唯「うい~。早く行こうよ」

「待ってお姉ちゃん。ケータイ忘れてるよ!」

 平沢家の玄関から唯と瓜二つな顔をした少女が出てきた。
 彼女の名は平沢 憂
桜ヶ丘高校に入学して僅か一ヵ月で生徒序列のトップに君臨した狂戦士である。
 彼女の戦闘力は桜高の漫画研究会の議題の種にされる。
 ベルセルクの蝕で平沢 憂は生き残る事が出来るか。範馬 勇次郎と平沢 憂が戦えばどちらが勝つか。
 彼女の力はそんな普通ならば考えるのも馬鹿らしくなるような議題すら成立させる。

憂「はいお姉ちゃん、ケータイ」

唯「ありがと~、うい」

 今日も桜高に名を轟かせる姉妹の一日が始まる。

憂「こないだはいっぱい活躍したんだってね、お姉ちゃん」

唯「えへへ~、最後の最後にクーラーでダウンしちゃったんだけどね」

 同じ顔の少女が二人並んで談笑している姿は傍から見れば微笑ましいものなのだが、そんな和やかな空気を壊す輩がいた。

「キミ達桜高の子~?」

 髪の毛を金髪に脱色し、悪趣味なシルバーアクセサリーで身を飾るゴロツキが三名、平沢姉妹に声をかけてきた。

唯「そうだよ~、お兄さん達何か用?」

 普通の人間ならば相手にもしないだろう。
だが平沢 唯は違った。
彼女には自分がこの三人に連れ去られ、酷い目に会わされるヴィジョンが見えていないのだ。
無論、唯がこの程度のゴロツキに負ける事など万に一つも有り得ないので、唯の対応は間違ってはいない。

「元カノが桜高だったんだよ。おっ? ギターじゃん、ちょっと見せてよ」

唯「良いよ~」

 唯はためらう事なくギターのソフトケースをゴロツキに手渡した。
憂はその様子を無言で後ろから見ている。

「うぉっ? ギブソンじゃん、すげー! 俺さ、こう見えて昔ギターやってたんだよね~」

唯「ほんと? じゃあお兄さん何か弾いてみてよ~」

「ここじゃあちょっとな~」

 ゴロツキは苦笑いを浮かべながら頬を掻いた。
実際のところこの男はギターを買って一週間で辞めたので、曲など弾ける筈も無い。

「そうだ! ここじゃあなんだし俺ん家に来なよ。そこでいくらでも弾いてあげるからさ」

 ゴロツキはそう言うと嫌らしい笑みを浮かべた。
後ろに控えていた二人も同じような笑みを浮かべて歩み寄ってくる。

唯「でも今から学校だから……」

「良いじゃん、学校なんかサボっちゃえよ」

 ゴロツキは唯に歩み寄り、腕を掴もうとする。
だがその間に割って入るように憂がその場を横切った。

憂「お姉ちゃん! 早くしないと遅刻しちゃうよ!」

 ゴロツキが持っていたギターケースはいつの間にか憂の肩にかけられていた。

唯「あ、待ってようい~。またね、お兄さん達!」

 唯はゴロツキ三人に微笑みかけると、ふらふらと憂を追いかけて行った。
 普段から通学路にしては人が少ないこの道に、三人の男だけが取り残された。

「あ……」

 唯に話しかけていたゴロツキが絞り出すように声を出した。
顔面は蒼白しきっており、全身が震えている。

「うわああああああ″あ″っ!!」

 男は喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
両手で身体の震えを抑えようとするが意味はなく。
次第に男は自分で立つ事すらままならなくなり、膝を折った。

