このSSは豊姫の23スレ目のSSと世界観が繋がっています
先にObserver of the monthを読むと
このSSがさらに楽しめると思います







『後編:Staining Red. 』

 ――人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 坂口安吾『堕落論』

 改めて私がこの地上に降り立って、およそ三ヶ月程。慣れはしたけど、やはり穢れた地上という観念が抜けないものだからか、この幻想郷にそこまで馴染めていないのが現状であった。懇意にしているとしたらせいぜい、霊夢をはじめとした、かつて月で戦ったあの三人組と吸血鬼一人、及びその周辺人物くらいだろうか。でも彼女らは厳密には人ではない。

 永遠亭で私に割り当てられた業務をこなしていると、藤原妹紅が襲撃してきた。目当ては十中八九□□という男――輝夜様と藤原妹紅が奪い合っている情夫である。どうやら姫様は、またもや藤原妹紅のもとから□□を攫ってしまわれたらしい。どうにかしたいところではあるけど、ここ三ヶ月の経験上、二人の仲裁に入ったところで、□□を懸けた争いは普段の喧嘩に輪を掛けて酷くなって、手を出しても出さなくてもあまり結果は変わらないため、被害を抑えることに徹することにしている。

 「やあ綿月さん、配達だ」

 怒号を上げて屋内に乗り込んでいく藤原妹紅を尻目に間延びした挨拶をする○○。

 「ああ、○○」

 いつもの調子で居る彼を見て、少しだけ心が落ち着いて、顔が綻んだ。

 「ごめん、これ俺のせいかも。ちょっと□□に頼まれた物があって、永遠亭に行くついでに渡そうとしたら、姫様があいつをこっそり攫ったのが発覚しちゃってさ」

 「遅かれ早かれ彼女はここに乗り込んできてたわ。それより、あなたも早くどこかに避難しないと」

 と、私は慌てて○○の手を引いて、避難させることにした。それで通したのは私の部屋であった。そこならあの二者の争いの余波の被害を受けることも無い。またこの永遠亭の中で私が自由に弄くり回せて、かつその仕様を他と比べて把握しやすい場所でもあるから、都合が良かったこともある。それに聞きたいこともあるし。

 藤原妹紅と輝夜様の争いは普段に輪を掛けて長引いた。いつもであれば、互いに自身の体力を考えずに力いっぱいに暴れ続けるところを、今回はいやに力を節約したり、様子見を挟んだりといったことで、数時間にも渡ることとなった。その間中ずっと、○○は永遠亭の一室で拘束されている状態でいたことになる。騒乱が終わる頃には、既に辺りは逢魔が時の様相を呈しており、加えて彼女らの騒乱の影響で滞っていた業務、並びに亭の修繕のこともあって、彼を帰すことが出来なくなってしまっていた。

 そういうわけで、彼は今夜は永遠亭に泊まることになった。

 なお、屋敷の修繕は、先ほどまで輝夜様と藤原妹紅の争いの渦中に居た□□を加えて永遠亭の男手で行われることとなった。が、あろうことかそこに、客人であるはずの○○まで加わったのである。

 「おうい●●、俺も混ぜておくれよ、体力が有り余って仕方がないんだ」

 「オーケイ、是非働いてくれ変態糞ニート」

 「無職じゃねえよ、ちゃんと働いてるよ、……肉労だけど」

 相変わらず罵倒から始まる○○と●●やり取りは、こちらが羨ましくなるくらい仲良さげであった。○○は、普段は、いささかズボラながらも紳士的に接するからついつい失念しがちだけど、●●をはじめとした友人らと話す時には、馬鹿みたいに笑って、ワイワイと騒いで、はしゃいだりする。そんな○○を見る度に、私に見せない彼の一側面があるのだとしみじみ感じる。

 「本当、嫉妬しちゃいますよね」

 男性陣を見つめる私の横にいつの間にかレイセンが佇んで、不意に声を掛けてきた。

 「■■も、普段は物静かなのに、あの面子で居る時は人が変わったみたいによく喋るんです。そして、その内容は私が全然理解出来ないんです。――おそらく外の世界についてのものなんだと思います……」

