純「そこを退いてもらえます?」

「駄目よ」

 調理実習室にて二人の生徒が対立していた。
 純は寝坊してきた為、朝食を摂っていなかった。
だが学校はほぼ無人で、普段活用している購買は機能していない。
それならば、と純は調理実習室の冷蔵庫に眠る食材を求めてふらふらとやってきたのだ。
 そしてその場にたまたま居合わせていたのは生徒序列ナンバーエイト『辻斬り』木村 文恵。
勿論彼女もいちごの命令によって部外者の排除の為に駆り出された戦士である。
この二人が対立するのは、キャビンアテンダントがファーストクラスの客にワインをサービスするくらいに自然のことだった。

純「……もう一度言いますね。格下の相手なんてしてる暇は無いんですよ、だから退いて下さい」

文恵「聞こえないね」

 空腹も相俟って純の苛立ちは頂点に達していた。
こうなってしまってはどうにもならない。
木村 文恵は運が悪かったのだ。
本来ならばトップランカーである文恵は並大抵の敵には負けたりしない。
 彼女の相手がトップランカー並の実力を持ちながらも序列から追放された純でなければ、その純が空腹でなければ、万に一つは文恵が勝つ可能性はあったのだ。

純「そんな役立たずな耳なら、私がどうこうしても文句は無いですよね?」

 文恵が瞬きをしたほんの一瞬で、純は彼女の隣に飛び込んでいた。

純「鼓爆掌!」

 超高速の掌打が文恵の耳を捉えた。
文恵は襲い来る衝撃に負け、平衡感覚を狂わせた。

文恵「っ!」

 そんな状況下で文恵は腰に差した刀を抜刀し、真一文字に薙いだ。
だが純の反応速度はそれすら易々と上回る。
床を蹴って空中で二回転すると、器用に刀の刀身の上に立った。

純「トップランカーってのはどいつもこいつもしぶとさだけは一丁前なんですね。大人しく寝てれば痛い目見なくても良いのに」

文恵「そんな……! 無名のあなたなんかに私が負ける筈は……」

 焦燥する文恵を尻目に、純は間抜けな声を漏らしつつ刀から飛び降りた。

純「猫も杓子も序列序列って、いい加減うんざりなんですよねそーゆーの」

文恵「は?」

純「あれ? 聞こえてるんですか。あぁそっかもう片方の鼓膜も破っとかないと」

 片目を瞑り、舌を出すと純は初撃と同じように文恵のもう片方の耳にも掌打を放った。

文恵「~~っ!?」

 完璧に備えていたにも関わらず、自分の認識出来るスピードを遥かに凌駕した攻撃に文恵は驚愕した。
両耳からは血が零れており、彼女の耳はその機能を失った。

純「あははっ、私ってこう見えて愚痴っぽいんですよ。恥ずかしいから聞かないで下さいね?」

 言われなくても聞かない、もし文恵の耳が機能していたなら恐らくこう言っただろう。

純「私思うんですよね。人の強さっていうのは量りきれるものじゃない、もっとこう、自然的なものだって」

 淡々と呟く間に自身の首を刈らんとする刀を白刃取りで受け止める。

純「そんな綺麗なものをこの学校の人達は序列だの何だのって数字で区切ろうとしてる。馬鹿らしいと思いませんか? 人が決めた概念如きが人じゃあ決して理解出来ない『力』を推し量るなんて」

