巻二百二十二下 列伝第一百四十七下つづき


  両爨蛮は、曲州・靖州の西南、昆川・曲軛・晋寧・喩献・安寧より龍和城を隔て、これを西爨白蛮という。弥鹿・升麻の二川より、南は歩頭に到り、これを東爨烏蛮という。西爨は自らをもとは安邑人だといい、七世の祖、晋の南寧太守は、中国が乱れると、遂に蛮中にて王となった。梁の元帝の時、南寧州刺史の徐文盛は荊州に召喚した。爨瓚というのは、その地を根拠とし、長さは二千里あまり。多くの駿馬・犀・象・明珠を産出する。死ぬと、子の震翫が分けてその衆を統治した。隋の開皇年間(581-600)初頭、遣使して朝貢してきたから、韋世沖に命じて兵で守らせ、恭州・協州・昆州を設置した。しばらくもしないうちに叛き、史万歳がこれを討伐し、西洱河・滇池に到って帰還した。震翫は恐れて入朝したが、文帝はこれを誅殺し、諸子を奴婢とした。高祖が即位すると、その子の弘達を昆州刺史とし、父の喪を奉って帰還した。益州刺史の段綸は兪大施を遣わして南寧に到り、共範川を治め、諸部を誘ってみな方物を貢納することを約束した。太宗は将を遣わして西爨を攻撃し、青蛉・弄棟を設置して県とした。

  爨蛮の西に、徒莫祗蛮・倹望蛮がいる、貞観二十三年(649)に内属し、その地を傍・望・覧・丘・求の五州とし、郎州都督府に隷属させた。白水蛮は、地は青蛉・弄棟と接し、また郎州に隷属した。弄棟の西に大勃弄・小勃弄の二川の蛮がおり、その西に黄瓜・葉楡・西洱河と接している。その衆の豊かさは蜀の周囲と一緒であり、酋長がなく、互いに復讐することを喜んだ。

  永徽年間(650-655)初頭、大勃弄の楊承顛は勝手に将帥と署名して、麻州に侵入した。都督の任懐玉は楊承顛を招いたが聞かなかったため、高宗は左領軍将軍の趙孝祖を郎州道行軍総管とし、任懐玉とともにこれを討伐させた。羅仵侯山に到ると、その酋の禿磨蒲と大鬼主の都干が衆で菁口を塞いだが、趙孝祖は大いにこれを破った。夷人は鬼を尊び、祭を司る者を鬼主といい、毎年戸ごとに一頭の牛、あるいは一頭の羊を出し、その家にて祭る。鬼を送り鬼を迎えるのに必ず兵がいるから、それを利用して復讐するという。趙孝祖が軍を駐屯させると、多くは城を棄てたから、北に追跡して周近水に到ると、大酋の倹弥于・鬼主の董朴は水の近くに砦をつくり、軽騎兵で反撃してきた。趙孝祖は攻撃して倹弥于・禿磨蒲・鬼主の十人あまりを斬ったが、その時大雪となったから、ほぼ全員があかぎれになったり凍死した。趙孝祖は上言して「小勃弄・大勃弄は常に弄棟を誘って叛かんとしています。今白水を破りましたから、西を征伐することを願います」と言い、詔して裁可された。趙孝祖の軍が侵入すると、夷人は皆険峻に逃げ、小勃弄の酋長の歿盛も白旗城に駐屯し、一万騎を率いて戦ったが敗れ、斬られた。進軍して大勃弄に到り、楊承顛は城をとりまいて守った。趙孝祖は楊承顛を招いたが従わず、軍を率いて進撃し、楊承顛を捕らえ、他の駐屯している大きいものは数万、小さいものは数千、みな破って降伏させ、西南夷は遂に平定された。郎州都督を廃止し、さらに戎州都督を設置した。

  爨弘達が死ぬと、爨帰王を南寧州都督とし、石城を居らしめたが、東爨の首領の蓋聘および子の蓋啓を襲撃して殺害したから、共範川に移した。

  両爨の大鬼主の崇道なる者は、弟の日進・日用とともに安寧城の左に居した。章仇兼瓊が歩頭路を開き、安寧城を築いたのを聞いて、群蛮は震撼し、共に築城の使者を殺した。玄宗は南詔王の蒙帰義に詔してこれを討伐させ、軍は波州に侵攻し、爨帰王および崇道の兄弟と千人あまりは泥首して謝罪したから赦した。にわかに崇道は日進および爨帰王を殺した。爨帰王の妻の阿奼は、烏蛮の娘であったから、父の部に逃げ、兵を乞うて仇を討とうとした。ここに諸爨は乱れた。阿奼は遣使して蒙帰義に詣でて夫を殺した者の身柄を求めたから、上書した。詔してその子の爨守隅を南寧州都督とし、帰義は娘を爨守隅の妻とし、またもう一人の娘を妻崇道の子の輔朝の妻とした。しかし崇道・爨守隅は互いに攻めあってやむことなく、阿奼は蒙帰義に訴えたから、そのために軍を興し、昆川に駐屯し、崇道は黎州に逃げ、ついにその一族を捕虜とし、輔朝を殺してその娘を収めた。崇道はにわかに殺され、諸爨は次第に弱くなっていった。

  南詔の閤羅鳳が即位すると、爨守隅と妻の帰河睒を召喚して、中国と通じなかった。阿奼は自らその部落の主となり、毎年入朝し、恩賞はあつかった。閤羅鳳は昆川城使の楊牟利を遣わして兵で西爨を脅かし、戸二十万あまりを永昌城に強制移住させた。東爨は言語が通ぜず、多くは林や谷に散らばっていたから、移すことができなかった。曲州・靖州・石城・升麻・昆川より南北して龍和に到り、皆兵を残した。日進らの子孫は永昌城に居住した。烏蛮の種はまた振興し、移して西爨の故地に居させ、峯州と隣となった。貞元年間(785-805)に都督府を置き、羈縻州十八を領した。

