私は目を開けた。
最初に視界に飛び込んできたのは、心配そうに私を見つめる壱与と隆の顔だった。
その表情が、私が無事であることを物語っていた。
「あっ……隆」
乾いた喉から、微かな声が漏れる。
「おかえり、愛菜」
隆の声には安堵と、かすかな興奮が混じっていた。
その言葉に、胸の奥から温かいものが込み上げてくる。
「頑張りましたね。その覚醒した神にも等しい存在……それがあなたの力です」
壱与の言葉が、私の心に深く響いた。
その瞬間、体中に、これまで感じたことのない力が満ち溢れるのを感じる。
世の中に存在する、ありとあらゆる霊気。
まるで私の手足のように、意のままに操れるかのような、沸き起こる万能感。
これこそが巫女の力なのだと、本能的に悟った。
「これで、私たちの未完成の世界も……」
未だに半信半疑で隆に確認する。
「救えるさ。お前の胡蝶の夢の力でな」
隆の声は、確信に満ちていた。
ふと、そこで気づく。
先ほどまで無重力だった漆黒の空間に、まるで意志を持ったかのように、確かな地面ができていた。
そして、私はその地面に横たわっていたのだと。
「地面が……」
呆然と呟く私に、壱与が静かに告げた。
「すでに世界自体が正しき姿に変異し始めているのでしょう」
私はゆっくりと上半身を起こし、二人を見つめる。
足元に広がる大地はどこまでも続くようで、そして温かい。
「私、これからどうすればいいの? なんだかスゴイのは分かるけど、使い方が……」
途方もない力を手に入れたのは分かるけれど、その力がどういうものなのか。
どう使えばいいのか。
全く見当がつかない。
それでは、宝の持ち腐れと一緒だ。
「そうですね……」
壱与がしばらく思案する。
その瞳には、何か特別な策があることを示唆する光が宿っているような。
「わかりました。奥の手を使いましょうか」
(奥の手……?)
壱与の言葉に首をひねる。
期待と少しの不安を胸に、壱与の次の言葉を待った。
「では、私の前に座ってください」
壱与の指示通りに、彼女の前に座る。
背筋を伸ばし正座をする。
目の前の壱与の表情はどこか神秘的で、私の心を落ち着かせる。
「それでは……目を瞑ってください」
私は、言われるがままに目を閉じた。
これから始まる儀式に、鼓動が高まるのを感じる。
どんな力が、私に与えられるのだろう。
静寂の中、壱与の着ている衣の擦れる微かな音が聞こえる。
そして。
私の頬に、ふわりと優しく手が置かれる感触があった。
その手から伝わるのは、甘く、柔らかで、女の子特有の優しい匂い。
まるで、花びらが触れるかのような繊細さだった。
次の瞬間、柔らかいものが私の唇に、そっと触れた。
「ちょっ、おま……!」
背後から、隆の絶句する声が聞こえた。
驚きに、私は思わずそっと目を開ける。
微笑む壱与の顔が、超至近距離で私の瞳に映っていた。
その距離は鼻先が触れ合うほどで。
彼女の澄んだ瞳が、私をまっすぐ見つめている。
「もしかして……」
呆然と呟く私に、壱与はいたずらっぽく笑った。
その笑顔はどこか満足げで、私の動揺を楽しんでいるかのようだった。
「口づけをして、私と情報を共有しました。どうですか? 力の使い方、わかりますよね」
「初めてが……女の子に……」
私はがっくりと肩を落とした。
力の使い方どころではない。
生まれて初めてのキスが、まさか同性。
しかも、こんな状況で訪れるとは。
ショックで、頭の中が真っ白だった。
壱与は私と隆交互に見つめる。
さらに追い打ちをかけるように、小首をかしげて尋ねる。
「私よりも……隆の方が良かったですか?」
「なっ!」
隆の声が響き、私の口からも「えっ!」と、間の抜けた声が漏れた。
お互い顔を見合わせることなく、サッと下を向いた。
甘酸っぱいような。
むず痒い気まずさが私たちを包んだ。
「コホン、さて……」
壱与がわざとらしく咳払いをして、仕切り直すように私たちを見据えた。