 と、レイセンは切なそうに語って、それから顔を俯かせ、

 「本当に、邪魔……。ひょっとして、私と■■の時間を奪おうとしているの?……」

 ぼそぼそと、低い声で何かを呟いていた。深く考え込んでいるから、まばたきはほとんどされず、焦点はどこにも合っていないようだった。

 以前の私であれば、こんな不穏な様子を見せるレイセンを見れば、叱咤するなりしたことであろう。が、今の私は、踏み込むことすら出来ないでいる。

 「深く突っ込むことではないわね」

 と、楽観的な想念を浮かべて、自分の業務に戻っていくのである。

 当然であるが、業務と、屋敷の修繕は、いつもより遅い時間に終わることとなった。不幸中の幸いにも、深夜まで掛かることはなかったが。それでも、争いの鎮静化や、急ぎ足で仕事をこなしたこと、予定時間がずれたことによる疲労は著しい。

 ようやく一息吐けるところで、私は○○の部屋を訪ねた。無論、知己の中と言えど、一応彼はお客人ということもあり、入る際には礼を欠くことなく――

 「肩肘張ることないさ。それだけ折り目正しくいれば、後は崩したっていいだろ。むしろ俺はそうし
てほしいな、あんたには」

 そう言われて私は、逡巡は無しに居住まいを崩すことにした。満更抵抗が無いわけではないが、やっぱりそうして意識は大分薄れてきている。

 「あの子のお葬式、今日だったみたいね……」

 単刀直入に訊いた。

 「ああ、そうだ」

 この幻想郷で初めて私が人里へ行き、その時に案内をしてくれた○○によって紹介された茶屋の看板娘が、つい先日何者かによって惨殺された事件。

 「お葬式には、行ったの?」

 彼の親しい人の死ということもあり、私はこわごわと、不躾にもそう尋ねた。

 「いや行ってない。というか行けなかった」

 「行けなかった?」

 「遺族から拒絶されたんだ。先方は、俺が殺したようなものだとも言っていた。勿論、殺したのは俺じゃない」

 ○○はそこまで言うと、不意に口を噤んだ。不自然な途切れだった。彼が何か隠し事をしているのだと、直感が私に告げた。

 「何か……隠し事があるんじゃないの」

 私が○○の目を見つめると、私からの視線に耐えかねて彼は目を伏せた。ちらちらと彼は私を見やっていて、私はそれでも視線を送り続けた。やがて彼は首をもたげ、

 「実は――彼女を殺害した下手人として、あんたが疑われているんだ」

 言いづらそうに告げてきた。

 「私が? そんなことあるわけ……。第一、私と彼女が険悪だったことなんて、ましてや険悪だったところを見られたわけでもない。一体どうして」

 「……。さあね……、分からない。けど、人里の連中は、外来人だとか、力のある人外を忌み嫌っている節がある――永遠亭も例外じゃなくな。以前、あいつが親父さんと喧嘩しているのを聞いた時、外来人や永遠亭という言葉が飛び出していた」

 そこで私はふと、ここ数日で人里でのことを想起した。しばしば人から堅苦し過ぎるとまで言われる私が人里の人々と打ち解けられないのはいつも通り。しかし、この数日間は、いつも以上に里では異様な雰囲気が流れていた。その際に感じた視線は気のせいではなかったらしい。

 確かに、地上人からすれば、月人は妖怪などと大差ない。
三ヶ月もあれば、嫌でもそんなことは分かる。

 そして外来人は――余所者だからだろうか。余所者とは、敵となる可能性を持つのみならず、外部の穢れ――即ち病原菌や不安因子――を持ち込み、ともすればそれによって何か不吉なことをもたらす。しかし一方で、新たなる血が流れ込む好機でもあり、欲しがられる存在でもある。

