和「くっ……。何でこんな時に!」

 和は桜高の職員室の一角で、パソコンのキーボードを目にも止まらぬ速さでタイプしていた。

憂「和ちゃん、焦っちゃ駄目だよ?」

 憂もその隣の机で同じようにキーボードと格闘している。

「ごめんなさいね二人とも。でも今は猫の手も借りたいくらいの状況なのよ」

 和達の対面の席で二人よりも滑らかな手つきでキーボードを叩いていた女教師は、大きく溜め息をつくと二人に労いの言葉をかけた。

和「いえ……。気にしないで下さい山中先生。これも生徒会長の仕事ですから……」

そう言いつつも和の額には汗が滲んでおり、焦燥に駆られていることは一目瞭然だ。

和(まさかサイバーテロを起こして学校の情報を漏洩させるなんて……!)

 和は今この学校で軽音部の五人が闘っている事に気付いている。
当然その騒ぎを鎮静する為に動こうとする和なのだが、そうはいかなかった。
 何者かが学校のサーバーに不正アクセスし、生徒情報を漏洩させ、学校の口座から金を引き出してあらゆるところにばら蒔いた。
 その火消しの手伝いを任された和は今こうして動けずにいるのだ。

憂「和ちゃん……」

 憂は目に見えて悪くなってゆく和の顔色に気付き、心配そうに眺めている。
キーボードを叩く手の速さは衰えてはいない。

和(憂をこうして引き止めてられるのも限界がある……!)

 生徒会役員でもない憂が何故学校の情報漏洩の火消しを手伝っているかというと、それは和が直々に頼んだからに他ならない。

和(きっとこの子は唯達が闘ってるのを知ったら止まらないわよね……)

 和は恐れていたのだ。究極生命体である平沢 憂が戦いの場に赴く事を。

和(それだけは駄目! この子が動いたら……、きっと死人が出る!)

 額に流れる汗を拭い、和は隣に座る憂の姿を一瞥した。
和が恐れているのは自分自身であるのだとも知らずに、憂は憂いを帯びた心配げな笑みを和に返した。

 時を同じくして、桜高のバトン部部室にて一人の少女が佇んでいた。

「全員交戦開始……」

 少女は暫く二つ結びにした自分の髪の毛を弄っていたが、それにも飽きたのか床に転がっていたバトンを拾って手の中で弄り始めた。

「真鍋さんと平沢 憂が作業から離れられるのは短く見積もっても三時間……」

 少女が退屈そうに天井を仰いでいると、部室にノックの音が響いた。

「いちごちゃ──」

 がちゃりとドアが開けられると同時に、入ってこようとした生徒目掛けて数多もの刃物が飛び交った。
女子生徒は息を飲む間もなく刃の餌食となり、膝を折って倒れた。

「入る時はノックを四回して左回りにノブを捻ってって言ったのに……」

 少女は倒れ伏した生徒に近付くと、無表情のまま生徒を蹴飛ばして部室の外へと追いやった。

「まっていちごちゃん! 痛いよぅ……!」

 生徒の嘆きも最後まで聞かぬまま、少女はドアを閉めた。

「大丈夫。死なない程度にはしてる」

 眉一つ動かさぬまま元居た場所に腰掛けると、少女は再び髪の毛を弄り始めた。
 この少女の名は若王子 いちご。
生徒序列ナンバーフォーにして桜高最弱の生徒だ。

 桜高に入学した生徒は皆例外無く、その熾烈な環境で過ごすので一人で野生の熊一頭を素手で倒せる程度のレベルまでにはなる。
それは桜高が創立されて八十五年来、覆らなかった事実だ。
 だがいちごは特例中の特例。
一人では中学生の男子にすら劣る身体能力で、彼女は桜高のトップランカーに名を馳せた。
 彼女に敵意を持って近付こうものなら問答無用で智略の沼に引き摺り込まれる。
彼女のその弱さ故の強さを知る者は、畏怖の念を込めて若王子 いちごを『沼』と証した。

