今日は寒い。夜から雪になるかもしれないという予報だった。自転車のブレーキも甲高い悲鳴を上げている。街はマフラーと白い息に包まれ、空はどんより雲を漂わせている。その中を見憶えのある背中が疲れた馬のように大荷物を抱えて歩いていた。「佐々木?」振り返ったそいつは顔を少し紅潮させ、息も切れ切れ、うんざりしているのが手に取るように分かった。だが、声を掛けると柔らかい微笑を俺に向けてきた。「やぁ、キョン」「どうしたんだ?その大荷物は」「いや、ちょっとね…」見ると佐々木が手にしている紙袋の中には大量の四角やらハート型やら様々な色と装飾の小箱がこれでもかと詰め込まれている。佐々木はどうしたものかと複雑そうな表情を浮かべて俺に問い掛けてきた。「僕はそんなに甘いものが好きな訳ではないのだが…」そこかよ。でも、男の俺からすりゃ羨ましいぞ。「くっくっくっ、君にもちゃんとチョコレートをくれる可愛い女の子達がしっかりといるじゃないか、しかも三人も。高校デビューですっかり浮気者かい?キョンは」「からかうな、お前は浮気者なんてレベルじゃないだろ。なんだ?この国王様のハーレム状態は」「知らない。くっくっくっ、中身はまだ見ていないが全て義理である事を願うよ。あまりに大量だからお返しは安く済ませる為に手作りしなくちゃいけない。それはそれで非常に困難且つ、根気が必要な作業なんだ」佐々木は女の前じゃ女らしくある奴なんだが、高校じゃ女にモテる女になっちまったらしい。「おや?それは心外だな。未だに男性からのアプローチ、まぁ、いわば愛の告白、ラブレターも途絶える事はないよ」さらっと自慢されたぜ、おい。「しかし最近、納得がいかないのはね、キョン。メールで告白してくる輩はどう思う?恋愛は精神病とは言え一応、想いを伝えるのに人間関係においてあまりに礼節を欠いている行為だとは思わないかい?本当に真摯で率直な想いならばしっかり直接、顔を合わせ、目を見て相手に伝えるべきだと僕は思うね」珍しく佐々木が恋愛を語っている。余程うんざりしているのであろう。「最近はメールも邪魔臭いからアドレスを変えて親しい人以外には門外不出にしているんだ。高校に入って少しは人間関係も落ち着くかと思っていたがどうやら僕の見込み違いだったらしい。あ、ところでキョン、君の携帯の番号とアドレスを教えてくれたまえ」なんだ?突然…「だ…駄目なのかい?」いや、構わんが…唐突に話が変わったんで付いていけなかっただけだ。「そ、そうかい?何か不自然だったかな?僕は会話の流れとして特別、違和感を覚えるような変な流れだとは思えなかったのだが」突然、佐々木が早口でまくしたてた。佐々木の早口はいつも冷静なこいつが結構、動揺してたりする分かり易い証拠なのだが、何故、今?「まぁ、家まで送ってってやるよ。その大荷物は一人じゃ辛いだろ?」さすがにこんな重そうな愛の詰まった荷物を抱えた女を無視するほど俺は冷血漢じゃない。家まで運んでやるくらいの甲斐性はある。「寒いし、久し振りに少し上がっていかないかい?お茶くらいは出すよ、茶菓子代わりはたくさんあるからね」佐々木の部屋は相変わらずシンプルで飾りっけはないが、綺麗に整頓されていた。少し熱めのコーヒーが重い荷物と冷え込んだ空気に痺れた手をほぐしてくれる。「さぁ、遠慮せずに大いに食べてくれたまえ」そういうと佐々木は大量の紙袋の中から小さな赤い小箱を一つ俺に渡してくれた。「面識もない他人が佐々木にあげたチョコを勝手に開けて食うなんざまるで他人の恋愛を略奪してるみたいで気が引けるぞ」「くっくっくっ、構わないさ。バレンタインなんて女同士のみで受け渡しを楽しむくらいがちょうど良い」「そりゃ、この国の少子化問題はより一層、深刻な事態に陥るな」「相変わらずキョンは変な方向に話が飛ぶね」綺麗に包装されてた為に気が付かなかったのだが、どうやらこのチョコは手作りのようだ、しかも旨いわ、これ。「美味しいかい?」さっきからもの凄~くに気になっていた。いや、佐々木のあまりに強い視線が。じーっと黙って俺の食べる手元、わずかな動作も見逃さないよう息を呑んで凝視している。「…このチョコ、そんなに食べたかったのなら無理して俺に渡さんでも良いぞ。