 あの茶屋の娘が○○を好いたのも、彼自身の魅力の他にも、全く異なる遺伝子への反応という要因もあるのであろう。以前、町娘の話に不躾ながら聞き耳を立ててみたところ、どうやら一部の若者は、外来人は体格が良く(女性は肉付きが良く肌が白い)、学や教養があり、また外の世界に対する興味もあってか外来人に憧れを抱いているらしい。ところがその憧憬は人里の人に限った話ではなく、『人ならざる者』も同様の状態になることがあるため、外来人に色目を使ってはいけないという不文律が在る模様であった。

 とすれば、もしかすると、あの娘を殺害したのは、彼女以外に○○を好いていた『人ならざる者』……。

 自然に、○○にちらりと目が行った。

 ……。

 ……。

 ……。

 あの娘が殺されたのは、必然だったのだろう。何せ彼女は、初めて私に会った時、遠回しに私と○○が一緒になることはないといった嫌味を言っていた。一聞して○○へのからかいなようで、その実私に対する牽制を孕んでいた。何と向こう見ずな言動か。そんなことを言えば、大抵の女は憤慨すること請け合いである。気の短い女であれば即刻始末されていることであろう。そうでなくとも、力のある女であれば、自らの力を以って粛清に掛かることであろう。お気の毒だけれど、身から出た錆だ。

 この因縁が明確に現れたのは、そう、私が○○を傷付けたあの後。彼の口から聞いたのか、はたまた自分で推量したのか判らないが、あの娘は私が仕出かしたことを把握し、私への敵意をあけすけにしていた。まさにあの時点で、いやそれ以前から私たちは敵対していたのだ、――女として。

 私は口角が吊り上がりそうになった。

 私は○○を見つめた。彼は私の眼を見ると、自らの瞳の中に一抹のもの哀しさを閃かせた。彼が見せたその悲哀は、誰に向けてのものなのだろう。

 ――私だと嬉しいな。

 いずれにせよ、彼の何もかもが愛おしい。

 「そろそろ寝ましょうか」

 自分でも、声が逸っているのが分かった。

 私は立ち上がった。○○は、布団に向き直った。それを尻目に私は灯台の火を吹き消した。小さな灯りによって淡く照らされていた室内が、俄かに暗くなった。そうして今室内には、月の明かりだけが薄っすらと漂っているのみ。

 その中で、○○の背中が見えた。

 ムラムラと私は、その広い背中に惹き寄せられていって、そっと後ろから両肩に手を掛けて、自分の頭を背中に預けた。額からゆっくりと彼の背中に当てていく。彼はそれに気づいて、身じろぎをした。

 ○○の肩に掛かる私の手の片方に、彼は手を重ねた。その重ねられた手に私は、口を寄せた。それからもう片方の手を彼の前面に回し、着物をはだけさせ、撫でる。

 そのまま○○を、敷かれた布団の上に押し倒し、跨った。彼の首元を枕に、私は身体を横たえた。その私を支えるように、彼は私の背中に腕を回し、腰に手を添えた。腰に添えられた手が気になった。いやに力が籠っていて、しきりに動いている。特に、小指と薬指が、私の臀部に引っ掛かって、指先が少し食い込んでいる。明らかに、もっと下へ手を置きたがっているのが分かる。さては、撫でたいとか、揉みたいとかの劣情さえ感じる。

 「ねえ――」

 私は媚びたように言問う。

 「私って、綺麗?」

 どこかで聞いたことがあるような問いだった。あれは、男神をお持成する巫女だったか。食事でのお酌の他に、遊びの相手、それと夜伽の相手をする。まさに遊女。

 彼女らは相手方に、あたかも愛おしい恋人であるかのように媚びていた。今の私は、あれらに似ている。

 「……とても綺麗だ。少なくとも俺からすれば、この世の誰よりも」

 「嬉しい……」

 でも、私は彼女らとは違う。だって、○○から綺麗だと言われて、こんなにも嬉しい。以前、彼から美人だと言われた時、地上の男が私の容姿を好ましく見ていると言われた時、その時には分らなかった。でも今なら分かる。胸が高鳴り、顔に血が行って、ひどく熱い。彼から向けられる劣情は、彼が私に夢中だという証拠。だから嬉しい。男性から美人だと思われるといっても、○○と彼以外の男に思われるのとでは天地の差があった。