いちご「そろそろ中野さんとエリの決着が着く時間……」

 そう呟くとこれまでの間通しで表情を変えなかったいちごが、ほんの少しだけ口元を緩めた。

梓「はぁっ……はぁっ……」

 二年生の教室でエリと梓は熾烈な戦いを繰り広げていた。
 梓の銃器が火を吹くとエリの体躯が縦横無尽に駆け回り、エリの拳が壁を砕くと梓の両目がそれを見切る。

梓「何で……当たらないんですか!」

 積み重なる疲労に耐えかね、梓はついに膝を折った。
小さな体躯は冷や汗で濡れ、目には見えないがエリに与えられた殴打のダメージが内臓に支障をきたしている。

エリ「さぁ、何でだろうね? 自分で考えてみなよ中野さん」

 エリは屈伸すると余裕げに微笑み、汗で濡れた前髪を払った。

梓「くっ……」

 梓はぎりぎりと奥歯を噛み締める。
そして一秒にも満たない速さで銃のマガジンを入れ替えると、再びエリに狙いを定めた。

エリ「無駄だよ!」

 梓が引き金に手をかけるよりも速く、エリは並んだ机の間を掻い潜って梓の懐に潜り込んだ。
腹部に捩じ込まれる掌底を無抵抗に受けてしまい、梓は盛大に吐血した。

エリ「まだまだっ!」

 宙を舞う梓の頭を鷲掴みにして、エリはそのまま梓の顔面を机の角に叩き付けた。

梓「──っ!」

 言葉に出来ない激痛に耐え兼ね、梓はそのまま机にもたれ掛かる体勢のまま銃を手放した。
二丁の拳銃が床に衝突する音は、異なる二つの息遣いと共に教室に響いた。

エリ「ふぅ……。まだやる? これ以上やるなら命の保障は出来ないよ?」

梓「…………」

 梓はエリの言葉に対して返事することなく、床に落ちた拳銃を拾うと立ち上がろうとした。

梓「え?」

 腰を浮かせて立とうとした瞬間、梓は世界が歪むのを感じて仰向けに倒れてしまう。

エリ「あははっ、もう止めときなって。君は充分頑張ったよ、もうゆっくり休んでて良いんだよ?」

 先程梓がもたれていた机を律義に列に揃えつつエリは梓を労った。

エリ「君はまだ二年生なんだし、来年にはもっと強くなれるよ。何も今死に急ぐ必要なんて無いじゃない」

梓「…………」

 梓はエリの歪む世界の中でエリの言葉を深く受け止めていた。
自分はまだ二年生だ。今は三年生相手にここまでやれた自分を素直に褒めれば良い。死んでしまっては元も子もない。
浮かんでくる言葉は全て自分を理屈で慰める言葉で、梓はそんな自分が情けなく思えてきていた。

梓「──っ!」

 自然と頬を伝う何かの存在に気付き、梓の思いは堰を切ったかのように溢れ出る。

梓「……っ! ……うっ……くっ……」

 自責の念に駆られた梓の口から紡がれるのは、いつもは頼りないくせに何かあると自分を思ってくれていた先輩の名だった。

梓「ゆっ……いせんぱ……い……っ!」

 嗚咽を漏らしながら啜り泣く梓を見て、エリはトップランカーの中に入れない自分の弱さを重ねていた。
本来の生徒序列ならばエリは梓よりも格下。
それでもエリがこうして梓を圧倒出来たのは、このキリングフィールドがエリにとって最高の条件下であったからに過ぎないのだ。

エリ「中野さん……。よく頑張ったよ」

 若王子 いちごの策によって最高のフィールドを与えられて梓を完封した自分を、エリは情けなく思った。
 梓をここに招き込んだトラップは、いちごが一夜にして作りあげたものなのだ。

