家の鍵を開けると、キッチンからお義母さんが顔を出した。
「愛ちゃん、御門くんおかえりなさい」
「ただいまー」
「ただいま戻りました」
私達は家の中に入る。
「長く一人暮らしなので、ただいまと帰ってくるのは久しぶりです。良いものですね、出迎えてくれる人がいるのは」
冬馬先輩が廊下に立ち止まってポツリともらす。
安心したような、照れるような横顔があった。
(シェアハウスの件、ちゃんと考えてみようかな)
冬馬先輩が嬉しい事、楽しい事を惜しんでちゃいけない。
あっさり振られたって、好きな内は追いかけると決めたんだ。
「しばらくご厄介になります」
キッチンに行って、冬馬先輩はお義母さんに丁寧な挨拶している。
「水道が使えないなんて生活が大変だもの。直るまでうちに居て頂戴ね」
「ありがとうございます」
「私は上で着替えてくるね。先輩はどうする?」
「僕も着替えてきます」
私は二階の自室に入って、部屋着に着替える。
下に降りると、キッチンに着替え終わった冬馬先輩がいた。
「何かお手伝いします」
「御門くん、良いのよ。座ってて」
「そうですか」
「荷物を取りに行かなくて大丈夫? 必要な物があったら遠慮なく言ってね」
「ありがとうございます。明日必要な学校のものはとりあえず持ってきました」
冬馬先輩とお義母さんが話している。
(一昨日みたいに従者とかヘンな事を言わせないよう、二人の接触は極力少なくしないと)
「冬馬先輩、夕食ができるまで勉強教えてくれないかな。数学でわからない所があるんだ」
「わかりました」
「できたら下から呼ぶわ。愛ちゃんの勉強、よろしくお願いします」
「はい。任せてください」
「じゃあ行こうか」
私達は二階の階段を上がっていった。
自室に入って、私は小さなクッションに座る。
「先輩も座って」
「愛菜、勉強は?」
「あれは冬馬先輩が落ち着かないかなと思って言っただけだよ」
「では勉強はしないと言うことですか?」
「そのつもりだけど……」
「お義母様との約束です。これから夕食まで数学をしましょう」
(えぇ、困ったな)
有無を言わせない冬馬先輩の態度に負け、渋々勉強机に向かう。
「わからない所はありますか?」
「いっぱいあるけど、特に今日の授業で習った所なんだけどね……」
教科書と問題集を広げて勉強する羽目になってしまった。
(もっと違う言い訳にすればよかった)
渋々始めてみたけど、問題集をのぞき込む冬馬先輩の顔を近くでみることができる。
ジッと見つめていると「真面目やってください」と怒られた。
こういうのも案外良いかもしれない。
「ここで三角関数の式を当てはめると、解けます」
「じゃあ、ここがsinθ=になって……この比が……できた!」
「一見分かりにくいようですが、法則性を見つけ出せるかが重要になります。気づく事ができれば解くのに時間はかかりません」
(んん、苦手な数学が短時間で解けてしまった)
最近、見るたびめまいに襲われていた。
冬馬先輩は要点しか言わないから、とてもわかりやすい。
「あとこれなんだけど……」
次の問題に取り掛かる。
しばらくして、冬馬先輩が考え込みながら言う。
「一部、中学から復習した方がいいところもあります。うちの学校で今までよく留年せずに2年になれましたね」
冬馬先輩は妙な事で感心している。
「ギリギリなんとかね。隆も仲間だよ」
「そういう仲間はどうかと思いますが」
「うち学校みんな頭いいんだもん。家から近いだけで選ぶんじゃなかったよ」
「愛菜の場合、丁寧に説明すれば理解できるので地頭は良いと思います。問題は要領の悪さかもしれないです」
(よく言われる)
校内順位なんて呆れられそうで怖くて言えない。
私に不利な話題を避けるために、すかさず話を逸らす。
「冬馬先輩は編入試験もすごい点数で入ってきたって学校中で話題だったんだよ。どうやって勉強しているの?」
「僕ですか?」
「うん。参考にしたいし教えて」
