 ├随伴現象説 └新神秘主義  └認知的閉鎖 ■一元論 ├物理主義 | ├行動主義 | ├心脳同一説 | ├機能主義 | ├表象主義 | ├非法則一元論 | └消去主義的唯物論 ├観念論 |└唯心論 ├現象主義 | └重ね描き ├中立一元論 └汎神論・汎心論 一元論対二元論の概念図(英Wikipediaより引用) 図の Cartesian Duality はデカルトの実体二元論を意味する。Physicalism は物理...
  • 汎神論
    ...いては神だけが唯一の実体であり、その実体は「意識」と、デカルトが延長と呼んだ「大きさ」をもつとされる。もちろん我々人間の意識も神の一部なのである。この世界を広がりを持つものとして考えれば「自然」と呼ぶことになり、意識を持つものとして考えれば「神」と呼ぶのが相応しい。「神」と「自然」という言葉は、心的な特徴と物理的な特徴を併せ持つ単一の実体を指す二つの用語なのである。 汎神論論争 汎神論論争(独 Pantheismusstreit)とは、18世紀後半にドイツで起きたスピノザの哲学をどう受け入れるかという一連の論争のことを言う。したがって、この出来事をスピノザ論争ともいう。 スピノザの「神即自然」(deus sive natura)という思想は、当時のキリスト教から無神論とみなされ、主著『エチカ』(Ethica)は、長い間人々の目に触れることはなかった。キリスト教が定義...
  • 中立一元論
    ...うものは、ある一つの実体、または出来事の、二つの性質のことだとする理論である。性質二元論はほぼ同じ立場である。 中立一元論は物質的なものと心的なものが実在するとする実体二元論と対立する。また存在論的には一元論であるが、物理的なものだけが存在するとする物理主義や、心的なものだけが存在するという唯心論と対立しつつ、その両者の中間的位置を取る。バートランド・ラッセル、ウィリアム・ジェイムズ、ピーター・ストローソンがこの立場である。デイヴィッド・チャーマーズの自然主義的二元論は中立一元論の一種である。スピノザは汎神論的な一元論者であるが、心身問題に関しては中立一元論といえる。 中立一元論は、心的なものについての説明が困難な物理主義の欠点と、物理的なものの実在性と対立している観念論の欠点を、それぞれ回避しているという点で支持する者が多い理論である。 しかし現代の物理主義...
  • ヘーゲル
    ...こそが、主観的で心的実体としての自己と、客観的で物理的実体としての自然、という見かけの分裂を生じさせるのである。また反省作用によって主観と客観という二つのものが存在するよう思えるのである。 ヘーゲルにとって反省作用は自己意識の構造のひとつである。「ほとんどの場合、自己や主観、観察している自分は意識に現れない」と彼はいう。自己意識という作用が働いている間だけ「自己」は現れるのである。それを前提に、二元論は自己意識に依存していると考える。また反省から生まれた心身二元論は、幻想とであるという。 ヘーゲルは心的なものと物理的なものがいかにして相互作用するかを説明するのは誤りだと考える。ひとたび心身二元論を認めてしまえば、相互作用の説明は不可能なのである。よって二つの実体が存在するのを否定する。二元論の誤りは心を一種の「物」として考えたことにある。こうした考えに至らせた作用が反...
  • カルテジアン劇場
    ...は身体に還元できない実体であるとする実体二元論は、意識の説明について無限後退に陥るという批判である。 カルテジアンとは「デカルトの」という意味の英語で、他にデカルト劇場、デカルトの劇場とも呼ばれる。デネットの1991年の著作『解明される意識』(Consciousness Explained) のなかで詳細が述べられている。 ホムンクルス、すなわち「意識する私」という中央本部のようなものを、脳の特定部位に発見できるとする考えを、デネットはギルバート・ライルに倣ってカテゴリー・ミステイクであるとする。脳は情報を空間的・時間的に分散されたかたちで処理しながら意識を生産するので、脳の特定の部位を選び出して、特権的な意識の座と見做すことはできないのである。 デネットは意識をつかさどる中央処理装置、カルテジアン劇場のような存在を否定し、それに代わるものとして意識の「多元的...