エリ「今回は地の利が少しだけ私にあっただけ。またやり合う時があるとすれば、君に負けるのなら本望かな?」

 最後に自分に微笑みかけて去ろうとするエリの後ろ姿を眺めながら、梓は思考を張り巡らせていた。

梓「…………」

 『今回は地の利が少しだけ私にあっただけ』
 先程のエリの言葉が何度も頭に響く。
 涙は自然と止まり、さっきまで歪み狂っていた視界は段々と鮮明になってゆく。

梓「え……?」

 そして横たわったまま、先程まで闘っていたこの教室を一瞥すると梓はある違和感を覚えた。
違和感、猜疑感は梓の胸の中で渦巻き、確かな異変を察知した。

梓(机……きれい……)

 銃器を駆使する梓と俊敏に動き回るエリの二人が闘っていたにも関わらず、壁や窓には弾痕が着いているのに机だけが綺麗に並べられていた。

 正確には多くの机が銃弾を受けて傷付いてはいるが、並びや配置だけが動いていないのだ。

梓(これって……。嘘……!?)

 梓は自分が机に打ち付けられた後のエリの行動を思い返す。
エリは確かに梓に戦いを続行する意志を問いながら、ずれた机の配置を元に戻していた。

エリ「ばいばい中野さん。またいつかね」

 エリは窓を開けて教室を去ろうとした。
だがその刹那、エリの背後で一発の銃声が鳴り響く。

エリ「え?」

 耳に熱を感じて、エリは自分の耳を銃弾が掠めたのを悟った。
そして振り返ると、そこには膝を震わせながら立ち尽くす梓が居た。

梓「あはっ……。なんだ、こんな簡単なことだったんだ……」

 梓は満身創痍でありながらも微笑を浮かべ、手近にあった机を蹴飛ばした。
吹き飛ぶ机はその奥の机も巻込み、綺麗に整えられた列を乱す。

エリ(嘘……まさか……)

 梓は動きは止まらない。
まるで駄々っ子のように暴れ、時には銃を発砲しながら机を蹴り飛ばしてゆく。

エリ(気付かれた!?)

 エリは自分の胃の中を何か冷たいものが通り抜けたような錯覚に陥った。
自然と唇は乾き、額を冷や汗が伝う。

梓「変な趣味をお持ちなんですね」

 梓の言葉にエリは肩を震わせた。

梓「少し前に唯先輩から聞いた事があります。仏像や寺が好きな変わったクラスメイトがいるって」

 それがエリの事を差している事など、エリにとっては自明の理である。

梓「『金剛界曼荼羅』ですか……。少し無理矢理なんじゃないですかね?」

 梓は少しだけ肩を竦めて、銃口をエリに向けた。
エリはそれに反応して即座に列を保っている机の間を掻い潜りながら、梓へと詰め寄ってゆく。

エリ「分かったからってどうするのよ!」

 乱れた机の列を戻しつつ、遠回りに梓を射程範囲に納めようとするエリを見て、梓は今度は大きく溜め息をついた。

 エリは幼少時から仏像や寺を見て回る事が好きだった。
少しだけ埃っぽい彼女の思い出の中で息衝いていた曼荼羅は、彼女の戦闘スタイルに反映されていたのだ。
 規則正しく並べられた障害物を曼荼羅に見立てその中を縦横無尽に駆け巡り、仇成す者に仏の裁きを下す。
それが彼女が編み出した戦闘スタイルだ。
 無論障害物が無ければこの戦法は使えない。それがエリが序列上格上である梓を圧倒した理由だ。
 本来は弱いが特定の状況下においてめっぽう強い。
それだけでは桜高生徒序列では上には立てない。

梓「わざわざ机を戻すのも面倒でしょう? だから……」

 何故上には立てないのかその理由は単純明快だ。

梓「こうしてあげます!」

 梓はブレザーのポケットから手榴弾を取り出し、口でピンを引き抜くとエリ目掛けて投げた。

エリ「っ!?」

 エリは咄嗟に転がり、その場を離れる。
その直後に強烈な光と共に轟音が鳴り響いた。
爆発はそこにあったもの全てを根こそぎ食らい尽くし、炎を巻き上げる。

エリ「そ、そんな……」

 作り上げた有利な環境など格上がその気になればあっさり打ち崩すことが出来る。
 いちごがエリに与えた曼荼羅は焼け落ち、火薬と硝煙の匂いが漂う梓のキリングフィールドと化した。