  烏蛮と南詔は代々婚姻しており、その種は七部落に分かれる。一つめは阿芋路で、曲州・靖州の故地に居住した。二つめは阿猛、三つめは夔山、四つめは暴蛮、五つめは盧鹿蛮で、二部落あって分かれて竹子嶺を保った。六つめは磨弥斂、七つめは勿鄧である。多くの牛馬を産し、布帛なく、男子は髽髻(お団子結びの髷)、女人は髮を垂らし、皆牛や羊の皮を着る。習俗は巫鬼を尊び、跪拝の礼はない。その言語は四度通訳を交えて中国語と通じた。大部落には大鬼主がおり、百家ごとに小鬼主を置いた。

  勿鄧の地は一辺が千里あり、邛部は六姓ある。そのうち一姓は白蛮で、五姓は烏蛮である。また初裹の五姓があり、皆烏蛮で、邛部・台登の間に居している。婦人は黒布の衣を着て、長いため地に引きずる。また東欽蛮に二姓あり、皆白蛮であり、北谷に居している。婦人は白布を着て、長くても膝を過ぎない。また粟蛮の二姓・雷蛮の三姓・夢蛮の三姓があり、黎・巂・戎の数州の田舎を散居し、すべて勿鄧に属する。勿鄧の南七十里に、両林部落があり、十低の三姓・阿屯の三姓・虧望の三姓があって隷属している。その南に豊琶の部落、阿諾の二姓があって隷属している。両林の地は狭い山間にあるが、諸部は推して長となり、都大鬼主と号した。

  勿鄧・豊琶・両林は皆これを東蛮といい、天宝年間(742-756)、皆封爵を受けた。南詔が巂州を陥すにおよんで、ついに吐蕃に従属した。貞元年間(785-805)、再び通交し、勿鄧の大鬼主に苴嵩に邛部団練使を兼任させ、長川郡公に封じた。死ぬと子の苴驃離が幼なかったため、苴夢衝を大鬼主としたが、しばしば吐蕃に侵略された。両林の都大鬼主の苴那時は韋皋に書を送り、出兵して吐蕃を攻めることを請うた。韋皋は将の劉朝彩を遣わし銅山道に進出し、呉鳴鶴は清渓関道に進出し、鄧英俊は定蕃柵道に進出し、進んで台登城に迫った。吐蕃は西貢川に撤退し、高いところによって軍営とした。苴那時は戦うと非常に強く、兵を分けて吐蕃の青海・臘城の二節度の軍を北谷で大いに破り、青海大兵馬使の乞蔵遮遮・臘城兵馬使の悉多楊朱・節度の論東柴・大将の論結突梨らは皆戦死し、籠官四十五人を捕虜とし、鎧や兵器一万鹵獲し、牛馬も同等であった。進撃して于葱柵を陥落させた。乞蔵遮遮は吐蕃宰相の尚結賛(シャンギェルツェン)の子であり、そのため遺体を返還した。その下の曩貢節度の蘇論は百人あまりが行って哭泣し、一人を遺体の左に立たせて、もう一人がこれに「傷は痛むか?」と問いかける、「そうだ」といい、そこで薬を並べた。さらに「食べるか?」というと、「そうだ」といい、膳を進めた。「服を着るか?」というと、「そうだ」といい、そこで裘(かわごろも)を与えた。また「帰るか?」と問うと「そうだ」といい、馬に遺体を載せて去った。詔して苴那時を封じて順政郡王とし、苴夢衝を懐化郡王、豊琶部落の大鬼主の驃傍を和義郡王とし、印章・袍帯を賜った。三王は皆入朝し、麟徳殿にて宴し、賜物に等を加え、毎年その部に禄・塩・衣・綵を給付し、黎・巂の二州の吏がこれを賜った。山が険しく盗賊が多く、賜物を亡失するから、韋皋は二州に指示して館を築きそこで賜うこととし、酋長に約束して自ら至れば、授与してこれを遣した。しかし苴夢衝はひそかに吐蕃に従い、南詔の使路を断ったから、韋皋は巂州総管の蘇峞を遣わし兵三百で苴夢衝を召喚して琵琶川に到り、その罪を読み上げて斬り、その族を分割して六部とし、様棄を主とした。苴驃離が成長すると、命じて大鬼主とした。驃傍は年幼くして勇敢で、しばしば出兵して吐蕃を攻めたから、吐蕃は間道を通ってその居室・部落を焼き、賜った印章は失われてしまった。韋皋は彼のために願い出て、再度印章を得た。


  爨蛮の西に昆明蛮があり、または昆弥といい、西洱河(洱海)を境とした。すなわち葉楡河である。京師を隔てること九千里である。風土は蒸し暑く、うるち・稲を植えるのに適している。人は首に弁髪し、左前に着ることは突厥と同じである。水草にしたがって家畜を放牧し、夏は高山に、冬は深谷に入る。戦死を尊び、病死を憎む。精兵が数万いる。

  武徳年間(618-627)、巂州治中の吉偉が南寧に使し、その国に到り、使を諭して朝貢させ、服従を求め、兵を発して守らせた。これより毎年牂柯の使とともに来朝した。龍朔三年(663)、矩州刺史の謝法成が比楼ら七千戸を招慰して付き従わせた。総章三年(670)、禄州・湯望州を設置した。咸亨三年(672)、昆明十四姓は戸二万を率いて付き従い、その地を分けて殷州・総州・敦州とし、まとめて統治した。殷州は戎州の西北に、総州は西南に、敦州は南に居し、遠くても五百里あまりを過ぎず、近くは三百里である。その後また盤州・麻州などの四十一州を設置し、皆首領を刺史とした。