  • パルメニデス
    ...に存在するもの」が「実体」である。すなわちパルメニデスは感覚よりも理性に信を置いて、真に存在するものは不変だと考えた。このことから感覚より理性を信じる合理主義の祖であると考えられている。 パルメニデス以降の哲学者は「ある」もの、つまり「不滅の実体」という概念を継承し、生成変化する現象と不滅の実体とをどのように調和させるか腐心することになる。 パルメニデスの実体概念を「無からは何も生じない」と、限定的に解釈して変化を認めたのがエンペドクレス、アナクサゴラス、また原子論を主張したレウキッボス、デモクリトス、そしてイデアや形相を想定したプラトンやアリストテレスなどである。彼らの主張は、絶対的な「ない」から「ある」に変化するというのでなく、見かけの変化の根底に不変の実体があるとするものである。これが今日まで議論が続くことになる実在論の源流である。 アナクサゴラスは、「...
  • バートランド・ラッセル
    ...的なもの」はいずれも実体ではなく、両者はともに根源的な要素である「センシビリア」からなると考えていた。これは中立一元論というより汎心論に近い説である。センシビリアが主観によって感覚されたものが「センスデータ(感覚与件)」であり、「机」や「猫」など個物として認識されるあらゆるもの、またその個物を認識しているとする「私」という自我さえも、このセンスデータから論理的に構成されたものだと考えた。この「感覚与件論」と呼ばれる立場は後の論理実証主義に採用されることになる。 そして『外界の知識』(1926年)でラッセルは、センスデータという概念には「主観に対する客観」の意味があるため、これを放棄する。しかし論理的原子論の立場は維持し、センスデータに代わってラッセルが採用したのが、ホワイトヘッドの「出来事」の概念というわけである。この時期、ラッセルは中立一元論の立場を明確にする。 出...
  • 相互作用二元論
    ...因果の問題において、実体二元論を前提にして、現象的意識やクオリアといった心的なものが、脳という物理的なものと相互作用すると考える立場である。 歴史上この考えを最初に主張したのは、ルネ・デカルトであり、著書Meditationsにおいて相互作用二元論の考えを明確にした。彼においては心的現象が物理現象に作用するとする根拠は極めて明快で、「自分の意思で手が動く」というようなものであった。 20世紀以後においては、物理領域の因果的閉包性が主張されているため、また心的なものと物理的な脳との相互作用のメカニズムが解き難いという問題があるため、相互作用二元論を擁護する論者は非常に少ない。しかし有名な論者としてカール・ポパー、ジョン・エックルスなどがおり、物理学的には量子脳理論が脳と心の因果作用の可能性を示唆している。 ※ポパーとエックルスについては以下のサイトが詳しい。 ...
  • 予定調和説
    ...この宇宙には究極的な実体であるモナドだけが存在すると考える点では一元論者であり、そのモナドには一つとして同じものが無く、それぞれパースペクティブを異にする存在であるとした点では多元論者である。彼は世界の全てはモナドに還元できると考えていたが、原子論とは異なり、モナド同士が相互に影響を及ぼすことはなく、モナドは他のモナドに影響を及ぼしているように見えるような方法で神によって作成されたと考えた。これを「予定調和 (pre-established harmony)」の原理という。ライプニッツによれば、宇宙全体はその内にある神によって最善の状態で作成された予定調和である。これを「最善説(optimism)」という。
  • 因果的閉包性
    ...デカルトに代表される実体二元論では、物的なものと心的なものという異なる実体がこの世に存在すると考えた。そしてこの両者は何らかの形で相互作用するとした。しかし科学が発展するに従って、それまで神秘的とされていた物事も科学的に説明されるようになり、特に20世紀後半から急速に発展した神経科学の研究によって、脳においてもやはりその振る舞いを原子や分子の機械的な挙動の結果として説明することが可能になり、物理現象は因果的に閉じているに違いないという考えが支配的になった。そして心的な性質として理解されていた様々な人間の行動も、物理的な脳の作用から説明されることが一般的になり、人間を一種の自動機械(オートマトン)として捉える考え方が強まり、心的なものは全て物理的なものに還元できるに違いないという還元主義一時隆盛を極めることとなる。 しかしその後、心的な性質のうち現象的意識やクオリアなどの主観的...
