紬「はぁ……はぁ……ごほっ……。何で……?」
アカネ「言ったでしょ? あなただからこそ勝てるって」
三年校舎棟の一角での戦いは佳境に差し掛かっていた。
紬は膝を折り、腹部を抑えて顔を歪めている。
それを見てアカネは冷笑を浮かべると、勢いよく紬の顔面を掌底で打った。
紬「むぐ──!」
紬の身体はその力に逆らうことなく宙に浮かぶ。
アカネは紬が床に衝突するよりも早く、腹部に掌底を捩じ込む。
アカネ「発勁!」
直後に衝撃の波が紬を襲い、床に身体を叩き付ける。
紬「くっ……うぐ……」
身体の中のものを全てぶちまけてしまいたくなるが、紬はそれを寸でのところで堪えた。
紬(まさか勁の使い手がこの学校にいたなんて……最悪ね)
紬は心の中でそう毒づいた。
紬の剛の力の使い手なのに対してアカネは柔の力の使い手である。
中国より古来から伝わる勁を用いて、紬をここまで圧倒した。
勁とは筋肉の伸縮、重心移動の際に発生する緻密な運動エネルギーだ。
勁を発生させ、対象に接触させ、勁を作用させる。
これら一連の動作を攻防の際に行使し、敵を内面から突き崩す。
それが『発勁』のメカニズムだ。
紬(うさん臭い武術だと思ってないがしろにしてたけど、お父様の指導をきちんと受けておくべきだったわね……)
当時の紬がうさん臭いと感じるのも無理は無い。
一般的にメディアなどで取り上げられている勁は気と同一視される事が多い。
全ての事象に科学的根拠が求められる現代社会において『気』などという曖昧な概念は信用されないのだ。
だが実のところ勁の力はれっきとした筋肉による運動エネルギー。
科学的にも観測される立派な物理エネルギーなのだ。
アカネ「ふふっ、そろそろギブしちゃいなよ。もう内臓ズタボロでしょう?」
アカネは倒れ伏す紬の手の甲を踏み付け、ぎりぎりと体重をかけた。
紬「あぐ……ぅ……」
歯を食いしばって痛みに耐える紬だが、その表情には苦悶が満ち溢れている。
紬「どいて!」
手の甲に乗せられたアカネの足を強引に振りほどくと、紬はふらふらと立ち上がった。
アカネ「へぇ……。まだ立てる力が残ってたんだ」
紬「これぐらい……。全然平気よ!」
強がってはいるものの紬は疲労の色を隠せてはいない。
それもその筈だ。アカネは勁の力を使って紬の肝臓を重点的に攻撃していたのだ。
急所から外れた場所にある臓器の為、一撃一撃のダメージはあまり大きくはない。
だがその執拗な一点攻撃は紬のスタミナを着実に削っていたのだ。
スタミナという一点に関しては他の軽音部員に劣る紬がそれに耐えられるのか。
その答えは火を見るよりも明らかだ。
紬「えい!」
紬は左脚を軸にして上段回し蹴りを仕掛けた。
だが正攻法の中の正攻法である回し蹴りが何のフェイントも無しに当たる筈がない。
アカネが紬の足をスウェーバッグで躱すと、蹴りは宙を裂いて校舎の壁に食い込んだ。
コンクリートが爆ぜ、辺りに粉塵を撒き散らす。
紬「くっ……」
凡人を相手にしている時はそれだけで充分相手の足を竦ませる事が出来る破壊力だが、アカネは理解していた。
当たらない攻撃など恐るるに足りないという事を。
アカネ「甘いよ!」
だからこそアカネの動きは止まらない、止められない。
呼吸するかの如く自然かつスムーズに、紬の体躯を壊してゆく。
あくまで急所は狙わず、人体の正中線からずらした攻撃は紬の身体を毒のように蝕んでゆく。
紬「……良い性格してるわね」
アカネ「お互い様でしょう? 少なくとも真性のレズビアンよりはマシだと思うけど」
自分の性癖を嘲るアカネを睨み付け、紬は唇を噛み締めた。
唇の端から真っ赤な血が一筋流れる。
紬「……百合は、文化よ」
苦し紛れに反論する紬だが、アカネがそんな見苦しい妄言に素直に耳を貸す筈も無かった。
