修学旅行などとうに終わったのに、中学三年生のこの季節にわざわざ野外オリエンテーリングなどさせる我が校の慣習は理解に苦しむ。「そうかな。僕はいいと思うけどね。多感な青春のまっただ中にある15歳の少年少女を抑圧して受験勉強をさせ続けるのは、本来ならばあまり称賛される制度ではない。勉強ばかりさせるより時折行事を挟んで気分転換をさせるべきだと考えたのは間違っていないと思うよ」「世の中の受験生が全て間違っているということか」「合っている様で違うよキョン。間違っているのだとしたらそれは15歳で受験をさせる教育制度だね」「それならいっそ中高六年間をまるごと義務教育化すればいいんだ。そうすればこんな時期に受験勉強などしなくて済む」「中高一貫教育の私学が普及していることを考えれば十分に現実的な意見ではあるね。もっともそれを改正するためには僕たちが大人になって政治を変えねばならないのだけど」「そのころには受験勉強が終わっているじゃないか。まったく意味が無い」「そうでもないよ。僕たちの子供は少なくとも15歳の受験勉強から解放される。しかし逆に12歳での受験勉強が苛烈になるだけかもしれないけどね。これはなかなか悩ましい問題だ」 などと人畜無害な会話を佐々木としている今の気分は悪いものではないので、俺としても本気でオリエンテーリング大会に文句があるわけではない。普段の学校や塾の行き帰りでしていることと何が違うのかと問われると難しいが、やはり気分転換が必要であることは確かだ。そもそも佐々木と一緒にいるとこんな山道であっても退屈しないし、なかなか聴く機会が無いであろう知識を拝聴できる。「もし遭難したときには川伝いに歩いてはいけないのだそうだよ。往々にして歩行困難な箇所に直面することが多く、滑落してそのまま溺れ死んでしまうこともあるそうだ。さらに低地にあるため視界がきかないという。だから山で遭難したときは尾根伝いに歩く方が安全で助かる可能性が高いということは憶えておいたらいつか君を助けることになるかもしれないよ」 そういうホラーな話よりはさっきのドングリの種類の話の方がよかったがな。さて、どうしてこのオリエンテーリング大会で俺と佐々木が二人っきりなのかというと、これはもちろん偶然ではない。 本来は男女二人ずつの四人一組が基本の組合せなのだが、人数からしてうちのクラスでは二人が余る。ここまではいいだろう。それならば三人一組のチームを二つ作るのが定石かつ常識であると俺は思うのであったが、「じゃあ当然佐々木さんはキョンくんと二人のチームということでいいよね」という意見を誰が言ったかもう忘れてしまったし、何が当然なのか未だに理解できないのであるが、クラス全員の賛同と佐々木が否定しなかったことにより、俺と佐々木はくじ引きに興じるクラスから何故か仲間はずれにされたのであった。 俺はクラスメイトとはそれなりに友好的な関係にあると思っていたのだがもしかしたら違うのかも知れない。 かくて俺は佐々木と二人きりで、うちのクラスに割り当てられたオリエンテーリングコースの最後尾を歩いている。普通こういう最後尾は担任の仕事だと思うのだが、佐々木が成績も良く教師陣の覚えが良すぎるせいか、何故かチェックポイントの最終確認をしていた。多少の疑問を感じないでもないが、信頼できるというのは間違っていないと思う。こいつが何か失敗するところなんか想像もできない。「よし、ここも全グループが通過したようだね」 チェックポイントに貼り付けてあるシートの回収までしっかりやっている。少なくともうちの学校の教師の平均値よりこいつの方が有能ではないかと思う。しかし、雲行きがあやしくなってきたな。さっさとゴールしてしまいたいところだ。「賛成だよ、キョン。山の天気は変わりやすいからね」 そんな佐々木の声を山の神が聞きとがめたわけでもないだろうが、それから数分もしないうちに見事な大雨となった。