このSSは豊姫の23スレ目のSSと世界観が繋がっています
先にObserver of the monthを読むと
このSSがさらに楽しめると思います


『前編:Losing White, 』

 ――彼ら秋の葉のごとく群がり落ち、狂乱した混沌は吼えたりけり。
 ジョン・ミルトン『失楽園』

 私の意識が、深く暗い深淵の底に沈んでいた時。目や耳には何も感じなかったけど、肌の感覚だけは明瞭に覚えていた。温かさに包まれて、硬いような柔らかいような何かに抱えられていた。

 意識が浮上する際、夢を見た。そこでは私は、お姉様によって半死半生にまで追い詰められ、そのままどこかに落とされていた。落とされて、私は、重力によって自身が愛しき地から引き離されていくのを、虚しく手を伸ばしながら見ているばかりだった。そして、硬い地面に激突して、跳ね上がるように急激に意識が浮上して、私は叫び声を上げながら目が覚めた。

 放心気味に、私は荒い呼吸を繰り返していた。恐ろしかった。途轍もない孤独感が込み上げてきて、それと心なしか肌寒い。

 「大丈夫ですか、依姫様」

 そうして障子を開けて入ってきたのは、かつて私の飼い兎であったレイセンだった。どういうわけか彼女は自身のそばに、目隠しがされた男を一人控えさせていた。

 「レイセン……、どうしてここに……。あれ、ここは……」

 見慣れた部屋ではなかった。月の私の部屋とはまず造りが違う。それと、障子の向こうから差し込む眩い光は……。

 「ここは地上の永遠亭ですよ、依姫様。あなた様は、半死半生で打ち捨てられていたところ、ここに運び込まれたんです」

 静々と告げてきた。

 「地上っ……、そ、そんな!……」

 飛び起きて、私は障子を開けて外に出た。眼が眩むほどの光を受けた。思わず腕で目を隠す。そのままゆっくりと上を向くと、青い空の中でかんかんと照る純白の太陽が見えた。そしてそこらじゅうから漂ってくる穢れの粕。

 途端に私は力が抜けた。覚束ない足取りで、履物も履かずに縁側を下り、呆然と私は空を見上げていた。そのうち、目元を日の光から隠していた腕が落ち、項垂れた。

 「そんなに動いては傷に障りますよ」

 レイセンは私の肩に手を回して私を起き上がらせて、室内へ戻した。私が寝ていた布団まで誘導して、私を寝かせた。絶句していた私は、なんの反応も示せないでいた。

 「気が付いたみたいね」

 そう言いながら入ってきたのは、私がかつてお世話になった八意XX様だった。何故か、こちらもレイセンと同様、端正な顔立ちの男をそばに控えさせていた。

 驚愕して私は我に返った。

 「八意様! 私は……、私はどうしていたのですか!」

 本来なら、私がさっさと記憶の整理をつけて事情を話すのが正しいのであろうけど、取り乱していたものだから、縋る心持ちで無礼にもそう尋ねてしまった。

 八意様はそれを咎めることはせずに教えてくれた。

 曰く、私は半殺しにされた状態でこの幻想郷に放られていたらしい。そこを通り掛かった、○○という男性によって保護され、ここ永遠亭に運びこまれ八意様に治療されたのだという。

 「そうなのですか……。あの、その節は、どうも……」

 私は布団から起き上がって座り直し、手を突いて深々とお辞儀をした。

 「気にしなくてもいい、人が死にかけてるのを助けないのは寝覚めが悪いし。――それにしても驚いたな、俺が発見した時はもう原形を留めていないくらいだったのに、もうそんな元通りになってるとはな。駄目元で運んだ甲斐があったよ、……おかげで服が駄目になったがね」

 そう言って彼はからからと笑った。優しい声音で話していたから、最後の皮肉の言葉は、単なる嫌味ではないと分かり、少し安心した。

 「それで、一体全体何があったのかしら」

 八意様が話しを進めるために促した。

 「はい……」

 ひとまず了承の応答をして、私はそのまま沈思した。すると、先ほど見ていた夢の内容が頭の中で閃いた。それまでただの夢だと感じていたものが、即座に実感として胸に染みてきて、じっとりと脂汗が滲んでくる。

 「お姉様です……」

 私はどうにかその言葉を絞り出し、事の次第を話しだした。

 お姉様が地上の男子を月に連れ込んだあの事を。

 「なるほど……」

 何かを察したように八意様は呟いた。その推察が、私がこれから言わんとすることまでのものなのか、或いはそれ以上のことにまで及んでいるのかは分からない。

 「で、あなたはどうしたの」

 「当然、帰すように言いました」

 けどお姉様は、まるで私が、お姉様自身の大切な物を奪わんとする外敵かのように反発してきた。いつものお姉様ではなかった。最早別人と言っても過言ではない。だって、私たち今まであんなに上手くやってきたのに、ただの苦言であそこまで嫌悪されるなんて……。

 お姉様から、あの男子への強い執着を感じた私は、彼を送り返したとしても、きっとまた連れてきてしまう、さてはあの男子への執着を弥増しにしてしまう。その危惧から、私は強硬手段を取ろうとした。即ち、かの男子の抹殺を図った。