梓「私、自分が情けないです」

 燃え盛る教室の中で、梓は天井を仰いで呟いた。

梓「戦場のど真ん中で敵と対峙してるのに妥協して諦めるなんて……。馬鹿ですか私は」

 時々口から血を零しながらも梓は淡々と言葉を紡ぐ。

梓「例え相手が軍隊だろうと憂だろうと、私はこれから先絶対に諦めたりなんかしない。やってやります!」

 自分に戒め、矜持とするように言うと、梓はエリに向けて目が線になるほどの満面の笑みを浮かべた。

梓「『やってやります!』 何かしっくりこないですね……」

 そして細めた両目をうっすらと開き、エリをしっかり見据えると、梓は猫撫で声で言った。

梓「やってやるです、なーんてね」

エリ(来る……!)

 エリは本能で自分の身の危険を察知し、梓との距離を詰めた。
銃を持つ相手と闘う場合は距離を取って逃げようとすると逆に不利になる。ましてや梓ほどの命中精度を誇る使い手となるとそれは顕著に現れる。
 それを理解していたエリが取ったこの行動は全く間違ってなどいなかった。
 梓が両手に握る二丁の拳銃を一発ずつ発砲する。
鳴り響いた二つの銃声はほぼ同じタイミングで重なった。
 二つの銃弾の軌道を完璧に見切り、しゃがんだ体勢から一気にタックルを決めようとしたエリの肩を──。

 一発の弾丸が貫いた。

エリ「うぐっ──」

 熱を持った痛みの波が肩口から広がり、上半身を疼かせる。
悲鳴を上げずに精神力でその痛みに持ち堪えたエリは、追撃の手に備えんと梓の手の動きを凝視した。

梓「次は左肩をいただきます!」

 宣言し、梓は二つの銃口をエリに向けて発砲する。

エリ(避ける……っ!)

 狙われている部位が分かっているのなら避ける事は容易い。
そう考え、エリは左半身を後ろに逸して肩を銃弾の軌道から外した。

エリ「っ~~!?」

 完璧に、何の欺瞞も挟む猶予が無いほどに万全に躱した筈なのに、一発の弾丸が梓の宣言通りにエリの左肩を打ち抜いた。

エリ「きゃああああああっ!!」

 痛みに備える猶予が無かったエリは、ついに堪えきれずに悲鳴を上げた。

梓「これで両腕は使えませんね」

 倒れ伏したエリに近寄り、梓は銃口をエリに突き付ける。

エリ「どう……して……?」

 襲い来る死の恐怖を躱す事を諦め、虚ろな瞳を浮かべたままエリは梓に問う。

梓「どうして弾が当たったのか、って顔してますね。良いですよ、教えてあげます」

 梓は勝ち誇った笑みを浮かべ、二つの銃口をエリから逸して発砲した。

エリ「うぐっ……!?」

 二つの発砲音と同時に一つの弾丸がエリの右太股を打ち抜いた。

梓「ごめんなさい。ちょこまか動かれると面倒なんで撃たせてもらいました」

 銃をホルスターにしまい、屈み込むと梓はトリックの種明かしを始めた。

梓「この銃、それぞれ弾の速度が違うんですよね。そして弾丸は物にぶつかっても潰れないようにハンドメイドしてあるんです」

エリ「…………?」

 目に涙を溜めながらも、エリは無言で首を傾げた。

梓「つまり、弾の速度が違って更に物の衝突にも耐えられる強度を持っているなら、二つの弾の発射を僅かにずらして跳弾で弾の軌道を変えられるんです」

エリ「そんな……」

 そんな馬鹿な。エリは素直にそう思った。
眼で追うだけで精一杯であろう速度を持つ弾丸をそこまで緻密にコントロール出来るなど、人間業ではない。

梓「まぁ流石に障害物が多い場所ではこれは使えないんですけどね。私の腕もまだそこまでには至ってないんで」

 梓はそう言って頬を掻き、けたけたと笑った。

エリ(なんだ……。曼荼羅を焼かれた時点で、私の負けは決まってたんだ……)