アカネ「あはっ、正真正銘真人間な私には理解出来ないわね。お願いだからその性癖は自分の中だけで溜めておいてね?」
ぶちり──。
紬の頭の中で何かが切れた音がした。
理性、情緒、遠慮。普段紬の朗らかな性格を形成していたものが音を立てて崩れさってゆく。
紬「──っ!」
怒りのあまり言葉を上手く紡ぐことが出来ない。
その代わり紬は渾身の力で床を殴りつけた。
アカネ「あははっ! 気でも違ったの? そんな事したって意味無い──」
紬のとち狂った行動を盛大に嘲ろうとしたアカネだが、ある重大な異変に気付く。
アカネ「え?」
まるで震源地にいるような大規模な揺れが三年校舎に発生した。
その直後──。
アカネ「えっ? 嘘でしょ!? きゃああああああっ!!」
コンクリートで出来ている壊れるはずのない廊下が、瞬時に瓦礫の山となって崩れ落ちてゆく。
足場を失ったアカネは錯乱状態に陥り、墜ちてゆく自分の身体をジタバタと動かした。
墜ちてゆく刹那でアカネは紬の姿を確認して絶句する。
自分と同じように墜ちてゆく紬の背で、鬼が笑っているのが見えた。
アカネ「~~っ!?」
逃げろ、逃げろ、逃げろ。逃げろ!
実にシンプルな危険信号がアカネの脳内で警鐘を鳴らしている。
だがアカネは空中でもがくだけで、逃げることなど出来ない。
アカネ「つっ……」
恐怖のあまり受け身を取る事を忘れていたアカネはそのまま一階の床に叩き付けられる。
痛みを訴える身体を強引に引き摺り、アカネはよろめきながらその場を後にしようとした。
だがそれがいけなかった。
紬に背を向けて逃げ出したアカネは、自分の右肩から先が粉になってゆくような錯覚を覚えた。
紬「何処へ行くの?」
振り返ってからアカネは自分の肩の骨が粉々に砕けている事を理解した。
規格外の衝撃はアカネの身体が吹き飛ぶことすら許さない。
痛みなどとうに消え失せており、静かに崩れてゆく自分の骨がアカネには他人のもののように思えた。
アカネ「今……私を殴った?」
紬「ええそうよ」
傍から見ればシュール以外の何物でもない光景なのだが、二人のこの会話は酷く理に敵っていたのだ。
紬は無言のまま、垂れ下がったアカネの右腕を掴んだ。
紬「えい!」
顔面にいつもの朗らかな笑顔を貼り付けたまま、紬はアカネの腕を掴む手に力を込めた。
アカネ「やだ、やめ──」
アカネの拒絶など何の意味も成さない。
握られた部分の肉は水風船の如く勢い良く弾け飛び、その奥の骨は豆腐のように崩れる。
だがアカネが苦悶の叫びよりも早く、紬は大量の血を噴き出した。
アカネ「え?」
血は飛沫となってアカネの顔に付着した。
痛みを越えた衝撃が幸いして、アカネは今の状況を冷静に判断する事が出来た。
アカネ(もしかして……)
アカネはまだ無事な左手を振りかぶる。
勁を利用した一撃を、今度は容赦なしに紬の心臓に叩き込んだ。
酷く緩慢で単調なその攻撃は、たとえトップランカーでなくとも桜高に所属している者なら誰でも避けられる一撃だった。
だが紬はそれを避けようとしなかった。否、避けられなかったのだ。
アカネ「なんて子なの……」
衝突する運動エネルギーに全く歯向かわずにあっさりと吹き飛んだ紬の瞳は黒く澱んでおり、口は半開きになっている。
そう、紬はアカネの腕を握り潰した直後に意識を手放したのだ。
既に気絶している人間が攻撃を避けるなど、言うまでもなく無理な話である。
アカネはそこでようやく潰された自分の右腕に意識を向けた。
アカネ「っ!」
痛みは始めから無い。無いが、自分の腕がグロテスクな肉片になっているのを見て、アカネの顔面は少し青褪めた。
アカネ「取り敢えず、あの子が組んだ采配が功を成した……かな?」
その代わりアカネが失ったモノも少なくはない。
アカネ(もしかしたら……。こうなることもあの子には想定済みだったのかな?)
