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【8歳4月某日】


『無能』

俺はその言葉に怯えて幼少期を過ごしていた。
父は苛立ちながらいつも母さんに怒鳴っていた。

「出来損ないの無能な子を産んで何になる!」
「高村は統べる者でなくてはいけない。なのになぜ発現しない!」

激昂すると手が出ることもあった。
だから母さんはしょっちゅう泣いて謝っていた。
無能とは一般的に役に立たない者を指すことが多い。
俺は無能な『役立たず』なのだとずっと思っていた。
父が怒るのも、母さんが泣くのも全部自分のせい。
お父さまとお母さまの役に立てない『僕が全部悪い』。
そう思い込んでいた。

初等部に入って俺は自分が思っているほど『無能』ではないと分かってきた。
幼稚舎の頃より成果を求められる事が格段に増えたからだ。
誕生日が四月のせいか同級生が自分より幼く思え、常に良い結果を出すことも難しくなかった。
それは自信の欠片も持っていなかった当時の俺にとって、衝撃的な事実だった。

「春樹くんすごい」
「偉いぞ。高村」

そんな賞賛の言葉を貰える学校が大好きになった。
だから迎えの車が来ると途端に憂鬱になる。
家に戻れば役立たずの『無能な僕』に戻ってしまうからだ。

学校帰り、いつものように黒い車に乗りながら、流れる街並みをぼんやり眺めていた。
と突然、裂けるような甲高い音がしてガクッと体勢が前のめりになった。
ほどなく自宅という所で、運転手の熊谷さんが急ブレーキをかけたからだった。

「危ないじゃないか!いきなり飛び出してきて!」

普段は優しいおじさんの熊谷さんだったが、窓を開けて相手に怒鳴っていた。

「どうしたの? 何かあった?」
「いえ。坊っちゃん、体は大丈夫でしたか?」

後ろの席を気遣う様に、熊谷さんがバックミラー越しに俺を見てきた。

「うん。平気」

事故とまではいかなかったようだったが、嫌な胸騒ぎがした。

「すみませぇん。ここに高村病院のご子息が乗ってみえますよねぇ?」

車道に飛び出してきた髪の長い女が、窓を覗き込むように熊谷さんに尋ねてきた。
間延びした話し方や虚ろな目で、明らかに様子がおかしいと車中からでも分かるほどだった。
熊谷さんは窓ガラスを開けて女に話しかけた。

「何だ? あんた誰だ」
「私、ナンバープレートを事前に調べたんです。高村家が所有する車で間違いないですよねぇ」
「坊っちゃん。この女性は知り合いの方ですか?」

熊谷さんに尋ねられて当時の俺は首を振った。

「ううん。知らない人だよ」
「ご子息。今月、うちの娘と同じ歳の八つになられたとか。お誕生日おめでとうございますぅ」

女は窓越しから媚びるように俺に話しかけていた。
粘着くような視線を向けられ、思わず下を向く。

「熊谷さん、この人怖い」
「私が行って注意してくるんで、坊っちゃんはそのまま車に乗っていてください」
「……うん」
「厄介なのに絡まれたもんだ。坊っちゃんはくれぐれも外には出ないで下さいよ」
「わかった」

熊谷さんは女と話をするために車から降りた。
幸い、昼過ぎの閑静な住宅街に他の人影は無いようだった。
言いつけ通り、当時の俺は固唾を飲んで車内から様子を見守ることにした。

「急に車の前へ飛び出すなんて危ないだろう。わかってんのか?」
「運転手のあなたはお呼びじゃありません」
「坊っちゃんはアンタなんて知らないと言っている」
「ご子息! ご子息は存知あげてなくても、私はちゃぁんと知ってますよ!」