 エリは心の中で自嘲した。自分の頬が諦めの笑みで緩んでいるのに気付く。

エリ(ここで終わり……かぁ。焼死って苦しいんだろうな……)

 燃え盛る火の規模がみるみるうちに増してゆくのを感じて、エリは眼を閉じた。

梓「何寝ようとしてるんですか。唯先輩でもこんなとこで寝たりしませんよ」

エリ「え?」

 有無を言わせずに自分の身体を抱え上げ、よたよたと歩く梓にエリは疑問を覚えた。

エリ「どうして……」

梓「目の前で人に死なれるのは気分が悪いんですよ。言わせないで下さい恥ずかしい」

 そっぽ向いて照れ臭そうに喋りつつも、ふらふらと自分おぶって歩く梓が、エリにはとても頼もしく見えた。

エリ「ありがとう……。『梓ちゃん』」

梓「? 何か言いました?」

エリ「ふふ……。何でもないよ」

 安定しない足取りのまま窓の縁に立ち、梓は跳躍した。
猫のようにしなやかに地面に着地すると、エリを荷物のように乱雑に放る。

エリ「きゃっ……。酷いよ、これでも重傷なんだからもっと丁寧に──。うわっ!?」

 物のように扱われた事に対して頬を膨らましてはぶてるエリだが、自分にもたれるように倒れ込んだ梓を受け止めると、吐き出しかけた言葉を胸にしまった。

エリ「大丈夫?」

梓「大丈夫じゃないですよ。もう一ミリも動けません。誰のせいでしょうね?」

 梓は皮肉めいた辛辣な言葉を吐き捨てるものの、表情はとても晴れやかだ。

エリ「ごめんね? 実はこの騒ぎを起こしたのって、私と私の友達なんだ」

 戦いの中で自分の愚かな暴動を悔いたエリは、事の発端を梓にカミングアウトした。

エリ「少し前に軽音部と吹奏楽部がやり合ったでしょ?」

梓「……そういえばありましたね、そんなこと」

エリ「実はあれ、私達最初から最後まで見てたんだ」

 その時は見られているという自覚など無かったので、梓は素直に驚いた。

エリ「見てて思ったの。軽音部は危ない。今は自分から敵に回る人にしか危害は無いけど、もしこの子達が戦いに積極的になったら学校が危ないって」

梓「……なんですかそれ。そんな理由で私達を?」

 既に持ちうる力全てを吐き出して満身創痍となっている梓だが、話を聞いていて湧き上がる苛立ちを隠そうともせずに舌打ちをした。

エリ「ごめんね。話を戻すけど、それで私達は軽音部を潰してしまおうと考えたの。でも皆君達の事が大好きだから、素直に協力してくれる人は少なかったわ」

エリ「でも田井中さんがぼやいてた言葉を録音してでっち上げたら皆協力してくれたんだ。聞いてみる?」

 エリはそう言うと煤けたブレザーの胸ポケットから壊れかけのボイスレコーダーを取り出し、梓に手渡した。
梓はそれを無言で受け取り、再生スイッチを押して耳にあてる。

『いっそ私らも他の部の乗っ取り合戦に乗ってみるかぁ?』

梓「これって……。律先輩こんな事言ってたんですか?」

 この会話が行なわれていた時、梓はその場に居なかったので律の発言を聞いて戦慄した。

 部員数が少ない部が下剋上を仄めかすような発言をすればたちまちにその芽を潰されてしまう。
 桜高の長い歴史の中でそうやって消えた部は数知れない。
それは最早桜高の生徒全員が共通して理解している常識なのに、律が何故こんな事を言ったのか、梓は解せなかった。