  昆明の東九百里は牂柯国である。兵はしばしば侵出し、地を侵すこと数千里である。元和八年(813)、上表して牂柯の故地をすべて帰順することを願い出た。開成元年(836)、鬼主の阿珮が服属した。会昌年間(841-846)、その別帥を封じて羅殿王とし、爵位を世襲させた。その後また別帥を封じて滇王としたが、すべて牂柯の蛮である。東に辰州を距てること二千四百里で、その南へ千五百里行くと交州である。城郭がなく、風土は熱く長雨が多く、稲・粟が一年に二度稔る。傜役はなく、戦いになると駐屯地に集まる。木に刻んで契約と、盗みは二・三倍で賠償とし、人を殺した者は牛馬三十頭を出した。習俗は東謝と同じである。首領の姓は謝氏で、龍羽に到るまでの各地に兵は三万いる。武徳三年(620)、使者を派遣して来朝し、その地を牂州とし、龍羽刺史を拝し、夜郎郡公に封じた。その北百五十里で、別部があって充州蛮という。精兵二万で、また来朝して貢納し、その地を充州とした。

  開元年間(713-741)、牂柯の酋長の元斉が死に、孫の嘉芸が官位を継ぎ、その後に封じた。そこで趙氏を酋長とした。開元二十五年(737)、趙君道が来朝した。その後裔に趙国珍がいて、天宝年間(741-756)に戦って軍功があった。南詔の閤羅鳳が叛くと、宰相の楊国忠が剣南節度使を兼任し、趙国珍を用いて方策があり、黔中都督を授けたが、しばしば南詔に敗れた。五渓(黔州)を守ること十年あまり、天下はすべて乱れたが、その部だけはひとり安寧であった。工部尚書で終わった。貞元年間(785-805)、その酋長の趙主俗を官吏とし、また褒賞すると朝貢して絶えることがなかった。貞元十八年(802)に到るまで五度遣使して入朝した。元和二年(807)、黔南観察使に詔して、常に本道の将を押領牂柯・昆明等使にし、これよりしばしば遣使し、ある時は正月の朝拝に出て、開成年間(836-840)まで絶えることがなかった。その故事は、戎夷が朝貢すると、将は都に到り、中官は逓送して町で労い、館に到着すると、恩礼は最も厚かった。

  西爨の南に、東謝蛮があり、黔州の西三百里に居し、南は守宮獠を距て、西は連夷子であり、地は一方が千里である。五穀があり、焼き畑をして、一年で場所を移動した。衆は山にて巣居し、川の流れを汲んで飲んだ。賦税がなく、木を刻んで契約とした。貴人を見ると鞭を執って拝礼した。賞は功がある者には牛馬・銅鼓を与えた。微罪を犯せば杖で叩き、大罪は死刑で、物を盗む者は二倍で賠償させた。婚姻は牛と酒を贈物とした。女は夫の家に帰すと、夫は恥ずかしいとしてこれを避け、十日たって出てきた。集まりがあると銅鼓を叩き角笛を吹く。習俗は椎髻(頭髪を後方に垂らし、その先端を椎状に髻とする結い方)で、赤布で隠し後ろに垂らす。座れば必ず蹲踞し、常に刀剣を佩刀する。男子は衫襖・大口の袴を着て、帯を斜めに右肩に掛け、螺の殼、虎・豹・猿・犬・羊の皮で飾る。謝氏が代々酋長となり、部落は尊んで畏れた。その族は女を育てないが、自身の姓が高貴あって他に嫁すことができないと考えているからである。貞観三年(629)、その酋の元深が入朝し、烏と熊の皮の冠を被り、騎兵の帽子のようであった。金銀を額にめぐらせ、身には毛帔(毛皮のショール)をまとい、革の行縢(むかばき)を装着した。中書侍郎の顔師古は上言して、「昔、周の武王の時、遠国が入朝し、太史は王会篇をつくりました。今、蛮夷は入朝し、元深の冠服と同じではありません。ですので写して王会図をつくるべきです」と言い、詔して裁可された。帝はその地を応州とし、そこで元深を刺史とし、黔州都督府に隷属させた。また南謝の首領の謝彊がいて来朝し、その地を荘州とし、彊刺史を授けた。建中三年(783)、大酋長検校蛮州長史・資陽郡公の宋鼎と諸謝氏が朝賀したが、徳宗はその国が小さいので許さなかった。黔中観察使の王礎に訴えて、州が牂柯に接しているから、牂柯に随って朝賀することを願い出た。王礎は上奏して「牂・蛮の二州は、人口は多く力強く、隣蕃が恐れるところです。願わくば三年に一朝許されんことを」と言い、詔して上奏にしたがった。

  元和年間(806-820)、辰・漵の蛮酋の張伯靖は本道督の苛斂誅求を憎み、衆を集めて叛き、播・費の二州に侵入し、黔中経略使の崔能・荊南節度使の厳綬・湖南観察使の柳公綽が討伐したが、三年たっても平定できなかった。張伯靖は上表して荊南に隷属することを願い出て、降伏しようとした。崔能は心の中で恨み、さらに荊南・湖南・桂管軍を調えて援軍とし、西原の十洞の兵をまとめて皆出動させ、功績をなさんことを請うた。公卿の論議する者はみな良い考えだとしたが、宰相の李吉甫は、「張伯靖は怨みを抱いて謀叛しました。圧迫するのに大兵をもってこれを招けば、戦わずしておのずから平定するでしょう」と言った。そこで崔能に命じて兵を出動させず、ただ厳綬に詔し、張伯靖を招いて一族を率いて江陵で降伏させ、右威衛翊府中郎将を授けた。


  東謝の南に西趙蛮がいる。東は夷子を距て、西は昆明に属し、南は西洱河(洱海)である。山穴は阻んで深く、道や村を知ることができない。南北は十八日の行程、東西は二十三日の行程の大きさで、戸は一万あまり、習俗は東謝と同じで、趙氏が代々酋長となっている。夷子の渠帥は、姓は季氏で、西趙とともにすべて南蛮の別種であり、精兵はそれぞれ一万人である。古よりいまだかつて中国と通交したことがなく、黔州の豪帥の田康が告げて、そのため貞観年間(627-649)に皆遣使して入朝した。西趙の首領の趙酋摩が率いるところの部一万戸あまりは服属し、その地を明州とし、酋摩刺史を授けた。