 眼に感涙を滲ませながら、私は彼に接吻をした。触れるだけでは満足なんて出来ない。とにかく濃く深く。呼吸を昂らせながら、必死でそんなことをしていると、苦しさのあまり、はしたない声が出た。

 「――じゃあ、私のこと、好き?」

 ○○の唇から顔を離して、今度はこのように問うた。

 「……」

 「私はあなたが好きよ、この上なく……。ねえ、あなたはどうなの」

 「俺は……」 

 ○○はそこで黙りこくった。

 「あなたは? ねえ、どうなの。ねえ……」

 私は――遊女だ。

 この時の私には、○○の気持ちを慮るなんて出来なかった。相手の男に選択の余地を与えず、ただ己の望む答えを要求する卑しい女。締まりのない声調でしきりに尋問する。まさに遊女。

 私は、玉依の巫女の一人であり。巫女は、遊女でもある。

 でも存外に悪くない、この感覚。好いた人のことを思って無鉄砲に動くこの感覚。


 「どうして何も言ってくれないの。ひょっとして、本当は私のこと嫌いなの?」

 「いや違うっ……」

 「じゃあどうして――、あ、分かった、私の言うことが信じられないんでしょう」

 「は?……」

 「今、その証をあなたにあげるわ……」

 昂揚と、これからすることを前に、私の顔は引きつったようにニヤけていた。声も若干震えていた。でももう止まらない。私の頭の中にはただ、“それ”を実行することだけが在った。

 ……。

 ……。

 ……。

 気が付くと私は、自分の部屋の真ん中で、呆けたように座っていた。奇妙な気分だ。

 私は今まで何をしていたのか。何かをして過ごしていたのだろうと、感覚的に見当は付く。けれど、具体的に何をしていたのかはぼんやりとしていて、また実感が無い。

 目を閉じ私は、左手で顔を覆った。

 違和感があった。明らかに何かが足りなかった。それは私の左手の何かが欠けていたのだ。

 左手を離し、目を開けて私はそれを見た。

 ――無い。

 ――私の小指が無いッ!

 呼吸が乱れ、息苦しさを覚えた。だがそんなことを気にしている場合ではなかった。私の左手には包帯が、小指を覆うように巻かれていた。取り乱していた私は、むやみにその包帯を取った。小指は確かに無くなっていた。血は出ていなかった。指の断面は、やや赤みがかった皮膚によって覆われ、すっかり塞がっていた。

 私は悲鳴を上げたのち、過呼吸を起こし、その場で蹲った。

 その間の記憶は、憶えているには憶えているが、曖昧であった。私の悲鳴を駆け付けたらしいレイセンによって介抱され、どうにか復調して、その後私は八意様のもとへ連れていかれた。そしてそのすぐ後、○○が部屋に入ってきたのである。厳かな面持ちをしていた。観念したような面持ちでもあった。今まで何かから逃げ続け、ついにそれと向き合わねばならない時が来たみたいな悲壮な面持ち。

 「八意様……」

 私は縋るように尋ねた。

 「一体私はどうしてしまったのですか」

 次いで○○へ視線を移した。○○は一度私と視線を合わせ、それで私から目を背けるように目を泳がせだした。

 「まず結論から言うわ」

 八意様は淡泊に告げた。

 「あなたのその症状は、解離性障害という精神疾患よ」

 「私が……精神疾患?……」

 「またの名をヒステリィ。大昔では狐憑きと呼ばれていたわね。女性特有の疾患とも考えられていて、女性特有というところから、原因は子宮にあるのではないかとも考えられていたわ。まあ、エストロゲンが卵巣で生成されていることを考えれば、この説もあながち間違いとも言い切れないかしら」