 「そのままお姉様と一戦を交え、私が敗北しました。思い出せるのはここまでです……」

 とは言うものの、今のこの状況を鑑みれば、その後どうなったのかは火を見るよりも明らかだった。私はお姉様によって、地上へ放り出されたのだ、それも半死半生の状態で。悲憤といった激しい感情が起きるよりも、ただ沈鬱な気であった。頭の中は同じような想念が渦巻いていて、氾濫した川の如く混沌としていた。

 「つまり、豊姫に半殺しにされて地上に送り捨てられたということね、それは非道いわ」

 淡々と八意様は、まるで状況について書いた文書でも読み上げるかのような口吻で言った。それから――、

 「気持ちは分かるけど」

 と、このように、今度は情念を込めて呟いていた。私は耳を疑った。八意様があの事について気を荒げず平静でいるのは相変わらずとしても、お姉様の所業については一部共感する様子を、それも分かりやすいくらい見せるなんて。

 これが地上の穢れの影響なのだろうか。レイセンにしても、八意様の発言を諫める素振りは一切見せなかった。おろか、嬉しそうに笑みの声さえ漏らしていた。

 「ともかく、豊姫と膝を交えて話す必要があるわね。さりとて、そのためにしたためる書簡を届ける方法は限られてくるし、あなたを月に戻す方法もまた限られてくる。まずは時間が要るわ」

 「時間、ですか? ということは、既に方法は考えてあると?」

 「そうね」

 彼女は頷きながら、さらっと言った。

 「八雲紫に頼むわ」

 「えっ……」

 八雲紫と言えば、過去二度に渡って月の都を襲撃したスキマ妖怪だ。事もあろうに八意様が当たり前のようにそのような提案をするとは予想だにしていなかった。

 無論反対した。月と彼女は敵対関係、しかして過去二度の戦いの内の後のほうは、起こってからまだまもない、ついてはまだ残り火が燻ってさえいる。そんな時分に私があの妖怪に狩りを作るようであれば、それは多大なる穢れである。何より、あの妖怪に辱めを与えたお姉様の妹である私に協力するとは到底思えない。

 「それなら問題ないわ、あのスキマ妖怪には、あなたと豊姫を取り持つことへの協力、及びあなたを月に送り返す意義があるのだから……」

 至って平然として八意様は返した。

 「その意義とは――何なのですか?……」

 私がそう尋ねると、八意様は意味深長な微笑を浮かべ、

 「そのうち分かるわ」

 とだけ告げてきた。

 「まあ、あれね、とにかく私が交渉しといてあげるから、待ってなさいってこと。依姫には席を外してもらうわ、彼女との交渉で話がこじれる懸念があるから。その間は……、そうね、この機会に地上を直接視察するというのも良いんじゃないかしら」

 「地上の視察を?」

 悪い話ではない。でも、私の面相は例の戦で地上の何人かに知られてしまっている。その問題はどうするのかと訊くと、私の身元を保証する書状を用意すると切り返された。また、私を独りで行動させるわけにもいかないとして、八意様はこともあろうに、私を救助した男○○に、私に付いていくように頼みだしたのである。私も彼も難色を示したのだが、永遠亭の者は現在手を離せないことと、同行者は人間であることが望ましく、頼める人物が彼しかいなかったことで、しぶしぶながらも私たちは同意することとなった。

 なお、○○は私に同行することを承諾する間際、

 「ところで、●●、お前行ったらどうだ。遊郭の元男娼なら女のエスコートくらいお手の物だろ」

 と、○○は、八意様の隣に居る男に向かって冗談めかして言っていた。

 「ははは! ぶっ殺すぞ!」

 「ははははは!」

 ○○と、●●と呼ばれた男はお互いに朗らかに笑っていた。地上では斯様に物騒な冗談がなされるのかと、つくづく地上の者の感性はよく解らないものだと思った。

 ふと私は八意様を見た。八意様は、笑っている●●を一瞥して、それから○○を、盗み見るようにねめつけていた。

 「おっと……、ごめんよ、先生。何もこいつが卑しい奴だって言ってるわけじゃないんだよ。……まあ、……幻想入りした原因はこいつの身から出た錆なんだけどな」

 すまなそうに、それでいておちゃらけた調子で○○は両手を上げて謝った。

 「てめっ、この野郎!」

 「ふははははは!」

 半笑いでいきり立つ●●と、それを見てげらげらと笑う○○。そんな二人の様子を見て、八意様はますます不機嫌な面持ちとなっていた。ほとんど無表情に等しいが、ふつふつと煮えていく憤りが、目に見えて浮かんでいる。私はこの表情を見たことがある――そんな気がする。


 そして思い出した。あれはお姉様と同じもの。あの男子を取り上げようとした時に私に向けた、嫉妬にも似た情が瀰漫した面相。――でも八意様と違ってあれは、さながらケダモノの母が、我が子を狙う外敵に牙を見せるみたいに露骨だった。

 その日、一日中、あの表情が忘れられなかった。八意様のあの表情が、お姉様のあれと重なって見えて仕方がなかった。表面では、片や無、片や威嚇で違っているはずなのに、各々が孕む情念は全く同じ。いずれにも共通しているのが、そばに居る男性の存在。もし、その男性の存在が、彼女らに影響を与えているのなら?お姉様がおかしくなったのも、あの少年の存在が?……だとしても、お姉様から彼を取り上げることなんて出来るのだろうか。もう私はお姉様に立ち向かえる気がしない。あの恐怖が忘れられない……。倒れた私に執拗に追い打ちを掛けられた時……、その時の鈍痛や激痛……。

