ありすはゆっくり生まれたい
柔らかく頬を撫でる風の感触に、赤ありすは目を覚ました。
けれど、まだ目は開けられない。生まれていないのだから当然だ。
聞こえもしない、見えもしない。
触覚と、嗅覚だけが、今のありすに許された感覚だった。
体を包む風は、少しだけキンモクセイの匂いを孕んでいて、熱くもなければ冷たくもない。
ゆっくりと柔らかく体を包み、静かにありすの体を揺らしてくれる。
それはありすにとってとても心地のいい感触。
けれど、ありすは少しだけ残念だった。
叶うなら、ありすはずっと眠っていたかったのだ。
夢は、眠りの中でしか見ることができない。
それはありすが眠っているとき、お母さんの体から、茎を通してやってくる。
頭の天辺から、しみこむように、溶け込むように。
お母さんのクリームがありすの体に入るたび、ありすはたくさんのものを見、聞き、そして嗅ぎ、触れるのだ。
どこまでも続く草原と、とても綺麗な花々と。
とかいはに飾られたすてきなお家と。柔らかくておいしい芋虫さんと、楽しそうに歌うゆっくりたちと、柔らかいお父さんのほっぺの感触と沢山の声。
りっぱな茎さんになったね。
ご飯一杯とってきたよ。がんばってねありす。
ゆっくりしてるね。
髪さんゆっくりはえてきたね、きれいだね。
おはだもゆっくりもちもちだね。
まりさとありすのあかちゃんだよ?きっとゆっくりしたいいこだよ。
ゆっくりしてね、あかちゃん。
ゆっくりしていってね、ゆっくりしていってね……
それらの映像が、音声が、お母さんの思い出であるということを、ありすはとうに理解している。
おぼろげで、それでも『しあわせー』がパンパンに詰まった記憶のカケラたち。そんなたくさんの思い出が、ありすの意識を形作る。
ありすは、お母さんの『しあわせー』で出来てるんだ。
理由もなしに、確信できた。
細切れになったいくつもの断片のどれもが、ありすにとってゆっくりできるものだったから。
幸せは、ゆっくりできる。
ゆっくりするのがゆっくりなんだから、お母さんはきっとありったけのゆっくりをありすに詰め込んでくれている。
だから、きっとありすはお母さんやお父さんが会ったどんなゆっくりよりも、ゆっくりできるゆっくりになるんだ。
そう、とても『とかいは』なゆっくりに。
体の揺れが、少しだけ大きくなった。
同時に、意識はますますはっきりしてくる。今までにないくらいの鮮明さで。
起きているときも眠っているときも吹き込まれていたクリームの感覚が、今はもう途絶えている。
何かが、ぷつりと千切れていく感触。
お母さんとありすをずっとつないでいた何かが千切れていく。
ありすはようやく気づいた。ああ、もうすぐ生まれるんだ、と。
ぷつり、ぷつりと。茎がゆっくりとちぎれていく。
ちぎれて落ちたその瞬間が、ありすにとっての誕生の瞬間。
そう、もうすぐだ。もうすぐ、もうすぐ……
・
・
・
「おきゃ……しゃ……」
ぽろぽろと涙をこぼす赤ありすを、俺はゆっくりと摘み上げた。
後頭部から腹の辺りをつまむようにして持ち、ボールの上にかざすと、指に力を入れていく。
零れ落ちそうなほどに見開かれた目。半開きの口からは、舌がぴんと突き出している。
「やべで!やべでぐだざい!!あがぢゃんゆっぐりでぎなぐなっじゃうぅ!!」
テーブルの上で、足を焼かれて動けない父まりさがなにやら喚いている。
無論、俺の知ったことではない。かまわずに作業を進めていく。
「ちゃしゅ……け……きゅるしぃ……けぅ」
苦しげな声が、不意に止まった。一瞬、突き出た舌が倍ほどにも膨れ上がり、
「ぢゅ、ゆきゅ、びゅッ」
奇妙な断末魔と同時に、舌が爆ぜた。カスタードクリームが噴出する。
使用済みのコンドームよろしく萎んだ赤ゆの残骸をさらに指でしごき上げ、最後の一滴までクリームを搾り出した。皮だけになったそれを、コップの中に放り込む。
そして、次の赤ありすを取り出すべく、俺はステンレスの料理バットに腕を伸ばした。
赤ありすたちは狭いバットの中を必死に逃げるが、跳躍能力さえない赤ゆにとっては、底の浅いバットですら脱出不可能の監獄に等しい。
たちまち角のほうに追いやられ、3匹そろって押しくら饅頭状態になる。何も、揃って同じ方向に逃げる必要はあるまいに。
───まあ、それでも。
普通はそっちに逃げるわな。
そっちの角には母親が──バットの上に茎を伸ばしたまま、ぼんやりと虚空を見つめる母ありすがいる。
孤立無援に等しい赤ゆたちが、この狭い調理台の上にいる唯一の味方を頼るのは、当然といえば当然のことだ。
「ありずっ!ありずぅ!おぢびぢゃんをだずげで!ありずぅ!」
親まりさが、必死に声援を送ってくる。
「みゃみゃ、ありちゅきょわいよ。たしゅけて、みゃみゃ……」
「おきゃあしゃん、おきゃあしゃん、おきゃあしゃん……」
泣きながら母に救いを求める赤ゆっくり。
つくづく頭が悪い……ま、人間だって同じような立場におかれりゃ、こいつらと似たようなリアクションしかできないだろうが。
赤ゆの一匹をつまみあげながら、俺は部屋の中のゆっくりたちに言い聞かせてやる。
「気づけよ、バーカ。
そのありすはな、もうイカれちまってんだ。餡子が狂っちまってんだよ」
「うしょだぁあああああああッ!!」
赤ゆたちが、同時に同じ悲鳴を上げた。
「うぞだ、ありずはゆっぐりじだゆっぐりだもん、おがじぐだんでだらだいよぉ!