  • 心身並行説
    ...、彼は心と体は同一の実体の二つの側面であると考えた。マルブランシュの機会原因論も類似の考えである。 対比される考え方として、心的なものと物的なものがお互いに影響を及ぼしあっているという相互作用二元論、そして心的なものは物的なものに完全に付随して生まれているという随伴現象説がある。 スピノザの心身並行説は、現代の心の哲学においては心的現象と物理的現象とを同じ存在の二つの側面とする「二面説(二重側面説)」として議論の対象になっている。 参考文献 小林道夫『科学の世界と心の哲学』中公新書 2009年 参考サイト http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E8%BA%AB%E4%B8%A6%E8%A1%8C%E8%AA%AC http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E...
  • 現象判断のパラドックス
    ...うことになる。つまり実体をある面から見れば現象的(クオリア)、別の面から見れば物理的だとみなすもので、クオリアを非還元的なものとしながらも物理領域の因果的閉包性の原理と相克せず、現象報告のパラドックスは存在しないということになる。脳は現象的意識と相互作用することでそれについて語っているのではなく、気づき(アウェアネス)を伴う特定の機能的状態に対しては、現象意識が自然に伴う(意識と認知のコヒーレンス)ということである。このチャーマーズの立場は、唯物論でいう「物質」の概念に心的な性質を加えただけのものであり、唯物論の一種とも受け取れる。そのためチャーマーズの立場は非還元的機能主義とも呼ばれる。 なお実体二元論の立場には、物理領域は因果的に閉じていないと考える論者もおり、彼らにとってもこのパラドックスは存在しないということになる。 このパラドックスが最も問題になるのは随伴現...
  • シャンカラ
    ...現実)はブラフマン(実体)から生じたマーヤー(幻影)にすぎないとし、真我と梵は絶対的に同一であるとする考え。シャンカラによって提唱された。 多様な現象世界や、多数存在するよう見える自我は、唯一のブラフマンと本質的には同一であり、ブラフマンから生じた現象であってマーヤー(幻影)にすぎない。マーヤーに過ぎないさまざまなものに固執することが罪であり、それを無明という。 シャンカラのこの思想は仏教の類似性が指摘される。
  • 意識の統一性
    ...性を成立させる単一の実体(デカルト的なエゴ)を想定する。この理論によれば未来の或る人物は「私」であるか「私」でないかのいずれかだということになる。これを全か無(all or nothing)の要件と呼ぶ。これは素朴心理学的な理論である。 単一理論と反対の立場が複合理論(Bundle Theory)である。これはヒュームのように「私」を複数の性質の束と考えるものである。ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解できると考えた。パーフィットはヒュームの考えを継承しているのである。彼らによれば「私」とは「国家」のようなものであり、エゴという単一の実体ではなく複数の意識要素の集合だということになるので、全か無の要件は否定される。 意識の統一性の観点からすると、パーフィットとヒュームの理論は誤謬であると思える。個別の感覚は単に束の...
  • 心身問題
    ...』(1649年)にて実体二元論を主張したことが大きな転換点となり、デカルトの二元論に対する応答として、心身問題についての様々な立場の原型が近代においてほぼ案出されることになる。 その後19世紀末から後20世紀前半は、科学技術と神経生理学の発展によって、心と身体の関係は科学によって解明されるという物理主義の立場が支配的となり、心身問題についての哲学的議論は停滞することになる。しかし20世紀後半から英語圏諸国の分析哲学において、「可能世界論」や「思考可能性論法」など、さまざまな概念や思考実験が登場したことによって、心の哲学の議論は劇的に変貌し、進展することになる。現代における心の哲学は、その英語圏の哲学を中心に議論されている。 現代の心身問題は、認知科学・神経科学・理論物理学・コンピューターサイエンスといった科学的な知識を前提とした形で語られることが多い。英語圏の大半の学...