  松外蛮はなお数十から百部あり、大きいものは五・六百戸、小さいものは二・三百戸である。おしなべて数十姓あり、趙・楊・李・董が貴族であり、皆山川をほしいままにし、君長が交わることなかった。城郭や文字があり、すこぶる陰陽暦数を知る。夜郎・滇池より以西は、すべて荘蹻の末裔である。稲・麦・粟・豆・糸・麻・薤(らっきょう)・蒜(のびる)・桃・李(すもも)がある。十二月を年始とする。布の幅は広さ七寸である。正月に蚕が生まれると、二月には熟する。男子は毛織物・革を袴とし、女は絁(あやぎぬ)の布を裙衫(はだぎ)とする。髻盤(髪を頭頂部でまわして盤のようにすること)は髽(くくりがみ)のようである。飯用に竹籠をまげてこれで食らい、烏杯で羹を入れるのは酒器のようである。裸足で歩き、舟はあるが車はない。死ぬと地に埋め、殯舎をその左に建て、三年して葬った。蠡(たにし)・蚌(はまぐり)を棺に封じた。父母の喪にあると、喪服の布衣を洗わないことは四・五年で、他の近親者は二・三年である。人のために殺された者は、子は麻で髪をくくり、顔に墨を塗り、衣はつむがない。喪にあるとき、結婚はやめず、また同姓との婚姻を避けない。婿は親を迎えない。富む家が妻を娶れば、金銀・牛・羊・酒を送り、女が持参するのもまた同様である。罪ある者は、一本の長木をたて、鼓を打って衆をその下に集める。強盗は死刑で、富む者は死を免れ、家を焼いてその田を奪う。盗む者は九倍で賠償した。姦淫は、勢族は金銀を送って示談を願い、その妻を棄てるが、処女・寡婦は連座しない。おしなべて殺せば必ず報復し、力がおよばない場合はその部が助けて攻撃する。祭祀は、牛馬を殺し、親戚が集まって、牛・酒を援助し、多い場合は数百人にもなる。貞観年間(627-649)、巂州都督の劉伯英が上疏して、「松外諸蛮は、いつもしばらく服属してはしばしば叛くから、願わくばこれを攻撃すれば、西洱河から天竺道が開通するでしょう」と言い、数年たって、太宗は右武候将軍の梁建方に命じて蜀の十二州の兵を新発して討伐させ、酋帥の双舎は防戦したが敗走し、殺害・捕虜は十万あまりとなり、群蛮は震撼し逃げて山谷に籠った。梁建方は説得し、降伏させたものは七十部あまり、十万九千戸に及んだ。首領の蒙和を県令としたから、ほかの衆は感嘆した。


  西洱河蛮は、または河蛮といい、道は郎州より三千里を走り、梁建方は伏兵を遣わして巂州の道より千五百里を派遣して襲撃し、その帥の楊盛は大いに驚き、逃げ去ろうとしたが、使者は良い言葉で降伏を約束させ、そこで首領十人を遣わし軍門で友好を結ぶ約束をし、梁建方は帰還した。貞観二十二年(648)、西洱河の大首領の楊同外と東洱河の大首領の楊斂と松外の首領の蒙羽は皆入朝し、官位秩禄を授けられた。顕慶元年(656)、西洱河の大首領の楊棟附顕と和蛮の大首領の王羅祁、郎・昆・梨・盤の四州の大首領の王伽衝は部落四千人を率いて帰順し、入朝して方物を貢納した。その後、茂州の西南に安戎城を築き、吐蕃が蛮と通じる道を断ったから、生羌は吐蕃の嚮導となって攻城したが、兵を増やして守り、西洱河の諸蛮は皆吐蕃の臣となった。開元年間(713-749)、首領は始めて入朝し、刺史に任命した。その時南詔の蒙帰義が大和城を陥落させ、北に移り、さらに浪穹詔をくびきにおいた。浪穹詔はすでに敗れ、また雲南柘城に移された。


  黎州は、羈縻奉上等の州二十六を領した。開元十七年(729)、また羈縻夏梁・卜貴などの三十一州を領した。南路に廓清道の部落の主三人が、婆塩の鬼主が十人いた。また阿逼蛮があって十四の部落に分かれた。大龍池・小龍池・控・苴質・烏披・苴賃・觱篥水・戎列・婆狄・石地・羅公・𧧯・離旻・里漢である。

  黎・邛の二州の東に、また凌蛮がある。西に三王蛮があり、思うに莋都夷・白馬氐の遺種であろう。楊・劉・郝の三姓は代々長となり、王位を襲封し、これを「三王」部落という。煉瓦を積んで住み、奝舎と号した。毎年節度府より帛三千匹を受け、南詔を窺った。しかし南詔もまた密かに賄賂を贈り、成都の虚実を窺った。節度使が至るごとに、酋長は来謁し、節度使は多く威や与えた結果靡いたことを奏上し、天子を欺いた。謁見する前には必ず都押衙に願い出て、それから命を聴き、都押衙が命令しなければ、ただちにその叛を告げ、常に三王の部落をたのんでその場しのぎとし、唐末に到ってますます甚だしかった。

  雅州の西に吐蕃道に通じる道が三つたり、夏陽・夔松・始陽といい、皆諸蛮が雑居していた。おしなべて部落は四十六あり、州を距てること三百里あまりの外に百坡・当品・厳城・中川・鉗矣・昌逼・鉗井の七部落があり、四百里あまりの外には羅巌・当馬・三井・吏鋒・名耶・鉗恭・画重・羅林・籠羊・林波・林焼・龍逢・索古・敢川・驚川・禍眉・不燭の十七部落があり、五百里あまりの外には諾祚・三恭・布嵐・欠馬・論川・譲川・遠南・卑盧・夔龍・曜川・金川・東嘉梁・西嘉梁の十三部落があり、六百里あまりの外には椎梅・作重・禍林・金林・邏蓬の五部落があり、皆羈縻州である。首領を刺史に襲封した。