 ひとまずお姉様に関しては、八意様にお任せしよう。それで私は、明日の視察で、地上人のことについてよく知らなければならない。

 何故お姉様ほどの方が、地上の――それもただの無力な子供にほだされたのか。私はどうしてもそれを知りたい。地上人が月人に与える影響というものに、何か致命的な見落としがあるのではないか。

 然り而して翌日、予定通り私は人里へ出かけることとなる。

 ところで――

 「私の剣は、どこに?」

 「少なくとも俺があんたを見つけた時、周辺には何も無かったし、後で血痕を辿ってもう一度確認したが、やっぱり無かったな」

 と○○が答えた。

 「ま、月の物をむざむざ地上に落としておくわけもないわよね」

 そうおっしゃられたのは、かつての月の姫君――輝夜姫様であらせられた。かの方だけは、どういうわけか男をお連れになっていなかった。

 「珍しく早起きですね、姫様」

 と茶化すのはてゐ。姫様は、

 「よくぞ聞いてくれたわね!」

 意気揚々に語られた。何でも、かの方は、藤原妹紅なる者と男の取り合いをなさっているらしく、先日その男が藤原妹紅に連れ去られたというので、取り返しにおいでになるのだそうだ。

 「で、何か御用があったんじゃありませんかね、姫様。それだけの気まぐれってわけじゃあないでしょう」

 砕けた丁寧語で○○は切り出した。ああそうそう、という具合に姫様は話を戻され、パンパンと手を叩いた。それに反応したてゐが、兎たち――因幡たちに合図を出した。彼女らの内、二匹の因幡が、布に包まれた一本の棒状の物を持ってきた。これを○○に差し出し、彼は受け取った。

 「刀?」

 「そ、刀。本来なら依姫に渡すとこだけど、如何せんその子はまだ完治していないし、今回のお出かけも、療育(リハビリ)に兼ねている部分もあるから。だからあなたが彼女を守ってあげなさい」

 「いや俺よりこのお嬢さんのほうがゴツそうなんですけど。それに刀使えないし」

 そこはかとなく揶揄されている気がする。

 「男でしょ。それに、女ってのは、たとえ自分が男より強くても、男に守られていると思うと安心できるものなのよ。――とは言え、人間相手はまだしも、妖怪はあなたの手に余るでしょうということから、本当に無理だった場合は刀を依姫に渡して、任すのよ。勿論、渡すのはそっちの裁量で」

 そう結ぶと、姫様は懐から一通の書状を取り出して○○に渡した。

 「責任重大だ……」

 受け取り○○は渋い顔で呟いた。

 「まあ請け負ったからにはちゃんとやるけどね。さてお嬢さん、行こうか」

 ○○は書状を懐に仕舞い、刀を肩に担ぐと、手招きをしながらやおら歩き出した。

 「綿月です。綿月依姫」

 彼の言う『お嬢さん』という呼称が気になったので、それを改めさせるように私は自己紹介をした。

 「ん、おお、そうか、よろしく。改めて自己紹介するよ、俺は○○っていうんだ」

 振り向いて彼は手を差し出そうとした。が、そうしようとした刹那に、ふと何かに気付いた態度を見せたのち、引っ込めて、その右手を左手で押さえ付ける仕草を見せた。それからバツが悪そうに視線を泳がせて、

 「さて綿月さん、行こうか」

 先ほどと同じ調子で言いながら、踵を返して歩き出した。一寸逡巡して私は後に続いた。

 亭の外にある入り組んだ竹林を案内役として、藤原妹紅という女子が居た。御札の張られた赤い袴を履いた、白髪の娘であった。姫様と一人の男を懸けて争っている女というのは、どうやら彼女のことであるらしい。が、そのそばに男は居ない。

 「ところで、□□はどうしたんだ」

 ○○が訪ねた。

 「あの人を連れてのこのこ永遠亭に来るわけないでしょ。バラバラになってもらって、ちゃんと地面に隠したよ」

 「そ、そうか……」

 物騒な冗談を言うさすがの地上人も、肉体を解体して地面に埋めるという行為をそのまま受け取るのは抵抗があるらしい。しかしながら、藤原妹紅のその行いは既に何度も行われているからなのか、どことなく彼からはそういったことに慣れた様子が看取された。

 竹林を出て案内人と別れ、しばらく歩くと人里に着いた。木の塀に囲まれた向こうに家屋が立ち並ぶのが見える。一ヵ所、門があった。その両脇には槍を持った人間が一人ずつ佇んでいた。○○はその片方に軽く挨拶をして、中に入っていく。私も同様に入っていくのだが、その際に、その人たちから強い視線を感じた。私が月人だとかの異物だと早速気取られたのだろうか。その懸念を告げると、

 「美人だからだろ」

 出し抜けに言われたものだから、あまり実感は湧かなかった。異性に対して美しいと感じる場合、それは得てして生殖的な意味合いを包含している。今の二人も、私をそのような眼で見ているのかと考えてみても、私としては、果たして自身がそういう存在であるのか疑問なので、彼らのそういった劣情は、絵に描いた餅に涎を垂らしているのと同じくらい不毛なのではないか、などと思ってしまう。