 まあそんなことはどうでもいいわ、と、八意様は一つ息を吐いた。その落ち着き払った態度に反して、私の気は弥が上に焦燥していく。

 「あなたのは解離性同一性障害。症状が見受けられたのは大体五週間以上前で、発見したのは○○。当初からその疑いはあったけど、念のために別の疾患――例えば統合失調症とかも視野に入れて経過を観察することにしたの。その間に見られた人格は三つ。あなたの小指を切断したのは、主人格に値する人格ね。性別は女。遊女のような性格をしていて、欲望に忠実。あなたにとって都合の悪いこと、及びあなたが抑圧してることに関する記憶を管理しているわ。彼女のおかげで診断が遅れることになった」

 私は戦慄した。私の内側にそうした人格が潜んでいるなんて、実感が湧かない。でも、その人格は、私の知らぬ内に外へ這い出て、密かに私の生活を奪っていっていたのだとすれば、何とおぞましいことか。

 そこで、ある不安が鎌首をもたげた。

 「八意様……、私は、その……、他に何かを、為してしまっているのでしょうか」

 その不安から、おずおずと、斯様に曖昧な質問をした。知るのが怖い、でもはっきりしたい、そんな板挟みから抜け出そうとして、無理に尋ねたのだ。


 「……女の子を一人、殺めたわ」

 おもむろに八意様は私へ告げた。

 「その娘とは、人里の茶屋の娘なのですね……」

 悟らざるを得なかった。

 「ええ」

 肯定して八意様は話を続ける。

 「ところで依姫、あなた、自分が○○を傷付けたことは憶えているかしら」

 「えっ……」

 「やっぱり憶えていないようね」

 「それも、私の別人格が?」

 「いいえ違うわ、あなた自身が為したことよ」

 「そんなことが、あるわけ……」

 私が○○を傷付けるような真似なんて……。でも、もう私は、自分を信じることは出来ない……。

 「豊姫に月から弾き返された後、あなたは動揺から、また初めて味わう月経の苦悶から、○○に八つ当たりをした。その時、○○の胸に切創を作ったの。それが元であなたと茶屋の娘さんは険悪な間柄となった。○○はすぐさまあなたを赦し仲直りをしたけど、事態はそれで収まるようなものじゃなかった。何故ならあの娘は○○に好意を持っていてたから。好きだからこそ、彼を傷付ける者は許せない。同時に、あなたが○○を傷付けたのは、彼女にとって好機でもあった。何せ、依姫が相手では、美貌から既に負けていることは彼女自身も分かっていたからね。それだけなら、あなたが○○を好きにならないかもと楽観的に見ることもあった。けれど彼女は、あなたが○○を好きになるかもという可能性を直感したのね」

 「だからあいつは、あの時……」

 そう漏らしたのは○○だった。

 「心当たりがおありかしら」

 ○○は顔を伏せたまま、目だけを一瞬だけ八意様の方へ向けた。

 「あまり口では言えません。ただ、ある時、あいつが大胆なことをしてきたとだけは」

 「それは初耳ね。で、手は出したのかしら。看板娘と言われるくらいだから、器量は良かったのだ
し……」

 「まさか。そんな無責任な真似……」

 「出せなかった、の間違いでしょう」

 蔑むような口吻で八意様は、嗤笑を含めて言った。すると○○はますますいたたまれない様子で、息を詰まらせる声を漏らした。

 「依姫の別人格が娘殺害に及んだのには、きっと何か切っ掛けがあるはずね。大方、彼が今言ったことの現場を、依姫が目撃したといったところね。だから、殺した。それはもう杜撰な犯行だったことでしょうね、欲望に忠実なあの人格なら。幸い、依姫がやったという証拠は無いみたいだけど」