  巂州新安城のそばには六姓蛮があり、蒙蛮・夷蛮・訛蛮・狼蛮で、ほかは勿鄧と白蛮である。

  戎州管内に馴・騁・浪の三州の大鬼主の董嘉慶があり、代々服従しており、忠謹を褒めたたえられ、帰義郡王に封じられた。貞元年間(785-805)、狼蛮もまた服従を願い出て、首領の浪沙を任命して刺史としたが、しかしついに出でこなかったため、剣南西川節度使の韋皋は董嘉慶を励まして狼蛮の支配も兼ねさせた。また魯望などの部落があり、戎州の馬鞍山に強制移住させた。韋皋はその地が遠く辺境であるから、一戸ごとに米二斛・塩五斤を給付した。北にはまた浪稽蛮・羅哥谷蛮がある。東には婆秋蛮・烏皮蛮がある。南には離東蛮・鍋銼蛮がある。西には磨些蛮があり、南詔・越析と互いに婚姻している。浪稽より以下、古滇王・哀牢の雑種で、其地は吐蕃と接している。また姐羌があり、古の白馬氐の後裔である。

  剣山は吐蕃の大路にあたり、石門・柳彊三鎮に属し、守兵・守捉を置いた。招討使は五部落を領し、弥羌・鑠羌・胡叢、東欽・磨些である。また夷望・鼓路・西望・安楽・湯谷・佛蛮・虧野・阿𨢘・阿鶚・蛮・林井・阿異の十二鬼主は皆巂州に隷属した。また奉国・苴伽の十一部落があり、春と秋に賞を嶲州にて受けたが、吐蕃を挟撃するために賞には軽重があった。節度使が至るとごとに、諸部は馬を献上し、酋長は虎皮を着て、ほかは皆赤い布で髮をくくり、絞り染めの袴・半臂であった。謁見がおわると、錦一匹・酒一斗を請い、草を折って父祖の魂を招き郷里に帰った。還るときには、錦を包んで馬上にのせて去った。また顕養・東魯諸蛮があり、永徽三年(652)胡叢とともにすべて叛いた。高宗は右驍衛将軍の曹継叔を嶲州道行軍総管とし、斜山にて戦い、十城あまりを陥落させて、斬首七百、馬・犛牛一万五千を鹵獲した。

  姚州の境に永昌蛮があり、古の永昌郡に地に居している。咸亨五年(674)に叛き、高宗は太子右衛副率の梁積寿を姚州道行軍総管として討伐・平定させた。武后の天授年間(690-692)、御史の裴懐古を遣わして招きなつけた。長寿年間(692-694)にいたると、大首領の董期が部落二万を率いて服属した。その西に撲子蛮があり、敏捷勇猛で、青い木綿で通身袴(つなぎ)とし、よく竹弓を用い、林に入って飛鼠(コウモリ)を射ると命中しないものはなかった。食器はなく、蕉の葉を代用した。人は多く長大で、楯を背負って矛を持って戦う。また望蛮なるものがあり、木弓・短箭を用い、鏃には毒薬を塗って、命中すれば即死する。婦人は乳酪を食べ、太って色白で、裸足で歩く。青布を衫裳とし、珂貝の珠を連結して繋いだ。髻は後ろに垂らし、夫がいる者は両髻に分けた。

  群蛮の種類は多く記すことができない。黒歯・金歯・銀歯の三種がいて、人を見れば漆や金銀を象嵌して歯を飾り、寝るときと食べるときは外す。頭頂には髻をし、青布で通袴(つなぎ)とする。繍脚なる種がおり、踝(くすぶし)から腓(こむら)まで入れ墨をする。繍面なる種がおり、生れて一か月で、入れ墨で顔を黒く染める。雕題なる種がおり、全身や顔を入れ墨で黒く染める。穿鼻なる種がおり、直径一尺の金鐶で鼻を貫き、下に垂らして顎下を過ぎる。君長は糸を鐶に掛け、人は牽いて行く。その次は、二つの花の模様がある金釘を鼻の下に貫いて出す。また長鬃種・棟鋒種があり、皆額の前を長い髻とし、下は臍まで垂らし、行くときに物でこれを挙げる。君長は、二人の女がその前にいて、共にその髻を挙げて行く。

  安南に生蛮の林覩符部落があり、大暦年間(766-779)に徳化州を設置し、戸は一万ある。また潘帰国部落があり龍武州を設置し、戸は千五百である。安南節度使に詔して安んじて平定させた。貞元七年(791)、始めて驩・峯の二州を都督府とした。驩州は安南にあり、海に接しており、文単(ナコンラーチャシーマ)・占婆(チャンパー)と接している。峯州は羈縻州十八を統轄し、蜀爨蛮と接している。


  南平獠は、東は智州を距て、南は渝州に属し、西は南州、北は涪州に接しており、戸数は四千あまりである。熱病が多い。山には毒草・沙虱(スナノミ)・蝮蛇(まむし)がおり、人は楼に居み、梯子で上に昇り、名を干欄という。婦人は横布二幅で、中央に穴をあけてその首を貫き、通裙という。美髪を髻とし、後に垂らす。竹筒で三寸あるのを、斜めにその耳に貫通させ、貴者は宝珠で飾る。習俗は女が多く、男は少なく、婦人が徭役を担っている。結婚は、女が先に貨をもって男を求め、貧者は嫁に行くことがなく、売られて婢となる。男子は左前に着て、髪を露出させ、裸足で歩く。その王は姓が朱氏で、剣荔王と号した。貞観三年(629)、遣使して帰順し、その地を渝州に隷属させた。飛頭獠なるものがあり、頭が飛ぼうとして、首の周囲に痕がめぐっているおり、妻子がともにこれを守ろうとしたが、夜になると病のようになり、頭がたちまち消え失せ、朝になると戻っている。また烏武獠があり、地は熱病が多く、あたれば薬を飲むことができなくなるから、そのため自ら歯を削ってしまう。