後部座席のすぐ傍までやって来て、女が当時の俺に向かって大声で話し始める。
すかさず熊谷さんがその間に割り込んで、俺を守ろうとした。

「高村博信の息子、高村総合病院の跡取りですよねぇ!」
「わめくな。坊っちゃんに伝言があるなら早く言え。私から伝えておくから」
「直接お誕生日をお祝いさせて下さい! ご子息、私の声、聞こえてるんですよね! 返事してくださいませんか!」
「これ以上騒ぐと警察に突き出すぞ」
「もし慈悲があるのなら聞いてください! うちの娘ねぇ、去年も一昨年も八つのままなんです! どうしてか分かります!?」

初対面で子供の僕になぜそんな質問をしてくるのだろうと思った。
喚き散らしているし、切迫した様子でもある。
無視する事もできず、少しだけ車の窓を開けた。

「わかりません。どう……してですか?」

当時の俺はその女に心底怯えていた。
それでも質問に答えようと、震える声を絞り出した。

「うちの娘はもう……」

そう言うと、女が熊谷さんを押しのけて車のドアにしがみついた。
数センチだけ開いた窓ガラスに細い腕を無理やり突っ込み、幼い俺を捕らえようとする。
長く伸びた青白い手が、目の前で必死にもがいている。
その形相はこの世のものとは思えないほど醜く歪んでいた。

「ひっ……!」
「うちの娘はこの世には居ないからよ! 全部あなた、高村のせいでね!!」

突然、女は心臓から青白い光を伸ばしてきた。
それは稲妻のようにも木の枝のようにも見えた。
車の隅に逃げた俺を逃すまいと、と得体の知れない何かがじわじわと迫ってくる。

「能力者か。白昼堂々と……!」

熊谷さんは女の首を掴んで横に投げ飛ばした。
そして次の瞬間、熊谷さんを中心に突風が巻き起こった。

(今、何が起きている?)

転がった女はうずくまった体勢のまま、熊谷さんに向かって光の枝を伸ばした。
風と光がぶつかり合って、ゴウンと轟音が響く。
風圧で乗っている車がグラグラと揺れた。

当時の俺は意味も分からずその様子を見ているしかなかった。
目の前の光景が非現実的すぎて思考が追いつかない。
でも決着は呆気ないほどすぐについた。
気づけば、道路には女がぐったりと横たわっていたからだ。
熊谷さんは女を引きずって道の端に無造作に寝かせた。
そして疲れた様子で車の運転席に乗り込んできた。

「路肩に停めさせてもらいます。組織の者が女を引き取りに来るそうです。しばらく動けませんが辛抱してください」
「うん」
「坊っちゃん、今回の事は内密にお願いします」
「わかった。熊谷さん、今のは……」
「あの女も能力者だったようです。もしかしたら研究所出身かもしれません。まぁ身元なんてすぐに分かるでしょう」
「能力者……」
「この街はあなたの一族から多くの恩恵を享受している。が、数え切れない犠牲も払っている。坊っちゃんは厄介な力がない分、幸せなのかもしれませんよ」
「僕の……一族……」
「私も一応は高村の遠縁に当たるんです。薄まっても鬼の血のせいですかね。能力値も高くてこうやって坊っちゃんの運転手兼護衛をさせてもらってるんですよ」
「……鬼の血」
「うちの息子も私と同じ風を操る能力がありましてね。やんちゃで困った奴なんですよ」

そこでようやく理解した。
何も無い所から風を起こしたり、光の枝を出したりする不思議な力。
それが僕には備わっていない。
超能力を持たない、普通の人。
だから『無能』なんだ。
高村の一族は多くの関連病院の経営だけじゃなく、この街を統べる者でなくてはいけない。
『無能』だからその資格がない。
だからお父さまはいつも僕に苛立っていたのだ、と。

組織、研究所、鬼の血。
熊谷さんの言葉の中でよくわからない単語がいくつか出てきた。

(兄さんなら知っているのかな。慎重にしらべていかないと)

抗えない何かがある気がした。
そんな見えない蜘蛛の糸に絡め取られていたと気付くのは、もう少し先になってからだった。

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最終更新:2022年03月23日 11:05