「嫌だ! 死にたくない! 死にたくねぇよおおおおおっ!!」

 泣き叫び、涎を垂れ流しながら男はアスファルトに自分の頭を打ち付け始めた。

「ごめんなさい! 許して下さい!!」

 額から血が滲み出てくるが男はそれを辞めない。
男が動きを止めたのはそれから一時間が過ぎて自ら命を絶った時だった。

「おい……どうすんだよこいつ……」

「知らねぇよ、取り敢えず救急車呼ばねぇと……」

 終始事を見ていたゴロツキ二人は慌てふためき、その場を後にした。
 仮に救急車を呼んで彼が助かったとしても、平沢 憂の闘気にあてられた彼はもう言葉を発する事すら出来ないだろう。
 究極生命体。
 それが平沢 憂の通り名だ。
 彼女の身体から発せられる闘気は常人には毒でしかない。
日頃の鍛練の賜で、憂自身その力を制御する術を獲得しているのだが、今のように姉である唯に危害を加えようとした者に対して、彼女は容赦などしない。

 ただ闘気をぶつけただけで人を狂わせる。
そんな力を持つ彼女も桜高に入学したての頃は暇が無いほどに戦いを挑まれた。
あの平沢 唯には敵わないが、妹の憂を倒せばそれなりに名は売れるだろう。そんな邪な考えを抱く者が後を絶たず、必然的に憂は戦うしかなかった。
 そんな戦いが一ヵ月続いた頃、彼女は桜高のトップに立っていた。
今では彼女に喧嘩を売る者などそうそういない。
 余談ではあるが、平沢 憂が戦いを挑まれていた一ヵ月は『修羅の月』と呼ばれ、今でも語り継がれている。

唯「おはよ~!」

紬「おはよう、唯ちゃん」

澪「今日も遅刻ギリギリだな。もう受験生なんだからしっかりしろよ?」

律「また朝から堅苦しい事言って」

 唯が教室に入ると、既に中では軽音部の三人が談笑していた。
唯はそそくさと自分の席に移動して鞄をかけると、隣に座っているクラスメイトに挨拶した。

唯「おはよ、姫子ちゃん」

姫子「おはよ、どうでも良いけど寝癖ついてるよ?」

唯「あわわ……。ありがと姫子ちゃん」

 指摘されて慌てて髪を梳くと、唯はそのまま軽音部の皆が集まっている席に駆け寄ろうとした。だが……。

唯「ふぇっ?」

 周りを見ずに駆け出そうとしたせいで机に足を引っ掛け、大きく体勢を崩す。

唯「え?」

 床に熱烈なキスをしてしまう寸前で、唯は強烈な力によって身体を引き上げられた。
 きょとんとして隣を見ると、先と変わらぬ姿勢のまま呆れた笑みを唯に向ける姫子の顔があった。

唯「ありがとね~、姫子ちゃん」

姫子「あはは、朝から感謝されっぱなしだね私」

 姫子はやんわりと手を振って、去りゆく唯の後ろ姿を眺めた。
 生徒序列ナンバースリー。『風哭』立花 姫子
 彼女が唯を転ぶ寸前で引き上げた張本人である。

 しかし姫子は自分の席に座っていたではないか。そう思う人もいるだろう。
ではどうやって唯を引き上げたか、そのトリックは実に単純明快だ。
 彼女はごく普通に席を立ち、ごく普通に唯の襟首を掴んで引き上げただけなのだ。
ただそれらの動作を視覚出来ない速さで行なっただけ。
 彼女こそが澪が数日前に言っていた『律にスピードで追いつける五人』の内の一人なのだ。
 それどころか姫子のスピードは律のそれを遥かに凌駕している。
戦闘において彼女の姿を認知する事が出来る人間は、それだけで達人の域に達している。そう囁かれる事すらちらほらある。

姫子「ん?」

 開いた窓から吹き付け、自身の頬を撫でる風を感じると、姫子は憂鬱そうな顔をした。

姫子「今日は風が強いね……。何もなければ良いけど」

 姫子はぼそりと呟くと、机に突っ伏して目を閉じた。
 結果から言うと彼女の悪い予感は見事に的中していた。
 そんな事も露知らず、軽音部の四人は和気藹々と談笑している。
最も、今日三年二組の生徒達がバトルロイヤルを繰り広げるきっかけが起こるなどと、予想しろというのも無理な話なのだが。