 そこまで良い終えて純はそっと溜め息をついた。
受け止めた刀がへし折れるのはそれとほぼ同時だった。

純「自分より弱い人に量られるくらいなら私は高い序列なんていらない。手を伸ばしたって届かない、雲みたいに生きてやる。そう決めたんです」

 それは今まで純という人間を保ってきた矜持なのだろう。
そしてそれはこれからも、純が死ぬその時まで変わらない。

純「さぁてと、辛気臭い話はこのくらいにして、フィニッシュブローいきますよ。っと聞こえないんでしたね、あははは」

 照れ笑いを浮かべつつも、純は腰が竦んで床にへたりこんでいる文恵の胸倉を掴み、乱暴に立たせる。

文恵「…………」

 文恵は既に闘う意志を放棄していた。
堅く目を閉じて歯を食いしばり、これから自分を襲う苦痛に耐えようとしている。

純「あー、下手に堪えようとしちゃって。それじゃあもっと痛いんだけどなぁ」

 とん、と軽く足踏みをして純は呟いた。

純「瞬獄殺」

 純は片膝と肩をやや浮かせた不安定な姿勢のまま、残像を残す超スピードで文恵の懐に潜り込んだ。
そこからの攻撃は誰にも、食らっている文恵自身にも認識出来ない。
限り無く零に近い刹那の間に、無数の拳が文恵の身体を貫いた。
スピードだけで言えば律のブラストビートもそれに引けを取っていないのだが、この技はその一撃一撃の威力が規格外だ。
繰り出す一撃全てにアカネが使っていた勁の力が用いられており、対象を外と中の両方から打ち崩す奥義なのだ。

純「一丁上がり!」

 倒れ伏した文恵を見下ろすように仁王立ちで立ち尽くす純。
彼女の背中にはその姿勢と彼女自身の闘気が折り重なり、『天』の文字が映し出されていた。


澪「うぅう……」

 澪は体育館の一角にある体育倉庫の中に身を潜めていた。
吊り上がり気味ながらも大きく意志の強そうな眼には大粒の涙を溜めており、歯は寒くもないのにがたがた震えている。

澪「こわい……怖いよぅ……律ぅ……」

 紡がれる言葉は友の名前。
だがその友人はここに来る筈も無い。
 体操座りで刀を胸に抱えるその姿は狩られる前の小動物を連想させる。
 澪は落ち着いて自分が置かれた状況を振り返ろうとしていたが、その度に心臓が激しく脈打ち、錯乱状態に陥っている。

澪「助けて……」

 顔を膝に埋め、澪は力無く呟いた。

 ────
澪「がはっ!?」

 時は澪が恐怖の淵に追い詰められる数分前。
 澪はしずかが繰り出す攻撃を躱せずにいた。
理由はいたってシンプル。しずかの姿が見えないからだ。
凡人には視覚出来ない超スピードなんてものではない。
もしそうなら天性の観察眼を持つ澪ならあっさりと看破する事が出来る。

澪(何で……? 私の眼でも追えないなんて……)

 先程から執拗に殴打されている腹部を抑えて、澪は冷静に状況を鑑みる。

しずか(ふふ……。かなり動揺してるみたいね)

 この時、実はしずかは澪の背中に手が届くところにいたのだ。

 しずかがどうして澪の眼を掻い潜る事が出来たのか、そう問われればしずかは確実にノーと答えるだろう。
 彼女はこの時、超スピードを発揮する身体能力を行使したわけでもなければ、澪の眼を欺く特別な技を使ったわけでもないのだ。
 ただ漠然とそこに居合わせ、当然のようにそこに在るだけ。
しずかが澪の眼を出し抜いたわけではなく、単純に澪がしずかを視覚するには盲目過ぎるというだけだ。

しずか(でもでも、やっぱり少し寂しいかな……)

 このような状況が作られているのは、偏にしずかの特異体質のせいだと言える。

 木下 しずかは幼少時に苛めを受けていた。
 決して暗い性格ではなかったのだが、彼女の気の弱そうな声と野暮ったい前髪は、彼女の周りの人間に根暗な印象を与えた。
小学生、中学生の苛めのきっかけなんてものは劇的である必要は無い。
一度作られた苛めの輪はみるみるうちに悪循環して増大してゆき、やがてしずかを苛めるのが慢性化してきて、誰も理由など気にしなくなったのだ。

しずか(私が悪いんだよね……。だったら皆の気が済むまで我慢しなきゃ……)

 明るかった本来の性格はやがて薄れてゆき、しずかはいつも隅で蹲るようになった。

 そんな荒んだ日々が何年も続いてゆき、しずかが中学生になった頃、それは起きた。
 しずかが住んでいた地区は狭いのでエスカレーター式に小学校から中学校に入学する。
即ち、しずかを苛めていた者も皆しずかと同じ中学校に入学する事になるのだ。
 また凄惨な嫌がらせを受ける日々が続く。
そんな憂いを抱えていたしずかなのだが、その日は違った。

しずか(何か……変だよ……)