「こんなこともあろうかと、と言えればよかったのだけど、この雨では三段重ねの折りたたみ傘程度では役に立たないね……」 風も強まってきたから傘を持つのはかえって危険だ。仕方がないから二人揃って走るしかない。やれやれ、前にもこんなことがあったような気がするが、前と違うのは軒先なんてものが当分見あたりそうにない状況だということだ。「きゃっ……!」 佐々木が珍しく可愛い悲鳴を上げたかと思うと、泥まみれの山道に膝を突いた。「大丈夫か!?」「大丈夫……と言いたいけど、木の根を踏んで捻ったようだ。僕としたことが……」 足か。ジャージのズボンが汚れるのも気にせず膝を突くところを見ると、無理はさせられん。リュックサックを肩から外して手に持ち、佐々木の前に背を向けてしゃがみ込む。「……キョン?」「よし。おぶされ、佐々木」 ここでお姫様抱っこの一つでも出来れば格好良いのだろうが、あいにくと俺はそんな白馬の王子ではない。町人Aにできるのはせいぜい背負ってやるのが精一杯だ。「え……、いや、その……それは、色々と問題が……」「伊達に普段お前を後ろに乗せて自転車を漕いでいるわけじゃないぞ」 自転車で使う筋肉と歩きに使う筋肉は別だと他ならぬ佐々木から教えて貰ったような記憶があるのだがこの際そういった事実は忘れることにする。「……済まない。それじゃあ頼む……」 少々の逡巡はあったようだが、のんびりしていられない天候であることを考慮したのだろう。佐々木は済まなさそうにおぶさってきた。 うむ、軽いと言えば軽いし、重いと言えば重い。 さすがにいつも荷台に載せて自転車を走らせるのとはわけが違うが、同級生一人の体重と考えると佐々木は軽い部類に入るだろう。おかげでなんとか立ち上がって歩くことはできる。やせ我慢もずいぶんあったが、友人を背負っているというこの現実は悪い気分じゃないな。「キョン、この天候ではスタート地点まで戻るのは難しい。一旦避難しよう」 確かに、傘も役に立たないこの天気じゃな。教師陣が迎えに来るのもあまりあてに出来ない。しかし避難するって言っても、ここは登山者用の山小屋があるようなご大層な山かここは。「さきほど看板で案内図を確認した。そっちへ曲がってくれれば休憩用の小屋か東屋があるはずだ」 この状況でこの判断、さすがという他ない。幸いなのはさっき聞いたような遭難という事態には陥っていないということか。もっとも、足腰は人間二人分の体重で山道を歩くのに悲鳴を上げている。ええいうるさい。だからといって佐々木を雨中に放り出せるか。 幸いにも、筋肉が肉離れなどを起こす前に建物の屋根が見えてきた。もし壁のない東屋だとこの風雨を凌げるか不安だったが、幸いにも簡素ながら三方に壁が設けてある。避難場所としてはなんとかなった。疲労でぷるぷると震える足腰を叱咤して小屋に到着する。中には背もたれの無い長椅子が四つ置かれていて、俺はなんとかそのうちの一つに佐々木を座らせ、その場にへたり込む……ような真似はさすがに格好がつかないので隣に座った。ぐむ。膝から太ももの裏あたりがサビ付いているように痛いぞ。小屋が薄暗いので顔が歪んだのは悟られなかったと思うが、佐々木のことだから気づいているかもしれない。「……参ったね。リュックサックの中までぐっしょりだ。携帯電話は防水のものを選んでおくべきだったね」 速やかに連絡を取ろうとしてリュックサックから携帯電話を取りだした佐々木だが、どうやら電源が入らないらしい。こちらはどうかと思ってポケットの中をまさぐってみたところ、防水ではない我が個人情報保管機も見事にご臨終あそばされていた。次は佐々木と一緒に防水機を選ぼう。「君のもか。困ったね。連絡手段が尽きてしまったよ」 小屋の中を見渡してみても、公衆電話などと気の利いたモノは見あたらない。詰まるところ、現時点で誰かに連絡を取ることはできなくなったわけだ。もっとも、俺を佐々木と一緒にいることは教師陣も理解しているだろうから、それほど心配はしていないかもしれない。