もしそうなら酷く滑稽な話だ。
結局軽音部殲滅を企てた張本人が重傷を負い、それに便乗した策士は安全地帯で指を咥えて眺めていただけなのだから。
自嘲染みた苦笑いを浮かべると、アカネは昨日の自分といちごの会話を思い返す。
────
アカネ「私が琴吹さんと?」
深夜の空き教室で、軽音部殲滅作戦に選ばれた五人の戦士と、それらを率いる策士が一同に会していた。
アカネはつい先程いちごが自分に下した役割を聞いて、驚愕した。
アカネ「確かあの子の序列って九位よね? とてもじゃないけど上手くやれる自信なんて無いよ」
アカネの隣に座っていたエリも同様の不安を抱いていたのだろう。
アカネの言葉に賛同するように相槌を打っている。
しずか「やれるやれないの問題じゃないよ。私達にはいちごちゃんに従う以外に選択肢は無いの。それともアカネ、あなたはいちごちゃんよりも合理的な策を持ってるの?」
アカネ「うっ……」
しずかに反論する気などアカネには毛頭無かった。
自分とエリの意志に便乗しただけにも関わらず、作戦の総指揮をいちごに委ねているのはアカネ自信いちごの策に絶対の信頼を寄せているからなのだ。
アカネは教室内を一瞥した。
集まった他の面子もいちごを信頼しているという点では共通しているのだろう。
各々がまるで心配などしていないと言わんばかりに無関心を決め込んでいる。
姫子は気怠そうに机に頬杖をつき、携帯電話を弄っている。
信代はどっしりと深く椅子に腰掛け、腕を組んでぼんやりと窓の外を眺めている。
そしていちご自身も事の成り行きが全て分かっているかのような悟った目をしており、アカネの反論を無視して髪の毛を弄っている。
いちご「大丈夫」
冷徹さすら漂わせる鉄仮面の様な表情とは裏腹に、いちごが紡いだ言葉は諭すような穏やかさを持っていた。
いちご「あなたの勁はきっと琴吹さんに通用する。自分の力を過信した人にこそあなたの力は生きるから」
それは勁の力を使う者皆が根本の志として定めている考えだ。
力に驕る剛の者を緻密で繊細な、ある種の芸術品とも言える力で討つ。
それこそが勁の強さなのだ。
いちご「それに琴吹さんは弱い。寸前で非情になる事が出来ないから彼女は『鬼』にはなれない『鬼殺し』でいるの」
そしていちごはこう締めくくった。
いちご「勝てる、じゃない。あなたは勝つの」
絶対的な自信を以て自分を鼓舞するいちごの気迫に気圧されて、アカネは無言で頷いた。
──
しばしの回想に浸っていたアカネは右腕の痛みで我に返った。
アカネ「っつ!」
普通の人間ならば既に致死の域に達しているであろう夥しい出血を見て、アカネは苦し紛れに笑ってみせた。
アカネ「痛い……。けど、生きてるんだよね」
気を抜けば意識を持っていかれそうになるような痛みはアカネを蝕む。
心臓の鼓動が傷口に直に響き、干物のように垂れ下がった腕を疼かせる。
だがそれらの苦痛の一つ一つが、アカネに生きているという実感を与えていた。
アカネ「少しだけ、寝てても良いよね?」
「駄目よ」
呟いた独り言に返事が返ってきたのを聞いて、アカネの心臓は跳ね上がった。
今この場で言葉を発する事が出来るのは自分だけの筈なのに。
倒れ伏している紬を凝視しつつも、アカネは全身を震わせていた。
紬「頭がぼーっとするわね……。ちょっと不味いかも」
意識を失っていた筈の紬がゆっくりと身体を起こした。
その一連の動きはとても緩慢なもので、それを遮る事は容易かった。
だがアカネにはそれが出来なかった。