 八意様は皮肉げに笑った。

 そこで私は、自らの左手の小指を思い出した。断面の傷は既に塞がっていて、包帯を巻く必要が無いくらいなのに、何故だか痺れるような痛みが走っていた。

 「じゃあ、私の……、私の指は?……」

 「ああ、それならあるわよ」

 と、八意様は促すように○○の方へ顔を向けた。それに釣られて○○を見ると、彼は厳かな表情で、おもむろに懐から、布に包まれた小さな物を取り出して、開いて見せた。

 それは指だった。切断された人の小指。これが私の指なのだという想念が浮き上がった途端、動悸が激しくなるのを自覚した。身体が緊張し、吐き気すら込み上げてきそうであった。

 「防腐はされているわ、腐敗することはない」

 「何故、再接着をされなかったのですか……」

 蚊の鳴くような小さな声が出た。

 「あなたが望まなかったからよ。○○がそれを手放そうとすると、あなたは取り乱してしまうから。本当に強情だったわ。露出した小指の骨の髄をいつまでも外気に曝しておくわけにもいかなかったから、傷を塞ぐ他なかった」

 「どうして……、どうして私は……」

 「小指を○○に持たせたかった、か? それはあなたが遊女だからよ。遊女には、自らの小指を、好いた男に渡すという風習があるの。それに則っての行動だったんでしょう」

 ――それがあなたなのよ、依姫。

 八意様からの宣告と、私自身の想念の言葉が重なったような気がした。


 「もう気付いてるでしょうけど、この、別人格による一連の事は、全てあなたが心の奥底で望んでいたことよ。けど、元月人のあなたには不本意で、受け入れがたいものだった。そこで、ちょうど、地上の穢れに侵され精神が不安定だったあなたは、都合の悪い感情を別人の持つものとして自ら抑圧した。故に、あなたは心置きなく自らの衝動を吐き出せたとも言える……」

 八意様は一呼吸置いて、

 「狂気こそが、私たちを最もよく表現してくれる……」

 物憂げに、疲れ諦観したように、そう結んだ。それは、かつてお姉様が、私を地上に送り返す際に放った言葉と、奇しくも同じものであった。

 激しく動揺した。今まで目を背けてきたものと、覚悟も無しに対面させられたような絶望を感じた。

 そして私は逃げ出した。無我夢中で逃げた。しかしどんなに逃げても、頭の中にこびり付いた忌々しい物が離れることはない。やがて私は遁走をやめ、頭を抱えて怯えだした。

 もがけばもがくほど恐ろしい。なれば、どこかでじっと息を潜めているほうがよほど安心出来た。

 そんな私のもとへ歩み寄る者が居た。驚きはしなかった。何となく、誰なのかは分かったから。

 「○○……」

 振り向いて私は、彼を見てほっと気が軽くなった。卑しいことだけど、どこかで彼が迎えに来てくれることを期待していた自分が居た。

 「ごめんなさい……」

 まず出た言葉はそれだった。

 「私のせいで、あなたの立場が壊れてしまって……。私の身勝手な想いで、あの娘を死なせてしまって……。本当に、莫迦だったわ! こんなに堕落しても、また愚かなことを繰り返すなんて……」

 「綿月さん……」

 ○○に呼ばれて、ビクリと身体が強張った。彼の口から出ようとする言葉を恐れて私は、

 「言わないで!」

 と遮った。

 「分かってるわ……。どうせただの自己陶酔よ。結局私は、後悔するばかりで何も学ばない……。もう、何もかもが嫌……。私の中のケダモノが、知らない間に私の生活の一部を奪い取って、何か恐ろしい事を仕出かして、私の人生を脅かすかもしれないなんて、耐えられない!……」

 そして、時間を稼ぐかのように、自らの愚昧さを論って訥々と語ろうとする。

 「自分の過ちを見つめざるを得ないってのは、辛いよな。あんたは随分と苦しんできた。それこそ、もう諦めてしまいたいくらいに。これから先、自分の人生には悪い事しか起きないと思ったら、逃げ出したくもなる」