エリ「ううん、違うの。実際はそんなのでっちあげ、最初から最後まで再生したら分かるよ」

 梓は言われるがままに再びレコーダーを再生した。
軽音部の四人の下らない談笑を聞き終えると、梓はボイスレコーダーを握り潰した。

梓「こんなに拍子抜けな気分にされたのは……、生まれて初めてです」

エリ「あはは、いざ種明かししてみると妙案なんてのは皆そんなものだよ。上手いことその音声データを編集して、捨てアドからクラスの全員に送信したの。そしたら皆面白いくらい騒いじゃって──」

梓「…………」

 俯いて肩を震わせる梓を余所に、エリは壊れたように笑い出した。

エリ「あはっ、私ずるいよね。こんな質の悪い策を閃いたのもそうだし、こんな策に乗ってくれた皆を捨てて、さっさと降参しちゃうなんてね。あはははっ!」

 笑いつつも、エリの涙腺は崩壊していた。
大粒の涙がぽろぽろと零れ、普段は愛らしい顔は涙と鼻水でくしゃくしゃになっている。

エリ「あははっ、何で私間違えちゃったのかな? ずるいよね、卑怯だよね。自分が弱いからって軽音部を勝手に恐れて……。バッカみたい!」

 それを良しとしていた自分が今では恥ずかしく思える。
戦いに敗れて全てを失ったエリはもう自分を笑うしかなかった。
そんなエリの手を──。

梓「うるさいです」

 梓は力強く握った。

梓「確かに瀧先輩がやった事は誉められたものではありません。でも──」

 握り締めたエリの掌をそっと自分の胸に当てると、梓はその手を愛しげに見つめた。

梓「あなたのその醜くて卑しい思いを、私は何よりも尊敬します」

梓「あなたが私達を恐れていたということはあなたは他の部に所属してるんですよね? 帰宅部なら私達がどうしようと関係無いわけですし」

 エリは梓の問いに対してしゃくり上げながら頷く。

梓「あなたほど自分の部を大切に思える人はそうそういませんよ。大切なものの為にここまで卑劣になれるなんて、最高に格好良いです」

 身体を何か温かいものが包み込んでいるような気がして、エリは赤子のように泣きじゃくる。

エリ「あずさ……っちゃん……ひっく、私達……こんな出会いじゃなかったら……友達になれた……かな?」

 それは一縷の願いだった。
こんな自分は許されても良いのだろうか、エリは不安でたまらなかったのだ。

梓「何言ってるんですか」

 梓は振り向いて泣きじゃくるエリの頭をそっと撫でると、呆れたように微笑んだ。

梓「それじゃあまるで友達になれないみたいじゃないですか。今は少し許せないところもあるけど、きっとなれますよ」

 一呼吸置いて、エリの頬を伝う涙を拭ってから梓は言った。

梓「『エリ先輩』」

エリ「──っ! ありがとう……。梓ちゃ………」

 最後に何か言いかけて、エリは意識を手放した。
その顔はとても安らかなものだった。

梓「血の流し過ぎですよ。まぁ私のせいですけど……」

 梓は唯達の元に向かおうと立ち上がるが、よろめいてエリの胸の上に倒れてしまう。

梓「えへへ、動けないや……。もう少し、こうしてても良いよね?」

 エリの後を追うように梓もその意識を泡沫へと手放した。
 二人の眠り姫を、揺らめく炎が照らしていた。

「あっれ~? おかしいなぁ、今日学校休みだっけ?」

 癖のある髪の毛を二つ結びにした少女が、気怠そうな表情を浮かべつつ二年昇降口で靴を履き替えていた。

「まぁそれならそれでラッキーなんだけど……。昨日徹夜で戯言シリーズ読んだせいで眠たいや……」

 目を擦りつつ、少女は自分の教室に向かう。
そして教室が見えてきたその時、少女はようやく異変に気付いた。

「燃えとるがな……」

