【15年後】
あの後、高村は名実共に解体した。
過去の悪行が明るみになり、多くの逮捕者が出た。
その中にはもちろん兄さんも含まれていた。
世間でも当時は大きく取り上げられていた。
高村総合病院も非難に晒され、取り壊される寸前だった。
けれど、桐原製薬の関連病院として再出発する事で取り壊しを免れた。
後から聞いた話だと、元婚約者だった桐原さんが自分の両親を説き伏せてくれたらしい。
それを親友がこっそり教えてくれた。
俺は今『元高村総合病院』だった所の救急医として勤務している。
本当は大学に残り上を目指す様、周りには説得されていた。
だけど高村が奪っていった命の分だけ、命を救いたいと考えて……あえてこの街に戻ってきた。
近くに実家はあるけれど、30歳すぎの大人の男がいつまでも親の世話になる事も憚られ病院にほど近いマンションで暮らしている。
(本気で疲れた……)
四十時間連続勤務だった。
特に俺のような救急医は常時人手不足だ。
労働基準なんてもの無視されるのが当たり前のブラックな環境。
若手が多いのにはそれなりの理由がある。
歳をとってまで続けるには、気力も体力も使いすぎるからだ。
ざる蕎麦の入ったコンビニの袋を持って車から降りる。
さすがに今日は夕食を作る気が起きない。
エントランスで溜まった郵便物を受け取る。
と、いつものダイレクトメールの中に一つ、『大堂春樹様』と書かれた真っ白で立派な封筒を見つけた。
(これは……)
それは桐原さんと親友の友也の結婚式の招待状だった。
彼らとは幼稚舎から一緒の幼馴染だ。
友也はずっと桐原さんを想っていたけど、ひた隠しにして彼女を支えていた。
昔から、とても我慢強い男だった。
俺に向けられていた好意が彼に移ったのは、ごく自然な成り行きだったのだろう。
(でもこの日付……学会の日と丸かぶりじゃないか)
お世話になった教授から論文の発表を頼まれている。
あれもこれも安請け合いしてしまうのが悪い癖で、寝る時間が全然足りていない。
身体が二つに分裂すれば……と願ってみても叶うはずはなかった。
残念だが、どちらか一方を取らなくてはいけない。
(今は頭が働かない。まずは食事だ)
鍵を差し、玄関の扉を開けた。
「……ただいま……」
玄関前でのいつもの出迎えが無い。
嫌な予感がした。
とりあえず部屋中を探して回る。
男の一人暮らし。
多くない部屋数だから、それはすぐに見つかった。
寝室の片隅でカーテンに身を隠すように丸くなっていた。
その体に触れてみる。
全身、死後硬直で硬くなっていた。
(死後24時間以内だな)
まだ解硬が始まっている様子はない。
いつものように背中を撫でてみても、冷たく硬い物になってしまっていた。
「ミケ、よく頑張ったな。20年も生きたんだ。大往生だよ」
元飼い主で服役中の秋人兄さんから預かっていた。
俺が子供の頃に拾った、後ろ足に障害を持った捨て猫だった。
その時、自動の餌やり機が動き出して餌を吐き出していた。
こんな物に頼らなければならないなら、本当は飼う資格すら無かったのかもしれない。
「ごめんな。看取ってやる事もできなくて」
その体をそっと抱き上げる。
固まっているから、丸くなっているそのままの形で持ち上がる。
それを膝の上に乗せた。
死後硬直は筋肉の収縮によって引き起こされるただの生理現象だ。
でも俺は身を硬くして物になる事で『死んだ私に執着しないで』という前向きなメッセージに思えてならない。
ずっと柔らかいままだったら、万に一つ生き返るかもと遺された側は思ってしまうだろう。
死を突きつける事で、遺された者達は現実を受け入れるしかなくなる。
(明日は休みだ。連絡して火葬のこと聞かなくちゃな)
空の段ボールにバスタオルを敷いて、その上にミケを置いた。
腐敗防止のために冷却剤も入れておく。
(コンビニの蕎麦、もう食べる気が起きないな)
ビニールのまま冷蔵庫に突っ込んで、そのままベッドに倒れ込む。
着替えなくちゃいけないけど、その気力も無くなってしまった。
(疲れた……)
ミケが居るから家に戻る理由があった。
守るものがある、それは不自由な事だけど活力にもなり得た。
