白光が世界を包む。
眩さに目を細めても、闇はなおしぶとく存在している。
鬼が咆哮した。
「おのれ……人の分際で!」
憎悪が渦を巻き、世界の縁を揺らす。
それでも周防は静かに目を細め、低く告げた。
「……俺と会話した時点で、鬼であろうが全て晒されたも同然だ」
その言葉に、鬼が睨みをきかせる。
格下に嵌められた屈辱。
その、強い怒りは抑えきれないようだ。
「人間ごときが、わけたことを……!」
だが周防さんの声は揺るがない。
感情も理屈も、すべてを編み込み、鬼の精神に直接届くようだ。
「無駄だ」
「────!!!」
鬼が臨界点の咆哮を上げる。
(耳が……!)
キーンと反響がこめかみを襲う。
周防さんと鬼の間には、見えない力の糸が張り巡らされているのがわかる。
「吠えるな。……俺と向き合え」
冷たさの中に、圧倒的な強さを含んだ声が鬼の精神を揺らす。
「怒りも恨みも、連れて行く──」
言霊となり、鬼の精神を少しずつ溶かしていく。
「まさか、わたしごと持って行く……つもりか……!」
鬼の怒りの渦が波紋のように拡散し、驚嘆が入り混じる。
残った鬼の意識の端が光の中で急速に縮み、やがて消え去った。
「心を引き裂いて、引きずり込まれたくなければ、大人しく従え」
光の洪水の中。
鬼の残骸は周防さんの中に飲み込まれ、精神の奥底に眠る血筋による優良種の強さが微かに光を支えていた。
「……一緒に……奈落へ堕ちようか。鬼よ……」
最後に、周防さんは深く息を吐き、消えゆく光の中心で静かに呟く。
私を閉じ込めていた闇の檻が、バチンとはじけるように飛び散った。
「これで……やっと、何も失わなくて済む……」
世界は静寂を取り戻す。
私の精神世界に、自由が戻った。
「いや……! 私を置いて行かないで!!」
鬼ではなく、私を選んでほしかった。
周防さんの視線は未だ私を映していない。
(これは……)
スカートのポケットに入っていた、サンストーンを必死に握りしめる。
「ひどいよ! 自分だけ背負い込んでばかりで……!」
手を差し出すと、フッと何かが掴めた感触。
オレンジの石の熱が、周防さんの意識にすり替わったように伝わる。
「……愛菜ちゃん、離すんだ。君まで巻き込まれる!」
周防さんが咄嗟に声を張る。
いつもの冷静な医師でも、軽いノリのお兄さんでもない。
全力で守ろうとする、全存在をかけた姿。
「私にだけ! 本当の周防さんを見せて……!!」
落ちそうになりながら叫ぶ。
全身の力を振り絞り、手を差し出したその瞬間、私の中の私がフッとこぼれ落ちる。
同時に、サンストーンのオレンジの欠片も闇に堕ちた。
(あれは……鬼……?)
奈落から浮き上がるように解放され、闇は急速に収まる。
周防さんはそっと手を握ったまま、困ったように微笑む。
「……君は……本当に無茶をする」
呼吸は荒いけれど、心は少しずつ落ち着いていく。
光の余韻に、周防の温かさがじんわりと伝わった。
私は手の感触を確かめながら、静かに頷いた。
あの日の夜から10ヶ月が経った。
病室には、まつ毛を閉ざしたままの周防さん──
ベッドには「黒石 守」と書かれた名札。
偽名に、偽の戸籍。
医師免許も運転免許証も、全てが嘘で固められた彼の存在を、ようやく理解できた。
(あの時、私は周防さんを確かに掬い上げたはず)
曖昧な記憶を辿りながら、大きな手を握る。
長く使われていない手足はすぐに固まるから、丁寧にほぐしていった。
「愛菜さん、今日も念入りにマッサージしてあげているんですね。周防は幸せ者です」
「美波さん……」
個室に入った整形外科医の美波さんが、静かに微笑む。
「絶対に戻ってくるって確信があるんです。だから、困らないようにしないと」
「でも無理はしないでください。あなたの身体はあなただけのものではないのですから」
「分かってます」
気づいた時には、すでにお腹は大きくなっていた。
同時に、周防さんと私の子供だと知ることにもなった。
「無責任に何ヶ月も眠りこけて。本当にヒドイ男です」
私の中の鬼は完全に消えた。
霊的なものも、異形の影も、もう存在しない。
きっと、鬼が一緒に持って行ってくれたのだろう。
でも、手には冬馬先輩と周防さんの契約の痣だけ、残ったまま。
結局、冬馬先輩も渚さんのお母さんも、あの時、怪我もなく無事だった。
周防さんは生粋のペテン師だ。
絶望させるために、罠にはめる。
私は、すっかり騙されていたのだ。
そして。
今月、生まれる予定の臨月に入った。
学校は休学中。
子どもが生まれたら退学するつもりだ。
まだ親の援助なしでは生きられないけれど、早く大人になり、この子を育てる決心もしている。
「……そうだ」
私はゴソゴソと鞄を探す。
「ありました。これ、持ってきたんです」
「それは?」
細い紙を指さすと、美波さんが尋ねた。