震える身体は思うように動いてくれない。
アカネ「どうして……?」
歯をがたがた震わせて大粒の涙を零しながら、アカネは声を振り絞った。
紬「ふふ……。私はこう見えてプライドが高いの。百合をあれだけ馬鹿にされて、そう易々とやられてたりなんかしないわ」
表情は満面の笑みではあるが、目は笑っていない。
立場はお互い満身創痍であるため、ほぼ同等ではある。
だが紬の身体から発せられる闘気は捕食者の色だ。
紬「何も考えたくないわ。頭の中が空っぽみたい」
アカネ「あ……あ……」
立ち上がって今直ぐ逃げるのが最良だが、アカネは腰が砕けてしまってそれが出来なかった。
紬「唯ちゃんほど上手には出来ないけど、今ならやれそうな気がするわ」
そして紬は大きく深呼吸してぽつりと呟いた。
紬「オーバードライブ」
直後に辺りに散らばっていた瓦礫の山が吹き飛んだ。
空間そのものがねじ曲がるような感覚がアカネを襲う。
紬が自分に向かって駆けてくるのがやけにゆっくりに見えた。
そんな走馬灯のような光景の中でアカネは思う。
アカネ(こんなの……話が違うよ)
今の紬は鬼でも、それどころか鬼殺しですらない。
ただ純然たる殺意を携えて獲物を狩らんとするその姿は。
アカネ(悪魔……!)
自分の頬の肉が波打ち、衝撃が走る感覚を味わいながら、アカネは壁に叩き付けられた。
とうに意識を手放していてもおかしくないダメージなのにそれすら出来ない。
紬は虚ろな眼をしたアカネに一歩ずつ詰め寄る。
ブレザーを脱ぎ捨て、ブラウスの一番上のボタンを外した。
アカネ「え……?」
紬が今から自分に何をしようとしているのか、アカネがその答えに辿り着くのは容易かった。
アカネ「ちょ……待ってよ!」
脳内で抵抗の意が空回りして、身体はぴくりとも動かない。
そうこうしているうちに、紬はアカネの身体に覆い被さった。
紬「ふふ……。こんなにボロボロになって、これじゃあお嫁に行けないわね」
言いながら紬はアカネの首筋に舌を這わせた。
アカネの脳に電流が走る。
紬「でも大丈夫よ。私、そういうのも大丈夫だから」
アカネのブラウスのボタンに手をかけて、ボタンを一つずつ外す紬の頬は赤く染まっていた。
アカネ「やだ……やめてよぅ……」
アカネの苦悶の嘆願を無視し、紬は露になった双丘を執拗に舐め始めた。
虫が這っているようなその感覚にアカネは嫌悪感を覚える。
アカネ「んっ……やだよぅ……。こんなの……」
紬の舌は乳房からゆっくりと下の方に移動し、へそ辺りをなぞっている。
そしてついにスカートに手がかけられた。
アカネ「っ!?」
貞操の危機を感じながらもアカネの身体は動かない。
スムーズにスカートと下着をはぎ取られたアカネは目に涙を浮かべる。
アカネ「いやああああああああっ!!」
三年校舎の一角に悲痛の叫びが響いた。
中庭の校長像の前で、二人の生徒が闘っていた。
一人は生徒序列ナンバーテン『死神』高橋 風子。
そしてもう一人は生徒序列から追放されたナンバーゼロ『夢幻』
鈴木 純。
風子「はぁ……はぁ……」
風子は得物としている身の丈ほどの黒鎌を杖にして、かろうじて立っていた。
純「しぶといですね~。普通なら初撃の筋肉バスターでおねんねですよ?」
対する純はうっすらと汗はかいているものの、傷一つなく疲労もしていない。
風子「あなたはイレギュラー中のイレギュラーなのよ。ここであなたを確実に排除するまでは、私は死ねない!」
風子の気迫に若干気圧される純だが、今度は困ったような顔をして頬を掻いた。