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    ... ■二元論 ├実体二元論 | ├相互作用二元論 | ├予定調和説 | └機会原因論 ├性質二元論 | ├心身並行説 | ├自然主義的二元論 | └トロープ説 ├随伴現象説 └新神秘主義  └認知的閉鎖 ■一元論 ├物理主義 | ├行動主義 | ├心脳同一説 | ├機能主義 | ├表象主義 | ├非法則一元論 | └消去主義的唯物論 ├観念論 |└唯心論 ├現象主義 | └重ね描き ├中立一元論 └汎神論・汎心論 ■思考実験 ├中国語の部屋 ├中国人民 ├逆転クオリア ├水槽の脳 ├スワンプマン ├テセウスの船 ├哲学的ゾンビ ├コウモリの視点 ├カルテジアン劇場 └マリーの部屋 ■心の哲学の問題 ├現象的意識 |├現象 |├表象 |├クオリア |└還元・創発・汎経験説 ├自己 ...
  • デイヴィッド・ヒューム
    概説 知覚――印象と観念 因果関係論 実体 自我の否定 ヒュームの観念論と自然科学の関係 派生問題――知覚の同一性と意識の連続性 概説 デイヴィッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)は、スコットランド・エディンバラ出身の、英国経験論を代表する哲学者。スコットランド啓蒙の代表的存在とされる。ジョージ・バークリーの観念論と現象主義を継承して発展させ、自我さえも「感覚の束」であるとしてその実在性を否定した。この自我論は後に無主体論とも呼ばれ、現代の心の哲学では主流の立場になる。 ヒュームは懐疑主義を徹底し、それまでの哲学が自明としていた知の成立過程の源泉を問い、それまで無条件に信頼されていた因果律を、論理的なものでなく連想の産物であると見なし、数学を唯一確実な学問とした。また科学哲学においては自然の斉一性仮説を提唱した。 知覚――印象と観念 ヒューム...
  • 実在論論争
    ...とし、感覚を超越した実体を措定したことから始まる。パルメニデス以降の哲学者の多くはこの「不滅の実体」という概念を継承し、生成変化する現象と不滅の実体とをどのように調和させるか考究することになる。彼らの主張は、絶対的な「無い」から「有る」に変化するというのでなく、見かけの変化の根底に不変の基体があるとするものであり、プラトンの場合それはイデア論として主張されて後の普遍論争の一方の立場になり、レウキッボスやデモクリトスの場合それは原子論として主張されて、これが近代・現代まで続く唯物論的な実在論の源流となる。 中世の普遍論争における実在論論争では、個物を超越した普遍概念、つまり「普遍者(イデア)」が実在するか否かを巡る論争であった。しかし17世紀に入り、ルネ・デカルトの方法的懐疑を受けて以降は世界の実在を巡る論争が中心になる。デカルトは「疑いようのないものだけを受け入れる」という方...
  • 自己
    ...学においては観念論や実体二元論がこの立場である。素朴心理学的な考えであり、自己を継起する知覚や持続的な意識を担う「主体」としての存在とみなす。古くは「魂」が自己というものの本質であると考えられてきた。現代の哲学者でこの立場を取る者は少ないが、英国のリチャード・スウィンバーンは魂の存在を主張している。また日本では永井均が〈私〉という用語で、自己が個別の肉体や精神に還元できないものとして存在する、との主張を行っている。 2、還元主義 自己とは、他の何かから成り立っている概念であるとする立場である。心の哲学においては物理主義や性質二元論がこの立場である。歴史的にはインド哲学の梵我一如がこの立場に近い。近代哲学において最も明確な形で自己の実在を否定したのはデイヴィッド・ヒュームであり、彼は自己とは知覚の束であると考えた。この種の立場を進めると究極的には、昨日の「私」と今日の「私」は...