律「ゆいー、姫子と何話してたんだ?」

唯「えーっとね、確か……なんだっけ?」

紬「あらあら」

 軽音部四人が談笑している中で、澪だけが一つの席に向かい合って何かを話しているエリとアカネに気をかけていた。

澪「二人とも何の話をしてるの?」

 何の気無しに澪が尋ねると、二人は机に広げていた紙を澪に差し出した。

アカネ「部の防衛陣の振り分けについて話し合ってたんだ。なにせこの学校物騒でしょう? 」

エリ「あーあー、いやになっちゃうよねぇ。部の中にトップランカーが居ればこんなの考えなくても済むのに」

 澪は適当に合わせつつ、差し出された紙に目を通した。
そこには部室の監視、練習中の防衛など、様々な役割と部員の名前が記されていた。

澪「へぇ……。やっぱり皆しっかり考えてるんだ。私達も少しは危機感持った方が良いのかな」

律「何の話してんだー?」

 そこで律が三人の話に興味を抱き、澪の肩から顔を覗かせた。

澪「部の防衛の話だよ。私達もそろそろ真剣に考えないとな。いつ足元すくわれてもおかしくないんだから」

 書類をアカネに手渡すと、澪は軽音部の面子に呼び掛けた。

澪「今日の放課後は皆で部の管理について話し合おうよ」

律「えー? 良いよ面倒臭い、邪魔するやつは全員でぶっ倒せば良いじゃんか」

唯「私は強い人と戦えればそれで良いや。それよりもティータイムを延長しようよ~」

紬「でも澪ちゃんの意見には賛成よ。軽音部が他の部に乗っ取られたりしたら、私悲しいから……」

 紬が伏し目がちに言っているのを見て、唯と律はいたたまれない気持ちになった。

澪「他の部を乗っ取ればその分部費も増えるし名も売れるしな。それを狙う人だってこの学校には沢山いるし」

唯「えっ? 部費も増えるの? じゃあそのお金でトンちゃんの新しい水槽買えるかな」

律「買えるかもなー。いっそ私らも他の部の乗っ取り合戦に乗ってみるかぁ?」

エリ「っ!」

 律が何気なく放った一言を聞いて、エリとアカネは身体を震わせた。
エリは即座に携帯電話を開き、目の前に座っているアカネに向けてメールを打った。

 アカネも携帯電話を取り出し、ディスプレイに表示された文字列を凝視した。
ディスプレイには『ちゃんと録音した?』と記されている。
 アカネは首を縦に振り、ブレザーの胸ポケットの中に忍ばせておいたボイスレコーダーのスイッチをオフにした。

アカネ(これから暫く部の防衛の話題を振るつもりだったけど……。まさかいきなりビンゴとはね)

 アカネは心の中でほくそ笑み、エリの方を見た。
コーラを飲みつつ誤魔化しているが、エリ表情からは笑みが零れている。

エリ(これで軽音部はおしまい。ふふ……、やっぱり私には仏がついているのよ!)

「あら、何ニヤニヤしてるのかしら」

 後ろからかけられた冷ややかな声に、エリは思わず噎せ返りそうになった。

エリ「ま……、真鍋さん……」

 エリが振り返ると、そこには冷笑を浮かべた和の姿があった。

和「二人して黙ってニヤニヤしてると悪巧みしてるみたいにしか見えないわよ?」

 核心を突いた和の一言に、エリとアカネは動揺を隠せなかった。

エリ「な、何でもないよ!」

 心臓が胸の内で暴れ狂い、喉は焼け付いたかのようにヒリヒリと渇く。
エリとアカネは額に流れる汗を拭う事すら忘れていた。

和「ふぅん、まぁ良いけど。律、アンタまた部長会議出てなかったでしょ!」

 和は興味なさげに吐き捨てると、軽音部の談笑の輪の中に入っていった。
 助かった、エリは思った。
 殺されそうだった、アカネは思った。
 口を真一文字に閉じ、目を見開いているお互いの顔を見て、アカネとエリは脱力すると共に少しだけ笑った。

アカネ(危なかった……! 今この人に計画がバレたら全てが終わり。今後も気をつけないと!)

