春樹の運転する車は、静かだった。
コンパクトな五人乗りのSUV。
カーラジオから流れるポップスは、何度も耳にした曲なのに、どこか遠い国の言葉みたいに聞こえる。
窓の外では、見慣れた街並みが、ゆっくりと知らない景色に変わっていった。
本格的に始まった夏の陽射しが、フロントガラスに白い線を描く。
その眩しさが、まだ乾ききらない心の奥を照らしていく。
(チハルの……最後の声が、まだ耳に残っている)
あの古びたぬいぐるみが、未来を担う使者のように旅立っていった。
その小さな背中を見送った時、胸の中に残ったのは――
希望と、どうしようもない喪失感。
そして、春樹の言った“黄泉醜女が帰る場所”という言葉の余韻だった。
隣でハンドルを握る春樹の横顔は、優しいおじさんでも、十五年前に見たあの鋭い姿でもない。
どこか掴みどころのない、光と影の境を生きるような顔をしていた。
かつて、彼は何度も時間を繰り返し、その果てで家族を、周防さんを、そして自分自身すらも殺めたという。
それでも今こうして、同じ陽射しの下にいる。
私には理解できないほどの重い時間を、彼は抱えているのだと思う。
(今も、少しだけ……春樹が怖い。でも、それ以上に――)
「ねえ、春樹。これから周防さんのところに行くんだよね。……一体、どうして?」
春樹は視線を前に向けたまま答えた。
その声は驚くほど静かで、風に溶けるようだった。
「黄泉醜女は、帰る家があるのに、その家に入れないんだ」
「家に、入れない?」
「ああ。彼女が移動できるのは、その世界に“巫女”がいる場所だけ。でも、帰るべき世界には、もう巫女はいない」
(巫女……それは、別の私の可能性?)
春樹の言葉は、波紋のように心に広がっていく。
彼女は、帰るための“声”を失った。
呼びかけてくれる巫女がいないから、観測されることもできない。
だから、永遠に扉の前で立ち尽くしている。
(……そうか。だから迷子なんだ)
かつて、再婚前の鍵っ子だった頃。
放課後の夕暮れ、玄関先でランドセルをひっくり返し、失くした鍵を探して泣いた日の記憶がよみがえる。
ようやく見つけたときの安堵感――
それはきっと、彼女が探している“帰り道”と同じなのかもしれない。
「この帰還ミッションには、姉さんの強い意思が必要不可欠だ。だから、姉さん自身の解像度を上げる必要があるんだ」
「……私の、解像度?」
「そう。姉さんの心が、この作戦のすべての“舞台”になる。
舞台がぼやけていたら、役者は演じられないだろ?」
息が詰まった。
自分の心が“舞台”――。
世界の行方が、自分の感情の鮮明さにかかっているだなんて。
私はただの母親で、ただの校正者で、ただの臆病者なのに。
「私に……そんな大事なこと、できるのかな」
弱く漏れた言葉に、春樹は何も返さなかった。
否定も、慰めもせず、ただ前を見ていた。
「この世界の地図は手に入れた。でも、それを読み解き、航海するための技術がない。
……それができるのが、唯一、あの人だけだから」
(あの人――だから、会いに行くんだ)
名前を出されずとも、誰のことかは分かっていた。
春樹の従兄弟にして、“辺津鏡”という唯一無二の読心のスペシャリスト。
飄々として、掴みどころがなく、明るい笑顔の裏に、底の見えない想いを抱える。
――高村周防。
春樹が地図を描いたなら、彼はその地図を読む人。
夢を現実に変えるための、最後の羅針盤。
潮の匂いが車内に入り込み、風が髪を揺らした。
窓の外には、夏の光を受けて銀に光る海。
この道の先に、真実と再会が待っている――そんな予感がした。
鞄の中の手紙を、そっと抱きしめる。
冬馬先輩の手紙。
すべては、あの一通から始まった。
やがて車の速度が落ち、海岸線の丘に建つ一軒の平屋が見えてくる。
潮風に揺れる草の匂いと、打ち寄せる波の音。
春樹がブレーキを踏むと、時まで一瞬止まったように思えた。
――診療所。
切り立った崖の上、白く塗られた壁が陽光を反射している。
春樹がインターフォンを押すと、無垢材の扉が開かれ、懐かしい声が響いた。
「やあ、久しぶり。春樹は……あんまり変わってないか?」
そこに立っていたのは、変わらぬ笑顔の周防さんだった。
ただ、白衣と聴診器が、その笑顔の印象を少しだけ違うものにしていた。
「お久しぶりです。……あの、愛菜です」
春樹の後ろで会釈すると、彼は少し目を細めて言った。
「あぁ、愛菜ちゃん。……前より色っぽくなって――あ、今のはセクハラ発言か?」
「い、いえ。そんなこと……お忙しいのに、すみません」
恐縮して頭を下げると、彼は笑って首を振った。
「午後の診療時間前だし、春樹から連絡ももらってるからな。さあ、入って。
狭いところだけど、今日は海の風が気持ちいいんだ」
靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。
窓が開け放たれれた、小ぢんまりとしていて落ち着いた待合室。
その白い壁には、古い外国の海の写真と『石黒 守』という偽名で得た賞状のような医師免許が額縁に収められていた。
潮の香りと消毒液の匂いが混じり合う。
まるで“現実と夢の境目”に足を踏み入れたようだった。
最終更新:2025年10月15日 05:25