これが俺一人なら正真正銘の遭難の危険性が高いが、佐々木がいればなんとかなると思うだろうし、現に俺は佐々木のおかげでこうして避難できているわけだしな。「とりあえず、濡れた服は脱いでおいた方がいいよ、キョン。風邪を引く」 む、それはさすがに紳士としてどうなんだ。風邪を引くくらい大したことじゃない。「風邪を甘く見てはいけないよキョン。下手をすれば肺炎を併発することもあるんだ。特に今は雨が降り始めてから急激に気温が下がっている。僕の不手際でこんな状況になってしまい、あまつさえ君を病気にしてしまったとあっては君のご母堂に申し訳が立たないよ」 おいおい、別にお前のせいというわけじゃないだろう。「僕がへまをしなければ他の方法があったかもしれない。こうして雨中に閉じ込められてしまったのは僕の不手際だよ」 まったく、こいつの無駄な責任感の強さはどうにかならないものか。これだからいつも色々なことを押しつけられて苦労しているのに。例えばこの俺のお守りとかな。しかし、俺が脱がなければ佐々木も動いてくれそうにない。俺はいいが、佐々木までこれ以上身体を冷やさせることはないだろう。「わかった、とりあえずオレは脱ぐが……」 なんと言っていいのか。妙に気恥ずかしいな、これは。「あっちを向いているから……その、なんだ。お前も気をつけて」「くっくっく、わかったよ」 うむ、一応伝わったようだ。物わかりのよい友人で助かる。普段ならばさすがに推奨しないが、今のオレ達には遮蔽物が無いこの空間しかないのだ。俺が佐々木の方を見ないでいるようにすることしかできない。佐々木としては別に俺の裸など見たくもないだろうから明後日の方向を向いてくれることだろう。 激しい雨音に混ざって、湿った衣擦れの音が交差する。 こちらはシャツとジャージのズボンを脱いで、端からなんとか水を絞ったトランクス一枚だ。さすがにこれまで脱ぐのは躊躇われた。佐々木もさすがに下着までは脱がないと思うが、あえてそれに視線を向けて確かめるつもりはなかった。 シャツとズボンもできるだけ絞っておくとして、さすがに乾きそうもないが、一応長椅子の一つに広げておく。着替えを持ってくるんだったと思ったが、そんなものは無い。あるとすれば、……おお、リュックサックの中にビニール袋入りのタオルを入れておいたとは、よくやったぞ昨夜準備した俺。取り出してみるとこれはまだ乾いていた。よし。「おい佐々木、これを使え」 そちらを見ないようにして背後にタオルを差し出す。佐々木がこっちを見る分には問題あるまい。「有り難いと言いたいところだが、それは君のだろう。僕が先に使うのは理屈に合わないよ」 頑固な奴め。仮にも女のお前を後回しにして拭うなんてできるか。と言っても佐々木は納得しそうにないな。むしろ男女の機能的な差異の小ささについて解説されるのがオチか。無理なく佐々木が使うように仕向けるには……「おれは変態なんでな、お前の汗を吸っていい匂いがしたタオルを使いたいんだ」 ……うむ、我が口を突いて出た台詞ながら最悪だなこれは。いくら佐々木でも引くだろう。「くっくっく……そう来たか。これは一本取られたよキョン。レディーファーストとは紳士な変態もいたものだね」 意外にも受けた。よしとすべきか。「これ以上君の尊厳を犠牲にした配慮を無下にすることはできないね。有り難く先に使わせてもらうよ」 そう言って佐々木が受け取るときにわずかに触れた指はずいぶんと冷えて冷たかった。おい、大丈夫か。やはり佐々木を優先させて正解だったな。 背後で佐々木が動く気配がかすかに感じられる。心眼の一つでもあったら素晴らしい光景が見られたことだろうが、あいにく俺はそんな素敵な能力があるどこかの物語の主人公ではなくただのしがない民間人なので、雨音に混じるかすかな音に耳を澄ますのが関の山である。しばらく動く気配があった後、タオルを絞っているらしい水音がした。「ありがとう。