姉さんには和馬、友也には桐原さん。
皆、大事な人を守る為に生きている。
(それに比べて、俺は……)
ミケを失った空虚感で、全てが億劫になってしまった。
「ミケ……お前の魂は霊脈でマナに会えたのか?」
目を閉じて、問いかけてみても何の返事も無かった。
身重の姉さんに黙ってついて行く。
お腹も大分大きくなって、誰が見ても妊婦だとすぐわかるようになっていた。
自分が大変な時期なのに、パートナーの看病までしている
俺に出来るのは車を出したり、荷物を持ったりするくらいだった。
日々の忙しさで、なかなか助けになってあげる事もできないでいた。
「冬馬先輩と会うのは久しぶりだよね」
「うん」
「驚かないであげてね」
結婚したのに姉さんは未だに御門先輩を冬馬先輩と呼ぶ。
俺も義兄さんとは呼べず、御門先輩と呼んでいる。
あれから5年が経ち、俺は医大生となっていた。
(これは……)
明るい個室のベッドに彼は座っていた。
身体はむくみ、白目や肌に黄疸も出ている。
肌はカサつき、濁った目は窪んでしまっている。
あの誰よりも瑞々しく美しい死体だった彼とは全く違っていた。
「この前、肺の水を抜いたから呼吸が少し楽になったんだよ」
姉さんは御門先輩の近況を説明してくれた。
「こんにちは。春樹さん」
御門先輩は笑顔で俺に挨拶した。
5年前は能面のように無表情だった。
この穏やかな笑顔は今が幸せある何よりの証だろう。
(多臓器不全。おそらく御門先輩はお腹の子に対面は出来ない)
「愛菜。春樹さんに何か飲み物を買ってきてあげて」
「わかった。春樹はコーヒーでいい?」
「うん……」
「それじゃ、売店まで行ってくるね」
姉さんは早々に病室を立ち去ってしまった。
残された俺は椅子に腰掛ける。
「驚かれましたか?」
御門先輩は扉が閉まるのを確認すると、静かに話しかけてきた。
笑顔は消えて、いつもの表情に戻っていた。
「まぁね。この前より大分悪くなっているね」
オブラートに包んでも仕方がないので、はっきりと言った。
「内臓があまり機能していないようで、このような姿になってしまいました」
「臓器の機能が低下すると他の臓器にも影響が出る。負の連鎖でどんどん悪くなるんだ」
「主治医にもう長くないとはっきり言われました」
「だろうね。その内に脳にも影響が出だすと思うよ。意識障害や幻覚、幻聴……混濁、昏睡状態が増えていって……そのまま死を迎える」
残酷な様だけど少しでも現状を知ってもらいたくて、これから起こる事を伝えた。
「分かっています。ですから今日は春樹さんに来てもらったのです」
もっと取り乱してもいいのに、御門先輩は冷静そのものだった。
死を迎える事にあまり恐怖はないように見えた。
「それで? 俺に何か用なんだよね」
「はい。これからの事……愛菜の話です」
「姉さんの話? 一体、何?」
姉さんに席まで外させて、何を言うつもりなのだろう。
「僕はもうすぐ死にます。ですから、愛菜とお腹の子の事を……春樹さんにお願いしたいのです」
「姉さんもお腹の子も大切な家族だ。もちろん出来る限り協力するつもりだよ」
御門先輩の真意を図りかねて、あえて曖昧に答えた。
「そういう意味はなく……春樹さんが自立したその時は、愛菜を妻として迎えてやって頂きたいのです。女手一つで子供を育て上げるのは並大抵の事ではありません。春樹さんなら、安心して任せられる。ですから僕の願いを聞き入れてください。よろしくお願いします」
そう言って御門先輩は俺に向かって頭を下げた。
「顔を上げてよ、御門先輩」
「はい……」
御門先輩は顔を上げて、俺を見た。
俺はベッドに座った御門先輩にゆっくり近づく。
そして俺は御門先輩に手を伸ばしーーそのまま胸ぐらを掴んだ。
「アンタ……何もわかっちゃいないな」
沢山の点滴が、衝撃で大きく揺れている。
それでも構わず、俺は手に力を込めた。
「姉さんは御門先輩……アンタを選んだんだ。それは……死んだって覆る事はない。姉さんは絶対に再婚なんて望まないはずだ」
「ですが、これから苦労する事は目に見えている。愛菜には……誰かの支えが必要なのです」
(胸ぐらを掴んでも軽い。本当に軽すぎる)
思うようにならない身体。