  甯氏があり、代々南平渠帥となっている。陳の末期、その帥の甯猛力が寧越太守となった。陳が滅亡すると、自ら陳叔宝(陳の後主)と同日に生れたから、まさに代って天子になろうとし、そこで入朝しなかった。隋兵は熱病に阻まれて進むことができなかった。甯猛力が死ぬと、子の甯長真が刺史を継いだ。林邑を討伐するに及んで、甯長真は出兵してその背後を攻撃し、また部落の数千を率いて遼東征伐に従った。煬帝は召し出して鴻臚卿とし、安撫大使を授け、送還した。またその族人の甯宣を合浦太守とした。隋が乱れると、皆地を蕭銑に付属した。甯長真は、越兵を分けて丘和を交阯に攻めた。武徳年間(618-626)初間、寧越・鬱林の地が降り、これより交・愛の数州ははじめて通じた。高祖は甯長真を欽州都督とした。甯宣もまた遣使して降伏を願い出たが、未だ報が上がる前に卒し、その子の甯純を廉州刺史とし、族人の道明を南越州刺史とした。武徳六年(623)、甯長真は大きな真珠を献上し、昆州刺史の沈遜・融州刺史の欧陽世普・象州刺史の秦元覧もまた巻いた筒状の布を献上した。高祖は道が遠く人に負担をかけることから、すべて受けなかった。道明と高州首領の馮暄・談殿が南越州によって反乱し、姜州を攻撃したが、甯純は兵で唐に援軍した。武徳八年(625)、甯長真は封山県を陥落させ、昌州刺史の龐孝泰と馮暄を挟撃して敗走させた。翌年、道明は州の人のために殺された。しばらくもしないうちに甯長真も死に、子の甯拠が刺史を継いだ。馮暄・談殿は兵で阻んで掠奪し、群臣は攻撃を願い出たが、太宗は許さず、員外散騎常侍の韋叔諧・員外散騎侍郎の李公淹を遣わして持節して宣諭し、馮暄らと渓洞の首領とともに皆降伏し、南方はついに平定された。

  大抵剣南の諸獠は、武徳・貞観年間(618-649)にしばしば州県を変乱するものは一ではなかった。巴州山獠王の多馨が叛くと、梁州都督の龐玉は晒し首とし、また余党の符陽・白石二県の獠を破った。その後眉州の獠が叛くと、益州行台の郭行方が大いにこれを破った。しばらくもしないうちにまた洪・雅二州の獠を破り、男女五千人を捕虜とした。この年、益州の獠がまた反き、都督の竇軌が攻撃を願い出た。太宗は答えて、「獠は山険によっており、まさに慰撫するには恩信をもってしなければならない。これを脅すに兵の威をもってすれば、どうして人の父母の思いとすることができようか」と言った。貞観七年(633)、東・西の玉洞獠が叛き、右屯衛大将軍の張士貴を龔州道行軍総管として平定させた。貞観十二年(638)、巫州の獠が叛き、夔州都督の斉善行がこれを撃破し、男女三千人あまりを捕虜とした。鈞州の獠が叛き、桂州都督の張宝徳がこれを討伐・平定した。明州の山獠がまた叛き、交州都督も李道彦がこれを撃って敗走させた。この年、巴・洋・集・壁の四州の山獠が叛き、巴州を攻撃したから、右武候将軍の上官懐仁を遣わして壁州にて破り、男女一万人あまりを捕虜とし、翌年平定した。貞観十四年(640)、羅州・竇州の諸獠が叛き、広州都督の党仁弘を竇州道行軍総管として攻撃させ、男女七千人あまりを捕虜とした。太宗は再び高麗を征伐しようと、船を造るために剣南にて諸獠を使役したが、雅・邛・眉の三州の獠がその擾にたえず、互いに誘って叛いたから、詔して隴右・峽兵の二万を発して、茂州都督の張士貴を雅州道行軍総管とし、右衛将軍の梁建方がこれを平定した。

  高宗の初め、琰州獠が叛くと、梓州都督の謝万歳・充州刺史の謝法興・黔州都督の李孟嘗がこれを討った。謝万歳・謝法興が入洞して招慰したが殺害された。顕慶三年(658)、羅州・竇州の生獠の酋領の多胡桑が衆を率いて服属してきた。上元年間(674-676)末、納州の獠が叛き、故茂・都掌の二県に侵攻し、吏民を殺し、役所に放火したから、黔州都督に詔して兵を発してこれを撃った。大暦二年(767)、桂州の山獠が叛き、桂州を陥落させ、刺史の李良が遁走した。貞元年間(785-805)、嘉州綏山県婆籠川の生獠の首領の甫枳兄弟が生蛮を誘って反乱し、居人を脅かしたから、西川節度使の韋皋はこれを斬り、その首領の勇于らを招いて出頭・降伏させた。ある者が柵を東凌界に増やして守ることを願ったが、韋皋は従わなかった。「やつらは城がなければ、害なんてないんだ」と言った。獠もまたこれより境を騒がせなかった。

  戎州・瀘州の間に葛獠があり、山や谷、草木が生い茂っている地方を拠点として住んでおり、数百里を隔てた。習俗は叛くのとを喜び、州県の慰労がなければ、必ず徒党数千人をあわせて、楯を持って戦った。酋帥を奉って王とし、「婆能」と号し、出入する前後には旗を立てた。大中年間(847-860)末、昌・瀘の二州の刺史は貪欲で、弱者に布や羊を強制的に獠市で米麦一斛と換えさせ、価値の半分しか渡さなかった。群獠は訴えて「これだけでは賊となって死ぬだけだ!」と言ったが、刺史は二人の官吏を呼んで殴って「すべて私の部下がやったことで、私の過ちではない」と言ったから、獠は互いに見合わせて大いに笑い、遂に叛いた。酋長の始艾を立てて王とし、梓州・潼州を越えて、通過した所は放火して脅した。刺史の劉成師はその徒党の降伏を誘ったが、首領七十人あまりを斬った。ほかの衆は逃げて東川に到り、節度使の柳仲郢が諭して降伏させた。始艾は稽首して罪を請い、柳仲郢は許してこれを遣した。