 いつもの挨拶代わりの罵声が無い。机の中に虫が入っていない。金をせびる者もいない。
 苛めの影響で人の顔色を伺う癖がついていたしずかは、その異変に直ぐに気付いた。

 中学生になって皆精神的にも成長したのだろう。
最初の頃はそう思っていたしずかだが、僅かに胸の中で蠢いていた蟠りは確信へと変わる。

「木下は休みか?」

 クラス担任がホームルームで出欠をとっている時、ふとそんな事を言われた。

しずか「…………」

 長年苛められ続けたせいでしずかは人前で声を出すのがすっかり苦手になってしまっていた。

「んー、休みみたいだな。誰か理由を聞いてる人は居ないか?」

 担任が言うがクラス全員が素知らぬ顔をしていた。

しずか「あ、あの!」

 自分は最初から席についてるのに。
このまま欠席にされては堪らないと思い、しずかは意を決して勢い良く立ち上がった。

しずか「わ、私……ずっとここに居ました……」

 しどろもどろになりながらしずかが言うと、教室内の空気が一瞬にして静まり返った。
その時間がしずかには永遠にも感じられた。

「お、おう。気付かなかったよ、座って良いぞ」

 担任が訝しげな顔をしながら言うと、しずかは促されるままに座った。

「ねぇ、木下って影薄くない?」

「ああそれ俺も思った。俺も存在にすら気付かなかったよ」

 ひそひそと、そんな陰口が聞こえてきた。
苛められる事には慣れた筈なのに、だがその時の彼女にとってその陰口は、何よりも辛辣で残酷なものだった。

しずか「ひっぐ……ぐす……うぅ……」

 下校時刻を過ぎ、夕焼けの光が差し込む無人の教室。
その隅っこの方でしずかは一人啜り泣いていた。
本来は可愛らしい顔も鬱蒼とした雰囲気と大粒の涙でくしゃくしゃになっている。

しずか「やだ……よ……。ひっく……私だって、皆と仲良くしたいよぅ……」

 その小さな身体で抱え込んでいた思いはしずかにはあまりにも重過ぎた。
それでも、どれだけ彼女が苦しんでも、どれだけ彼女が憎んでも。彼女の頬を伝う涙を拭ってくれる者は居なかった。

しずか「うわあああああああん!!」

 自分の存在を、自分の意義を主張するかのように彼女は泣き叫んだ。

 存在の希薄化。
 それが幼い彼女に突き付けられた非情な現実だ。
 希薄化は日を追う毎に深刻化してゆき、ついには自分の両親にすら認識されなくなっていた。

しずか「…………」

 その頃にはしずか自身、何があっても誰に忘れられようと、口を開かないようになっていた。
 存在の希薄化の原因が何なのか突き止めようともせず、そこに在ってそこに無い、塵芥のような日々を送っていた。

しずか「……もう……死にたいよ……」

 そんな事を考えて枕を濡らす日もあった。
だがそんな時しずかは思うのだ。
もし自分が死んだとしても、誰の思い出にもならないまま死んでゆくのだろうと。

 そう考えるとしずかは堪らなく怖くなった。
自分の存在、生きた証が完全に抹消される。
それはどんなに悲しい事だろうか。
 生きる事に疲れ果て、絶望する。
 死ぬ事に思いを馳せ、恐怖する。

しずか(死にたいよ……でも……死にたくないよ……!)

 そんな地獄のような中学校生活を過ごし、彼女は桜高に入学した。
 今までとは違う新しい環境。
だがそれは彼女の心を躍らせる事は無かった。
 入学式の日の出欠確認でも、彼女の存在は一度では認識されなかった。
 そして再びしずかの地獄の日々が一ヵ月続いた頃。

しずか(何か……恐そうな人だなぁ……)

 席替えをして新しく隣の席になった生徒を眺めて、しずかは溜め息をついた
 机に頬杖をつき、手鏡で自分の髪を熱心に整えている今時の女子高生といった容貌の生徒。
彼女こそが後の桜高生徒序列ナンバースリー『風哭き』立花 姫子だ。
 姫子は先程から自分を見つめる視線に気付き、手鏡をしまうとしずかの方へと向き直った。

姫子「ねぇ、人の顔見て溜め息つくなんてちょっと失礼過ぎじゃない?」

しずか「っ!?」

 しずかは驚愕した。
誰とも関われない地獄の様な日々が、まるで無かったもののようにあっさりと崩された。

しずか「わ、私……」

 人と真向から話をする事が数年間無かったしずかは、言葉をスムーズに紡ぐ事が出来なかった。
冷や汗が流れ、頬が紅潮している。
そんなしずかの様子を見て、姫子はくすりと笑った。

