診療所の待合室。
その椅子に腰掛け、私は持ってきた鞄から封筒を取り出す。

「あの、この手紙なんですけど……」

冬馬先輩が私に残した手紙を、両手で包み込むように差し出した。
封筒の端は少し黄ばんでいて、指先に触れるたび、時間の粉が舞い上がるような感触がする。
それを見つめた周防さんの瞳に、一瞬だけ、遠い記憶の光が宿った。

「……なんか気まずそうだな、愛菜ちゃん」

片眉を上げた声は軽い冗談めいているのに、その奥には静かな察しがあった。
さすが読心の達人。
言葉にしなくても、胸の奥をなぞられるように分かってしまうらしい。

「あの、これ感謝の手紙なんです。ちゃんと、読んでもらえば分かるんですが……どこを探しても、周防さんの名前がなくて」

冬馬先輩は高校の頃、周防さんを「後見人みたいな人です」と言っていた。
だから、本来なら一番最初に書かれていてもおかしくない。
でも、彼の名前だけが、どこにもなかった。

「よし、その手紙を見せてくれるか?」

「はい……」

私はそっと差し出した。紙のざらつきが、掌の熱を吸い取っていく。
横で見ていた春樹が、静かに補足する。

「周防さん。先輩の手紙には、子供の落書きみたいな黒いメモがあります。
特にそれを、《辺津鏡》の能力で見てもらいたいんです」

春樹の声には、理屈ではない焦りが滲んでいた。
読心がなくても、その熱が伝わる。
周防さんは短く頷き、静かに目を閉じた。

「分かった。じゃあ、全て俺の能力で“見せてもらおう”」

その瞬間、空気が変わった。
小さな診療所の空間が、深海のように静まり返る。
壁の時計の針がひとつ、ひとつと進む音が、世界の鼓動みたいに響く。

──時間が、沈んでいく。
窓の外では潮風が木々を揺らし、遠くで波が砕ける音が、ゆっくりと部屋の奥にまで滲み込んでいった。

やがて、周防さんが静かに瞼を開けた。
その瞳には、どこか懐かしさと哀しみが入り混じった色があった。

「……なるほどな。あいつ、大学で何を学んでたんだっけ?」

「えっと……機械工学だったと思います」

「量子物理は?」

「少しは、やってたみたいです。電子とか、イオンとか……疎い私には、詳しくはわかりませんが」

周防さんは、息をひとつ吐いた。
その吐息は、諦めにも、納得にも似ていた。

「あいつ……“世界の見方”も研究してたらしいな」

「見方、ですか?」

「そう。“見る”という行為が、世界を変える。
量子論の話でもあるが、俺たちの日常もそうだ。
見なければ、存在しない。
でも、見てしまえば、もう戻れない」

黙っていた春樹が、小さく息を呑むのが聞こえた。
そして、言葉を選ぶように吐き出した。

「……シュレーディンガーの猫、ですね」

(私も、聞いたことがある……)

放射性物質の箱の中で、生きているか死んでいるか、分からない猫。
その箱の中の観測した瞬間、世界は一つに収束する。
——あまりにも、残酷で、美しい思考実験。

「冬馬はその理屈を、この世界の理に組み込もうとしていた。
つまり、“観測者が存在する世界”。
だから、俺の名前を書かなかったんだ。……アイツ、俺がサイコメトリーする事まで、想定してやがった。端から、理論の引き継ぎをさせるつもりもだったんだ」

淡い笑みの奥に、確かな痛みがのぞいた。
彼と冬馬の間にあった距離——それが一瞬、見えた気がした。

周防さんは再び、手紙の上に指を滑らせた。
その瞬間、指先から光が波紋のように広がる。
古びた紙の奥から、誰かの“記憶”が滲み出す。

「冬馬はメモで訴えてきた。“見ること”は、“選ぶこと”だと。
お前たちの《胡蝶の夢》と《観測》も、それと同じ仕組みだ。
世界は“波”でできている。
石を投げた瞬間に、波が生まれる。
それを固定化して、形にするのが——春樹、お前だ」

「……俺が、世界を確定させてる……?」

春樹の声が震える。
指先も、かすかに動いていた。
まるで、目に見えない糸の端を掴んでいるかのように。

「ああ。冬馬の見立てでは、そうなる。
お前の見る夢日記が、現実を“確定させる”鍵なんだ」

「そんな……」

春樹の目に、言葉の届かない衝撃が宿っていた。
誰も口を開かなかった。
ただ、波の音だけが、世界の隙間を流れていた。

私は意を決して、口を開いた。

「あの……もう少し、私にも分かるように説明してもらえますか?」

「そうだな」

周防さんが微笑む。
その表情は、どこか“先生”の顔だった。

「愛菜ちゃんの《胡蝶の夢》は、自然の現象に近い。
風が吹くように、音が鳴るように。
“そこにある”という性質を持っている。
だが、風も音も、誰かが感じなければ存在しない。
愛菜ちゃんが見て、聴いて、感じた瞬間——世界は固定される。
それが“観測”だ」

(私が……世界を感じることで、形が決まる?)

胸の奥で、何かがゆっくりとほどけていく。
冬馬先輩の声が、心の奥から聞こえた気がした。

——『それでいい、愛菜。あなたが"見た"なら、そのに“在る”から』

その囁きが、心の中の奥底で理解として滲んでいく。 

「見る」ということは、同時に、何かを失うこと。
だからこそ、冬馬先輩は短命を——最期まで自分自身として生き抜くこと。
“見ない勇気”を選び取ったのかもしれない。

「あの、胡蝶の夢は……エーテルやマナのようなエネルギーの川に石を投げて“波紋"を作る、そんな感覚なんでしょうか?」

冬馬先輩の意思に言わせられたのか。
自分の言葉か、それすらも分からない。

そんな私の様子に、春樹が静かに答える。

「そうだと思う。姉さんの言う“波紋”を、俺の夢日記が"確定"させる。
胡蝶の夢……俺がその波を観測して、世界に形を与える。
そう推論したんだ。御門先輩は……」

静寂の中で、私はその言葉を噛み締めた。
波紋を投げる人。
波を観測する人。
そして、それを受け継ぐ人。

——それが、私たちの“今”を作っている。

もしこれが本当なら。
今まで巫女たちが“夢”を残せなかった理由が分かる。
神器や神宝が足りなかったんじゃ、ない。
“観測者”がいなかったのだ。

巫女が投げた、波はあった。
でも、誰も見なかった。
だから、世界に記録されなかった。

その事実を悟った瞬間、胸の奥が熱を帯びた。
冬馬先輩の視野の広さが、時間を越えて私を照らしていた。

まるで——
『今、あなたが見たから、この世界は確定したんだ』
そう、彼が微笑んでいるようで。

私はそっと目を閉じた。
潮の香りの向こうで、確かに、冬馬先輩の優しい気配を感じていた。





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最終更新:2025年10月15日 05:41