  • 自然主義的二元論
    ...う言葉でデカルト的な実体二元論の否定を表す。つまり霊や魂といった超自然(Supernatural)的な概念を用いず、意識の問題に自然主義的、科学的な説明を与えるべきだ、という立場を表す。デカルト的な二元論との違いを強調するため「特性二元論」という場合もある。これは、宇宙には物理特性と意識特性の二つがあるという意味である。 自然主義的二元論と、物理主義との立場との対立は、現象的意識やクオリアに対して存在論的ギャップ――つまり心的現象は存在論的に物理現象とは異質なものだということを認めるか否か、という点に関する立場の違いとして理解できる。つまり二元論的立場は物理状態と現象的意識の間に存在論的ギャップを認めるが、物理主義的立場はそうしたギャップは認めない。 参考文献 デイヴィッド・J. チャーマーズ『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』林一 訳 白揚社 2001年 ...
  • ジョン・サール
    ...きないように、意識は実体や素材ではなく、消化や光合成や呼吸と同様、「脳の特性」としての生命現象なのである。 そして生物学的自然主義は、心的状態の生物学的な特徴を重視し、唯物論と二元論をともに退ける。意識は因果的には還元可能であるが、存在論的には還元不可能であると考え、「心的なものを物理的なものに還元可能か」という問題は重要な区別――因果的な還元/存在論的な還元――の区別が適切になされていない擬似問題であるという。 意識の生物学的自然主義は、以下の四つのテーゼで述べられる。 1、意識状態――主観的体験、クオリアは現実世界における現実の現象であり、錯覚ではない。また意識は神経生物学的な基盤にも還元できない。そのような三人称的な還元は意識の一人称的な存在論を切り捨ててしまうからだ。 2、意識状態はもっぱら脳内における低レベルの神経生物学的な過程によって引き...
  • 心的因果
    ...デカルトであり、彼は実体二元論を前提にして、心的現象と物理的現象は相互に作用しあうとする相互作用二元論を主張した。 現代の脳科学では、心的現象は脳の作用から生じると考えるが、物理領域の因果的閉包性の原理を前提に、その脳から生じた心的現象が、逆に脳に作用するということを認めることができない。従って一部の哲学者は、心的なものは脳の作用にただ随伴して生じるのみであるとする随伴現象説を主張する。 しかし随伴現象説は直感に反しているよう思われる。一般の人が前提にしている素朴心理学的な立場では、心的因果は当たり前の現象である。誰しも歩きたいと心で思ったら体は歩くのであり、歩き始めてから歩きたいと思うのではないからだ。 もし意識現象が物理的なものではないとするなら、意識が体を動かすことを説明することは困難である。従って物理主義の立場からは意識現象を物理現象に還元する心脳同一...
  • 知覚因果説
    ... かつて知覚因果説は実体二元論と唯物論(物理主義)の立場から主張されていた。しかし現代のほとんどの心の哲学者は、性質二元論の立場でも科学的実在論を前提としているので、知覚因果説を採用していることになる。 知覚因果説では、知覚というものを認識主体と認識対象の相互作用として考える。この場合の認識主体とは自我ではなく、感覚器官と、その器官から受け取った情報を処理する脳という身体全体を指す。なおイマヌエル・カントのように物自体に加えて自我を想定する場合は、知覚というものを認識主体、認識対象、認識作用の三つの相互作用によって理解することになる。 知覚因果説は19世紀後半からの生物学や神経科学の発展を受けて主張された。感覚器官や脳に損傷があれば知覚に障害が生じることが解明され、神経および脳と知覚との因果関係は明白だと受け止められた。従って人の感覚器官が外界の対象からの情報を受け取...
  • 観念論
    ...である。よって二つの実体が存在するのを否定する。「物質的なものと非物質的なものとの区別は、根本的な両者の統一をもとにしてはじめて説明しうる(『精神の哲学』)」という。これは異なった性質の心身が実は一つの実体の二側面だという中立一元論的な考えである。ヘーゲルにとってその根本的な実在は精神的なものである。バークリーの唯心論との違いは、心的なものと物理的なものが精神という新たな綜合において存在しているという見方であり、これがヘーゲルの「絶対的観念論」である。 イギリスの観念論 ジョン・ロックは、対象を知り理解するという我々の認識作用の一切を、経験によって得られた観念の結合によって説明する。たとえば、「この水は冷たい」という認識は、経験から得られた「この水」という単純観念と「冷たい」という単純観念とが結合したもの(複合観念)である。認識と単純観念や複合観念との関係は、文章と文字や単語との関係...