姫子「ふふ、ごめんってば。別に因縁吹っ掛けようってわけじゃないから」

 人に笑顔を向けられた。
その奇跡にしずかは口と鼻を覆い、ついには涙した。

姫子「うわ!? だから何もしないってば、こんなとこで泣かないでよ!」

しずか「ちがっ……違うの……! 私……!」

 人が怒り、笑い、驚く。
そんな当たり前の日常の中に介入出来た喜びは、彼女の思いの堰を切った。

 姫子はその時しずかの境遇など全く知らなかった。
だがそんなしずかの姿を見て、その中にある大きな思いに気付いたのか、そっとしずかの頭を撫でた。

姫子「大丈夫だよ。ほら、大きく深呼吸してごらん?」

しずか「ひっ……ひっ……ふぅ……」

姫子「こらこら、それじゃあお産だって」

 姫子は突っ込みながら笑った。
しずかもそれにつられて笑った。
 その僅かなやり取りの後に、二人が親しくなるのは早かった。
席が隣という事もあって、二人学校内ではいつも行動を共にするようになる。
 そしてしずかは姫子に打ち明けた。
自分の存在が希薄化している事を。

 その告白の時もしずかは泣いていた。
だがいつも泣いていた中学生の頃とは違って、今自分の隣には姫子が居る。涙を拭ってくれる。

姫子「辛かったね、これからは私がいるからね。一緒に克服していこ?」

 そう思うとしずかの胸には自然と勇気が湧いてきた。
物心がついたばかりの頃のように、皆に囲まれて笑っても良いんだ。そう思えてきた。
 そして高校の一年目も半分ほど過ぎた。
その頃には姫子の試行錯誤の結果、しずかの存在の希薄化こそ直らなかったものの、しずかにも少ないながらも友人が出来た。
 存在が薄いのならその分何度も存在を認識させ直せば良い。
そう考えた姫子は自分の友人に掛け合って何度もしずかを認識させていたのだ。

 血で血を洗う凄惨な戦いが繰り広げられる桜高の中で、そんな悠長な真似をしていた姫子は上級生から目をつけられるようになっていた。

「立花ってのはどいつだい?」

姫子「……私ですけど」

 授業中でも部活中でも、酷い時は一日に十回以上こんなやり取りが繰り返されていた。
 繰り返される戦いの末に彼女は望まないトップランカーナンバーテンの地位を手に入れた。
『風哭き』と呼ばれて畏怖され、狂信されるその当時の姫子を見て、しずかは劣等感を感じつつあった。

しずか「姫子ちゃん、話があるの」

 ある日、しずかは遂に意を決した。
自分の心の中思いを、姫子に吐露する時が来たのだ。

しずか「姫子ちゃん、トップランカーになっちゃったんだね」

姫子「あはは、バタバタしてたらいつの間にやらって感じだけどね」

 いつかしずかが姫子に自分の苦しみを打ち明けた教室。
夕日が差し込むその場所で、二人は向かい合っていた。

姫子「で、話ってのは何? あんな深刻な顔して世間話ってわけじゃ無いんでしょ?」

しずか「……うん」

 しずかの心は揺るがない。
だがこれから自分がする事は、二人の仲を永遠に引き裂く事になるかもしれない。
そう思うとしずかの胸は痛くなった。

姫子「大丈夫だよ。深呼吸してごらん?」

 姫子の言葉はしずかに安堵を与えた。
そしてしずかは言葉を紡ぐ。

しずか「……姫子ちゃんはもうトップランカーなんだよね。それに部活間の争いが絶えないこの学校じゃあ、ソフトボール部も守らなきゃだよね?」

姫子「…………」

 姫子は何も答えない。

しずか「私考えたの。姫子ちゃんは立派に生きてるのに、こんな私が姫子ちゃんに付き纏ってちゃあ姫子ちゃんに迷惑だって……」

 姫子は、何も答えない。

しずか「でも私は姫子ちゃんと絶交なんて出来ない……。だから、私がいつか姫子ちゃんみたいになれたら、また二人で仲良くしたいんだ」

姫子「……それ、で?」

 姫子は掠れる声を絞り出した。
瞳は充血しており、肩は小刻みに震えている。

しずか「こんな私に話しかけてくれてありがとう姫子ちゃん。私はこれからトップランカーを目指す。だから私がトップランカーになるその時まで、姫子ちゃんは私の為なんかじゃなく、姫子ちゃん自身の為に生きてね?」

