私と春樹は色褪せた青いリボンのぬいぐるみに手を置いた。

ふんわり感は失われ、毛羽立ちざらついている。
縫い目はほどけかけているけど、それすら年月が刻んだ重さが安心をくれるのも事実だった。

扇風機の風が、私と春樹の髪を優しいく揺らしている。
それに気づいたと同時に、耳元にかすかな声が降ってきた。

「……ねぇ、聞こえる?」

思わずぬいぐるみの手を握りしめる。
心臓が跳ね、喉が乾いた。
奇跡だと信じていいのか、まだ判然としないから。

「ボク、チハルだよ。……やっと、あえたね。……パパさん」

「んん……眠ぃ……パパ……さん……?」

気だるいような、重たい気配が空気を揺らし、別の声が割り込む。
低い男性のよく知った声——
だけど、どこか戸惑いも含んでいた。

「……もしかして、お前、チハルか?」

「うん。ここの隆はパパさん、だよね?」

「深夜に……突然……過ぎだろ。まぁ、そんな因果も悪くないよな。そうか。てか、お前、ここに入るのか?」

「うん。もう、はいっていい?」

「そうか……大歓迎だ。よろしくな、これから長い付き合いになるんだから、仲良くやってこうぜ」

「だって隆はボクのそうぞうしゅだから。それはかわらないよ?」

「それは、そうだ。ほら、ここだぞ」

「うん。ママさんのところにいってくるね!」

私は目を閉じ、息を潜める。
ぬいぐるみ越しに、二人の会話が紡がれていく。

そこにいるはずのない人たちが、確かに「ここ」で言葉を交わしている。

「やっぱり、隆さんの息子さんは、この世界線のチハルだったか。ここのチハルだけ、なぜか目を覚まさないから。理由はこれしかないとは思ってたけど……まさか本当に的中するなんてね」

隣で春樹が自嘲気味に話しかけてくる。
一体、ループの最中にどれだけの可能性に触れてきたのか、少し怖くなった。

「何だ、春樹か? その達観したワイルドな感じ……お前……もしかして観測者の春樹なのか?」

隆の驚いたような、少し眠気の入った声色。
もしかして、向こうは夜なんだろうか。

「始めまして……になるのかな。そうです、まぁ、どの俺も観測者なんですけどね」

穏やかで、それでいて冷たい声がリビングに響く。

「気づいて、なきゃ無いのと同じだろ? てか、お前が一枚噛んでるってことは。何か重要な問題があるってことだな?」

「そうです。重要なお願いがあって、チハルを使ってチャネリングしました」

「……俺に、頼み?」

「はい。実は、あなたが送り出した導き手。ここでは黄泉醜女なんですが。彼女を元の世界に帰したくて相談に来たんです」

「なるほど。状況は大体掴めた」

春樹が状況を説明すると、隆はすぐに理解したらしい。
その早さが逆に怖かった。
私が追いつけないほどに、彼らの間で「何か」が通じ合っている。

「て、ことは……あいつ、ようやくやるべき仕事が終わったってことだな」

「仕事……やはり、贖罪ってことですか?」

「そうだ。世の中ってもんは色々順番があるからな。……って、どうした、悪い、目、覚ましちまったか?」

少し声色に焦りが見える。
私はその、遠くの隆の声にだけ、集中する。

「スマホ……隆……どうしたの?」

若い女性の声。
とても眠そうな気配が伝わってくる。

「夜勤のヤツから電話だ。システムの事でどうしても聞きたいことがあるらしい。お前だけの身体じゃないんだから、気にせず寝てろよ」

「うん……。隆も終わったら早く寝てね?」

優しくて、少し甘えるような声色に、なぜか私の胸が締め付けられる。
その彼女は再び眠りについた気配を感じた。

「隆、さんなんだよね。あの、私は愛菜です。よろしくお願いします」

どうしても、話たくなって思わず声を出してしまう。
でも、どんなトーンで話していいのか分からない。

「ハハッ。そんなかしこまらなくていいさ。俺にとっちゃどの愛菜も幼馴染なんだから」

(私の知ってる隆とは、やっぱり少し違うな)

それでも、隆はやっぱり、隆で。
私はホッと胸を撫で下ろす。

「あの、今の女性は? 隆のお嫁さんなの?」

「まぁな。うちの嫁のお腹には子供がいるんだ。安定期に入ったばかりの5ヶ月かな。その子に触れながら……僕たちは会話してる」

——お腹の子。
その言葉で全てが繋がった気がした。
チハルは隆とお嫁さんの子供になるために旅に出たんだ。

その温かさが、ぬいぐるみを通して私の腕にも伝わってきた。

その時、深呼吸をした春樹が託すように隆に声を掛ける。

「唐突で、悪いんですけど。俺と姉さんが導き手に会えるように。その絶対の俯瞰能力で、俺たちの世界線に来るよう、手配してもらえませんか?」

春樹の願いに、隆は深く応えた。

「わかった。じゃあ……次の満月の日に……そちらの世界線、そうだな。お前の家の、その黒い影、それに会いに行くように言っておくさ」

「黒い影……マナ、ですか?」

「ああ。その世界で導き手が会える、唯一の手段だからな」

「そうか……そういうことか」

春樹は感嘆のため息を漏らし、ゆっくり口を開く。

「さすが、頼りになるな。ありがとうございます」

「俺にとっちゃ、大した能力も無しに、そこまで俯瞰してるお前の方がよっぽど頼りになるけどな。ていうか、不気味だ」

「あははっ、隆さんらしいな。それじゃよろしくお願いします」

「隆。お嫁さんとチハルをよろしくね。いつまでも元気で」

「任しとけって。と、言っても……俺、杖ついてる身なんだけどな」

少し照れ隠しにも思える、隆らしい一言。

そのやりとりが終わると、ふっと気配が途切れた。
私の手にあるぬいぐるみは、ただの綿と布切れに戻っていた。

けれど——。
小さな吐息のような温度が。
語りかけてきた、声の余韻が。

私は目を閉じ、ぬいぐるみを優しく撫でる。
幼い時からの心の支え。
もう、大人の私では、涙は出ない。
ただ、胸の奥で静かに何かがそっと手放したのを感じていたのだった。





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最終更新:2025年09月21日 08:58