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195年

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soutoku

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195年

興平二年(漢)

皇帝

劉協(漢献帝)

皇后

→伏寿(琅邪郡東武県・父の伏完は不其侯、桓帝の娘陽安公主を娶る)

皇太子

(空位)


三公

太傅:空席

太尉:楊彪(前太常・194~196)
司徒:趙温(前衛尉・194~208)
司空:張喜(前衛尉・193~196)

その他の要職

太常:
光禄勳:[登β]泉(この年死亡・~195)→
衛尉:士孫瑞(この年死亡・~195)→
太僕:
廷尉:宣播(この年死亡・~195)→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:張義(この年死亡・~195)→
少府:田芬(この年死亡・~195)→
執金吾:伏完(皇后伏寿の父・195~)


大司馬:李傕(自称・195~)
大将軍:
驃騎将軍:張済(195~196)
車騎将軍:郭汜(自称・195~197)
衛将軍:

地方官

司隷校尉:?
豫州刺史:郭貢《後漢書鄭孔荀列伝荀彧》?
河南尹:駱業《後漢書皇后紀靈思何皇后》 ?
徐州牧:劉備
冀州牧:袁紹(191~202)
兗州牧:曹操(前東郡太守・この年正式に任官・195~)
荊州牧:劉表(192~208)


主な事件

  • 興平二年春正月癸丑、天下に大赦する《後漢書孝献帝紀》
  • 二月乙亥、李傕は樊稠を殺し、郭汜と相攻める《後漢書孝献帝紀》
  • 三月丙寅、李傕は皇帝を脅し、その軍営に御幸させ、宮室を焼く《後漢書孝献帝紀》
  • 二年春、曹操は定陶を襲い、濟陰太守の吳資は南城を保つ。落城せぬまま呂布が到着し、合戦となる。又撃破する《三国志魏書武帝紀操》
  • 夏四月甲午、貴人の伏氏を立てて皇后と為す《後漢書孝献帝紀》父の伏完は執金吾に還る《後漢書皇后紀献帝伏皇后》
  • 丁酉、郭汜は李傕を攻めた。その際矢が御前にも及んだ。この日、李傕は皇帝を北塢に移した《後漢書孝献帝紀》時に皇帝は南塢に在って李傕は北塢に在った。流矢が李傕の左耳に当たり、李傕は皇帝を北塢に迎えようとしたが皇帝は従おうとせず、無理矢理実行した《後漢書孝献帝紀に引く山陽公載記》
  • 大いに旱魃。《後漢書孝献帝紀》
  • 五月壬午、李傕は自ら大司馬と為す《後漢書孝献帝紀》
  • 夏、曹操は鉅野に駐屯していた呂布の將である薛蘭、李封を攻めた。呂布は救援に駆けつけたが薛蘭、李封は敗れた。呂布は逃走し遂に二将等を斬る。呂布はまた東緡の陳宮が率いる萬餘人と來戰した。時に曹操の兵は少なく、伏兵を設けて大いに破る。呂布は夜の間に逃走し、曹操はまた攻め、定陶を抜く。兵を分けて諸縣を平定した。呂布は東奔して劉備を頼った。張邈もまた呂布に従う。その弟の張超は家屬を守って雍丘を保つ。《三国志魏書武帝紀操》この時兵を皆出して麥を刈り取らせていた。手元には千人にも満たなかった。屯營を固めず、婦人に命じて守陴させた。屯の西に大きな隄があり、その南には樹木が幽深であった。呂布は伏兵があるのではないかと疑い軍を引いて南十餘里に駐屯した。明日再び來たが曹操は隄の裏に兵を伏せ、半分の兵を隄の外に出した。呂布は徐々に進んで輕兵に命じて挑戰した。軍はぶつかった。伏兵は悉く隄を乗り越え、步騎並んで進撃し大いに破る。鼓車を獲得し、その營まで追撃して還った。《三国志魏書武帝紀操に引く魏書》
  • 六月庚午、張済が陝から来て、李傕と郭汜は和解した《後漢書孝献帝紀》
  • 秋七月甲子、車駕が東に帰る。郭汜は自ら車騎将軍と為し、楊定を後将軍、楊奉を興義将軍、董承を安集将軍と為す。並んで車駕を侍送する。張済は驃騎将軍と為し、陝へ還って屯した。《後漢書孝献帝紀》
  • 八月甲辰、新豊に御幸する。《後漢書孝献帝紀》
  • 秋八月、曹操は張邈の弟の張超が守る雍丘を囲む。《三国志魏書武帝紀操》
  • 冬十月戊戌、郭汜はその将伍習を使わして夜襲を掛け学舎を焼く。皇帝を脅かし輿に乗せる。楊定、楊奉は郭汜と戦い之を破る。《後漢書孝献帝紀》
  • 壬寅、華陰に御幸する。そこから南に露営する。その夜赤い気が紫宮を貫く。《後漢書孝献帝紀》
  • 張済がまた叛き、李傕、郭汜を合わさせた。《後漢書孝献帝紀》
  • 冬十月、天子は曹操に兗州牧を拝す。《三国志魏書武帝紀操》
  • 十一月庚午、李傕、郭汜らと東澗に於いて戦い、皇帝の軍は敗れる。光禄勳の[登β]泉、衛尉の士孫瑞、廷尉の宣播、大長秋の苗祀、歩兵校尉の魏桀、侍中の朱展、射声校尉の沮儁は殺される。《後漢書孝献帝紀》
  • 壬申、曹陽に御幸し、田中に露営した。曹陽は澗の名で俗にいう七里澗。楊奉、董承は白波賊の帥である胡才、李楽、韓暹及び匈奴の左賢王去卑を引き入れ、兵を率いて奉迎した。李確*らと戦い之を破る。《後漢書孝献帝紀》
  • 十二月庚辰、車駕を進めるも李傕らまた追い付いて戦い、皇帝軍は大いに敗れる。宮人は殺略され、少府の田芬、大司農の張義らは皆戦没した。進んで陝に御幸し、夜黄河を渡った。《後漢書孝献帝紀》
  • 乙亥、安邑に御幸する。《後漢書孝献帝紀》
  • 十二月、曹操は雍丘を潰ぶし、張超は自殺。張邈の三族は皆殺しされた。張邈は袁術のもとへ赴き救援を請うが殺された。曹操は兗州を平定し、遂に東略の基となす。《三国志魏書武帝紀操》

  • 是歳、袁紹は将の麹義を遣わして公孫讃*と鮑丘で戦い、公孫讃*は大敗した。《後漢書孝献帝紀》




誕生者




死没者





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