匂いを堪能してもらう予定だったが、さすがに汗や雨を大量に吸い込んで濡れきったままのタオルを返却するのは遠慮させてもらうよ。ご期待に沿えないかもしれないが許して欲しい」 そこまで真に受けないでくれ佐々木。若干冗談に聞こえないで困るぞ。受け取ったタオルは絞られていたが、佐々木はそんなに力があるわけではないので、そこまで固く絞られているわけではない。あー、嘘から出た真とはこのことか。タオル全体から不思議ないい匂いがするんだこれが。雨の匂いでも草木の匂いでも花の匂いでもないのに、瑞々しく甘い匂いがする。鼻腔から脳裏をくすぐられているようで、気がつけばくんかくんかしたくなってきてさすがにそれは自嘲した。……じゃねえ、自重した。さすがに俺も身体が冷えてきたので、急いで拭くことにする。佐々木を先にしておいてよかったぜ。タオルに俺の汗やら何やらが染みこんで匂いが残念化するのはやむを得まい。「ふえっっくしょんっっっ!」「……ふあ……くしゅん……!」 ……。変に唱和したな。「……冷えてきたね。雨とともに大気が入れ替わってしまったようだ」 かといってこれ以上はな。カイロなんて持ってきていないし、小屋には薪の一つも無い。そもそも真面目な中学生としてはライターなんぞ当然持っていないので暖を取る方法は思いつかないぞ。「……うん、一応、打つ手はあるんだけどね」なんだ?とにかく今はできることをしよう。棒を擦って火でも起こすのか。「棒を、擦るか……うん、まあ、そうやって暖を取る方法も、ないわけではないけどね。それは本当に最後の手段だね」 どうするんだ?「聞いたことがないかい。……遭難して身体が冷えたときはお互いに肌を合わせるとよいと。冗談ではなく、人間の体温で暖めるというのは……理に叶っているんだよ。過熱しすぎることはないし……、人体の大半は水分だから熱容量はかなりあるんだ……」 とんでもないことを言いだした佐々木の声はかすかに震えていた。おいおい、そこまで身体を冷やしているのか。常時ならば一笑に付す意見だが、今は考慮しなければならんのか。 しかし、いくらなんでも俺は佐々木の性別と自分の性別を忘れているわけではない。そんなことをやって……「僕は、構わないよ……。少なくとも嫌ならこんな話はしていない……」 俺の心を見透かすように、佐々木が念押ししてきた。震える声はすがりつくようで、結局俺に出来ることがそれしかないのなら、俺は……「キョン。僕を、助けてくれないか……」 振り返る。 女神が、いた。 そこにいるのが同級生の少女だという事実が、何秒間か頭の中から吹っ飛んでいた。 荒天のせいで既に夕闇どころか夜が訪れているに近い黒々とした大気の中に、その肌と下着が白く浮かび上がっていた。以前に濡れたシャツ越しに見たことはあるが、相変わらず佐々木の下着は白一色でまるで飾り気が無いものらしい。その簡素さと相まって、震えながら両手で自分の肩を抱きしめるような仕草が、細い身体をなおさら細く魅せていた。暗い中でさらにかすかな逆光のためその表情は見えなかったが、黒いはずの瞳だけは、薄闇の中から確かに俺をすがるように見つめているのがわかった。 ごくり、と、これは俺が呼吸を忘れていたところから唾を飲み込んだ音だ。 そこでようやく正気に返った。危ない。今意識がどこかに消えそうだったぞ。 本当に大丈夫なのかと自分に自信が持てなくなってきたが、それでも佐々木をこのままにしておくわけにはいかない。「え……っと、だな。触れている部分が、多い方が、いいんだな……」「ああ……うん、そうだね。その方がお互いに体温の低下を補いやすいから……」 そうすると、どうしたものかな。佐々木から釘付けになっていた視線を引き剥がして、どうしたものかと小屋の中を見わたす。見わたしたところで、長椅子しかない。触ってみると木造りとはいえ、ひんやりとしている。そこで、靴を中まで濡れきった靴下ごと脱いで長椅子の上に足を伸ばす。「よし、佐々木。