 「木で鼻を括ったみたいな物言いだな」

 ○○は呆れ返っていた。

 「ところで、あなたは素っ気なく私に美人と言ってましたね」

 「言い慣れてはないな。俺だって、こんな佳人と一緒に歩くことになってどぎまぎしてるんだ。
 こういうリップサービス……御世辞は、もっと相手に敬意ってものを見せなくちゃいけないんだがな」

 自身の頭を、撫でるように掻きながら○○は歯切れ悪そうに言った。

 「御世辞?」

 「言葉の綾だ、語彙力が無いんでね。さて、まずはどこから行くか……。あんたのご希望は?」

 「そうですね……、出来るだけ穢れの多そうな場所を、見てみたいのですが」

 地上での表面的な穢れのみではなく、もっと深い穢れというものがどのようなものであるのか。

 「そんなとこ行きたいのか。まあ……、そっちがいいなら構わないけど……」

 訝みながらも○○は了承してくれた。で、彼は少しの間考え込み、

 「やっぱあそこしかないかな……」

 と言って、案内を始めた。それで連れてこられたのは、

 「賭場だよ」

 薄暗く寂れた座敷の中で、刺青をした男が、茶碗型のざるに二つのサイコロを入れ、丁か半かと訊く。すると、その対面に座った男たちがこぞって、丁だの半だのと言い手元の木札を差し出していく。

 「みんなここで、自分が汗水たらして稼いだ金を、膨らましたり、溶かしたりするんだ」

 そう言いながら○○はいくらかの金を木札に換えて、空いてる所に適当に座ったのである。一人だけ立っているのも落ち着かないので、私もその後ろに座って、場を覗き込む。

 木札はあっという間に無くなった。○○は手持ちの木札を三つに分け、一回の勝負につき元金の三分の一を賭けていく。一回目は負け、その次では勝ち、後は負け越し。

 「今日は負けだな」

 そう宣言して彼が立ち上がろうとすると、

 「何だい、もう帰っちまうのかい、○○さん。いつもだったらもっとやってくのに」

 座敷の奥のほうに居た年配の男が話し掛けてきたのである。

 「今日はあまり手持ちが無いんだよ」

 「なら貸すぞ。……担保がありゃの話だがね」

 と言って、男はじっとりとした目つきで私を見やった。そぞろに感じる不快さに、私の肌が粟立った。この男だけではない、ここの賭場の関係者一同、並びに客たち、それら全員が私に対して無粋で不埒なな視線を向けている。まさに四面楚歌。私に掛かればこの場に居る者全てなんてひとひねりだ。けど……、どうしてか今の状況が、手負いの私が捕食者に囲まれているように思えて、心細かった。

 「やめとけ」

 その○○の声に抑揚は無かった。直後に彼は、懐から取り出した書状を開いて周囲に見せびらかし、

 「彼女は永遠亭預かりの身だ。この通りお墨付きさ。手を出すとやべえぞ」

 告げられて、この場に居る誰もが、さっと顔を青ざめさせた。そんな彼らを一瞥して○○はその場を後にし、それに追従して私も座敷を出た。外の空気が清浄に感じる、汚れた地上の空気のはずなのに。彼の言う通り、あそこは確かに、この世の中で穢れが多い場所であった。むさ苦しい男たちの様々な欲望が醸す熱気や瘴気のるつぼだ。

 「すまないな」

 「え?」

 唐突に彼が謝罪をしてきたので、私は素っ頓狂に聞き返した。

 「危ない目に遭わせちまった。それと、あんたを餌に、この書状の効力を試すようなことをな」

 「いえ、行きたいと言ったのは私ですので……。それで、その、私を餌にとは、どういう意味で」

 「実は……あんたみたいな器量良しがああいうとこ行けば、目を付けられることは――確証こそ無いが――およそ予想は付いていた。それで敢えて連れてったんだ。で、予想通り連中はあんたにちょっかい掛けたわけだ。それでこの、姫様の母印が押された、あんたの身を保障する書状を見せた次第というわけさ。あいつらは人里で結構幅利かせてるヤクザもんで、そんな奴らに効果があるということを確かめられて、尚且つ、人里のゴロツキがあんたに手を出さないよう奴らに手を回させることが出来た」

 「そういうことだったのですね……」

 先ほどはいささか怯えた私だが、それでも彼奴らのような手合いに後れを取ることはない。けど、もしどこかで不届き者に絡まれた際、騒ぎを起こすのは宜しくないだろう。この幻想郷の人里では、私の顔は当然知られていない。だからこそ、何も知らずに手を出す輩が居る。むやみに騒動を起こさずに牽制をするのなら、あれは有効な手だったのかもしれない。

