永井均

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  • 永井均
    独在性 累進構造 脱人格的自我 非還元主義 永井均に対する批判と疑問 永井 均(ながい ひとし、1951年11月10日 - )は、日本の哲学者。日本大学教授。自我論・倫理学などを専門分野とする。歴史上のあらゆる哲学は「なぜ私は私なのか、なぜ私は他の誰かではないのか?」というアポリアに答えを与えられず、その意味で哲学は始まってすらいないと言い、「独在性」という概念によって、独自の独我論を展開する。独在性の問題は意識の超難問の一種といえる。永井の独我論はウィトゲンシュタインに大きな影響を受けている。 永井の主張は大きく分けると二つあり、ひとつは「なぜ私は他の誰かではないのか?」という問いが擬似問題ではなく真性の問題であるということ。もうひとつはその「私」の本質は決して他人に理解されてはいけないということである。 独在性 独在性とは永井均の自我論・独我論において用いられる...
  • 独今論
    概説 概説 独今論とは永井均の用語であり、われわれが感じる変化や時間の流れは実在ではなく、ただ「今」だけがあり、全ては一挙にこの「今」に現れていると考える。過去や未来はその特権的な「今」の内部の一様態に過ぎないとする。 永井均によると、〈今〉という問題は独在性における〈私〉という問題と論理的な構造は同じである。独我論と独今論は同じ構造をしている。認識論的独我論が、全ては私への現れだと主張するのと同じように、認識論的独今論は、全ては今への現れだと主張する。つまり、過去とはいま存在する思い出にほかならず、未来とはいま存在する予想や期待にすぎない。これに対して、存在論的独今論は、でもその今とはいったいいつのことだ? と問わずにいられない。認識論的独今論は、どの今に関しても成り立つだろう。そうした今一般のなかに「この今」という特別な時点があること、たまたま何年何月の何日であることに...
  • 実在
    ...いう意味。 永井均によると、哲学で使う実在という言葉には、けっして知ることはできないが本当はそうであること、という意味がある。実在論とはその本当はそうであることが確固として存在すると考える。反実在論は、そういう実在についてはそもそも言及することさえできないと考える。一般的に独我論とは反実在論の極端な形態であると考えられている。(『〈子ども〉のための哲学』p125) 参考文献 入不二基義『時間は実在するか』講談社現代新書 2002年 永井均『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書 1996年 参考サイト http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%9C%A8
  • 独我論
    ...れている。 永井均は独我論を二つに分ける。ひとつは「認識論的独我論」であり、これはある一つの心にとって、その外部にあるものの存在は認識できないとする考え方であり、普遍化できる独我論である。もうひとつは「存在論的独我論」であり、これは世界に何十億といる人間の中で、なぜ永井均が「この私」なのかという問題であり、普遍化できない独我論である。これは意識の超難問と類型である。 フッサールの独我論は、客観的な実在に対する判断を停止して、自分に現れる現象の構造を探究し、それによって自分がどのようなプロセスで「主観と客観」と呼ばれる世界理解を成しうるかを記述しようとするものである。つまりバークリー的な独我論と性質を異にし、フッサールの場合は方法的な独我論である。デカルトが「全てを疑っても、その疑う自分自身の存在は疑えない」という原理から始めたのに対し、フッサールの方法は「全てを疑える...
  • 無内包の現実性
    ...代哲学ラボ 第4号 永井均の無内包の現実性とは?』の書評も参照されたし。 無内包の現実性 入不二基義と永井均の「無内包の現実性」の相違と問題点を検証する。 入不二によれば「現実に」と言う場合、その「現実に」は遍在的に作用し、夢や幻などの非現実も包括し、さらに可能性や必然性といった様相をも包括する極限的に広い意味であり、「絶対現実」と呼ばれるている。絶対現実はただ「あるようにある」だけであり、現実であることは現実の内容に依存しないので、その意味で絶対現実は無内包の現実性とも言い換えられている(*1)。無内包の現実性は世界の「存在」の全を包括している。 しかし永井が言う無内包の現実性は、永井の哲学である独在論と不可分であり、〈私〉という開闢点・中心性を持っている。これが遍在的で脱中心性を志向する入不二の無内包の現実性との相違である。複雑なことに永井は入不二と同じ...