俺の上に座れ」 これなら冷たい長椅子に佐々木の身体が触れることもない。「え……、それは、その……えっと……」「そんな震えてる状態で遠慮するな。お前の体重がたいしたことないのは知っているんだ」「キョン……、君はデリカシーというものがあるのか無いのか本当によくわからないよ……」 何故か佐々木は溜息をついてから、観念したように靴と靴下を脱いで長椅子の上に上がり、おそるおそる俺の上に跨ってきた。「えっと……、どう座ったらいいのかな、これは……」 触れている部分が多い方がいいと言っただろう。こっちに背を向けて足を伸ばして座ればいいんだよ。「こ、こうかい……?」 そっと佐々木が身体をよじり、ちょうどパンツに包まれた臀部が俺の目の前に来る。いかに暗がりとはいえ、この至近距離ではさすがに輪郭まではっきりとわかってしまう。これはさすがにその……まずい。「す、すまんが出来るだけ早く座ってくれ……」「え……、うん……」 意を決したように佐々木が俺のトランクスの上に腰を下ろす。羽毛の様な、などということはなく、確かな柔らかい重みが伝わってくる。まずい、まずい!この体勢は失敗だった。しかし、あれほど強く格好つけて推奨した以上、今更やめろというわけにもいかない。 俺の混乱を知って知らずか、佐々木は律儀にも俺に言われた通りに足をそっと伸ばした。太ももとふくらはぎではそのやわらかさが違うという当たり前の事実を実感させながら、俺の足の上にこれまた柔らかい感触が広がっていく。間に布一つ挟まず肌と肌が密着している部分は確かに暖かい。燃えているんじゃないかというくらいな気がする。いやこれは気のせいだ気のせい。「ああ……。キョン、君は、暖かいね……」 佐々木はそう言うと、前のめりになっていた上体を起こして、そっと背中から寄りかかってきた。俺の裸の胸に、上の下着ごと佐々木の背中が密着する。「お、お前もな……」 なんとも間抜けな返答が口を突いて出た。佐々木の下着はまだ濡れきって少し冷たかったが、それがどうでもよくなるくらいに佐々木の肌は暖かかった。「君の身体で作られた熱エネルギーが直接伝導で僕の身体に流れ込んで来るというのは……、こうも幸せなものだったのか……」 なんとも佐々木らしい表現で現状を説明してくれたおかげで、少し正気に戻ることが出来た。触れている部分だけでなく、目の前に降りて来た佐々木の髪やうなじの輪郭に注意を向けることができた。普段見慣れているはずのそれらだが、暗がりの中で輪郭だけが浮かび上がる今の状況ではまたずいぶんと違った趣きを見せていた。そもそもここまで至近距離でまじまじと眺めていたことはない。暗いおかげでうなじの肌の質感までは見て取れないのは不幸中の幸いか幸い中の不幸かどっちだ。 だが、ほとんど見えない代わりに他の感覚が鋭くなってくる。呼吸を落ち着けようとして、ゆっくりと鼻から息を吸い込んだのは失敗だった。佐々木の髪からうなじから漂ってくる香気を思いっきり吸い込んでしまった。鼻の中身が見えない壁にぶつかったかのように衝撃的で、脳髄を揺さぶるほどに濃密で、何に喩えたらいいのかわからないほど芳しい。先のタオルの匂いで満足していた自分がアホらしくなってくる。 得体の知れない渇望感に囚われて、何かが欲しくなってくる。その何かがわからないままに、思わず手が伸びた。半ば無意識の中で、肌を密着させなければならないと嘘くさい理由で半分残った自分の意識を納得させながら、おそるおそる佐々木の肩を包み込むように両手を回し、佐々木の胸の前で交差させて、…………抱き締めた。 佐々木の肩は思っていたよりもずっと小さく、俺が回した手の中にすっぽりと収まってしまった。佐々木に触れている部分が増えて、さっきよりももっと身体が熱くなってくる。身体を回っている血が熱くなったみたいだ。 それに、肘の横あたりに佐々木の下着というか、柔らかい膨らみが当たっている。一度意識してしまうと、そこから意識が外れなくなってくる。