 「事情は察しました。あなたのお気遣い、痛み入ります」

 「そう言ってもらえると、気が楽になるよ。なら、もう一つ、俺にとって得だったことをぶっちゃけても怒られないかな」

 若干の笑いを含ませながら○○は口を切った。

 「得、ですか。それは一体」

 「あんたの前で格好付けられたこと」

 「……、ふふ……」

 卒然と、実にあっさりとしたオチを付けられたものだから、思わず顔が綻び、笑みがこぼれた。

 「さて、さすがにまた変なとこに連れてくのも何だし、今度は無難に茶屋とかにでも行こう。俺の行きつけのな」

 「地上の食物であれば、永遠亭で頂きましたけど……。それより、地上の食物を摂取するのは、避けたいところなのですが……」

 「なあに、下手な物は食わせない。ま、ももんじ屋で獣の肉を食うよかましだろうさ」

 「そんないい加減な……」

 けど結局、流されるままに彼の言う茶屋について行くのであった。それで、その店と思しき所に来た。赤い傘の下に、赤い敷物が被せられた腰掛け台が三つ。話に聞いていた茶屋という物に合致するので、間違いないのだろう。

 「あ! ○○さん、いらっしゃい!」

 私たち二人がそこに腰掛けると、綺麗な色の着物の上に前掛けとたすき掛けをした、年頃の可愛らしい娘子が話し掛けてきた。俗に言う看板娘という者か。

 ふと娘は、○○の隣に腰掛ける私に目を移した。すると、一瞬、戸惑ったように僅かに笑みが崩れて固まった。彼女は須臾にして、あたかも何も無かったみたいに再び満面の笑みを見せると、

 「あら、そっちの人は?」

 虚心坦懐に尋ねてきたのである。

 「俺の担当の所の関係者ってところか。ちょっと込み入った事情があって向こうで世話になってる。で、こっちに居る間に人里とかを見ておくってんで、俺が案内することになった」

「へえ……」

 彼女は、固定された微笑みでしげしげと私を見た。妙に居心地の悪くなる視線である。直感的に私は、お姉様や八意様のものと同じ類のものであると思った。しかしこちらの場合、お姉様らのような過激なものではなく、どちらかというと探るような眼であるよう見受けられた。

 「なーんだ、つまんないのー。てっきり、ついに身を固めたりするのかと思ったのに」

 「俺は結婚なんてしない、責任が大き過ぎるからな。独り気ままに生きて孤独死のほうが楽だ」

 ○○はとぼけた調子で笑った。

 「好きな人の人生を背負うのがそんなに怖い? 無鉄砲に行動して、後の苦労は未来の自分たちに押し付ける、それが結婚なんだっておっ母さん言ってた」

 「ほっとけ。ほら、さっさと団子持ってこい」

 しっしっ、と○○が手を払い、女の子は、べー、と舌を出しながら店に戻っていった。

 「随分と好かれてるようですね」

 私は敢えて茶化す風に言った。

 「止してくれ、そんな暑苦しいもんじゃない」

 「そうでしょうか。彼女、お姉様があの少年に向けていた眼と同じものをあなたに向けていましたけど」

 「そうかい、それは嬉しいもんだ」

 そうして何も言わなくなる○○に、それ以上踏み込めなかった。しばらくの間沈黙が流れ、それまでの会話の流れが薄れだした頃、はたと、女が男に向ける思慕という話題から、ある疑問が浮き上がった。

 「あの……、その……、男女の間の恋慕というのは、如何様なものなのでしょうか」

 「どうした」

 「いえ、ちょっと気になって……。お姉様の事もあるのですが、そのほかにも、八意様やレイセン、てゐ、姫様らのこともあったもので。……八意様も随分と変わられてしまいました。レイセンだってそうです。彼女らの隣には、必ず殿方が居ます。さては、いずれも強い執着によって結ばれているようにしか見えないのです」

 何かがおかしい。八意XX様が相手だったものだから、つい言われるがままに従ってしまったが、そもそも私を月に戻すまでの暇潰しと言えど、何の準備も無しに地上の視察だとか、その御守として○○をあてがうのはどういうことなのだろう。

 「致命的な何かが大きく欠けた人間ほど、それ埋めるための何かに執着する。而してこれは同時にその人間の弱点ともなり、謂わば肝心を外部に曝しているに等しい状態とも言える」

 私が沈思していたら、不意に○○が語り出した。

 「まず八意先生の情夫だが、――名前は言ったっけな――●●と言って、俺とはこの幻想郷に来る前から友達だった。俺が外に居た頃では、部屋に血痕を残して行方不明になったとだけしか知らなかったが、ここで再開して詳しく聞いてみると、何と痴情のもつれで心中させされて、ここ幻想郷に来たたんだと。で、幻想入り後、女性用遊郭で働いていたんだが、そこで八意先生に見初めらて身請けされたってわけだ。次に鈴仙の男、■■だが、●●に拠れば俺の前任の運び屋だった奴で、鈴仙による事故で感覚器官がぶっ壊れて永遠亭で療養している。ただ、失った五感の代わりに物の波長を感じ取る器官が発達したから生活には困らないんだそうだ。俺もよく話すが、面白い奴だ。尤もどういうわけか女が発する波長にだけは鈍感になるけどな」

 「そう言われれば、彼は全く私に対して意識を向けてきませんでした」

 「あとは察してくれ。で、何だっけ、恋愛がどうとかだったな。そうだな、根底には、生きたい、残りたいって思いがあるんだろう。だから何かを残したがる。血とか、思想とかな」

 「なーにー、さっきは所帯持つ気なんてないって言ってたくせに、恋愛話?まさか遠回しに口説いてるの?」

 いきなり声を掛けられたから驚いた。振り向くと、先ほどの娘が、団子を持ってそこに居た。

 「こんな綺麗な人、落とせるわけないじゃん。それに、すぐに帰っちゃう人なんでしょ」

 ――そうですよね?