  成都の西北二千里あまりに附国があり、思うに漢代の西南夷であろう。その東部に嘉良夷があり、姓氏がない。地は縦八百里、横四千五百里である。城柵がなく、川や谷に住み、石を積んで住居とし、高さ十丈あまり、高下をもって差とし、狭い戸をつくる。内より上に通じる。王・酋・帥は金の飾を首につけ、胸に金の花を垂らし、直径三寸ある。地は高く涼しく、風は多いが雨は少なく、小麦がよくみのり、白雉が多い。嘉良夷は水の広さ三十歩、附国は水の広さ五十歩あり、すべて南流する、韋で船をつくる。附国の南に薄縁夷があり、西は女国に接する。


  三濮は、雲南の国境の外千五百里にある。文面濮がいて、習俗は顔に入れ墨を刻んで、青で黒く染める。赤口濮は、裸身で歯を折り、その脣を穴開けて赤くさせる。黒僰濮は、山居すること人のようであり、幅布を肌着とし、頭を貫いてこれを繋げる。男子は穀皮を着る。白蹄の牛、琥珀が多い。龍朔年間(661-663)、千支弗・磨臘とともに遣使して同じく朝貢した。


  西原蛮は、広州・容州の南、邕州・桂州の西に居している。甯氏なる者があり、あいついで豪となっている。また黄氏があり、黄橙洞に居し、それに隷属している。その地の西は南詔に接している。天宝年間(742-756)初頭、黄氏が強くなり、韋氏・周氏・儂氏と互いに助け合って、寇害となし、十余州によった。韋氏・周氏は恥じて服属に甘んぜず、黄氏を攻めて、海濱に駆逐した。

  至徳年間(756-758)初頭、首領の黄乾曜・真崇鬱と陸州・武陽・朱蘭の洞蛮がすべて叛き、武承斐・韋敬簡を推して帥とし、中越王と僭称し、廖殿を桂南王、莫淳を拓南王、相支を南越王、梁奉を鎮南王、羅誠を戎成王、莫潯を南海王とし、衆を合わせて二十万、地をつらねて数千里、任命して官吏を置き、桂管十八州を攻めた。通過した家屋は焼き払い、男女を掠奪し、さらに四年平定されなかった。乾元年間(758-760)初頭、勅使を遣して諸首領を説得慰撫し、詔書を賜ってその罪を赦し、降伏を約束させた。ここに西原・環・古などの州の首領方子弾・甘令暉・羅承韋・張九解・宋原の五百人あまりが出兵を願い出て武承斐らを攻撃し、年内に戦うこと二百回、黄乾曜・真鬱崇・廖殿・莫淳・梁奉・羅誠・莫潯の七人を斬った。武承斐らは余衆に捕縛させて桂州にいたって降伏し、すべてその縛めを解き、布帛を賜うこと差があい、釈放した。その集落の張侯・夏永と夷獠の梁崇牽・覃問および西原の酋長の呉功曹はまた兵を合わせて進攻し、道州を陥落させ、城によること五十日あまりであった。桂管経略使の邢済が攻撃して平定し、呉功曹らを捕らえた。残党はまた道州を囲み、刺史の元結は固く守って通さなかったから、永州に侵攻して、邵州を陥落させた。留まること数日で去った。湖南団練使の辛京杲は、将王国良を派遣して武崗を守らせたが、辛京杲の暴虐を怨んでまた叛き、衆千人があって、州県を侵掠した。使を発して招いたが、服従しては叛いた。建中元年(780)、叙州に城を築いて西原への道を断ったから、王国良は降伏した。

  貞元十年(795)、黄洞の首領の黄少卿は、邕管を攻め、経略使の孫公器を包囲した。孫公器は嶺南兵を発してこれを攻撃しようと願い出たが、徳宗は許さず、中人に命じて招諭させたが、従わなかった。にわかに欽・横・潯・貴の四州が陥落した。黄少卿の子の黄昌沔が敏捷・勇敢で、前後に十三州を陥落させ、士気はますます高くなった。そこで唐州刺史の陽旻を容管招討経略使とし、軍を率いて賊を襲撃し、一日に六・七度戦い、すべて破った。侵略された地はすべて回復した。元和年間(806-820)初頭、邕州はその別帥の黄承慶を捕虜とした。翌年、黄少卿らが帰順し、帰順州刺史を拝した。弟の黄少高も有州刺史となった。しばらくもしないうちに再び叛いた。

  また黄少度・黄昌瓘の二部があり、賓・巒の二州を陥落させて、そこを拠点とした。元和十一年(816)、欽・横の二州を攻め、邕管経略使の韋悦が破ってこれを敗走させ、賓・巒の二州を奪取した。この年、再び巌州を陥落させ、桂管観察使の裴行立はその軍が弱いのを軽視して、はじめ兵を発してすべて謀反人を誅殺するよう願ったが、まぐれで功があることを求め、憲宗はこれを許可した。裴行立は兵を出撃して、いよいよさらに二年がたち、斬首・捕虜が二万と妄言し、天子を騙して言い訳をした。これより邕・容の両道は殺傷や疫病により死者が十人中八人に及んだ。調達した戦費を喪失し、裴行立・陽旻を二人より、世論はこれを罪としないことはなかった。安南が兵乱となり、安南都護の李象古が殺されたから、唐州刺史の桂仲武を都護としたが、逗留して敢えて進まなかったから、安州刺史に左遷し、裴行立をこれに代らせた。ついで召還したが卒した。