う……いかん。熱くなった血流が下の方に集中してきた……。「キョン、……その、聞きたいことがあるんだが」 なんだ。……といっても、この状況で聞かれることは一つだよな。「…………僕の尻に当たっているのは、その……」 珍しく佐々木の言葉の歯切れが悪い。「その……、つまり、そうだ。済まん……」 暗がりの中だが感触からして、どう考えても、俺の当たってはならんものは、間に二枚の布を挟んだだけで、佐々木の尻の間の当たってはならん場所に当たっていると思われる。そこをスレスレで尻と言い換えたのは佐々木らしい配慮だが、今の俺の状況はどうにも申し開きようが無い。「……ああ。責めているのではないよ。安心してくれ」 意外な言葉が返ってきた。どんな顔で言っているのかわからなかったが、少なくとも佐々木の声に咎めるような気配はなかった。「君が少なくともそういう生理的反応を示してくれる程度には、僕も一応女だったと確認できてほっとしているんだよ。これでも僕のアイデンティティは自分の性別を基礎にしているのでね」 そう言うと佐々木はゆるやかに右手を動かして、佐々木の膨らみを包み込んでいる俺の右腕の肘にそっと指先だけで触れた。その指先が何かを訴えかけているように思えたのは、俺の気のせいだろうか。 その指先の温かさが、今頃になって俺に現状を認識させた。 今、俺たちはこの場に二人っきりで、誰も俺を止めてくれる奴がいないという恐ろしい現状をだ。 俺が情欲というか肉欲というか劣情というか若いリビドーにまかせて襲いかかったら、佐々木は抵抗しないだろうという妙な確信があった。こんな山中の闇の中でどれだけ抵抗しても無駄だということは明々白々であり、合理的で理性的な佐々木はそんな無駄なことはしないだろう。衝動が俺の中を渦巻いている。男として生まれて十余年、これほどの衝動に囚われたことがあったであろうか。佐々木を抱き締めている両腕に力が籠もる。それ以上動こうとする自分を押しとどめるのに苦労する。自分の中でいろんなものがせめぎ合って、結局動くに動けず、ずいぶんと長いこと、佐々木の身体を強く抱き締めていた。「もう一つ、聞いていいかい」 歯切れが悪かったさきほどの問いかけと違って、何か吹っ切れたような言い方だった。「いいぞ。どうせ話すことしか時間潰しはない」 意図的に、他の時間潰しがあることを頭から除外しようとしていたのは確かだな。「反語ではなく、純粋に尋ねたい。……どうして、君は、僕を襲わないんだい」 ふむ。所謂どうして○×をしないのか、いやすべきである、という意味ではないということだが、その尋ね方は危なすぎるだろう。「お前はクラスメートを犯罪者にしたいのか」「ならないよ」 囁くような声だった。「……強姦罪はね、親告罪なんだ」 その言葉の意味するところがわからないほどアホではない。これでも佐々木との禅問答じみた会話を何度も繰り返してきたからな。佐々木は、俺に襲われたとしても、それを他人に告げることはしないと言っているのだ。これは免罪符に等しい。情欲を通り越してもはや獣欲じみた衝動が抑えきれなくなっている。 そういえば佐々木と以前遺伝子について会話したことがあったな。曰く、牡も牝も遺伝子上の目的は、できるだけ良好な相手を探して優秀な子孫を残すことが目的であるとかなんとか。そう考えると、俺のあまり出来のよろしくない遺伝子を掛け合わせる相手として、佐々木は俺が望みうる範囲を軽くぶっちぎるくらい頭脳明晰容姿端麗であるといえるだろう。まったくもって文句の付けようもない。 もちろん俺も一般的男子中学生の例に漏れず保健の授業は他の科目より耳聡く勉学に励んでいたので、一発でそこまで至ることはそう多くなく、適切な時があることくらいは知っている。今この場でことに及んだとしても、究極まで行き着いてしまう可能性はそれなりに低く、しかも、起こった事象を佐々木が罪状として訴えることがないのであれば、つまりは、俺と佐々木はそれを機に、彼氏彼女の付き合いに及ぶということは当然に考えられる事態である。 