 と、彼女は、囁くように私へ言った。またあの眼だった。一抹の攻撃的な情と、不安げな情が入り混じっていた。勿論見えたのは一瞬だけだった。さあらぬ体で彼女は団子を私たちに渡すと、また戻っていったのであった。

 「また跡形もないことを……。さ、遠慮せず食べなよ」

 手で私に促し、○○は自分の分の団子を一口頬張った。私は団子を一本取って、これを見つめる。一見して鮮やかなこの三色団子も、穢れに満ち満ちた地上の食物であり、食欲をそそられるこの見た目も、誘惑でしかない。

 食そうと開きかけた口が、躊躇して閉じる。もう一度○○を見やった。彼は平然と団子を口に運んでいる。私は、それを真似るような心持で、団子を一つ食べた。

 「美味しい……」

 口の中で咀嚼する度に、控えめながらも豊かな甘みが団子から溢れだす。その甘みが私の頭の疲れを癒してくれた気さえする。

 この味は、私の思い出に深く刻まれる。

 今日一日で私の中に流れ込んできた情報は多く、これらをどう総括したものかと戸惑う。

 それは就寝しようと布団に入った時に顕著となり、毛布の下で私は目を閉じながら頭の中で忙しなくそれまでの事柄を反芻していた。

 生命を蝋燭に例えるなら、地上の命は、吹き荒ぶ風の中で懸命に燃える炎と言える。激しく燃え上がるほどに穢れに染まり染まり、然れどもそうせずにはいられないから燃え続ける。そうやって引き延ばした寿命を過ごす間、自身の残すモノを決める。

 他者に施す者、他者から奪う者。真理の探求に生涯を捧げる者、無為に時を浪費する者。彼らいずれも、自分の何かを残したいという思いを持つが故に、その道を走る。自らが永遠に生けること叶わずとも、子供たちに血や思想、またある時は団子の味を伝え、子々孫々に自分を託そうとする。

 次の日も同じように。またその次の日も、地上人の人情というものを知り、その考えへの確信をますます強めていく。

 でも気が付けば、八意様は私が月へ帰るための段取りを既に終えていて、私は月に帰れるようになっていた。帰郷の当日、永遠亭以外の面々で居合わせたのは、あの忌々しいスキマ妖怪の他に、○○もだった。

 ○○は……彼は私にとって不思議な人だった。自己紹介の時、握手をしようと手を差し出そうとして、私に気を遣ったのかその手を引っ込めた。けど握手とは敵意の無いことを示す行為でもあるため、彼は握手の代わりに、右手を押さえ付ける――利き手を押さえ付けることで友好を示した。そうした気配りの出来る生真面目な一面を垣間見せる一方で、たびたび賭場に言って散財したり、私に地上のお団子を食べさせたり、普段は無精な振る舞いをしたりする。そんな人。

 「この何日の間、お世話になりました」

 私は深々とお辞儀をする。

 思えばここ何日間、彼はいつも私の隣に居た。私の御守だから当然かもしれない。そして不思議な温かさのある人でもあった。初日に賭場で周囲から邪な視線に纏わり付かれ、うそ寒いものを感じていた中、彼の居る方からだけは温かさが漂ってきた。何と言うか、彼の隣に居れば大丈夫な気がする、安心するのである。

 「いや、俺もあんたから色々な話を聞いて、少し学んだ」

 そう言いながら、彼は左手に持った刀を差し出した。初日に姫様が、いざとなったら私が使うのに彼に持たせた物である。けど結局使うことはなかった。

 「念のため持ってったほうがいい、どうなるか分からないからな。姫様、別にいいよな」

 「別にいいわよ、今度帰してくれればいいから」

 姫様はあっさりと、私がこれを持っていくのをお許しになられた。

 「お言葉に甘え、しばらく拝借致します」

 私は○○から刀を受け取り、姫様に向き直って、それを両手で掲げてこうべを垂れた。そしてもう一度○○を向いた。

 「お達者で」

 言いながら私は手を差し出した。最初彼がしようとしていた握手を、改めてしようというのだ。

 勿論彼はいささか面喰っていた。が、やがておずおずと、私の手に自らの手を重ねた。

 「あなたの手って、大きいんですね。膂力は私のほうが上なのに、私のより逞しく頼もしい……」

 彼の手を握り、その感触を感じる。熱くて、厚くて、大きくて、堅牢な骨格と筋肉。

 「運び屋やってればそうなる」

 そう言う○○は照れ臭そうだった。それを見ていると、何だかこっちまで同じ気になってきそうだった。

 やがて私たちは、結んだ手を離していく。手が完全に離れる間際、お互いの指先が名残惜し気に引っ掛かった。けどその繋がりは蜘蛛の糸のように儚く切れるのであった。

 「もう宜しいかしら」

 そう言ったのは八雲紫だった。

 「ええ」

 私はわざと不愛想に応えた。けど、一応会釈くらいはする。気に喰わない相手だけど、礼儀を守るに値する者ではある。すると、八雲紫はにっこりと大変愛想の良い笑顔を返した。一点の曇りの無いその笑みは、却って何か謀があるのではとすら勘繰ってしまいそうだった。さりとて、彼女が胡散臭いのは元からであるから、判然としないのだが。