 「……」

 そんな私に、○○は共感しようとしていた。彼のその姿勢は、私の胸の内に温かさをもたらした。ジンと目が熱くなって、融氷のような涙が溢れてしまいそうになる。

 「俺も、少しだけあんたと似ている。俺もさ、姉が男連れ込んだせいで酷い目に遭ってさ。それで全てを失ったけど、でも、悪い事ばかりじゃなかった。人間、落ちぶれてもどうにかなるもんだ。だが、そうなるまで、自分の人生はこのまま真っ暗なままなんじゃないかって、嫌になってた時期もあった」

 知っている。○○の過去のことは、既に。

 彼は自身の親友である●●に、その過去を打ち明けていた。それを八意様は聞き出して、それを私が又聞きした。

 外の世界に居た頃の○○は理想化だった。彼の友人の言葉を借りればお堅い男だそうで、言動も今よりもっと生真面目だったのだそう。

 理想を見て日々思考していたものの、それによって社会活動を疎かにし、世間で謂う所の無職の怠け者となってしまっていた。そうして日々を無為に過ごしていると、ある日突然、彼の姉が男を連れ込んだ。その男が危険であると直感した○○は反対するも、穀潰しという言葉の前に閉黙。そして彼の予想通り、家族はその男によって借金を背負わされる羽目となり、返済のため両親は自殺。当然、○○は働きに出ねばならず、かといって大学を卒業後に働かなかったことが祟ってどこにも雇ってもらえず。加えて友人●●も行方不明となった事が重なり、全てを失ったと絶望して自決を試みた末に、幻想入りした。そこで妖怪に襲われるも、生存本能に因る恐怖から、負傷しながらも命からがら逃げ延び、保護されて永遠亭で治療を受けた。永遠亭手の繋がりはこれが切っ掛けだったらしい。その後、運び屋の仕事を賜わり、現在に至るという次第。


 理想を目指して邁進しようとするも、力が及ばず燻り続けた末に全てを失い、妥協することでようやくまともな人生を得るとは、何とも皮肉なことか。表向きにはいい加減な風を装っていても、本来は生真面目で融通が利かない。根の部分で、私と彼は似ているのかもしれない。

 「あんたの苦悩は、俺の比じゃないはずだ。あんたの殺人罪は未来永劫、消えることはないだろうけど、だからといってあんたの苦しみも無視していいものじゃない。それに、俺にも責任はある。こんな事になるのは予想出来たはずだ、なのに俺と来たらお為ごかしで保身に走って、向き合うべきこととも向き合わなかった」

 今度は○○が自責する番だった。

 私も、こんな風だったのであろうか。私と比ぶれば、悲愴な面持ちはあまり感ぜられなかった。けど、その面の内側から醸される哀愁。彼の気持ちが、しみじみと伝わってきた。引き寄せられるように私は、彼に少し近寄っていた。

 「そろそろ、けじめを付けるべきだ。綿月さん、いや、依姫。もしよければだが……、俺に君を、ずっと見ておかせてみないか。そうすれば、たとえ別人格に替わるのだとしても、少しは怖くなくなる……。一緒に罪を背負って。もう二度と、過ちを犯さないように……」

 そう言って○○は右手を差し出した。

 とても信じられない。これは夢なの?

 ――いいえ、夢でも構わない。

 私は思考を放棄して、目の前に差し出された魅惑を掴まんと、○○の差し出した右手に自らの左手を置いた。月に帰ろうとした別れ際に交わした握手を今も覚えている。その感触は確かに○○のだった。温かかった。幻でもなかった、嘘でもなかった。