「基本はすべて学校でしています」
「休み時間ってこと?」
「そうです」
「他には? 私は行ってないけど予備校に通ってる子は大勢いるよ」
「教科書と問題集、教師の授業だけです」
「ウソ、たったそれだけ?」
「はい」
(そういえば……)
前にショッピングモールでお店を探している時、冬馬先輩が道を教えてくれた事があった。
本人は初めて訪れたけど、案内図を見たから分かると言っていた。
周防さんがその時、『冬馬は一度見たら憶える』『冬馬は特別』と私に話してくれた。
「もしかして、教科書丸暗記してるの?」
「全部ではありませんが、大体は」
「すごい……」
「見るだけではなく、聞いたことも記憶できるので英語もネイティブに近い発音で話せます」
私は言葉を無くす。
うらやましい。
うらやましすぎる。
受験生は寝る間も惜しんで机に向かっているのにこの余裕。
こんなこと大勢の前で言ったら確実に恨まれそうだ。
「でもこれはただの副作用です」
「副作用?」
「極限まで高めた自己再生能力。超回復は身体全体に影響しています。僕の脳も常人の倍以上のスピードで活性化しています。ですから見たもの聞くものが自然と記憶されていくだけなのです」
(そうだったんだ)
『冬馬は特別』
あの時周防さんが言った意味がようやく分かった。
(まだお互い何も知らない頃だし、詳しく言えなかったんだね)
あの頃より少しずつ冬馬先輩を知る事が出来た。
そして大好きになった。
たとえ実らない恋でも構わない。
(もっと知る事ができたらいいな)
「冬馬先輩、さっき言ってたシェアハウスの件、真剣に考えてみるよ」
「しかしさっきは無理だと言っていました」
「無理かもしれない。だけど春樹が帰ってきて落ち着いたら家族で話してみるね」
「本当にいいのですか?」
「うん。冬馬先輩は教え上手だから成績が上がるかもしれないね」
「任せてください。ギリギリの点数で進級させません」
表情には出していないけど、少し声が弾んでいる。
嬉しそうな冬馬先輩を見られて私の胸の辺りが暖かくなる。
「愛ちゃん達、ご飯ですよ」
「はーい。冬馬先輩、行こう。はやくはやく」
照れ隠しに冬馬先輩の背中をぐいぐい押しながら、部屋を出たのだった。
お義母さんの作ったおいしい夕飯を食べて、お風呂に入った。
髪を乾かしたあと、リビングに行く。
置いてあった携帯をみてみると香織ちゃんからメールが入っていた。
『明日から文化祭準備で登校が自由になるわよね。
昨日も思ったんだけど御門先輩とかなりいい感じじゃなかった?
愛菜からデートにでも誘ってみたらどう?』
(香織ちゃんにはいい感じに見えたんだ)
実際は私の片想いなことを香織ちゃんにはまだ話していない。
メールまでお節介な所が香織ちゃんらしくて思わず笑ってしまう。
「急に笑いだしてどうしたのですか、愛菜」
一緒にリビングにいた先輩が私を見て言った。
お義母さんはお風呂に入っていて二人きりだった。
(デートかぁ。息抜きはしたいかも)
「香織ちゃんからメールが来てたんだ。明日から文化祭準備で授業がないでしょ?
息抜きに出かけてみたらって」
さすがにデートとは言えなかった。
「僕も明日は物件を見に行こうと考えています」
「物件? アパートだよね」
「そうです」
「私も行く。もしかしたら一緒に住むかもしれないんだし」
「わかりました。知り合いの不動産屋に話をしておきます」
「不動産屋さんって冬馬先輩の知り合いなの?」
「はい。僕たちと同じ能力者ですが、今は社会に出て普通の人と同じように生活している者です」
「へぇ。そうなんだ」
「この街にはそういった者が大勢います」
「その人にもあえるんだね。明日楽しみだな」
「僕もです。明日はよろしくお願いします)
(やった。明日は冬馬先輩と一緒にお出かけだ)
その時、お義母さんが部屋に入って来た。
こうして穏やかな夜はゆっくりとふけていった。
最終更新:2020年07月20日 20:56