ガバッ、と勢いよく身体を起こす。
肺に空気が流れ込む音だけが、やけに大きく聞こえた。
そこは、見慣れた春樹のマンションのリビングだった。
カーテンの隙間から漏れる朝の光が、埃の粒子を照らしている。
「……戻ったか」
「鼻血が……」
「問題ない。サーバーを接続するために、少し負荷が掛かっただけだ」
ソファに座る周防さんが、鼻からツーッと流れる血をハンカチで拭いながら、ニヤリと笑った。
そして、彼が顎でしゃくった先。
目を覚ました春樹が、呆然と自分の右手を見つめていた。
手の甲にあったはずの黒いアザ――マナとの契約の証である「刻印」が、跡形もなく消えている。
「……彼女が、いない」
彼は部屋の隅、自動給餌器の横を見る。
いつもそこに蹲(うずくま)っていた黒い影は、もうどこにもいない。
「……行ってしまったんだな」
春樹は、震える息を一つ吐き出すと、私の方を向いた。
その瞳は、泣いているようにも、憑き物が落ちて笑っているようにも見えた。
1500年の孤独が、今、彼の中から抜け落ちていく。
「……やれやれ。俺の出番はここまでだな」
周防さんが立ち上がり、白衣の裾を払う。
「後は『家族』でやれ。……請求書はまた今度な」
彼はひらりと手を振ると、春樹の部屋から風のように去っていった。
残されたのは、ムスクの残り香だけ。
春樹は、自分の左手で、アザがあった場所を、無意識にさすっていた。
でも、そこにはもう「あの冷たいような、熱いような感触」はない。
擦った皮膚が薄っすらと赤くなるほど、確認して。
「……ないな」
「もう、居ないよ」
「……そう、なんだ……」
私と春樹の間に、朝陽に反射した埃が光を放つように際立って映る。
「……腹、減った。姉さん、何か食べたい」
*
「はい、お待ちどうさま」
実家のダイニングテーブルに置かれたのは、湯気を立てるカレーライス。
クミンとコリアンダーの香りが、部屋に立ち込めていた重苦しい空気を、強引に「日常」へと塗り替えていく。
ここに来た時、両親はいつものように出かけていて留守だった。
子供時代、孤独を埋め合わせるように囲んだ食卓。
それと全く同じダイニングテーブルとイスが並ぶ。
でも。
そんな過去なんてお構いなしに──
和馬はガツガツとカレーを飲み物のように口に流し込仕込んでいる。
「へえ……驚いたな。ちゃんと『カレー』の味がする」
一口食べた春樹が、目を丸くしてスプーンを止める。
「ちょっと、どういう意味?」
「いや、昔の『焦げた何か』を思い出してさ。……姉さん、本当に料理上手くなったね」
春樹は懐かしそうに目を細める。
私はムッとして、皿の縁でスプーンをカチャリと鳴らした。
「ひどい! ……でも、あの頃はみんなで全力で阻止してたじゃない」
「まあ、命に関わるし」
「もう……。でも、私がダメだったから……春樹の出番があったんでしょ?」
春樹は一瞬きょとんとして、それから観念したように苦笑した。
私がポンコツだったから、彼は「しっかり者の弟」になれた。
その役割が、孤独だった心を救っていたことも、今の私には分かる。
「……はは。痛いところ突くなぁ。
……まあ、否定はしないけど」
私と春樹の会話を聞いて、フォローするように和馬がスプーンに刺さったにんじんを突き出す。
「まあまあ、春樹おじさん。にんじんは数珠つなぎになってるけど、見た目よりは食べられるよ?」
「もう、和馬まで!」
うちの息子のたくましさに、笑いと涙が同時に込み上げてきそうだ。
(でも、これはすべて……)
「冬馬先輩のお陰で、味覚が戻ったから」
春樹の手が止まる。
一瞬きょとんとして、それから観念したように苦笑した。
私の料理が上手くなった理由。
それは、私が別の誰かのために生きてきた時間の証明でもある。
「……そうか」
噛み締めるように、最後の一口を飲み込み、静かに手を合わせた。
「ごちそうさま」
その言葉は、カレーへの感謝であり、1500年の長く苦しい因縁への、別れの言葉にも聞こえた。
「……一度でも、マナと一緒に食事をすれば良かったな」
ぽつりと漏れた本音。
私は、鍋を片付けながら背中越しに答える。
「マナも、同じことを言ってたよ」
「……え?」
「統合した時にね、彼女の想いが伝わってきたから。……『もっと、普通の話をしたかった』って」
「……そうか」
春樹は立ち上がり、自分の手を見つめた。
何もない、ただの人間の、悠久の役割に縛られていない手。
「……いい加減、変われってことなのかな」
「そうかもね」
玄関へ向かう。
靴を履く彼の背中を見つめながら、私は口を開いた。
「これで、私から食事に誘うことは……もう、しないと思う」
私の言葉に、春樹は足を止めた。
振り返らないまま、背中で小さく頷く。
「分かった。……俺も、これからのことを考えなくちゃな」
ガチャリ、とドアが開く。
溢れ出す真夏の日差し。
その光の向こうへ、彼は踏み出していく。
いつもなら。
ここで必ず振り返って、「じゃあ」と手を振るはずの春樹が。
今日は一度も振り返らず、眩しい未来へと歩き出した。
その背中は、寂しげで。
けれど今まで見たどの瞬間よりも、広くて強かった。
(……頑張れ)
私は息を止めて、その姿が見えなくなるまで見送った。
視界の端で、陽炎が揺れる。
そこに、黒い影の幻が見えた気がして――。
「……母さん」
不意に、和馬の声が静寂を破った。
視線を落とすと、息子が自分の腕をパチンと叩いて、不機嫌そうに眉を寄せていた。
「早く入ろうよ。蚊に刺されちゃった」
その一言で、魔法が完全に解けた。
耳元のモスキート音。
二の腕が、ムズムズと痒くなっていく。
壮大な悲しみも、魂を削るような贖罪も。
夏の午後の、痒くて鬱陶しい「羽音」には勝てない。
崇高な涙よりも、皮膚の痒みの方が、よっぽど生々しく私を「今」に引き戻す。
「あ……ごめんごめん。入ろうか」
私は苦笑して、玄関のドアノブを握る。
「母さーん! まだー? 痒い!」
「はいはい、今行く!」
重たい鉄の扉を引く。
ズシリとした手応えと共に、カチャリと鍵が噛み合う乾いた音がした。
もう、エンジンの音は聞こえない。
振り返ることも、しない。
「もう、痒いなぁ……。ムピどこ?」
「多分、リビングの引き出しの上。救急箱の中にない?」
涼しい廊下には、一足早く家の中で虫刺されの薬を探す息子の声が響いている。
私はサンダルを脱ぎ、ひんやりとした床を踏みしめて、和馬の元に戻った。
「今、行くから、待ってて」
選び取り、守り抜いた「日常」。
それが、私の誇りなのだから。
(完)
最終更新:2025年11月30日 17:22