  • ギルバート・ライル
    ...離れて存在する霊的な実体ではないのである。 またライルは、論理的行動主義の分析の対象外である「内観」という概念について、存在しないという立場である。「私が内観している、ということを知るために私が内観している、ということを知るために私が内観している……」と、内観とは無限後退に陥る概念であるという。そして内観から得た知識を強固なものだとするデカルトの考えを誤りとした。デカルトの二元論とコギトの概念について、自然が複雑な機械であり、人間本性が小さな機械だとすれば、人間の特性である知能や自発性が説明がつかないから、この小さな機械の中に幽霊がいるとしなくてはならなくなる、と述べ、「機械の中の幽霊」、「機械の中の幽霊のドグマ」と批判した。このようなライルの立場は無主体論といえる。 ライルの考えでは、「なぜ……なのか」という問いに対して、機械論的見地からのみ答えを探そうとすると、カ...
  • 梵我一如
    ...理。唯一不変の絶対的実体である。「ことば」を意味するサンスクリット語を語源とし、呪力をもつ「賛歌」「呪句」を表した。やがてそれらに内在する「神秘力」の意味で用いられるようになり、さらに、この力が宇宙を支配すると理解されて「宇宙を支配する原理」とされた。 インドのカースト制度の頂点に位置する司祭階級バラモンは、ブラフマンから派生した形容詞ブラーフマナを名詞にしたもの――「ブラフマンに属する(階級)」の意味である。ブラフミン( Brahmin )ともいう。 聖典ウパニシャッドによれば、このブラフマンとは、外界に存在する全ての物と全ての活動の背後にあって、究極で不変の実在である。それは純粋な存在と意識そのものであり、ある意味では「宇宙精神」とも呼べるものである。 ブラフマンは全ての物理現象、精神作用を超越しているから人智によって捉えることも表現することも不可能である...
  • クオリア
    ...論には心と身体は別の実体だと考える実体二元論と、同一の実体の二つの属性だと考える性質二元論がある。またクオリアと物理的な肉体との関係は人間には理解困難だとする新神秘主義という立場もある。 デイヴィッド・チャーマーズは脳とクオリアの関係についての問題を二つに分けた。物質としての脳はどうやって情報を処理しているのか、という神経科学的な問題を「意識のイージー・プロブレム」と定義し、そもそもクオリアとは一体何なのか? 物質としての脳作用から、どうやってクオリアが生まれるのか? という類の問題を「意識のハード・プロブレム」と定義した。 外在主義と内在主義 外在主義とは認識論において、人の知識や志向内容は行為者と世界(外在)との因果関係によって構成されるのであって、心(内在)的な性質ではないとする。この立場の哲学者にはヒラリー・パトナムがいる。対して内在主義では、私たちの知識や志...
  • 形而上学
    ...時空(四次元時空)を実体的なものとみなし、過去の物事も未来の物事も四次元の実体に永久的に存在するとみなす。したがって相対性理論が記述する「時間」は実在的なものとして認めるが、「変化」は実在しないとする。逆に動的宇宙論ではミンコフスキー時空を単なる記述の道具とし、時間と変化の双方の実在を認める。近年の分析形而上学では静的宇宙論を支持する論者が多い。これは相対性理論が静的宇宙論と親和的だからであり、かつ静的宇宙論はアンチノミーの問題を回避しているからである。 仮に静的宇宙論が正しければ因果関係は実在的ではないということになる。因果とは、何かを原因として結果としての何かが「生じる」という変化の実在を含意した概念だからだ。 仮に因果関係が実在的でないならば、それは心脳問題にも大きな影響を及ぼすことになる。心脳問題の課題はクオリアの位置づけである。多くの論者は特定のクオリアは特...
