扇風機の風が頬に当たって、我に返った。
指先までひんやりと冷たく、胸の奥に滞っていた思考が少しずつほどけていく。
……いつまでも感傷に浸っている場合じゃない。

「ねえ、春樹?」

「何?」

「その、隆と話してたとき。満月の日にマナに会いに行くって言ってたよね?」

「そうだね」

「次の満月……は、約一ヶ月後だね」

携帯の画面を開くと、月齢カレンダーには“28日後”という数字が淡く光っていた。
数字の小さな輝きが、まるで運命のタイマーみたいに見える。

「隆さんは、28日後。俺のマンションにいるマナと、黄泉醜女を接触させるつもりなんだ」

(私にはもう資格はないけど……)

それでも、あの子なら。
まだ──。

「マナなら、資格があるんだね」

「姉さんの中で眠る“彼女”は封じられたけど、能力を失ったわけじゃないからね」

(そうか。眠っていても、力だけは残る……)

それが羨ましくもあり、怖くもあった。

「それでマナの一部である“影のマナ”を──」

「そう。彼女に“触媒”になってもらうんだ」

その言葉に、息が止まる。
“触媒”──それはつまり、私の代わりに“依代”になるということ。

「でも、まだ問題は残ってる」

「問題?」

「いくつかある。まず一つは、帰れる可能性の“座標”を俺がまだ認識できていないこと。
猶予が一ヶ月しかないと考えると……ある程度、絞り込まないと不可能だろうな」

春樹の声は、いつもより低く沈んでいた。
彼だけが見える“夢の可能性”──私が覚醒した時に垣間見た、あの無数の光景。
あれを現実に繋げられるのは、今、この世界で春樹ただ一人しかいない。

「何か手は、ないの?」

「そうだな……ちょっと待ってて」

春樹は鞄を掴み、無造作に中を探り始めた。
ガサガサと紙の擦れる音が、部屋の静寂にやけに響く。
やがて、彼は手のひらほどの黒い手帳を取り出した。
手帳の角は擦り切れ、背の革は柔らかく馴染んでいる。
その間から、色あせた付箋がいくつもはみ出していた。

「それは……?」

「夢日記みたいなものだ。俺が見た“あらゆる可能性”を記録してある」

「すごい……こんなに分厚いのに」

「ループ中の記憶も、思い出せる限り詳細に書いたからね」

(文化祭前日から半年を、五十回も繰り返した──)
その話を聞いたときの衝撃が蘇る。
どれほどの絶望と執念が、その時間を積み重ねさせたのだろう。

ページをめくる音が、時計の針みたいに一定のリズムで響く。
春樹はそこに描かれた“枝”をいくつも追加していった。
そして、1500年前の分岐の反対側に、“隆さん”の文字を継ぎ足す。

「チハルが行った場所……正確には、ここに当たると思う」

「線を継ぎ足したってことは、本流じゃないんだね?」

「そう。こっちは“能力”が消滅した世界線だから。
神にも等しかった隆さんは、その“イレギュラー”なんだ」

(イレギュラー……)

遠い世界の隆のことは何もしらない。
代わりに、現実を思い出す。
高校を卒業して、隆が遠くの大学へ進んでから、もう何年も会っていない。
きっと元気でやっている──そう思いたい。
まだ結婚していないと、隣のおばさんが言っていたっけ。

春樹はさらに枝を描き足しながら、淡々と説明を続ける。

「まず、1500年前に近い方の双子の分岐。これは御門先輩──つまり、今の俺たちの世界線。
それと対になっているのは、周防さんとの絆が作った世界線だね。
番号を振るなら……592番、かな」

「592番?」

「単なる整理番号だよ。夢と現実を繋げるための目印さ」

春樹は枝の分岐に“592番”と記し、その先に“現在・周防さん”と小さく書き込む。
筆圧が強く、鉛筆の跡が紙の裏まで透けていた。

「で、この枝は?」

「889番。別の分岐だ」

そう言ったとき、一瞬だけ彼の表情が曇った。
けれど、すぐにまた無表情に戻る。
彼は1500年前の分岐を起点に、私たちの線に“A世界”、隆の線に“B世界”と書き添えた。

「俺たちの世界線を仮にAとする。隆さんの方は、能力のない世界線B。
そして、黄泉醜女が帰る場所は──」

春樹はAの線を真っ直ぐ下へ引き伸ばし、その終端に“帰還”と記す。
黒鉛の線が紙を滑る音が、まるで運命の糸を引くように聞こえた。

「──このAの本流の、先が黄泉醜女の帰る場所なんだね」

その一言で、部屋の空気が静かに沈む。
扇風機の風がまた頬を撫で、ページの端をそっとめくった。
その小さな動きだけが、まだ未来が続いている証のように思えた。




         1500年前
            |
  +-------------------+
  |                   |
B世界               A世界
(能力なし)          (能力あり)
  |                   |
  |                   +-- 592番---+-- 現在
  +--隆さん            |           |
                      |           +-- 周防さん
                      |
                      +-- 889番 
                      |
                      +--> 帰還



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最終更新:2025年10月12日 08:59