大切な人を残し先立たなければならない無念。
足りない時間。
かつて畏れを抱くほどの強敵だった人は、今はこんなにも儚い。
「姉さんはすでに覚悟できている。あなたとの思い出と子供のために、生きるつもりでいるはずだ。だから、そんな事、頼むから言わないでくれ」
俺は乱暴に手を離した。
御門先輩は小さく咳き込んで、苦しそうに口を開いた。
「僕は……怖いのです。愛菜が不幸にならないか心配でたまらない。だけど……見届けてあげる事もできない」
この五年間で御門先輩は人間らしさを取り戻していったのだ。
能力者を意のままに操っていた高村の一番の被害者……それは彼なのかもしれない。
心を持たない人形のようだった彼を変えたのは、姉さんの献身的な愛だったのだろう。
「だったら……手紙でも書いてあげなよ。今の、その素直な気持ちを書き留めて渡せばいい」
「手紙……ですか」
「とても心配だって書けばいい。見届けてあげたかったって、そう書いてあげなよ。俺が再婚を持ち掛けるより、そっちの方が絶対に姉さんは喜ぶはずだ」
言葉を尽くして相手に伝えなければ、何も始まらない。
心を込めた言葉は何よりの励みになるはずだ。
それはこれからを生きていく姉さんの支えに、十分なり得る。
「そう……確かに、そうですね」
御門先輩は納得したように頷いた。
それは自分に言い聞かせている様にも見えた。
「それに死んでも魂は霊脈……マナに還るだけで、無くなりはしない。俺たち能力者なら皆知ってる事だろう?」
「そうですね。あるべき場所に還る……そう思えば、気も楽になります」
能力者になる前は少しも感じる事が出来なかった。
でも、今は見える。
病室の窓から望む景色からも、その大いなる流れが空と地にしっかりと根付いている。
俺たちはジオラマのような街並みを静かに見下ろしていた。
すると、御門先輩が思い出す様にポツリと漏らした。
「愛菜の中の鬼。春樹さんが名付けたマナは……最初からこうなる事が分かっていたのかもしれませんね」
「こうなる事?」
御門先輩の言いたい事が分からず、俺はおうむ返しに尋ねる。
「最初からループを前提として僕を喰らっていたのではないかと思うのです。ループも愛菜が力を得るまでの時間を稼ぐためにあえてしていたと……今になってそう思うようになりました」
「えっ……!? マナはわざとしていたのか?」
「恐らくは。春樹さんや愛菜の努力無しには当然成り立ちませんが……そもそも多層の愛菜達が自由に力を使えていたと言う事は……成功する未来が約束されいて、すでに鬼にはその先が見えていた……そう思えてならないのです」
(確かに……その通りだけど)
「全て彼女、マナの計画通りだった……」
「春樹さんを相棒に選んだのも、その心の強さを初めから分かっていた。彼女は自らが封じられる日をずっと待っていたのだとすれば……全ての辻褄が合うと思うのです」
(真相は分からない。もうマナは姉さんの中で眠り続けているのだから)
その時、病室のドアが開いて姉さんが入ってきた。
手には缶コーヒーやお菓子が抱えられていた。
「お待たせ。二人で何を話していたの?」
姉さんはループでの真相はほとんど何も知らない。
でもそれでいい。
知らない方が良い事もある。
「お腹の子、御門先輩より姉さんに似ている方が良いなって……そう話していたんだ」
「私は……大好きな冬馬先輩に似ている方が良いかな。えへへっ、ちょっと照れるね」
耳を赤くする程恥ずかしいなら、言わなければいいのにと思ってしまう。
「お腹の子が男の子と分かりました。だから、和馬という名前にしようと決めたんです。僕が決め、愛菜も良いと言ってくれました」
自分の名から一文字取ったのだろう。
そこからも強い未練が伺えた。
(和馬か。いい名前だな)
「春樹もお腹に触ってみて。時々、ピクンって動くんだよ」
温かく、張りのある触り心地だった。
血は繋がっていなくても、新しい家族がその中に居る。
そう思うと、不思議でとても優しい気持ちになっていくのだった。
夢から覚め、目を開ける。
どうやら、疲れて眠っていたようだ。
俺は時間を確認する。