元々、佐々木が貰ったものなんだし」俺がチョコを返そうと差し出すと佐々木は、「要らないよ!!君が食べてくれたまえ。せっかく僕が君の…」ん?「いや、何でもない!!気にしないでくれたまえ」佐々木がまた動揺している。今日のこいつはよく分からん。「いいえ!!何でもなくはありません。非常に癇に障る緊急事態です」佐々木の部屋のドアが大きく開け放たれ、ゆらゆらと二本の触覚がレーダーのように俺達二人を捉えていた。何故、お前がここにいる?橘京子。「それはこっちの台詞ですわ。本当に油断も隙もない。今のあなた達二人が顔を合わせるのはとてもデリケートな問題なの。昔のように気軽にとはいかない状況なのがまだ分からないの?」おいおい、また『組織』やら『神の力』やら面倒な話を持ち出して厄介な問題に俺は巻き込まれるのだろうか?「とにかく……そのチョコはあたしのものですから!!」獲物を見つけた猛獣のように鋭い眼差しと俊敏な身のこなしで俺に襲い掛かってきた橘京子。だが、カチカチに硬いアーモンドチョコの砲撃と強烈なビターチョコの右ストレートを口の中に放り込まれていた。「何故、あなたがこんな所にいるのかな?橘さん。ん?以前にもちゃんと注意したよね?空気は読もうね♪って」佐々木が満面の笑顔を繰り出す時、それは全宇宙が凍り付く瞬間である。チョコが前歯に直撃したのだろう、橘京子は少し涙目になっている。危険を察知したのか、佐々木から距離を取った橘京子は「女同士でもそこに本物の愛があれば乗り越えられないものはないわ」と、大声で叫び、キッと俺を睨み据えてきた。「まぁ、良いわ。今日の所は一時休戦。このチョコレートあげます」橘京子は段ボール箱の中から匂いが立ち込める程の大量の手作りチョコバナナを取り出してきた。「まぁ、幹部としての任務もありますから。あなた達には上手くいってもらわないとこちらとしても何かと不都合ですしね。これからも色々とお世話になるでしょうからその挨拶代わり」「せっかくの過分な挨拶、痛み入るよ。あんなに大量のチョコバナナ、作るのだけでも随分と手間が掛ったでしょうに…」佐々木は何故か同情したような眼を橘京子に向けている。気が付くと佐々木が貰っていた大量のチョコも橘京子のチョコバナナも佐々木の部屋から跡形もなく、消え去っていた。「ちょっと、これはどういう事!?」橘京子は胡散臭い団体に所属しているとは言え、まだまだ人並みの常識から逸脱した状況に置かれる機会は少ないだろう。だが、俺はこういう不可思議な事態に慣れ過ぎてしまったのかもしれん。こういう超人的な所業をやるのは大体、何者だか相場が決まっている。SOS団ではいつも長門だ。つまり佐々木達の中では…「くっくっくっ、恐らくまた押入れの中だろう」佐々木が押入れを開けると中からホラー映画のように長い髪を振り乱しながらチョコをむさぼり食う宇宙人、周防九曜の姿があった。「周防さん、私の家に上がる時はまずインターフォンを押してと言ったでしょう?橘さんもね」「あぁ~!!あたしが佐々木さんの為に作ったチョコバナナが!!」「たまに食糧まで奪いに来るから気を付けた方が良いよ」「全く、現地人の女ってのはこんな下らんイベントにキャピキャピと。余程、暇を持て余してるんだな」いつの間にか未来人までもがチョコバナナを咥えながら部屋の様子を窺っていた。佐々木…お前、いつも大変なんだな。こんなSOS団とは違う意味で非常識な連中を相手にしてるんだから。「周防さんが全部食べたからお返しは周防さんから貰ってね」…佐々木の冷たい一言が橘京子に突き刺さった。他人事とは言え、実に不憫だ。俺も返さなきゃならん。団長様から最低、三倍返しはノルマだと言われている。「まぁ、気を落とさずに、橘さん。お返しなんて必要ないさ。丹精込めて作ったものなら特にね。食べてくれた人のその笑顔が一番のお返しだよ。きっと涼宮さんも口では三倍返しと言っても心の中ではそう思ってるはずだよ、キョン」う~ん…よく分からん、俺にはさっぱり意味が分からん。
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