  • 書評2
    『現代哲学ラボ 第4号 永井均の無内包の現実性とは?』 『現代哲学ラボ 第4号 永井均の無内包の現実性とは?』 本書は永井均の「無内包の現実性」という概念をテーマに、2016年9月23日早稲田大学で行われた永井均、入不二基義、森岡正博の三者による議論を電子書籍化したものである。 「無内包の現実性」には自我論と時間論という二つの論点があり、この二つは私の関心の対象でもあるので、それぞれを論じてみたい。 ※なお本書はamazonのkindle版につき表示環境によってページ数が異なると思われるので、引用の際のページ表記は省略する ・〈私〉の存在論 永井は「現実の〈私〉が一人だけいる」という事実は「事象内容的な問題と無関係」と語る。たとえば自分の複製人間がいて、自分と同じ物理構造をしていて同じ意識現象があっても、〈私〉は端的に一人である。つまり物理構造や意識という事象内...
  • 言語的批判
    ...-69) 永井均も野矢に近い考えであり、意識は物理特性に論理的に付随しないとするデイヴィッド・チャーマーズによる哲学的ゾンビの思考実験を批判し、『なぜ意識は実在しないのか』で以下のように述べる。 ゾンビは文字通りまったく不可能なのです。理由は簡単で、われわれの「意識」概念は、(中略)たとえば「意識を失う―意識を回復する」ゲームに参加できるか否かによって、客観的に規定されているし、そうであるほかはないからです。(p.79) 上の「ゲーム」とは、もちろんウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を指している。言語ゲーム論では、言葉の意味をチェスの駒の役割のように考える。言葉の意味とは、用法あるいは機能であり、意識の私秘的側面は言葉の意味に関わらないとされる。 永井は『翔太と猫のインサイトの夏休み』でも以下のように述べている。 転んで膝を擦り剥いて泣いている...
  • コウモリの視点
    ...はどのようなことか』永井均訳 (1989年、p.260) また物理主義の還元的手法を以下のように批判する。 還元は、還元されるものから種に固有の視点が排除される場合にしか成功しないのである。(中略)それは内面に対しては一つの視点ではなくその本質をなしているからである。(同 p272) なお、ネーゲルがこの思考実験によって問題にしたのは、体験がその所有者のみに知られるという私秘性に関してのみではない。心身問題とこの思考実験との関係は、体験の主観的な性質について一般的に語ることを可能にする、という点もある。人間、あるいはコウモリ、あるいは火星人であるとはどういうことなのか、に関する事実がどのような身分であるにせよ、そのような事実は特定の「視点」を具現しているのである。ある対象にある体験を客観的に帰属させることができるのは、第三人称においてと同時に第一人称においてそ...
  • 渡辺恒夫
    遍在転生観 永井均に対する批判 遍在転生観の問題 観念論的アプローチ 他我問題 渡辺恒夫は1946年生まれ。東邦大学理学部教授。専門は心理学。京都大学文学部で哲学を、同大学院文学研究科で心理学を専攻した。 自我体験、独我論的体験、意識の超難問の体験を心理学の立場から統計的に調査研究している。そして意識の超難問の解答として梵我一如思想を背景にした「遍在転生観」を提唱している。 遍在転生観 遍在転生観とは、渡辺恒夫が考える輪廻転生のあり方。全ての個人がそれぞれ所有しているように見える自己・自我というものは、実は唯一存在するだけであり、それが各個人に現れているのだと考える。 「なぜ〈私〉は21世紀の〈今〉というときに、〈ここ〉地球星の日本という島に生きているのか?」という意識の超難問的な問いに対しては、過去・未来・同時代のあらゆる知的生命体は、唯一の私が輪廻転生を...
  • 意識の超難問
    ...。 日本では永井均が、この問題を「独在性」という言葉で表現し、独自に探求している。 心理学的分析 自己意識の心理学的研究の出発点になったウィリアム・ジェイムズは、個人の自己意識を描写して「二重構造」であるとした。目的とする自己と、主体たる自己である。彼は、知っている自己、すなわち、私( I )と、知られている自分、すなわち、私( me )を区別した。主格の私( I )は純粋な自我( ego )である。それにひきかえ、目的格の私( me )は私が意識しているかも知れぬたくさんのもののうちの一つであって、三つの要素からなっている。ひとつは物理的な、あるいは物質的なそれ、ひとつは社会的なそれ、さらにひとつは精神的なそれ、である。ジェイムズは注意深く指摘する。これら二つの自己は「異なっている二つのもの」ではなくて「自己が差別された結果の二つ」である、と。 渡辺恒夫の解...