純「なにこれ……何だか私が悪者みたいじゃん」
ただ流れる雲のように自堕落に過ごしてきた純。
故に誰かに英雄扱いされる事も悪人扱いされる事も今まで一度も無かった純は困惑していた。
純「うーん。ここいらで潮時かなぁ?」
風子に聞こえるように呟くと、純は風子に背を向けて歩き出した。
風子「……?」
あまりにも隙だらけなその姿に風子は唖然とした。
今ならば鈴木 純の首を刈るのに一秒とかからない。
だが風子はそれをしなかった。
風子(良かった……。このまま続けていたら私、多分死んでただろうな)
純の行動を撤退と判断した風子はそこでようやく警戒を解いた。
だがそれがいけなかった。その考えはあまりにも虫が良過ぎたのだ。
純「じゃあ行きますよ」
くるりと踵を返して純は風子に向き直った。
辺りの空気が一瞬にして凍り付く。
風子が気付いた時には遅かった。
風子と純の間にあった五十メートルほどの距離はまるで無かったかのように詰められ、純は風子の懐に入っていた。
純「私式ファイナルヘヴン!」
大仰な名前ではあるがそれはただの右フック。
だがそのシンプルさ故にその技は絶対的な強さを持っていた。
事前のダッシュによる加速は拳に何乗もの破壊力を加える。
風子「かはっ……!?」
純の拳が風子の腹部を捉えると、風子の身体は弾丸の如く遥か彼方に飛び去って行った。
純「あらら、やっちった。適当にブン殴って首謀者の居場所聞き出そうと思ったのにな~」
ちぇっ、と悪態をつき、純は大きく伸びをした。
純「まぁあの先輩と遊ぶのも潮時だったでしょ、ぶっちゃけつまんなかったし」
純は欠伸をしながらその場を後にした。
誰も居なくなった中庭に一陣の風が吹くと、悪趣味な校長像が粉々に砕け散った。
信代「ちっ、ちょこまかうざったいねぇ!」
第二音楽室階段下では相反する二つの力が責めぎあっていた。
信代は駄々っ子のように拳を振るう。
その度に衝撃波が飛び交い、壁や床を砕いていた。
律「へっ! そんなとろい攻撃欠伸が出るぜ!」
律は薄ら笑いを浮かべながら、暴れる信代の周りを駆け回っている。
普段着けているカチューシャは取り払われており、所々跳ねている髪の毛が風を受けて舞った。
律「だらぁっ!」
律は残像を残すほどの超スピードで信代の背後に回り込むと、後頭部に上段回し蹴りを捩じ込んだ。
立て続けに身体を捩って後ろ回し蹴りを放つ。
クリーンヒットした攻撃の余韻に浸ることなく、即座に持ち前の超スピードで信代から距離を取る。
信代「そんな蚊が止まったような蹴りで攻撃したつもりかい? こっちが欠伸したくなるよ」
乱雑に自分の頭を掻くと、信代は苛ついたように舌打ちする。
律「ちっ、うぜーな……」
パワーに自信があるわけでは無い。
だが常人相手なら骨を打ち砕いてその先の髄すら残さないであろう自分の蹴りが全く通用していない事に、律は焦燥感を覚えていた。
信代が自分の動きを見切るだけの目を持っていたら、そう思うと律の背筋はぞっとした。
律(それが無いのが救いなんだけどな……)
とん、と軽く足踏みして律は再び加速した。
今度は残像すら残らない不可視にして不可止のスピードだ。
縄跳びの縄を思い切り振り回したような小気味の良い風切り音が響く。
律(頭も駄目、首も駄目、腹も駄目、となると……)
律は更にスピードを高めながら思案する。
鋼のような肉体強度を誇る信代に致命的なダメージを与えるにはどうすれば良いかを。
律「そこだぁ!」