その口ぶりは、何か重大なことを話す前の、真剣な響きを帯びていた。
私も隆も、すぐに彼女に向き直る。
「もうすぐ、この空間は消滅します。正しい姿に変異すれば、この空間は必要ありませんから」
壱与の言葉に、私ははっとした。
この場所が消えるということは、壱与も……。
「壱与は……どうするの?」
私の問いかけに、壱与は驚いたように私たちを見た。その瞳は、まるで予想外の優しさに触れたかのように、大きく揺れる。
「……私、ですか?」
やがて優しい微笑みを浮かべながら、口を開いた。
「心配してくれているのですね」
「そりゃ、当たり前だろ。ここに長い間、こんな所に閉じ込められてたんだ。次の居場所を探さないとな」
隆も私と同じ気持ちだったみたい。
そのことが少し嬉しくて、胸の奥が温かくなった。
言葉は乱暴な時もあるけど、優しくて愛情深い人。
「居場所ですか。しかし、私は……」
壱与は言葉に詰まってしまった。
その瞳には、深い孤独が宿っているように見えた。
その時。
私の中に満ちる力が、この世界の真理を教えてくれる。
世界を覆う、数多の霊気。
秩序と混沌が入り混じった、この世の全て。
それはこんなにも残酷で、同時に美しい。
ようやく巫女の覚醒がどんなものなのか、その全貌が分かってきた。
それは壱与が私に与えてくれた、かけがえのないもの。
私は、ゆっくりと、言葉を選んで話し始めた。
「もし、嫌じゃなかったら……」
一言一言、慎重に紡ぐ。
「壱与にとっての居場所が欲しいなら……別の可能性の私も……助けてあげて欲しいな」
私の見てきた記憶。
たくさんの可能性の私。
それが折り重なり、幾重にも私が存在している真実。
私の言葉が、壱与に上手く伝わっているだろうか。
そう心配になって、壱与の顔を覗き込む。
「お前は中途半端な巫女。自覚はあるんだろ? 壱与」
隆が、壱与の心の奥底を見透かすように言った。
壱与は隆の言葉に、静かに頷く。
「誰も選べなかったんです。自分の信念のために……何も選べなかった」
壱与はそう言って目を伏せる。
その言葉には、彼女が背負ってきた業が滲んでいた。
その様子をみて、隆が諭すように声をかけた。
「今からでも誰かのために。何よりお前がこれから望むかもしれない未来。そして後悔のない過去。それを助けるために動くのもいいんじゃないか?」
私の言いたかった事。
それを隆がまるで私の心の声を代弁するかのように、まっすぐに壱与に投げかけた。
その言葉には迷いを断ち切るような、力強い響きがあった。
「そう……そうですね。愛菜を助ける旅。それが私の使命なら、私である証になりますから」
壱与の表情に、微かな光が差した。
「そうだよ。私の私によろしくね」
肯定するために、力強く頷く。
「そういうことだ。まあ、肩ひじ張らずやっていけばいいんじゃね? 考え過ぎて逃げてみても良いことをなんて一つもないんだから、な」
隆の言葉は、以前よりも自然体に響いた。
きっと転院してから、彼はたくさん悩み、いっぱい苦しんで。
その中で自分なりの答えを見つけてきたのだろう。
だからこそ以前よりも大人っぽく、そして深い言葉を口にできるようになったのかもしれない。
「そうですね。あなた方の言うように、新たな旅に出てみても良いのかもしれませんね」
壱与はそう言うと、その身体が淡い光を放ち始めた。
次の瞬間、薄いベールを纏った白い女の子の影と、それを優しく取り囲むように発光する小さな粒たちが、ふわりと現れる。
それは、浄化された魂の輝きだった。
「もう行っちゃうんだね」
私が寂しさを覚えながら呟くと、薄ベールの少女は揺れながら答える。
人の形を曖昧にすることで、何者でもない姿を選んだのかもしれない。
「浄化された同胞たちと、時間も空間も超越して。私やあなたのように、明るい世界線になるよう導いていきます」
新たな使命を帯びた、比礼のようなベールには決意の光が宿っていた。