 自分の教室が踊り狂う炎に焼かれているのを見て、少女は唖然とした。

「鈴木さん?」

 不意に後ろから自分を呼ぶ声が聞こえて、少女は振り返った。

「んぁ? 誰ですかあなた。それよりも何なんですかこれ」

 鈴木と呼ばれた少女は怪訝な顔をして、生徒に詰め寄った。

「何って……。あなた昨日のメール見てないの?」

「メール?」

 少女は不信感を覚えつつも、ポケットから携帯電話を取り出してメールを確認する。

「軽音部殲滅作戦を決行する為、関係者以外は登校を禁ずる? 何これ?」

 頭の上にクエスチョンマークが浮かんできそうなきょとんとした顔を見て、生徒は大きく溜め息をついた。

「あの、一応立ち入った部外者は殲滅するように言われてるんだけど、分かったら早く帰りなさい?」

 少女を諭すように語りかける生徒。だが……。

「あ~、それ無理です。ごめんなさい」

 少女は掌を生徒に向けて突き出し、要求を却下した。
 直後に二人の間に険悪な空気が流れる。

「そう。じゃあ残念だけど、始末させてもらうわね」

「あー全然おっけーです。多分あなたじゃあ無理ですから」

 少女は何の悪びれもなくそう言うと、舌を出して微笑んだ。
 その瞬間生徒は微笑む少女の顔面目掛けて渾身の右ストレートを決めようとした。
だがそれは少女のスウェーバッグでいとも容易く躱される。

純「手が早いなぁ……。じゃあ純ちゃん流デンプシーロールを見せてあげますよ!」

 言ったが直後、純は腰を沈めてステップを踏みつつ、生徒の懐に潜り込む。

「っ!?」

 そこまでの一連の動作にコンマ一秒とかかっていない。
生徒が驚愕の表情を浮かべる頃には純の右フックが頬を捉えていた。

純「うっし!」

 立て続けに左フック。そして右フック。
純の上体は綺麗な八の字を描く。

純「これで最後ぉ!」

 渾身の右フックが生徒の頬を捉えると、生徒の身体が宙に浮いた。

純「じゃあ今日のフィニッシュブローは早速昨日読んだ戯言シリーズから引用しちゃおっかな。ちょっと痛いかもだからしっかり受け止めてね」

 笑みを浮かべつつ、純は腰を落として右手を振り翳した。

純「一喰い『イーティング・ワン』!」

 振り抜く平手は空を裂き、凶暴な凶器となって生徒の腹部を捉えた。
少女は断末魔の悲鳴を上げる間も無いまま、意識を強制的に遮断された。

純「こんなもんかな」

 純は満足げな笑みを浮かべつつ、掌をはたいた。

純「軽音部殲滅、ねぇ。こりゃ梓の友達としてほっとけないよね」

 よし、と自分を鼓舞すると、純はその場を後にした。
取り残された生徒の腹部は爆ぜており、赤黒い水溜まりが出来ていた。

 鈴木 純は桜高生徒序列から外された生徒だ。
自堕落なその性格故に桜高で名を馳せる事が無いのがその主な理由なのだが、そのポテンシャルはトップランカーと比べても引けを取らない。
 スピード、パワー、スタミナ。その全てが安定して鍛えられており、それに加えて彼女には戦闘の才能があった。
 平沢 唯のそれとよく似ているその才能は、人の動作を真似る事。
幼少時から純はテレビや漫画で見た技を即座にコピーして見せては、大人達を驚かせていた。
 彼女のその才能を知る者は密かに、彼女の事を桜高生徒序列ナンバーゼロ『夢幻』と称する。

純「さぁて、梓は無事ですかね~っと」

 眠る梓が居る場所を通り過ぎた彼女の行動は実に空回りしていた。
 だがこの瞬間、桜高のダークホースがこの戦いに加入したのだ。



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最終更新:2013年03月04日 19:38