エリ(怖い……。怖かったよぅ……)

 水面下で息を潜めていた悪意はここで折れかかってはいたが、しぶとく生き続けて着実にその規模を広げていた。

 それからは喧嘩もなく、いつもよりも平穏な時間が流れていった。
そして六限目終了後のホームルームを終え、軽音部一堂は唯の席に集まっていた。

唯「今日はなんだかつまんなかったよ~」

律「そうだなー。いつもなら学校の中で誰か一人は血ぃ噴いてんのに」

和「あら、平和で良いじゃない」

 和は音もなく軽音部の輪の中に入ってきた。

律「でもよー、やっぱつまんねぇよ。こういう日は身体がムズムズするんだよなー」

紬「痒いところはございませんかぁ?」

 律が愚痴を零しているところを紬が後ろから戯れついてゆく。
その様子を見て和は一瞬だけ不機嫌な顔をした。

唯「もっと強い人と戦いたいよ~」

澪「まぁそれは一理あるな。自分の技術向上にもつながるし」

和「そうなんだ。じゃあ私、生徒会に行くね」

 和は眉を顰めつつ唯達に背を向けたが、それから数歩歩いたところで足を止めた。

和「アンタ達」

 和の冷たい一言で軽音部一堂は水を打ったように静まり返った。
和は腰に差した刀の柄にゆっくりと手をかけ、半身だけ唯達に向ける。

和「そんなに強い人と戦いたいんなら、私が相手になるわよ?」

 静まり返った唯達の周りの空気が、一瞬にして凍り付いた。

律「和……ち、違うんだ。そういう事じゃ──」

 傍から見ても一触即発の空気である事は一目で分かる。
律はこの時、動物の生存本能に従って和に弁解の余地を乞うていた。

和「…………」

澪「ごめん和、少し調子に乗り過ぎたかも……」

 深々と頭を下げる澪。
和はその様子を暫く眺めて、刀の柄から手を離した。

和「ふふ、冗談よ。でも調子に乗らないようにね。どうも最近学校中がきな臭いから」

 最後にふっと微笑み、和は踵を返して教室から出て行った。

唯「きなこくさい?」

 和を見届けた後に唯が漏らした一言を聞いて、唯以外の部員は大きく肩を竦めた。

和「あの子達には悪いけど、少し釘刺しとかないとね」

 廊下で一人呟く和は体育館を眺めていた。
両目には確かな敵意が込められており、その中で渦巻く強靱な意志が見え隠れしている。

和「……お願いだから滅多な事しないでよね。私はこう見えて忙しいんだから」

 和が放った言葉は誰にも聞かれることなく宙を舞って消えた。
その言葉が誰に向けて放たれたものなのかは、和自身にしか分からない。
 様々な意志が交錯してゆく中で、軽音部はいつもより平和なティータイムに勤しんでいる。
今日、既に凄惨な戦いのきっかけが起きている事もしらずに。

 その日から更に二週間が経った。
 時刻は二十三時五十八分。既に日にちが変わろうとしている時間である。

姫子「ふぅ、やっと帰れる……。今日も疲れたな」

 姫子はアルバイト先のコンビニの事務所で着替えていた。
 高校生は二十二時以降は働けないのだが、姫子は店長に頼まれてやむなく残業していたのだ。
見た目に反して人情に厚く、人に何かを頼まれると断われない。
そんな性格故に姫子はこうして深夜までアルバイトする事がしばしばあった。