  長慶年間(821-824)初頭、容管経略使留後の厳公素を経略使とし、また上表して黄氏を討伐することを願い出た。兵部侍郎の韓愈が建言して、「黄賊はみな洞獠で、城郭がなく、山険によってそれぞれが生業をなしており、急いで集まったところで死を恐れているのです。先日、邕管経略使が徳によって安んじなつかせることができず、威によって制御できず、偽って攻めたり捕縛しても、怨恨が生じるだけです。夷は性格が動きやすく、安じにくく、州県を掠奪し私怨を復讐し、小利を貪りますが大患とはなりません。裴行立陽旻が征討を建言してから、事件を起こしては功績を偽り、邕・容の両管は、日に日に疲弊し衰えていきます。殺傷や疾患によって十家のうち九家が空き家となります。百姓は怨嗟し、まるで一口から出るように、人神ともに恨み、二将とも相次いで死にました。今、厳公はもとより撫で抑える才略がなく、また継いで誤らせることになります。誠に恐れらくは嶺南はいまだ安寧の時がないのです。昔、邕・容を合わせて一道とし、邕と賊は一つの河を境としているだけで、もし経略使にここに居らせれば、兵は鎮まるところで、物も力も完璧で優れており、そのため敵人は軽々しく侵犯することはなくなります。容州は険しいことすでに甚だしく、経略使を居らせれば、邕州の兵は少なく、士卒の間は情感が流れるようで、蛮の心を開くことが容易になります。願わくば経略使を邕州に帰し、刺史を設置していただけましたら、便利なこと甚しいでしょう。また近頃南兵を発し、郷里から遠く旅し、疾病や殺傷し、増援が次々と死に、徴発がますます難しくなっています。もし邕・容から千人を募り、行営に給すれば、糧は増えず兵は訓練に便があり、守れば威力があり、攻めるに利があります。南より討てば損傷し、嶺南の人は希になり、賊のいるところは洞や砦で荒廃します。たとえその人を殺し尽くしてその地を得たとしても、政策上有益とはならないのです。容認寛恕してつなぎ止め、これを禽獣になぞらえ、来れば守り防ぎ、去れば追わず、未だに朝廷の徳が損なわれてはいません。願くば大慶に改元するによって広くその罪を赦し、郎官・御史を派遣して天子の意を丁寧に宣諭すれば、必ずよく歓呼して命を聴くでしょう。そのため威信たる人材の者を選び、経略を委ね、処理を習熟させれば、当然侵叛の事はなくなるでしょう」と言ったが、納れられなかった。

  それより以前、邕管はすでに廃止され、人々はよいとは言わなかった。監察御史の杜周士が安南に使し、邕州を通過すると、刺史の李元宗が状を申したが、杜周士は五管に従事していること三十年にもなっていたから、またその不便を知っていた。厳公素は人を遣わしてその稿を盗んだから、杜周士は憤死した。厳公素は李元宗を弾劾し、勝手に羅陽県を黄少度に返還しようとしたから、李元宗は恐れ、兵百人を率い印章を持って黄少度に立て籠もった。穆宗は監察御史の敬僚を遣わして慰撫させた。敬僚はかつて容州従事であり、厳公素と昵懇であったから、李元宗の罪を付会したが、母が老いているから驩州に流罪とし、衆は直すことがなかった。

  黄賊がさらに邕州を攻め、左江鎮を陥落させた。欽州を攻め、千金鎮を陥落させた。刺史の楊嶼は石南柵に逃亡し、邕州刺史の崔結はこれを撃破した。翌年、また欽州に侵入して、将や官吏を殺した。この年、黄昌瓘はその党陳少奇二十人を遣わして帰順して降伏を願い、敬宗はこれを受け入れた。

  黄氏・儂氏は十八州を根拠とし、経略使が至ると、一人を遣わして治所に詣でたが、次第に思い通りにならなくなると、たちまち諸州を侵掠した。横州は邕江官道にあたり、嶺南節度使は常に兵五百で防衛していたが、制することができなかった。大和年間(827-835)、経略使の董昌齢が子の蘭を遣わして峒穴を討伐・平定させ、夷はその種党、諸蛮は恐れて服属した。命に違う者があれば、必ず厳罰に処した。十八州は毎年貢賦を納め、道路は清平となった。その後、儂洞が最強となり、南詔と結んで助力した。懿宗は南詔と和約し、二洞はしばしば攻撃したが敗れた。邕管節度使の辛讜は従事の徐雲虔を南詔に使して和平を結び、美貨をもたらし、啖二洞の首領・太州刺史の黄伯蘊・屯洞首領の儂金意・員州首領の儂金勒らがこれと通交した。

  員州はまた首領の儂金澄・儂仲武があり、儂金勒とともに黄洞の首領の黄伯善を襲撃した。黄伯善は兵を瀼水に伏せ、鶏が鳴くと、その半分が渡河した頃合いを見計らって攻撃し、殺儂金澄・儂仲武、ただ儂金勒だけが遁走できた。後に兵をおこして報復しようとしたが、辛讜が人を遣わして牛酒・音楽を持って和解しようとし、そしてその母に衣服を贈った。母は賢者であり、その子に「節度使は持物を獠の母に与えました。私と好を結びたいからではありません。お前が私の子だからです。先日、兵が瀼水で敗れ、士卒はほぼ全滅し、後悔もせず、また衆を動かそうとしています。兵が怒れば必ず敗れ、私はまさに捕虜となり官のために老いた婢になるでしょう」といい、儂金勒ははっと思い当たり、兵をあげるのを止めた。


  賛にいう、唐は、北は頡利を捕虜にし、西は高昌(トルファン)・焉耆(カラシャール)を滅ぼし、東は高麗・百済を破り、威は夷狄を制し、謀略は以前にはみられなかった。交州は、漢の故封の地であり、その外は海・諸蛮にせまり、広大な土地や守りが堅い城がなかったため、守備を置くべきであったが、そのため中国兵はいまだかつて到達したことがなかった。唐が次第に弱くなるにつれ、西原・黄洞は相次いで国境を侵害し、百年あまりもたった。滅亡するとその地は南詔となった。詩に「此の中国を恵しんで、以て四方を綏んぜよ」とあるのは、夷狄を以て諸夏に先んじないことを言うのである。

   前巻     『新唐書』    次巻
巻二百二十二下 列伝第一百四十七下 『新唐書』巻二百二十二下 列伝第一百四十七下つづき 巻二百二十三上 列伝第一百四十八上

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2023年02月02日 23:11
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。