うぞだ、うぞだァッ!」
まりさがうぞうぞと体をよじる。異口同音とはこのことか。
「嘘なもんか。見てみるか?そーれ」
俺は母ありすの後頭部を左手で掴むと、まりさも赤ゆも観察できるよう、持ち上げながら回してやった。
「……けへ……へひッ……きゃ……あっきゃ……あは……り」
一時間ぶりにありすが発した声は、これ以上ないほどに楽しげなもの。
赤ゆの瞳が凍り付いた。
まりさがきつく目を閉じる、もう見たくないと言わんばかりに。
まぁ、ゆっくりなら多分誰だってそうなるんだろう。
笑いながら怒り狂い、嘆きながら楽しんでいるとしか言いようのない表情は、左右の均衡を完全に失ってしまっている。
右目は眼窩から零れ落ち、濡れた紐のようなもので体とかろうじてつながっていた。無論俺が抉り出したわけではなく、ありすの眼輪筋餡が痙攣した結果、目の端がちぎれて自然とこぼれおちたのだ。
痙攣するたびに、ありすの形相は奇怪に変じ、二度と同じものにはもどらない。さながら顔面万華鏡といったところか。
「みゃ……みゃ……」
つままれたままの赤ありすが、呆然と母の名を呟いた。
「どぉちて……みゃみゃを……みゃみゃ……」
「ご愁傷様。
狂ったありすから生まれたばかりの赤ありす、その腹ん中のカスタードは、三ツ星レストランのシェフさえ目を剥くほどの品質でね、100匹も絞ればいいカネになる。つまりはそれが俺の商売。狂わせるのも殺すのも、俺の仕事のうちなのさ。
まあ、当然納得なんざ、できやしねえだろうがよ……恨むなら、ありすに生んだ親を恨むか、ありすに生まれた自分を恨みな」
経文代わりに言ってやると、手の内の赤ありすを手早く、しかし赤ゆの目玉が飛び出してクリームの中に混ざらないよう力を加減しながら、クリームの最後の一滴まで、指先を使って丁寧に絞りあげる。
一通り赤ありすを絞り上げたなら、今度はぐずるまりさを発情させて、もう一度種付けをしてやらなければならない。母体のありすがすっきり死なないよう、そして赤ゆが早く実るよう、オレンジジュースの点滴を準備する必要もあった。無論、適当なタイミングでクリームをパック詰めすることも忘れてはならない。
それが済んだら、今度は裏の倉庫から、別のありすの親子を引っ張り出してきて……手際や技も重要なら、
段取りもおろそかにしてはならない。まあ、仕事なんてものは大体がそういうものなのだが。
「あがぢゃん、にげでぇ……」
まりさの涙声が聞こえる。だが、もうどうにもなりはしない。俺が突然こいつらに同情して助けるなんてことがあるわけがないし、焼き焦がされたまりさのあんよが治って、ものすごい勢いで俺を倒して逃げ出すなんて奇跡が起こるわけもない。もちろん、あの赤ゆたちがバットの壁を乗り越えることも絶対にありえない。
そう、絶対だ。これは殺害でもなければ殺戮でもない。ただの作業にすぎないのだ。ならば、例外などありえない。
まりさ自身もそのことに気づいているだろう。
それでも、その声は一向に止まないのだ。
「ゆっぐり……ゆっぐりぃ……にげでねぇ……あがぢゃんだぢ……にげで……」
ゆっくりと持ち上げられる感覚がありすを襲う。
じたじたと体を動かしても、人間の指から逃れられない。
「みゃみゃぁ!みゃみゃあ!」
恐怖に硬く目を閉じたまま、赤ありすは必死に叫ぶ。
返事は一向に返らない。それでもありすは叫び続ける。
まま、助けて。ありすはここだよ。ここにいるんだよ。
ありすこわいよ。まま。まま。まま!!
だが、返事は一向に返らない。
不意に、喉の奥が苦しくなる。
人間の指が、ありすの体をゆっくりと絞り上げはじめているのだ。
「み"ゃ……み"ゃ……」
苦しい。苦しい。
舌がぱんぱんに膨れ上がる。
いたい、いたい、いたい、イタイ。
目があんこに押されてせり出した。否応なしに目蓋が開く。
見えるのは、とても大きな銀色のくぼみ。
そして、中に溜まった白くてとろとろした何か────
────お姉ちゃんたちのハラワタだ。
「────!」
涙が頬を伝い落ちる。
痛いのはいやだ。苦しいのはいやだ。
いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。
やだよ。まだなんにも見てないよ。まだなんにもしてないよ。
ゆっくりしたゆっくりたちとも会ってないよ、ゆっくりしたご飯も食べてないよ。
ぱぱとも、ままとも、全然すりすりしてないよ、挨拶だってしてないよ。
ありすは全然、全然、全然───
ブツリという破断の音を、ありすは確かに聞いたと思った。
最後の、そして最大の痛みがありすを襲う。
「ゆ"、ぶ」
舌が、裂けたのだ。
傷口からあんこがあふれ出していく。
急激に薄れていく意識。
ありすを形作っていたものが。
お母さんがくれたいっぱいの夢が。
何一つ実を結ばないまま、どろどろの餡子になって、ハラワタになって。
何一つ意味のないものになって、音も立てずに流れ落ちていく。
───もっと、ゆっくりしたかった。
それがありすの最後の嘆き。
誰の耳にも届かないまま、餡子の流れに蕩けて消えた。
終わり。
最終更新:2022年05月03日 22:48