  • メニュー
    ...ーマーズ □永井均 □渡辺恒夫 □大森荘蔵 □廣松渉 □Wikipediaの関連項目リンク ├究極の問い ├形而上学 ├存在論 ├科学哲学 ├自我 ├インド哲学 ├唯識 ├時空の哲学 ├可能世界 ├普遍論争 ├現象学 ├ホーリズム ├アフォーダンス ├量子脳理論 ├隙間の神 ├人工意識 ├操作主義 └自由意志 ■お勧めサイト ├WEBで読む西洋テツガク史 └対戦型哲学史 メニュー編集
  • 動物の心
    ...タインの影響を受けた永井均は、「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」と述べ、またなぜ永井均が〈私〉であり、徳川家康や犬のポチが〈私〉ではなかったのかという問題提起をして、彼独自の独我論(独在性)を展開する。 しかしデカルト的なコギト、自我の存在を措定するなら、やはり堆積のパラドックスが生じるはずである。永井均も〈私〉の入れ替わり可能性を犬までに限定している。これはミミズやバッタでは〈私〉と呼べるような自我を想定し得ないため無意識に避けたのだと思われる。もちろん、まっとうな哲学者であれば、動物の心についてはわからないとする懐疑論的立場を取るだろう。独我論者なら「他人」と同様に動物の心の存在もわからないとするだろう。しかしこの場合重要なのは、動物にも心がある可能性が「想定し得る」ということなのである。カマキリやメダカなどに、たとえば「赤」や...
  • 自己
    ...ている。また日本では永井均が〈私〉という用語で、自己が個別の肉体や精神に還元できないものとして存在する、との主張を行っている。 2、還元主義 自己とは、他の何かから成り立っている概念であるとする立場である。心の哲学においては物理主義や性質二元論がこの立場である。歴史的にはインド哲学の梵我一如がこの立場に近い。近代哲学において最も明確な形で自己の実在を否定したのはデイヴィッド・ヒュームであり、彼は自己とは知覚の束であると考えた。この種の立場を進めると究極的には、昨日の「私」と今日の「私」は、タイプ的には同一であっても、異なったトークンであると考えることもできる。 一般的に物理主義や性質二元論の立場を取る哲学者は、さまざまに変化している精神現象・クオリアを担う主体としての魂のような「何か」を想定していない。しかしジョン・サールは「生物学的自然主義」を標榜するものの、「私...
  • ウィトゲンシュタイン
    ...ある。 なお永井均の解釈によれば、ウィトゲンシュタインの「主体」とは、デカルト以来の近代的自我やカント以来の超越論的主体の意味ではない。超越論的哲学においては、主体としての自我が、素材としての世界に意味を付与することによって、初めて認識が成立すると考えるが、ウィトゲンシュタインにおいてはそうでない。自我は、既に形式によって満たされた世界の限界をなすことによって、それに実質を付与するのである。「私」とは世界に意味を付与する主体ではなく、「この世界」を存在させている世界の実質そのものなのである。またそれゆえに、「他者」とは「この世界」とは別の世界のことでなければならない、と永井は考える。 ウィトゲンシュタインの独我論はカントの認識論を独自に進展させたものといえる。カントにおいては「全ての表象に『我思う』が伴いうるのでなければならない」と、表象とデカルトのコギトを結びつける...
  • ルネ・デカルト
    ...と同じ解釈の哲学者に永井均がいる。
  • 人格の同一性
    ...*31) 永井均は独我論を以下の二つに分ける。 認識論的独我論: 或る一つの心にとって、その外部にあるものの存在は認識できないという問題 存在論的独我論: 世界に何十億といる人間の中で、なぜ永井均がこの「私」なのかという問題(これは「意識の超難問(The harder problem of consciousness)」とも呼ばれる)(*32) まず確認しておくべきなのは、事実問題として認識論的独我論は正しいということである。素朴心理学的には、人は自分の心の外部に存在するものを見たり触れたりしていると考えている。これが素朴実在論である。月を見る場合、目を閉じると月は消えるが、再び目を開けると月は見える――この現象を説明するために要請されたものが「実在」である。月が実在しているから自分が目を閉じても月は消えることなく、再び目を開ければ月は見える。このような素...
  • 形而上学
    ...『論理哲学論考』)。永井均はそのミクロコスモスを〈私〉と表記する。 人格の同一性問題とは、その〈私〉の持続の問題である。還元主義では〈私〉というような物的でも心的でもない主体を否定するので、「今この私」は一個の瞬間的なクオリアだということになる。逆に〈私〉のような非還元主義的主体を認めるならば、主体内部のクオリアは生成消滅するが、主体は時間を通じて存在し続けると考えることができる。 なお「死」は形而上学の重要問題であるが、これは時間の存在論と人格の同一性問題の枠内にある。人格の同一性における還元主義が正しいならば、前述のように通時的同一性を維持する主体が否定されるので、「今この私」は瞬間的な存在者になる。つまり還元主義ではクオリアが変化するごとに新たな「私」が生じ、以前の「私」は死ぬとみなす。しかし時間の存在論における静的宇宙論が正しいならば、各時点の「私」は永久に存...
