私は激痛に悶えた。

意識が、まるで激流に飲み込まれたかのように、渦を巻きながら引きずり込まれていく。
全身を貫くのは、魂が砕け散るような、耐え難い苦痛。
頭の奥から、無数の情報が洪水のように押し寄せ、五感が引き裂かれるかのようにバラバラになっていく。

見たこともない映像、聞いたこともない音、嗅いだこともない匂い、味わったこともない味、感じたこともない肌触り……それら全てが、散り散りになった後、束となって私を貫いた。

「ぁ……っ、う……!」

喉の奥から、私自身のものとは思えない、苦悶の声が漏れる。
視界は白く染まり、隆の心配そうな顔も、壱与の慈しむような表情も、すべて光の中に霞んでいく。

深い闇へと引きずり込まれるような浮遊感と痛みに苛まれながら、私の意識は完全に途絶えた。


その記憶は、まるで白昼夢のように鮮明に蘇った。

それは、私にとって、ずっと心の奥底に封じ込めていた、あの日の出来事──

セーラー服の私が、静かに病室の扉を開ける。
消毒液の匂いが鼻腔をくすぐる。
白い壁と白いシーツに囲まれた簡素な個室が目に飛び込んできた。
個室用のベッドの上には、パジャマ姿の隆が横たわっている。
いつもの花屋さんで買った花束と、いつもより大きめの紙袋を抱えていた。

「こんにちは。またおじゃまするね」

「愛菜か……」

声に元気がない。
私は胸の奥が締め付けられるのを感じる。
特に最近は、気力がないと感じてしまう。

(無理も……ないか)

そう思うと、胸の奥に重い塊が沈んでいくようだった。
手の中のピンク色のガーベラが、病室の白い空間の中で、ひときわ鮮やかに見えた。
病室の中だけでも明るく、華やかになればまた元気な隆に戻るかもしれないから。

「枯れたかと思ったのに、病室にあるお花もまだ元気だね。ちょっと水入れてくるね」

そう言いながら、慣れた手つきで使ってない花瓶を持つ。

私は隆に背を向け、病室の隅にある洗面台へと向かった。

テーブルに飾られた他の花はもう何日も経つのに、ちっとも枯れる気配がない。
以前持ってきたものも含めると、病室には大小合わせて三つの花瓶が並ぶようになってしまう。
まだ使ってない花瓶にお花を生け、テーブルに置いていく。

(来週は買ってこない方がいいかも)

他の花瓶も一応、水換えをしておく。
おばさんがしてくれてるかもしれないけど、汚れたお水だったら、お花達が可哀想だから。
もう置く場所がないな、なんて、どこか他人事のように考えながら、古い水を捨て、新しい水を注ぐ。

すべて水換えを終え、ベッドに戻る。

すると隆はベッドに座って、カーテンの隙間から差し込む光をぼんやりと見つめていた。
その横顔は、今まで私に見せる元気な表情とはかけ離れて、ひどく儚く見えた。

お互い共通の友達ばかりだったのもあって、学校や行事のことを楽しそうに聞いてくれていた。

なのに、ここ最近は学校の話をしても生返事ばかり。
沈んだように物思いに耽ることが増え、あまり話さなくなってしまった。

なんとか元気づけようと、奮起する。
カバンから取り出したのは、今日の午前に貰ったばかりの卒業証書。
それを隆の目の前に広げて見せた。
真新しい紙の感触が、指先に伝わる。

「じゃーん。見て、これ! 無事、卒業できたんだよ。このセーラー服も着納め。結構好きだったんだけどな〜」

そして、わざと明るい声で告げた。

「それから、私、高校にも合格できました! 家から一番近くの、神社裏にある高校!」

「へぇ……おめでと……」

「だから、今度は制服作りにいくんだ。新しい制服の採寸とかあるし、カバンも買わなくちゃ!」

私の弾んだ言葉に、隆は「高校生か……」と、気の抜けたような、返事を寄越してくる。

「すごいでしょ!褒めて良いよ?」

「……そうだな」

その薄い反応に、私の胸の奥に、また重いものが沈む。

今回の手術、上手くいったはずなのに。
ほとんど以前のまま、状況は悪い。
たくさん痛い思いもしてきたのに、なかなか報われなくて。
それは受験生の私にとっても、ずっと胸の奥に突き刺さっている棘のようなものだった。
だけど、ここで私が沈んでいたら、隆はもっと落ち込んでしまう。
だから私は、精一杯の笑顔を作って、面白おかしく合格や卒業やらを自慢げに話した。