 八雲紫が開いたスキマの前に立つ。毒々しい背景に、おびただしい目が浮かんでいる。その不気味さに、気後れする。不安のあまり、○○の方を向こうとしたが、そうすると迷いが強くなってしまいそうだったので、意を決してそこへ入った。

 気味の悪い空間に入ったと思ったら、次の瞬間には見慣れた風景があった。久しく見ていないこれは、まさしく月のものだった。私はとうとう月に戻ってきたのである。

 前を見ると、お姉様が居た。彼女は静かにそこへ佇み、私を見ながら微笑んでいた。

 「おかえりなさい、依姫」

 あんな事があったとは思えないくらい、柔らかな態度であった。ひょっとすると自分は夢を見ていただけなのではと錯覚するほどに、自然なものだった。もしかすると、八意様がとりなしてくれたのかもしれない。

 どう切り出したものかと私は口を開きあぐねている。

 「八意様のお加減はどうだったかしら」

 「息災でした」

 「そう、それは何よりね……。いつかご挨拶にでも出向きたいところね、……あの子も紹介しなくちゃ」

 お姉様の口からそんなことが出た時、私は、あれが夢などではないのだと、思い出した。

 「やはり……あの男子を帰さないのですね」

 「それはどういう意味かしら」

 「そのままの意味です。あの子を月に置いておくのは、良くないと言っているのです。お姉様のことですから、きっとあの子の穢れは取り去ってしまっているのでしょうが、しかし彼が地上の人間であることには変わらず、一つの因果を歪めていることには変わりありません。だから、帰さねばならないのです」

 「ふふ……」

 私の言い分を聞き終えるや、お姉様は小さく笑いだし、少し間を置いてから、今度は腹を抱えて笑いを、押さえ付けるように出した。

 「うふふ……、ふふふ……」

 「何が可笑しいのですか……」

 苛立ちながら私は問い質した。胸をいくらかの不安で孕ませて。私は何かを見落としている。事件の全容が把握出来ていない。

 「何って、滑稽だからよ、あなたが……」

 「滑稽? 私が?」

 「ええ、そうよ。よもや、自覚も無しに地上の穢れに染まっているあなたに言わていると思うとね……」

 「確かにそうかもしれません……。私は穢れた地上に何日か身を浸し、いくらかの食物を口にしました。ですが、その程度で取り返しのつかない穢れに染まるわけでもない。祓うことなど容易いはずです」

 「あなたは何も分かってないわ、何もね。言ったでしょ、自覚の無い穢れって……」

 お姉様の言葉がじっくりと胸に沈むのを感じた。何故か私は反論する気が起きなかった。

 「依姫、あなた地上に誰か好い人でも見つけたんじゃないの?」

 それを聞いてある人物の姿が喚起された。つい先ほどまでいつもそばに居てくれて、今はもう遠く離れてしまっている……。不意に胸が苦しくなった。

 「図星のようね。だってあなた、今とても穢れた表情をしているもの……」

 お姉様は、侮蔑――ではなく、どちらかというと勝ち誇ったように私を見据えていた。

 ――穢れた顔? ――私は今、どのような顔をしているの?

 ――何だか気持ちが悪い……、吐きそう……。頭も痛い……。それに重い……、身体が重い。重くて、思考が鈍る……。

 「どうやら、追放されるのはあなたのほうみたいね、綿月依姫」

 「そんな……」

 何も言い返せなかった。これは私の自業自得……。地上のほんの一部を間近で視たという程度で、真理でも得たような気になっていた。でも実際には、穢れをその身に受け入れ、堕落していることにも気付かない愚か者に過ぎなかった……。

 「これで分かったでしょう。自分がまともだと思っていた想念が、実は狂気でしかないこともある。けれども皮肉なことに、狂気こそがその人間を一番よく表現してくれる……。だから帰りなさい、在るべき所へ――」

 莞爾として微笑しながらそう言うと、お姉様は私の耳元へ口を寄せ、

 「束の間のさよならよ、依姫。いつの日か、仲直り出来る日を楽しみにしているわ……」

 私がその言葉の意味を考え出すまでに、既に目の前の風景は月のものではなくなってしまっていた。また私は戻ってきてしまったのだ。

 「私は……どこでどう間違っていたの?……」

 考えようとしたところで、放心している私では、同じようなことが頭の中で回り続けるばかりだった。

 死にたい。

 そんな想念が浮かんだ時、ふと左手に持っていた太刀を思い出した。私はそれを数寸ほど抜き出した。周囲の光を反射した冷たい輝きが私の目を照らすのを感じた。この刀は優しくこそないが、その代わり残酷でもない。振るう者の意思に従い、触れ撫でた物を容赦なく傷付ける。故に中立。それが安心する。