  • 随伴現象説
    ...は、ルネ・デカルトの実体二元論を解消しようとした18世紀の唯物論者、ラ・メトリーに随伴現象説の原型がある。そして19世紀後半から生物学と神経科学の発展により、唯物論と知覚因果説が支配的になるのを受け、T.H.ハクスリーが今日的な意味での随伴現象説を主張した。 19世紀以前は神秘的とされていた「心」の問題も、神経科学の発展で科学的に説明できるとする考えが広まり、世界の出来事全ては科学によって説明され、科学の説明以外の原因によってはどんな出来事も生じないとする「物理領域の因果的閉包性」が常識となっていく。しかし物質的な性質と心的な性質はあまりに異なる。物理的な性質とは全て数量化可能なものであり、心的な性質は数量化不可能なものである。従って現象的意識やクオリアは物理的な存在ではないとするなら、随伴現象という立場を選択する以外ないということになる。19世紀末から20世紀初頭では、心的...
  • 夢と現実と真実と
    ...体(ブロック宇宙)を実体とみなし、存在者は空間を占めるだけでなく時間的幅を持つと考えるので四次元主義と呼ばれる。この立場では実在世界の変化を認めず、過去・現在・未来の事物が全て四次元多様体内部に実在していると考える。人は過去・未来に痛みを感じることができず、幅の無い「今」にも痛みは無いというなら、痛みの場所として四次元時空を考えるしかない。つまり永久主義を選択するしかないと私は考えたのである。 しかしここで新たな問題が生じるのだった。クオリアとは常に変化しているように思える。そして変化があるなら時間もあるはずである。永久と変化は相克する概念である。永久主義の立場を選択した場合、現に変化している(と思われる)知覚現象と、変化の実在を否定する理論とのギャップが大きな問題となる。この問題こそが前章で私が行き詰ったものである。 次節にて、改めて「変化」について論考してみたい。...
  • 汎心論
    ...トが心身問題について実体二元論を主張したのは、物理的な身体が空間を占める「延長」であるのに対し、精神は空間上に位置を規定できないという根本的な性質の相違があったためである。汎経験説および原意識という概念は、空間的・数的に分割可能な物理的なものを分析する手法をそのまま精神現象に用いており、本質的に空間的でない精神現象をその手法で分析するのはカテゴリー錯誤であるかもしれない。 参考文献 ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか?』寺町朋子 訳 早川書房 2013年 参考サイト http //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E5%BF%83%E8%AB%96
  • 現象的意識の非論理性
    ...現象世界を超越した「実体」の概念を措定した。パルメニデス以降の哲学者はこの「不滅の実体」という概念を継承し、生成変化する現象と不滅の実体とをどのように調和させるか腐心することになる。彼らのアイデアは、絶対的な「ない」から「ある」に変化するというのでなく、見かけの変化の根底に不変の基体があるとするものだった。プラトンの場合それはイデア論であり、後の普遍論争の一方の立場になった。レウキッボスやデモクリトスの場合それは原子論であり、近代・現代まで続く唯物論的の源泉となった。 私は「人格の同一性」において変化と同一性の問題を論じた。この問題は意識の現象的側面、つまりクオリアにおいても根源的な問題なので、ここで再論したい。 ・変化の論理的不可能性 変化とは果たして論理的に不可能なのかを改めて考える必要があるだろう。まず「無からは何も生じない」というのは世界の根本原理である。物...
  • ドナルド・デイヴィッドソン
    ...いとするデカルト的な実体二元論を「非法則的二元論」と呼ぶ。また心的出来事と物理的出来事は何らかの仕方で相関しているとする相互作用二元論については「法則論的二元論」と呼んでいる。 デイヴィッドソンは心的なものが物理的に依存している状態を「付随性(スーパーヴィーニエンス)」と呼ぶ。心的状態は物理的状態に付随するが、物理的状態に還元可能ではないとする。 出来事 デイヴィッドソンの心の哲学と行為論においては、「出来事」の概念が中心的な役割を果たす。これはバートランド・ラッセルの哲学における「出来事」と類似の概念である。デイヴィッドソンにとって存在するのは「出来事」のみであり、その出来事が物理的側面に着目して記述されると物理的出来事となり、心的側面に着目して記述されると心的出来事になるのである。従ってある一つの出来事が同時に物理的出来事でもあり心的出来事であることも可能なのであ...