姫子「あれ、メール? こんな時間に誰だろ……」

 時計の三つの針が頂点で交わったその時、姫子の携帯電話から着信を知らせるメロディが鳴り響いた。

姫子「知らないアドレス……。誰だろ?」

 少し怪訝な顔をしつつも姫子はメールの本文を確認する。

姫子「っ!? これって……」

 姫子はメールの本文に綴られていた内容と添付された音声データを確認して戦慄した。
 この時姫子は気付いていないが、二週間前に姫子が感じた嫌な予感は奇しくも的中していたのだ。

姫子「闘うしか……ないよね?」

 携帯電話をブレザーの胸ポケットにしまうと、姫子はそっと胸を撫でた。
俯いて身体を震わせる彼女からは、様々な憂いが漂っていた。

梓「…………」

 梓はいつも通り登校し、下駄箱で靴を履き替えているところである違和感に気付いていた。

梓(もうすぐホームルームが始まるのに、生徒が一人も見当たらない……)

 嫌な予感に駆られた梓は用心して鞄の中から二丁の拳銃と銃弾が入ったやや大きめのポーチを取り出すと、スカートで隠れたホルスターにそれらを収めた。

梓(取り敢えず教室に……)

 やや駆け足気味に梓は教室に向かった。
昇降口を抜けて廊下を直進、そしてやがて見えてきた教室の扉に手をかけ、勢いよく開いた。

梓「っ!?」

 扉を開けた瞬間、梓の眉間を狙ってナイフが飛んできた。
梓は大きく背をのけ反らしてそれを躱す。
梓の後ろでナイフが窓ガラスを打ち割る音が鳴った。

梓「うそっ!?」

 その音に遅れて、梓を挟み撃ちにするように廊下の両脇から無数の刃物が飛んできた。
今度は不格好に教室の中へと転がり込む梓。
辛うじて一命を取り留めたと安堵する間もなく、梓の後ろで何かが落ちる音がした。

梓「……閉じ込められた?」

 梓が後ろを確認すると、戸があったところには全く節目が無い鉄板が鎮座していた。
もう一方の戸にも同じように鉄板が降ろされている。

「はじめまして、中野 梓ちゃん」

梓「っ!」

 息をつく間もなく籠絡されてしまい、周りの状況を確認出来なかった梓だが、教室の窓際からかけられた声で我に返る。

梓「誰ですかあなたは」

エリ「ふふ、私は三年二組の瀧 エリだよ」

 エリは半端な位置で束ねているせいで髷のようになっている自身の髪の毛を指で弾いた。

梓「その瀧さんが何の用でしょうか? あまり良い予感はしませんけど」

 梓は身を屈めてホルスターに収まっている拳銃に手をかけた。
口はきつく真一文字に結び、両目を細めている。

エリ「用っていうか、危ないんだよね君達。だから……」

 エリは窓の縁に置いてあったコーラの缶を放り投げた。
それは綺麗な放物線を描き、床へと吸い寄せられてゆく。

エリ「ここで潰れてもらうよ!」

 缶がかつん、と音を立てると同時にエリは梓の懐目掛けて駆け出した。

梓「くっ……! 何なんですかいきなり!」

 梓は銃をホルスターから引き抜き、ためらい無く引き金を引いた。
 乾いた銃声が四発、桜ヶ丘高校の敷地内に響いた。

 梓とエリの邂逅から丁度十分前。
紬は三年生の校舎棟の廊下を一人で歩いていた。

紬(おかしい……。この時間に誰一人登校していないなんて……)

 梓は同じ状況に置かれてもその状況をそこまで深刻に受け止めてはいなかった。
だが紬は幼少時からの英才教育によって培ってきた鋭敏な感覚によって、ある事実に気付いていた。

紬(落ち着いた息遣いが一人分。でもこの穏やかな呼吸は……)