「隆も、少し遅くなっちゃうけど、退院したら校長室で卒業証書もらえるんだって。 良かったね!」

少しでも、彼の表情が明るくなるように。
その一心で、言葉を紡ぐ。
だが、隆の顔は、依然として浮かないままだった。
私は、さらに言葉を続けた。

「卒業式、ね。クラスのみんな、すごかったんだよ? 合唱の途中から、みんな泣いてるし、先生も泣いてるし、私もつられそうになっちゃって……」

そこでようやく、隆が口を開いた。

「……ところでさ」

「ん? どうしたの?」

「卒業式のあとに、みんなでカラオケ行くってメール、俺にも来てたけど、お前は……行かないのか?」

隆の問いに私は、少し考える。

「別にいいよ」

隆は窓の外に視線を向ける。
視線を外したまま、口を開く。

「小学校の卒業式とは違うんだ。本当にみんなバラバラになるんだぞ」

「そうだね。だから特に女の子達、みんな泣いてたんだから」

私の言葉に、隆はゆっくりとこちらに顔を向けた。
その瞳の奥に、何かを押し殺したような、複雑な感情が揺らめいているように見えた。
その感情が何なのか。
当時の私には、分からなかった。

「俺はいいから、その集まりに行ってこいよ」

彼の言葉は、私を気遣っているようにも聞こえた。
同時に、どこか突き放すような響きがあった。

「歌も上手くないし、別にいいよ」

私は、反射的にそう答えた。
カラオケは得意じゃない。
何より、ここにいる方が隆のそばにいられる。

「もう今後会えなくなる奴もいるんだ。行ってこい」

命令するような口調。
含む語尾に鋭さを持っていた。

「私はここの方が落ち着くからいいや」

その言葉を受け入れず、頑なにそう答えた。
ここが、隆のそばが、私にとって一番落ち着く場所だったから。

「そうだ!」

私は、唐突に良いことを思い出す。
今日はこれを何より早く渡したくて来たんだ。

落ち込んだ気分を変えてもらおうと、持ってきたカバンを漁り始める。
ごそごそと手探りで探す。
そして、手に持っていたのは、クラスの寄せ書き。
色とりどりのペンで書かれた、個性豊かな文字の羅列。
そこには、クラス全員からの「早く良くなってね」という、励ましのメッセージがぎっしりと詰まっていた。

「ほら、みんなも応援してるから元気だして、ね?」

私は、隆のベッドサイドに寄せ書きを広げて見せた。きっと、これを見れば、少しは元気を出してくれるはず。

でも隆は、その寄せ書きを見ようともしない。
再び窓の方へと向き直ってしまった。
そして、絞り出すような低い声が耳に届く。

「……帰れ」

その言葉は、私の胸に、鋭いナイフのように突き刺さった。
予想もしない隆の反応に、私は驚く。
今まで、こんなに拒絶されたことなんて無かったから。
なぜ、怒っているのだろう?
私が怒らせるようなことを言ってしまったのだろうか?

隆の身体が、少し震えていることに気づいた。
術後が良くなくて、熱が上がったのかもしれない。

(帰るにしても、こんな様子じゃ……)