もう壱与でもない。
もう一人の私でもない。
何者でない、巫女の導き手として。
「さようなら、身体に気をつけてね」
「コイツに身体なんてないぞ」
隆がすかさずツッコミを入れる。
「そ、そうだったね」
私の言葉に、導き手は、「ふふっ」と楽しそうに笑った。
「お二人にいつまでも幸あらんことを。それではお元気で」
優しい声が響き渡る。
導き手と発光するピカピカの粒たち。
それが闇の空間の中へと舞い上がり、そのまま淡い光となって消えていった。
「そんじゃ、俺らも戻るか」
隆が私の手を強く握った。
彼の温かい体温が、指先からじんわりと伝わってくる。
「うん。私たちの世界へ!」
私は力強く頷いた。
深淵の闇が渦を巻き、その中心に向かって掻き消えていくのを感じながら。
私たちは固く手を繋ぎ、光の中へと足を踏み入れた。
ハラハラと桜が舞い散る、見慣れた大学の構内。
私はベンチに座り、ペットボトルの紅茶を飲みながら、その美しい光景をぼんやりと眺めていた。
桜の花びらが風に舞い、きらきらと光を反射しながら地面に落ちていく。
すると、大学の門に続く大きい歩道に、ひときわゆっくりと進む影を見つけた。
その姿は、見慣れた、大切な人のもの。
私は立ち上がり大きく手を振って、こっちへと手招きのジェスチャーを送る。
そして、その場で動かず、じっと相手が来るのを待ち続けた。
やがて、その影が私の目の前にたどり着く。
「ふうっ。悪い、待ったか」
隆が息を切らしながら。
松葉杖を持ったスーツ姿の彼を見つめる。
「待つのは慣れてるからね」
私がにこやかに答えると、隆は少し安心したように息を吐いた。
「そっか。ところでメシはまだなのか?」
「隆も入学式だったし、まだだよね? 一緒に食べに行く?」
「お前は3年生で就活か。やっぱり待たせ過ぎたな」
「待つのも楽しいよ。だって必ず追いついてくれるでしょ?」
通信高校から時間をかけて大学に進学した隆。
中学時代も入退院で勉強もあまりできていなかったから。
私も勉強が出来る方ではないけれど、彼に教えたり、励ましたりしながら。
少しずつ、少しずつ。
共に前に進んでいった日々が、脳裏をよぎる。
「じゃあ、昼食を買って一緒に食べようよ」
私が提案すると、隆は一瞬、言葉に詰まった。
そして、少しだけ頬を染めながら、もごもごと口を開く。
「・・・・・・なぁ、これから俺のウチに来ないか? 今、誰もいないしさ。メシも一緒に食えるだろ」
ん? どこかで聞いたような台詞。
デジャヴュのような感覚に、私の心がざわめく。
でも、どこで聞いたかも、誰が言っていたかも、どうしても思い出せない。
ただ、その言葉が、なぜか胸を締め付けるように、懐かしい響きを持っていた。
「仕方ないなぁ。隆の家にお邪魔しよう、かな?」
私がそう言うと、隆の顔に満面の笑みが広がった。
「どうせ隣同士だしな。コンビニか? ファストフードか?」
「どうしようかな〜」
「優柔不断なんだよ。昔から」
ハラハラと桜吹雪が舞う構内。
用事があるのか、せわしなく歩く人達。
多くの学生達に追い抜かれてしまう。
それでもマイペースで、私達は歩いていく。
改めて、隣を見つめる。
隆があまりにも見慣れない格好すぎて、つい吹き出しそうになる。
「ふふふ、隆がスーツ着てる。ジャージとかTシャツとかウインドブレーカーじゃないなんて。なんだか笑える」
「うるせえぞ」
歩く人たちに全員追い抜かれて。
結局、周りには誰も居なくなってしまった。
「ねえ、隆」
「ん? なんだ?」
振り向くと、慣れないネクタイが春風になびいていた。
頬を撫でるその淡い桃色は、まるで何かの布のようにも見えて。
「ネクタイ、曲ってるよ?」
その首元を優しく引き寄せる。
隆の息遣いまで聞こえるほどの至近距離。
そしてそのまま、彼の顔に唇を寄せていった。
最終更新:2025年07月03日 08:26