  • 夢と現実と真実と
    ...開闢点である。これは永井均が〈私〉を様相の開闢点としたことと似ているが、入不二にとっては永井の〈私〉でさえも、「現実の〈私〉」や「現実でない〈私〉」というように、相対化されて様相内部に位置づけられる。 入不二の現実性についての論考は、着眼すべき点が微妙にずれているという印象を私は受けている。まず「現実」が捉え難いものであることは既に述べた。いくら自分の頬をつねって痛みを感じ、この痛みこそが現実性だと思っても、その思いは既に過去という非現実の一種である。いや、頬をつねり続けて持続的に痛みを感じることはできるし、痛みながら「これが現実だ」と言うこともできるだろう。しかしその確実に思える現実もまた過去のことである。 「今」に痛みがあるというのは素朴心理学的な態度であり、哲学的にその「今」を定義するのは難しい。時間軸上で過去と未来に挟まれた「今」は無限小であるしかないが、無限...
  • 時間と空間の哲学
    ...る。 ※なお永井均の用語である「独今論」は、アウグスティヌスの現在主義とほぼ同じ意味と考えられる。しかし永井は独今論を、自身の哲学である独在論とパラレルの問題とみなしており(*17)、永井独自のバイアスが感じられる。 ※参考までに、マクタガートが論文「時間の非実在性」を発表したのは1908年で、アインシュタインが特殊相対性理論を発表した1905年から僅か三年後であり、マクタガートに相対性理論の影響を指摘する声もあるが、中山康雄は「マクタガートは、アインシュタインの視点を彼の考察に取り入れることはしなかったし、その後も、そうすることはなかった」と分析している。(*18) 科学における「絶対説」と「関係説」 科学における時間空間論の歴史においては、ニュートンが想定した「絶対時間」と「絶対空間」に対して、ライプニッツが「時空の関係説」を主張したことが大きな転機となる。ニュ...
  • 大森荘蔵
    ...と議論したことのある永井均は、「大森さんは現在の自説が有効に論駁されることにしか興味を持っておられないようであった」といい、「完璧に哲学的であると感じたと」と大森の印象を語っている(*2)。 大森は1960年代後半の学生運動が盛んだった頃、マルクス主義を信奉する左翼学生からブルジョア哲学の代弁者のように非難され、鉄パイプで殴られて入院したことがあった。退院して授業に復帰した大森に、当時学生だった中島義道が「どのように哲学をするべきか」と尋ねると、大森は次のように答えたという(*3)。 やりすぎることです。直感的にある考えが正しいと思ったら徹底的にやってみる。毛沢東のように、やりすぎなければ革命はできません。 大森の哲学は時期によって変遷している。前期は自他共に認める現象主義であった(*4)。しかし論理実証主義の要素主義は否定する。中期には現象主義を独自に発展さ...
  • 書評1
    ...るプロセスの説明は、永井均の独在性の問題――世界の中で自分だけが特別な存在であることの主張が、他者からも同様に主張され続けられてしまう構造(独在性の累進構造)と、同型である。 しかし私のような無主体論的な立場からすると、無内包の「現実」や〈私〉というものは理解し難い概念である。ここでデカルトの方法的懐疑が想起されるべきだろう。デカルトは『方法序説』において、疑うことが可能なものは全て疑った後、決して疑い得ないことを発見した。それが哲学史上最も有名な「我思う、ゆえに我あり」であるが、しかしデカルトはその後も慎重に分析を続け、『省察』で次のように論じている。 私は在る。私は存在する。これは確かである。ではどれだけの間か? すなわち私が考える間である。というのも、もし私がすべての思考をやめるなら、その瞬間に私が在ることをまったく停止する、ということがおそらくありえるからである...
  • 無限論
    1 はじめの一歩 2 無限論と実在論 3 ゼノンのパラドックスの終着点 4 カントによる無限批判 5 形而上学無限の不可能性 6 物理学による形而上学的無限の回避可能性 7 数学的無限と形而上学的無限の不調和 8 結論――実在論の最期 9 無限の派生問題 1 はじめの一歩 人生の道を一歩踏み外せば奈落に落ちる。僅か一歩には生死を分ける重大さがある。それは学問の道でも同様であろう。しかし哲学での無限についての議論では、その一歩の重大さが忘れられているように思える。はじめの一歩を踏み間違えていたなら、その後いくら懸命に歩を進めようと間違った地に行く着くしかない。 ゼノンのパラドックスは二千年以上にわたって夥しい学者たちが反駁を試みてきたが、今日でもなお議論が続いており、未だ万人が納得する解決法が発見されていないように思える。大森荘蔵は、ゼノンの主張は詭弁であるという前提からパラ...
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