閃きは一瞬、そしてそれを行動に移すのにコンマ一秒もかからなかった。
信代「ぎゃあああああっ!!」
信代の悲鳴に少し遅れて、律は階段の手摺の上に姿を現した。
現したというよりは動きを止めただけなのだが、凡人からしてみればそれに大した違いは無いだろう。
律「へっへー、天下のりっちゃん様をなめんじゃねぇぞ? 流石にここだけは鍛えられねぇだろ」
ぐいっ、と見せつけるように握り拳を突き出すと、律はその手を開いた。
律の手から丸い物体が零れ、べちゃりと床に衝突した。
信代「~~っ!?」
自分を襲う痛みからおおよその事は把握していた信代だが、現実を見せつけられてショックのあまり絶句する。
律「あちゃー、痛そうだな。でもお前が悪いんだぜ? これ以上やるってんならもう片方の『眼球』も毟り取ってやるよ」
信代「うぐ……ぅ……」
信代は歯を食いしばって右目があったところを抑えるが、指の隙間からは血が漏れている。
律「言っとくけど私は敵に対して容赦なんてしねーからな」
律は据わった瞳で信代を睨み付けると、血に塗れた自分の右手を舐めた。
律「知ってるか? 澪ってさぁ、あいつああ見えてすっごい恐がりなんだ」
ぽつりぽつりと呟く律。
紡がれる言葉は信代に対して語りかけるというよりも、自分を戒めているようだ。
律「小学生の時に私が高校生十人相手にボコボコにされた時も、隣でわんわん泣いてた。中学生の時にヤクザの事務所にカチコミに行ってやられた時も、あいつは泣いてた」
律は両手を広げ、何かを確かめるように目を閉じる。
律「私が喧嘩で怪我したら、あいつは決まって自分の事みたいに泣く。そんでその度に言うんだ。『律が居なくなったら悲しいよ』ってな」
目を開けて一瞬だけ表情を緩めると、再び険しい顔つきに戻る。
律「あいつの涙を見なくても済むなら、私は誰に憎まれても構わない。どこまでも非情になってやる!」
信代「私は……アンタの敵だよ……」
隻眼となった信代はまだ闘志を絶やしておらず、健全なもう片方の瞳で律を捉えていた。
律「そうかい。私は仮にも桜高の序列ナンバーセブンだからな、人一人殺すくらいの覚悟は出来てるつもりだよ。お前も殺される覚悟は出来てるんだろうな?」
信代「全く同じ台詞をアンタに送るよ。私よりも格下の序列のくせして、一丁前にトップランカーを語る気かい?」
交渉の余地など微塵も無い。
そう二人が判断してから行動に移るのは早かった。
律の姿は足音と共に消え去り、信代は両目を瞑り、地に膝をついて構えた。
律「あ?」
再び策も無く暴れ回るのだろうと予測していた律は、信代の予想外の行動に眉を顰めた。
律(まさかあれでガードしてるつもりかよ)
確かに身を屈めて、唯一攻撃が通りそうな目も閉じてしまっているので律の攻撃を防ぐ事は出来るだろう。
律(でも……あれじゃあ向こうの反撃の目が無いんじゃあ……)
嫌な予感がした。
だがその言葉にしがたい蟠りは、律の行動を止めるには至らなかった。
律「はっ!」
空中で一回転して、着地ざまに信代の頭に踵落としを放つ。
だが不動なる山のように、信代の身体はそのままの状態で鎮座していた。
案の定攻撃が通用しない事を悟った律は動きを止め、階段の一段目に腰掛けた。
律「あのなー」
信代「…………」
律は呆れたように溜め息をついて肩を竦めた。
律「お前がそうしてるんなら私は行かせてもらうからな? こんないたちごっこに付き合ってる暇は無いんだよ」
信代「…………」
返事が無い事を確認すると、律は立ち上がって信代を横切ろうとした。