 私たち二人はお互いに手を握り合った。より密接に組み合おうとして、指を絡めていく。私の欠けた小指さえも、愛おしげに彼の指に纏わり付く。

 その瞬間、感涙迸らせて私は○○に身を寄せた。○○はもう片方の手を私の頭に添え、受け入れてくれた。

 本当に、ひどい人……。私はあなたに弱いというのに、あなたはそうやって私を誘惑する……。

 ○○の胸の中で私は、彼の右手と絡められた自分の左手を見た。そして信じられないものを幻視した。もう塞がったはずの小指の断面から、じくじくとした痛みと共に血が滾々と湧き出ていたのだ。薄暗い周囲に反して鮮やかに映えるその赤は、幾数筋の糸のように、私と○○の手を伝り落ちていく。さながら、赤い糸が二人の手を結び付け合うが如く。

 胸が高鳴った。ようやく私は、自らの運命を悟った。私はあの茶屋の娘を、確かに殺した。未だに記憶も実感も無いけれど、今なら受け入れられる。もう私に躊躇は無い。私はこの人と添い遂げるのだ。そのためならどんな卑劣な手だって辞さない。だって、こんなにも幸福なことを知ってしまったら、もう流されるしかないのだから。


終幕『Who Painted It?』

 ――狂気だけが我々の本質を形づくる場合もある。
 グラント・モリソン『バットマン:アーカム・アサイラム』

 こんにちは、八意永琳よ。

 ……これで満足かしら、八雲紫。

 しらばっくれないで、これがあなたの望んだことなのでしょう。

 あなたの思い通り、男にほだされた依姫は、最早地上の、幻想郷の強力な駒となった。もう一方の豊姫は、ある少年に執着し、そのために月を裏切り内通者となった。こんな露骨にあなたの益となる事があって、気付かないわけがない。

 思えば、あなたがあの遊郭を私に勧めて、私がそれに応じた時点で、私は負けていたのかもしれない……。本当に、夢のような一夜だった……。その夢に連れていってくれた●●が、私はどうしても欲しかった。欲しくて欲しくて仕様がなかった。するとあなたは、私に優先的に身請けさせてくれたわね。彼を手に入れられる喜びから、その時は手放しにあなたに感謝をしていたわ。でも当のあなたは、私を見下げ果て、ほくそ笑んでいたことでしょうね。ええそうよ、どうせ私は男性経験の無い寂しい女よ。どんなに永く生きても、知識で知っていても、実際に触れ合ったことがない、免疫の無い生娘よ。

 然り而して○○が鬱陶しくて堪らなかった。折角捕まえた愛しい人、●●……。奪われたくないと檻の中に入れても、あの男が居ると●●の意識は外へ飛んでいってしまう!……。ついには私のもとを離れていってしまうのではないかと思うと恐ろしくて、恐ろしくて……。

 依姫が地上に落とされた時、何という巡り合わせなのと狂喜乱舞したわ。あの二人はまさにお似合いよ。表面的な部分を異にして、本質は同じ。まさに運命の出会いだった。これで依姫と○○をくっつけて、○○を永遠亭という箱庭に取り込めば、●●が外に出ていってしまう心配もなくなる。加えて、依姫という頼もしい矛を手に入れられる。上手く行けば、豊姫も……。

 卑怯にも私は、豊姫の情夫の男子の立場の悪さに付け込んで、二人の将来が脅かされていることをちらつかせた。そのくせ自分は、私はあなたたちの味方だと甘い顔をして、うまうまと豊姫を味方に付けることが出来た。実に容易かったわ。

 後は依姫のことだけだった。ちょっとごたごたがあったけど、うどんげが上手くやってくれたわ。依姫がやった殺人の証拠隠滅を速やかにしてくれた。きっとあの子も、自分の男が○○と仲良くしているのが気に喰わなかったのでしょうね。それこそあの子も必死だった。

 これが事の顛末よ。全てあなたの思い描いた通り。私はあなたより何かも優れているものと思っていたけど、さすがに私の知らないことでは敵わなかったわ。ええ、そうよ紫、認めるわ。

 あなたの勝ち。私の負けよ。

 【完】






感想

  • ありがとう。よかった。依姫の酒瓶少ないからありがたい。次回作お願いします。 -- 名無しの権兵衛 (2018-04-07 02:01:04)
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最終更新:2018年04月07日 23:20