「もし体調悪いなら看護師さん呼ぼうか?」

私は、ベッドサイドのナースコールに手をかけようとした。

「……ろ」

か細い声を発して、静かに俯く。
よく見ると、白いシーツを両手で握りしめていた。

「大丈夫? 体温計あったよね。まず測ってみようか」

「………しろ」

破れてしまいそうなほど強く握っているのか。
不自然なほど、シーツにシワが寄っているのに気づく。

「苦しいの? それとも気持ち悪い?」

その瞬間。

隆はベッドの上に置かれていた寄せ書きを、私めがけて投げつけた。
紙が、ひらひらと宙を舞い、私の足元に落ちる。

そして、彼の口から、信じられない言葉が発せられた。

「いい加減にしろって言ってんだ!バカ野郎!!」

そう言うと、さっきのピンクのガーベラの花瓶、先週の白いスイトピーも。先々週のトルコギキョウも。

薙ぎ払うように、上半身をめいっぱい使って次々落としていった。

花瓶の割れるバリンバリンという鈍い音。
それと共に、花瓶の水が跳ねる。
ヒザにも靴にも染みるように足を濡らしていく。

せっかくの寄せ書きも、水たまりに落ちてしまったようにペンが滲んで。
もう何が書かれているのかすら分からなくなっていく。

「お前、鬱陶しいんだよ!!もう二度と来るな!」

吐き捨てられた言葉。
その暴力に私の思考は、完全に停止した。
頭が真っ白になり、ただただ驚きに支配される。

隆の気持ちが、全く分からない。
なぜ、こんなにも怒っているのか。
何を言って、彼をこんなに怒らせてしまったのか。

自問自答するけれど、答えは見つからない。
混乱だけが、私の心を埋め尽くした。

病室の惨状を見て、少し冷静になったようだった。

「ケガ、無かったか」

その顔は、痛みと、そして深い悲しみに歪んでいるように見えた。

「うん。大丈夫……」

「頼む、今は誰の顔も見たくない。帰ってくれ」

「でも、片付けないと……」

「本当に頼む……帰ってくれ……」

そう、絞り出すように言われ、私は何も言えず、ゆっくりと立ち上がった。
病室を出る間際まで、なぜ怒ったのか、何を言って怒らせてしまったのか、その理由を私は探し続けていた。

結局、何も分からないまま扉を閉める。

その瞬間、涙が止めどなく溢れていく。
止めようと目をこすってもダメ。
鼻の奥がツンとなって、のどの奥が苦しい。

それでも、泣き声だけは聞かれたくなくて、息を押し殺して。
廊下にしゃがみ込んで泣き崩れた──

その思い出が、今、この身体を駆け巡る激痛の中で、鮮やかに蘇った。

あの頃の私には、隆の本当の気持ちが少しも分からなかった。
ただ、突き放されたことの衝撃と、悲しみだけが心に残った。
だけど、今なら分かる。
隆が心から私を心配してくれていたのだと、痛いほど理解できる。
私が自分の夢や青春を犠牲にして、無理に付き添っているのではないかと案じていたのだ。

時間も、行動も。
すべて縛り付けていると感じて、私を自由にしたかったのだ。
その優しさが、あの時の彼をあそこまで追い詰めていたのだと。

(あの時は……まだ……)

今思うと、私は自分のことしか考えていなかった。
進学する私と、未来がどうなるかも分からない隆。
先の見えない将来を比べて。
不安も焦りもきっとあっただろう。
その焦燥感すら理解することができなかった。

あの後、理由も分からないまま隆が別の病院に転院してしまう。

それ以後はただ無気力に高校生活を送ってきたことを思い出す。
隆のいない高校生活は、モノクロのように色褪せて見えた。

そして私は自分自身を責め続けていた。
もし退院したら、次こそ変わろう。
鬱陶しいなんて思われないように。
そう、心に誓って。

痛みは、再び私を襲う。
全身を焼くような、魂を抉るような激痛が、意識を奪おうとする。
引き裂かれそうな意識、諦めが脳裏をかすめそうになる。

それでも。

(……私は、乗り越えられる)

私には、隆との絆がある。
あの時、理解できなかった彼の優しさも、今なら分かる。
この痛みも、きっと彼が私に託してくれた試練なのだ。

この絆があるから、大きな壁も越えていける。
これからも、それは変わらない。
私は心の中で、そう確信した。

すると、目の前に眩い光が差し込む。
全身を襲っていた痛みが、まるで嘘のように消え去った。
その温かな光に包まれ、私の意識は、ゆっくりと浮上していった。




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最終更新:2025年07月03日 08:13