信代「逃げる気かい?」
律「言ってろ」
律は床に落ちたカチューシャを拾い上げるとそのまますっぽりと装着した。
信代「アンタが逃げるってんなら良いよ。代わりに澪をぐしゃぐしゃにして──」
信代が言い終えるよりも速く、律の拳が歯を砕き、信代の口内に捩じ込まれた。
律「誰の許可得て澪を呼び捨てにしてんだ?」
律は突っ込んだ腕を引く事なく、そのまま信代を壁に叩き付けた。
瞳は血走っており、噛み締めた唇から血が滲んでいる。
信代「…………」
信代は口の中に拳を突っ込まれている為喋る事が出来ない。
だがその代わりに……。
律「……?」
圧倒的窮地に立たされているにも関わらず、にやりと笑って見せた。
実は律が自分の口内に拳を捩じ込む事を、信代は予測出来ていた。
出来ていて敢えてそうさせたのだ。
その為に澪を掛け合いに出して律を挑発した。
案の定律は誘いにのり、信代が仕掛けた罠に飛び込んできた。
律「あ……?」
律は捩じ込んだ自分の拳に力が加えられているのを感じた。
それはやがて痛みに変わり、徐々に肉を裂く。
律「なるほどな……」
手を引き抜こうとしても抜けない。
信代の口内に残った僅かな歯は律の手の肉に深々と食い込んでいたのだ。
信代「っ!」
つまり律の超スピードはこの時点を以て完全に封じられた。
信代は自分の勝利を確信した。
律「こんなもんで勝ったつもりかよ」
律は普段の明るい声とは違う重々しい声色で呟いた。
だがそんなものは所詮死にゆく者の妄言に過ぎない。
そう判断した信代は自身の力の全てを込めた拳を律のこめかみに放った。
トマトが爆ぜたような音と共に、律の頭は振り子のように揺らいだ。
こめかみからは大量の血が吹き出る。
信代「ぶ……んぐ……」
胴体ならまだしも、頭部の出血がこの域まで達すると命は保っていられないだろう。
信代は自分が殺めた命を咀嚼しながら息を漏らした。
信代「…………?」
そこで異変に気付く。
自分はもう喋れる筈なのに、自分を縛るこの拘束は何故解けないのだろうか。
律「いっ……てぇ……」
信代「っ!?」
自分の渾身の突きを食らって生きている筈が無いのに。
そんな信代の自信は突き付けられた現実に打ち砕かれた。
律「流石の天下のりっちゃん様でもよぉ……。痛いもんは痛いんだぞ?」
大量の血に濡れた律の顔に、いつもの優しさや明るさは無い。
悲しいまでに非情で、哀しいまで異常。
律「まぁ……良いや。一万倍返しで許してやるから……」
律はこの時、今の自分は何でも出来るのではないかとすら思っていた。
あながちそれは間違っていない。
行き過ぎた激昂は彼女の脳のリミッターをこじあけ、力を解き放とうとしていた。
律「ブラストビート」
そう囁くと共に律は左手の拳を振り上げた。
その光景と共に信代の意識は散った。
傍から見れば律の一発の突きが信代の顔面を捉えただけだった。
だがその間に律が信代を殴った回数はジャスト一万回。
寸分の狂いもなく同じ箇所を殴られれば、いくら信代と言えど耐えられる筈も無い。
二千発を越えた辺りで頬の骨は粉々になり、五千発を越えてからその衝撃は脳にも異常をきたし、最後の一発が突き刺さる頃にはとうに決着はついていた。
律「澪……。わりぃ、また泣かせちゃうかもしんねぇ……」
自分の器の限界を越えたスピードを行使したせいで、彼女の筋肉は悲鳴を上げていた。
律「ごめん……ね?」
律の意識はそこでフェードアウトしていった。
最終更新:2013年03月04日 19:39