 普通誰かから身を隠す時、たとえ隠れる側が優位に立っていたとしても若干呼吸は荒くなるものだ。
なのでその呼吸の主は別に紬から身を潜めているわけではない。普通ならそう判断する。

 だが紬はそう判断しなかった。
この呼吸は自然の呼吸などではなく、日頃の訓練によって培われた技の一種。
そして人間の本能すらも押さえ込むこの技の持ち主は、恐らく達人の域に達している人間である。
これが紬の見解だ。

紬「出てきなさい」

 紬はそう言うと、近くにあった柱を蹴った。
校舎全体がその力で少しだけ揺れる。

「へぇ、やっぱりあの子の言う通りみたいね。そこいらの子じゃあ受けられないレベルのパワーね」

 廊下の曲がり角から現れた生徒を見て、紬は少しだけ顔をしかめた。

紬「……佐藤さん?」

 紬は信じられなかった。
学年一仲が良いと言っても過言ではない自分のクラスの生徒が、今こうして自分と対峙している事が。

紬「……邪魔してこないでね。私、唯ちゃん達を探すから」

アカネ「そうはさせないわ。やるなら力ずくで、ね?」

 アカネは腰を深く落とし、既に臨戦態勢に入っている。

紬「佐藤さんって、生徒序列五十位以内にも入ってなかったわよね? 勝てると思ってるの?」

アカネ「勝てるよ。相手があなただからこそ」

 即答するアカネの余裕が満ちた表情に、普段は温厚な紬は苛立ちを覚えた。
 この時紬は慢心していた。
格下である佐藤 アカネに自分が負けるはずないと。
そしてその慢心が紬を窮地に追い詰める事になる。

紬「なら……やってみなさい!」

 直後に衝突した二人を中心にして、三年校舎に衝撃の波が走った。

律「この感じ……。ムギか!?」

 律は部室に忘れていた携帯電話を取りに行く為、部室に向かおうとしていた。
人通りが少ない事など大して気にしていなかった律だが、紬とアカネの衝突の際に伝わってきた衝撃で事の深刻さに気付く。

律「……ケータイどころじゃないな!」

 律はカチューシャを外し、階段を大きく飛び越した。
十五段ほどの高さから綺麗に爪先から着地した時、事態は急変した。

律「うわぁっ!?」

 天井を突き抜いて無数の刃物が律に向かって降り注いできた。
寸前でそれを前転して躱す律だが、彼女の前に威風堂々と立ち尽くす者がいた。

「へぇ、あの子が言った通りになったね。衝撃を感知してから五秒以内に飛ぶ確率が九十二パーセント。そして降り注ぐ武器を前転して躱す確率が八十パーセント。一体どうやったらこんな事まで分かるんだろうね?」

 声量が大きいオペラ歌手のような野太い声が律に絶望を与えた。

律「な、なんで? 私とやり合うつもりかよ!?」

信代「本当はこんな事したくはないんだけどね。この中島 信代、自分の部を守る為なら鬼になるよ」

 生徒序列ナンバーシックス。
『岩窟王』中島 信代。
 一筋縄ではいかない多くの桜高生徒達を差し置いて、パワーのみでトップランカーになった戦士が律に立ち塞がった。

澪「今戦ってるのは六人、か……」

 朝のホームルーム直前の時間に、澪は体育館にいた。

澪(迂闊に動くのは危険だな……)

 澪は学校に着く前から人が居ないという違和感に気付いていた。
そして彼女が真っ先にとった行動は、教室ではなく真直ぐ体育館に向かう事だった。

澪「……来るなら来い。返り討ちにしてやる」

 澪は体育館の壁に背を預け、刀の柄に手をかけた。
そして自分を狙っているであろう人物に対して毒づく。

澪「さっきから気配はするのに……。何で何処にもいないんだよ!」

「あら、私ならずっとここに居るけど」

澪「っ!?」

澪「木下さん……? いつからそこに……」

しずか「秋山さんがここに来る前からずっと居たよ?」

 しずかは片目にかかる長い前髪を鬱陶しげに払うと、気の合う友人に微笑みかけるかのようにはにかんだ。

澪「う、嘘……」

 絶対な自信を持っていた自分の眼がまるで通用しなかった事に、澪は戦慄していた。
澪がしずかの存在を察知出来なかったのは観察力云々の次元の話ではないのだが、それでも澪の心をへし折るには充分だった。