深夜に目を覚ますと、マナが呼ぶ時間がどうか見る癖がついてしまっている。
その癖は15年経っても消える事は無かった。
(せっかく起きたんだ。シャワーでも浴びるか)
部屋の片隅に目を向けると、ミケが段ボールに横たわったままだった。
毛は濡れてはおらず、冷却剤も溶けた様子は無い。
ミケは冷たい骸になってしまった。
だから、俺が握りしめている時のように氷も早くは溶けてはいかない。
俺は脱衣所で服を脱ぎ捨てる。
そして熱いシャワーを頭から浴びた。
(この家には孤独な男と、猫の死体だけ……か)
虚しさや侘しさが一気に心を占めていく。
(御門先輩。俺は心底あなたが羨ましい)
今、俺が倒れて死んでも、すぐに見つけてくれる人はいない。
良くて次の日。
下手すれば、一週間後に見つけられる可能性だってある。
(一番大切な人に看取られて逝けたなんて……とても贅沢だろ)
御門先輩の最期は幸せだった。
マイナス思考が心を占める今は……それが妬ましくもあった。
(それに最後、余計な事を話してくれていったよな)
さっきの夢でも言っていたマナの事。
それのせいで、よく俺は思考のループに陥るようになった。
もしも自ら封じられる事を望んでいたのなら、俺はあんなに彼女を恨む必要が無かった事になる。
目的が俺もマナも一致しているからだ。
もし俺に恨まれる事を前提としていたなら。
辛辣な言葉も、横柄な態度もその意味合いが全く変わってくる。
(俺は彼女が好きだったんだ。だけど、同じくらい許せなくて……深くマナを傷つけた)
姉さんの身代わりと言ったあの時。
マナは一瞬、泣きそうな顔をした。
分かっていて、それでも酷い言葉で突き放した。
彼女は素直な所があった。
彼女は優しい所もあった。
彼女は寂しがり屋だった。
頭も良くて、とにかく強くて……気高い心を持っていた。
「会いたい……」
言葉が自然と、こぼれ落ちていく。
「マナ……俺は貴女に会いたい」
マナは生物として、能力も気位も全てが格上で……ずっと追いつきたくて背伸びをしていた。
少しでもマウントを取って、自分の優位を知らしめたかった。
「好きだった……」
俺は見栄っ張りだった。
好きだと言うのは、まるで負けを認めたみたいで。
気持ちを無理矢理に押し殺すしか、言い訳を見つけられなかった。
「本当に大好きだったんだ。会いたいよ」
掠れたような、泣くような声で喘ぐ彼女が可愛くて仕方なかった。
触れる度に反応する感度の良い身体も愛おしかった。
「マナ……抱きしめたい。今すぐに」
息苦しいほど彼女が欲しかった。
だけど姉さんを裏切る事もできず、どうして良いか分からなくなっていた。
一度でも交ってしまえば、永遠にループから抜けだせなくなる。
意地になって抜け出す方法について考え続けた。
「今でも愛してる。大好きなんだ。他の誰よりも……お願いだ……姿を見せてくれ」
今でも契約の印が俺の手のひらに残っている。
これのせいで、俺は諦めることができないでいる。
今も……ずっと待ち焦がれたままどこにも動けない。
涙が自然と溢れてくる。
今がシャワーの最中で良かった。
目の前がジワりと滲んで……まるで自分の影が濃くなっていくように思えた。
その影は立体的になり、人の、女性の形を成していった。
慌ててシャワーを止めた。
涙が起こした目の錯覚ではなく、確かに黒い影が存在している。
「マナ……なのか?」
彼女は頷く。
「本当に……俺に会いに来てくれたのか?」
また彼女は頷いた。
「そうか。姉さんが言っていた想いのカケラ……それが貴女なのか」
恐る恐る触れてみる。
それは人の温かみ……体温を持っていた。
「温かい。マナ、抱きしめるよ」
細い腰にゆっくりと手を回す。
そして彼女の顔を見下ろした。
あの頃より、背が伸びたせいでマナが少しだけ遠い。
黒い影の塊だから、どこに目鼻があるのかすら分からない。
顔にキスを何度も落として、その感触を確かめる。
目も鼻も唇も……見えないだけで、しっかりと存在していた。
「俺の愛しい人……もう絶対に離さない」
彼女を強く強く抱きしめる。
そして万感の想いを込めて、彼女の柔らかな唇を優しく塞いだ。
最終更新:2022年03月23日 12:39