 私はその刃を頸に当てた。あとは刀を引くだけでいい。さすれば私はこの苦しみから逃れられる。

 「○○……」

 でも出来なかった。あの男性、○○からも離れてしまうと思うと、死にたくなくなった。

 すると、唐突に横から伸ばされた手によって刀の刃が覆われ、頸から離された。それは私から刀を取り上げると、その刃を鞘に納めてしまった。

 「○○!……」

 見てみると、何とそれは○○だったのである。

 「あんた何を考えて――」

 厳かな面持ちの彼が何かを言おうとする前に、私は彼に縋り付くように抱き付いた。そんな私を○○は抱き留めてくれた。温かかった。彼の硬い筋肉の弾力を感じた。彼の匂いが頭に染み渡る。そうすると、自分がこの恐ろしい世界から守られている気がした。他でもない彼によって……。

 「あッ!……」

 突如、下腹部に鈍い痛みが走った。初めての痛みだ。これに伴って、私の身体が、それまで感じていた吐き気や寒気を思い出した。

 「おい、どうしたんだ!」

 ○○からの問い掛けに応えることもままならず、

 「助けて……」

 弱音を吐き、彼に回す自身の腕の力を遮二無二強めるばかり。

 然り而して、不意に私の身体が持ち上がった。○○が私を抱き上げたのだ。そのままどこかに走り出すのである。私を抱きながら走って息が切れても、彼は走りを止めなかった。

 私はこの感覚を憶えている。たとえ意識が無かったとしても、この肌が感じたものを。私がここに落とされて意識不明となっていた折に、彼はこのようにして私を、自らの服が血にまみれることも厭わず運んでくれた。よもやまた同じように救われるなんて……。

 彼に運ばれたのは永遠亭だった。八意様は私を受け取ると、○○に別の所で待つように言って、私を診た。八意様は、ふむと一つ漏らすと、まるであらかじめ用意していたかのように懐から薬を取り出し、私に飲ませたのである。すると気分の悪さはゆっくりと引いていき、ひとまず行動出来るくらいには回復した。

 「月経ね」

 出し抜けに八意様は告げた。

 「子供を作るために子宮に施された準備が使われずにいると、それが血として膣から排出される生理現象。地上人であればお赤飯でも炊くところだけど……、月人のあなたでは真逆の意味を持つことになるわ。そもそも月人には月経は無く、一定の穢れに染まることで初めて出るものから」

 苦悶に鈍った頭の中で、何かが弾けた。

 その後のことはよく憶えていない。気が付いたら永遠亭の廊下をふらふらと歩いていた。八意様の薬があるとは言え、例の月経というものの症状は依然として私を苛む。耐えかねて倒れ込む私を受け止めたのは○○だった。

 「大丈夫か? 何なら肩を貸すぞ」

 私を気遣い優しい声音だった。誰のせいだと思っているのか。何も知らないくせに。私の苦悩なんて知りもしないくせに。

 私は、腕に当たる刀に気付いた。○○が持っていたらしい。それを引っ掴むや、○○を突き飛ばしたのである。

 「触らないでッ! 私に近寄らないでよ! どうして私に構うの……。どこかに行ってッ、ほっといてよ!」

 「お、落ち着け」

 宥めるように言って○○はその場で止まった。けど私から離れようとしない。私は○○から引ったくった刀を抜き放つと、彼に向って振るった。切っ先が彼の衣服を切り裂き、彼の胸に一筋の傷が走った。

 さっと私の熱が冷え、血の気が引く感覚を覚えた。○○は切られた箇所を手で撫で、付着した血を見ると、泡を食って尻餅をつき、上擦った声を上げながらその場から逃げ出してしまった。

 「待って……」

 手に持った刀を取り落として私はその場で崩れ落ちた。

 「お願い○○、行かないで……。痛くて怖いの、一緒に居て……。寂しいの、寒いの……」

 彼が居なくなり、苦痛と私だけが取り残された。血の巡りが悪くなっているから、肌寒い。そんな私を包んでくれる○○はもう行ってしまった。私はさめざめと泣きなつつ譫言のように同じようなことを繰り返していた。

 そして私の記憶はまたあやふやな物となった。

 後日、私は、○○に会いたいという思いに押されて人里へ赴いた。彼の居そうな所は、あそこしか思い浮かばなかった。望みは薄いけど、足が勝手にそっちへ進む。

 着いたのは、○○と一緒に行った団子屋だった。○○は店先の腰掛け台に居た、――隣にはあの看板娘が座っていた。彼女は、私が付けた彼の胸の傷に手を当てていた。

 近づく私に二人が気付いた。立ち上がったのは娘のほうだった。庇うように○○の前に立って、キッと私を睨みつけてきたのである。当の○○は、彼女の脇から顔を出して、気まずそうに私を見つめるばかりだった。彼は私を守ってくれた、それが今では私に怯えている。

 その様を見て私は、色々と思うことはあれど、何よりも目の前の彼女が邪魔で邪魔で仕方がなかった。彼女は○○を奪おうとしている。私の安寧を脅かそうとしている。そんな理不尽な怒りがこんこんと湧いてきた。







感想

  • とても良い…これは続きが楽しみ -- 名無しさん (2018-03-08 22:38:06)
  • まじで続き読みたい作品 -- 名無し (2018-03-27 10:59:25)
  • 続きが楽しみだ -- 名無しさん (2018-03-28 17:52:06)
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最終更新:2018年04月03日 23:52