俺と佐々木が付き合ったら、と考えてみる。少なくとも、友人付き合いとしては悪くない関係だろうと俺は思っているし、お互いに悪感情を持っているわけではない。仮に佐々木が彼女になったのなら、それは素晴らしい中学生活が送れるのではないだろうか。塾の行き帰りのみならず日々の行き帰りや学校生活を共にし、クリスマスにデートをして、バレンタインデーとホワイトデーにはチョコレートのやりとりをして、その相手が佐々木であったのなら、何の不満があろうか。いや、ない。そんな日々に不満の声を挙げる奴がいたら、俺が叩きのめしてやりたいくらいだ。 だが、それでも、俺は動けなかった。 いっそ俺は自分自身を叩きのめしてやりたい。アホだな。バカだな。どうしようもないクズだな。 佐々木の質問に答えなければならない。それは、誤魔化していい質問ではないことくらいは俺にも分かる。考えて考えて考えて、この衝動をも上回る抑制がどこから来ているのかを突き詰めて、答えが、出た。「俺は、お前を失いたくない……」 佐々木が息を呑むのが肌越しにわかった。「お前という友を、失うのが、怖い」 バカみたいどころじゃない。バカそのもののような、幼稚な理屈が俺の中にある答えだった。 ことに及んで、いっとき、彼氏彼女の付き合いになったとしよう。それは素晴らしい日々だろう。 だが、俺は佐々木をこれまで会ったどの人間よりも評価しているつもりだ。こいつより聡明で、こいつよりも魅力に溢れた人間を、少なくとも俺はこの短い人生の中で見たことがない。我が学舎にいる我が敬愛すべき教師陣の誰一人として、佐々木より凄いと思える人間はいない。順当に行けば我が国最初の女性総理大臣になるのはこいつじゃないかと思うが、一方でそんなせせこましい範囲で収まるような存在ではないとさえ思う。こいつに匹敵する存在など、もはや神しかいないのではないか。 比べて俺はどうなのだ。この平凡で、何の力も取り柄もなく、物語に登場するとしても解説役に終わるであろう一般人Aは。 釣り合うはずもない。 おふくろは無責任に、頑張らないと佐々木と同じ高校に行けないなどと言うが、高校そして大学、あるいはもしかして大学院と、俺が佐々木の傍に並ぶことができるとは到底思えない。いっときの付き合いがあったとしても、生涯のパートナーとして考えたときに、俺はあまりにも佐々木と釣り合わなさすぎる。 いいお友達に戻りましょう、なんて言葉が欺瞞極まりないことは他ならぬ佐々木自身が以前とうとうと語ってくれたので知っている。一度付き合って限界を知ってしまった男女が、それ以前の友だち付き合いに戻れるはずもないのだ。 だが、友人としてならば、あるいは生涯こいつと付き合い続けることはできるのではないだろうかと思う。佐々木が綴るであろう物語のパートナーではなくとも、優秀すぎるがゆえに余りにも常人から超絶した佐々木が、悩みや無常を愚痴る相手くらいならば、少なくとも今の俺には出来ているのだから。 それに、ことに及んでしまったら、この場に避妊具の一つもないということは、究極まで行き着いてしまう可能性が、間違いなくあるということなのだ。中学での妊娠など、どう考えても不幸な結果しか想定できない。堕胎するにしても、出産するにしても、佐々木を傷つけ、貶めることにしかならないではないか。そんな危険にこいつを叩き込んでいいはずがない。こんな劣性遺伝子しかない男の情欲を満たすためなんぞに、この偉大な友の身体を使っていいはずがない。 もちろんこの渦巻くリビドーは否定できないし捨てることもできないので、脱童貞を願う気持ちくらいはある。だが、女とやる機会はこの先の人生でまだいくらでも巡り会うことはあるだろう。あまりにもてなくあてがなく絶望したなら潔く風俗店に出向こうじゃないか。 だが、この佐々木のように話すことが出来る友と巡り会う機会など、二度と無いと断言してもいい。 