「しおりで……ツユクサの押し花です。鮮やかな青がなかなか出せなくて。でもようやく綺麗な色が出せたんですよ?」
乾いたの手に押し花を差し入れると、ピクンと動く指先。
(まさか……)
瞼が揺れ、ゆっくりと周防さんが、目を覚ます。
その虚ろだった瞳が、目の前にいる私の姿を、捉える。
そして、ほんの僅かに、光を宿す。
彼はかすれた声で、呟く。
「Where am I?──Who are you?」
(英語……? 周防さん……)
私は助けてを求めるように、美波さんを見る。
美波さんは頷くと、優しく声を掛ける。
「私は医師です。あなたは長い昏睡から目覚めて、意識がはっきりしていないようです。今日の日付と名前を教えて下さい」
「お前、美波……なのか?」
周防さんは目を見開いて驚いているようだった。
「私の名前は覚えているようですね。では、あなたの名前と年齢、肩書などは分かりますか?」
「俺の名前は高村周防。歳は18。アメリカの大学でUSMLE取得のために留学中だ」
(やっぱり、記憶が……)
「そうですか。分かりました」
美波さんはそのまま引き下がろうとする。
「待って下さい。周防さん……記憶が……どうしちゃったんですか? 私は愛菜です!」
「愛菜さん。周防は起きたばかりで記憶障害を起こしている可能性が高いです。今は落ち着くまで……」
長い時間をかけて、ようやく目が覚めたのだから仕方ない。
当然、私との時間も、すべて失ってしまっている。
分かっているはずなのに。
それを認めたくなくて、唇を噛んだ。
「美波。俺は記憶障害なのか?」
「はい。恐らくは」
「なら……本当の俺は今何歳だ? そしてこの妊婦は誰だ?」
「現在は2008年、あなたは25歳。医師で、名前は黒石守という偽名で医師をしていました。そして──この妊婦は大堂愛菜さん、年齢は17。あなたとの子供を宿しています」
わずかに息が止まったような間。
周防さんは、眉間に皺を寄せ、視線を落とす。
「あと不可解なことがある。この静けさは何だ? お前からも彼女からも、何の心の声も感じないが」
「もう、あなたには能力はありません。ただの人です」
美波さんは現状を淡々と告げた。
「本当の世界は──こんなにも穏やかだったんだな」
周防さんは感慨深く、ため息を吐く。
その静けさを噛み締めているようだった。
そして、今度は私を静かに見つめてくる。
「愛菜さん? だったか。美波の話だと、君は、俺の恋人なのか?」
問われる、辛い質問。
苦しさを抑え込み、正直に答える。
「いいえ、違います。まだ、周防さんにとって、こよみさんが恋人なのだと、思います」
「こよみは──?」
「綾は亡くなりました。裕也も、当然、帰国済みです」
美波さんが状況を説明してくれる。
「そうか。本当に何もかも変わってしまったんだな」
急に記憶が無くなってしまったのに、ここまで冷静に対応できているのは、本当に凄い。
私なら、もっと取り乱してしまうだろう。
「愛菜さん、その大きさから察するに、臨月のようだな?」
「はい。今月出産予定です」
嘘を言っても、仕方がない。
ありのままを答える。
「経緯は分からないが、俺はすでに成人済みで未成年を妊娠にさせたことになるな。これは、重大な責任問題だ」
(責任問題……)
「私も、色々調べました。でも、認知とかそういう事は考えてません」
「なぜだ?」
「それは……私の一方的な片思いですし」
私の言葉を聞いて、周防さんの視線が宙を泳ぐ。
そして、言葉を探すようにゆっくり口を開いた。
「ということは君は……俺を好いてくれている、ということだな」
「……はい」
記憶がない周防さんを混乱させたくない。
でも、嘘もつけない。
私は下を向くしかなくなる。
「生まれてくる子どもの戸籍、父親が空欄はまずいだろう。それに……」
一呼吸、置いて不思議そうに呟く。
「何度も何度も……君の声で呼ばれたような気がする。本当の俺の姿を見せて欲しい、と」
(やっぱり届いていたんだ)
鬼ごと連れて行こうした周防さんを必死で止めた。
あれはやっぱり、夢じゃなかった。
それだけで救われる。
ようやく、周防さんの顔をまっすぐ見ることが出来た。
「生まれる前に籍を入れようかと、考えていた。君さえ良ければ、だが……」
「本当にいいんですか……?」
「問題ない。それより……」
「何でしょうか?」
「そのお腹に触れさせてもらえないか? 不躾だとは思うが……触ってみたいんだ」
「いいですよ。どうぞ」
そっと手が添えられた瞬間、彼の指先がわずかに震えていることに気づいた。
「俺の能力……ずっと忌まわしいと思っていた。だが──」
短く息を飲み、ほんの少し笑う。
「──今日ほど、能力が欲しいと思ったこともないな」
はにかむように、照れ笑いを見せる周防さん。
長い旅路の果てに。
ようやく、この人の本当の姿を見つけた気がしたのだった。
最終更新:2025年09月25日 17:03