澪「う、うわあああああああっ!!」

 澪は即座に刀を抜刀し、出鱈目に振るった。

しずか「わわっ、危ないよ!」

 だがしずかはそれをのらりくらりと躱す。

澪「この! 当たれ! 当たれったら!」

 冷静さを欠いた今の澪の斬撃は錘が乗せられたかのように鈍く、彼女の胸の中で蠢く恐怖は確実に刃に錆をかけていた。

澪「くそっ!」

 刀を薙ぐ力の動きに逆らわず、澪は一回転して渾身の力で刀を振り抜いた。だが……。

澪「え?」

 刃は空を切り、しずかは澪の視界から消えていた。
 慌てて刀を構え直して迎撃の体勢に入る澪だが、それは何の意味も成さなかった。

澪「がはっ……!?」

 何の前触れも無く、澪の腹部に衝撃が走った。

しずか「あっははは、油断しちゃ駄目だよ秋山さん」

 瞬間移動したかのようにいきなり澪の眼前に現れたしずかは、前髪で隠れた片目を細めて笑っていた。

唯「話ってなに? 姫子ちゃん」

 やや強めの風が吹き付けるグラウンドの一角で、唯と姫子は対峙していた。
姫子はマウンドに、唯はバッターボックスに立っている。

姫子「そんなに急かさなくても良いじゃない。こうして二人で話すのって初めてでしょ? もっと肩の力抜きなよ」

 姫子は舌を出して笑うと、左手に嵌めたグローブのポケットにボールを打ちつけた。
ばしっ、と小気味の良い音が鳴り響く。

唯「私緊張なんかしてないよ~。でもさっきから校舎の中で皆の気配がビリビリしてるんだよ、心配なんだよ」

 唯は両腕を回し、その場で飛び跳ねて姫子に話を進ませるように促す。だが姫子はそれに対して苦笑いするだけだった。

姫子「つれないなぁ、唯……は!」

 姫子はマウンドのプレートに足をかけ、滑らかなウインドミル投法でボールを放った。
ボールは直線を描いて唯の隣を通り過ぎ、バックネットに突き刺さる。

姫子「へへ、ストラーイク」

 足元に転がるボールを拾い、姫子は唯にほほ笑みかけた。

唯「私、もう行っちゃうよ?」

 姫子ののらりくらりとした態度に痺れを切らし、唯は姫子を睨んだ。

姫子「あぁごめんね。じゃあ単刀直入に聞くけど……」

 姫子は一旦口を閉じ、一呼吸置いてから言った。

姫子「唯は、この学校が好き?」

 姫子の質問に唯は呆気に取られ、眼を丸く見開いた。
数秒の間沈黙が流れるが唯はゆっくりと口を開いた。

唯「うん、大好きだよ。軽音部の皆がいて、和ちゃんに憂に、姫子ちゃんも居るこの学校が大好き!」

 唯はそう言うと屈託のない笑みを浮かべた。姫子もそれにつられて笑う。

姫子「そうね、私も大好きだよ。唯達やエリにしずか、いちごがいるこの学校が大好き」

唯「えへへ、お揃いだね!」

姫子「だね」

 刹那、一陣の風が吹き付ける。
風はグラウンドの砂を持ち上げ、一瞬だけ唯の視界を遮った。

唯「っ!?」

 その直後に唯は後頭部に衝撃を受け、よろめいた。

姫子「だからこそ……。この学校に立った波は私が静める!」


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最終更新:2013年03月04日 19:36