そういった莫大な喪失感を予見する恐怖は、男子中学三年生の衝動を凍結させるほどだったのだ。 その無様な恐怖を、俺はできるだけ誠実に答えた。猥雑で醜悪で情けないこと極まりないが、布二枚だけを挟んでまずいところが密着しているこの状況でもはや何を恥ずかしがっても始まるまい。 佐々木に比べてとても上手いとは言えない語りではあったが、それを聞き終えた佐々木の肩からふっと力が抜けた。落ち着き払っているように見えて、その実佐々木が今まで緊張しっぱなしだったということに今頃気づいた。 安心したように、改めて俺に体重を預けて、佐々木は大きく息を一つついた。「それは、君の人生における最大級の賛辞を貰ったと受け取っていいのかな。親友。いつか君の傍に寄り添うであろう誰かよりも、僕のことを文字通り掛け替えのない存在であると認めてもらったと」 親友、か。この無様な男をそう呼んでくれるのならば、もちろんそのつもりだ。お前のような友など、失ってしまったら二度と手に入らない。「光栄だよ、キョン。僕の首から下よりも首から上の中身を評価して貰ったということはいささか複雑な心境だけどね」くっくっ、と、聞き慣れた笑いがそっと佐々木の身体を揺らして、肌がかすかに擦り合った。相変わらず佐々木は俺を過大評価してくれるようだが、それならばせめて友として、出来うる限り傍にいられるように、あるいは時を経て再会したときにもまた友として話せるように、俺も出来る限りの背伸びをしよう。 そうして、オレ達は夜の闇の中で一晩、文字通り肌を合わせ続けていた。それ以上でもそれ以下でもない。不思議と眠くはなかった。そうして、いつもは自転車の上で交わすような何気ない会話を、夜が更けて雨がやんでもなお続けていた。 それはもはや二度と来ない、かけがえのない時間だった。俺と佐々木が臥所を共にする未来は立ち消えた以上、夜を通して語り合う機会などもはや二度とないだろう。その二度と来ない時間が過ぎるのを言葉にせずに惜しみながら、あくび一つせず、肌と肌を合わせながら、決して交わることがないことが約束された場所同士を二枚の布で隔てながら、俺たちは何も特別ではない普段通りの会話を、夜が明けるまで続けていた。
夜が明け、どちらからともなく、俺たちは語り合うことをやめ、一晩中触れ続けていた身体を離した。離れるのが惜しくなかったといえば嘘になるだろう。強張った身体が引き剥がすのを拒んでいたと自分でもわかる。だが、夢の時間は終わったのだ。肌と肌の間に朝の冷気が差し込んできて、お互いが守り続けていた熱の温かさ失ってから認識させた。 お互いに無言のまま、苦くない笑みを交わしつつ、生乾きの服を着たところで教師陣がやっとこ到着した。 当然のように何か間違いがなかったかと問い詰められたが、これには佐々木がこう答えた。「彼の紳士たる事実については私の身体が証明します。私の純潔が保たれていることを保健の先生に確認して貰って下さい」 こうまで言われたら誰一人ぐうの音も出るはずもない。純潔が保たれていることイコール何も無かった、ではないのだが、あまりに堂々とした佐々木の態度に、教師陣は誰一人疑うことすらできなかったようだ。 おかげで俺は無罪放免となったのだが、我が愛すべきクラスメートたちはなぜか「へたれ」だの「インポ」だのと酷い罵倒を山と浴びせて俺の生還を迎えてくれた。 とはいえ、結果としてこの夜には何も無かったということになり、人の噂の賞味期限を待たずしてこの話は立ち消えになった。
だが俺は、あの夜のことを忘れることは無い。性別が違うために修学旅行でも同部屋になることができなかった親友と共有できたあの時間を、あるいは親友との未来を決したかけがえのない時間を、俺は生涯忘れることはないだろう。終わり、あるいは本編に続く
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