  • 実践理性の方向
    ...構造の背後に不可知な実体を想定するのに対し、OSRそのような実体を否定する点にある。OSRによれば、世界には不可知な実体など存在せず、むしろ現象間の構造こそが根源的で存在論的に実在的なものである(*2)。そして物理的対象は構造のノード(結節点)や、交差点へと還元されるとする。 レディマンらが OSRを主張する動機は、ESRが動機とした悲観的帰納法に加えて、量子的対象の決定不全性問題がある。たとえば電子は個体性があるとも解釈されるし、個体性がないとも解釈される。つまり量子的対象は粒子としてマクロな対象と同じように個物として扱われることもあるが、同時に量子場理論において「場」という非個物として扱われることもある。このような決定不全性問題から、OSRは量子的対象の非実在を主張し、量子的対象を数学的に記述した構造こそが真に実在的なものであると考えるわけである。(*3) 以上、...
  • 時間と空間の哲学
    ...個別の存在は、唯一の実体の、(可能無限の一部としての)分割概念としての存在だということである。換言すると、初めに「多」があってそこから「一」が導出されるのでなく、初めに実体である「一」があって、「多」は人により分割されて導出されるのである。 ちなみに大森荘蔵はゼノンについて、「アキレスの逆理に挑んだ哲学者や数学者の数はおびただしいが、ついぞ今日までそれの解明に公認の成功を得た人はいない」と書いている(*5)。また青山拓央もゼノンの論証を限定的に認め、以下のように書いている。 アキレスが亀に追いつくときが存在しないことに矛盾を感じるのは、永遠の長さを持った時間軸があらかじめ用意されていることを暗黙の前提にしているからである。物理学者ホーキングの比喩を借りれば、アキレスと亀の世界に「アキレスが亀に追いつくときが存在しない」と文句を言うのは、「地球に北緯九一度が存在しない」と...
  • 心脳同一説
    ...状態と脳状態は同一の実体の二つの側面であり、たとえるならコインの表裏の関係である。しかし心脳同一説では、「雲とは水粒である」「稲妻は電荷の運動である」というたとえが用いられる。雲と水粒の集合は概念としては異なっているが、指し示す対象は同一である。つまり心的状態と脳状態は概念が違うだけで、雲と水粒の集合のように完全に同一の存在だと考える。 心の哲学では心的因果の問題が重要なトピックとして議論されるが、同一説では心的状態が脳の状態と「同一のもの」として存在しているがゆえに、心は因果的効力を持ちうると考える。 同一説はタイプ同一説とトークン同一説に分けられる。タイプ同一説は「タイプ物理主義」と呼ばれ、分析哲学で単に「心脳同一説」また「同一説」という場合はこのタイプ同一説を指し、トークン同一説は「トークン物理主義」と呼ばれて使い分けられている。 タイプ同一説 タイプ物...
  • 大森荘蔵
    ...物的なものは「一つの実体」の二つの性質だと考える。中立一元論も類似の考え方である。たとえば「痛み」があるとき性質二元論では、 1、「痛み」という日常言語による記述 2、痛みをもたらしている「脳の状態」の科学言語による記述 以上のように「痛み」には二種類の記述方法があるとし、片方はもう片方に還元できないと考える。しかし重ね描きは現象主義なので「一つの実体」を想定しない。そして上の「二種類の記述を合わせたもの」が「痛み」という経験の正確な描写だと考える。つまり還元を拒否し、なおかつ片方の記述だけでは不完全だと考え、さらに双方の記述の不可分性――論理的関係を主張するのである。要約すると、重ね描きは現象主義的な「出来事一元論」ということになる。「痛み」という一つの出来事は日常言語でなければ記述できない要素と、科学言語でなければ記述できない要素があるということである。 ...
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