姫子「…………」

 姫子は何も答えなかった。その代わり、無言で一度だけ頷いた。

しずか「あはは、明日からは……ライバルだね!」

 それだけ言うとしずかは満面の笑みを浮かべると、姫子を置いて教室から飛び出して行った。

姫子「無理しちゃって……」

 腕を組んで立ち尽くす姫子の頬を夕日が照らす。
そこには一筋の涙が伝っていた。

しずか「ふえぇぇぇぇんっ!!」

 しずかは人目も憚らずに大声で泣きながら廊下を駆けていた。

しずか(これで……これで良かったんだよ! これ以上私が甘えたら、姫子ちゃんは駄目になっちゃうじゃんか!)

 何度も自分に言い聞かせるが涙は止まらない。
鼻水と涙で顔面はくしゃくしゃだ。
 渡り廊下の窓から差し込む夕日が、今はまだ小さな少女の背中を見送るように照らしていた。

 ────
 それから今に至るまで、しずかは自分の特異体質をあるがままに受け入れ、逆にそれをコントロールする術を手に入れた。

しずか(秋山さんを倒せば序列は十二位になる。もう少しで姫子と肩を並べられるんだ……!)

 小さな少女はその小さな胸に揺るぎない意志を携え、秋山 澪と対峙する。





 しずかは自分の存在に気付かずに慌てふためく澪の背中を軽く小突いた。

澪「っ!?」

 澪はそれに反応して振り向く。
その際に手に持つ刀を振るう事も忘れていない。
だが……。

しずか「甘いよ!」

 強烈な平手打ちが澪の頬を捉える。
澪の首の動きとしずかの平手の動きは衝突し合い、相対的に平手打ちの威力は高くなる。

澪「いたっ……」

 痛む頬を押さえながらも澪は刀を振り降ろす。
だが最高のコンディション時のような、血痕すら着かせない神速の振りは見る影を失っていた。
 しずかはそれを造作もなくあっさり躱すと、再び澪の視界から姿を消した。

澪「う……!」

 澪は得体の知れない敵の出現に焦燥しきっていた。
焦りは澪の瞳を濁らせ、判断力を著しく低下させる。
 傍から見ればその弊害は一目瞭然なのだが、当の本人はそれに気付けない。
焦りが恐怖を呼び寄せ、確実に刃を錆びさせているのに、澪は今の自分の力が最良のものであると錯覚していた。

しずか(そろそろ頃合だね。少し痛いけど、我慢しなきゃ……)

 しずかは意を決すると、ブレザーのポケットから一振りのバタフライナイフを取り出した。
 澪はしずかの姿を認識する事が出来ない。
しずかはただ悠然と澪の前に立ち、その刃を喉笛に突き立てるだけで勝利する事が出来るのだ。

 だがしずかはそれをしなかった。
幼少時の境遇から、姿が見えない自分が武器で相手を傷付ける事をためらっていたのだ。
 ここでこんな決着をつけてしまったら自分はあの苛めっ子達よりも下劣な人間になってしまう。
そんな彼女なりのプライドが、澪を恐怖の底に叩き付ける策を閃かせる。

しずか「……っ!」

 しずかは自分の手の平にナイフを突き刺した。
激痛のあまり声を漏らしそうになるがなんとか堪える。
間を置かずにそれを引き抜くと、鮮血がしずかの腕を伝った。

澪「え?」

 その一連の光景すら澪は認識出来ていなかった。
しずかの存在の希薄化からなるステルス能力は、今や彼女が持つ物や周囲にある自分の所有物すら巻き込むまでに昇華していたのだ。
 無論床に滴り落ちる血液すら例外ではない。

澪「何だ? 何が起きてるんだよ!?」

 かつて自分が激しく嫌悪していたモノの臭いが立ち込め、澪は半狂乱になる。
生臭い、吐き気を催す血の香り。

しずか(いちごちゃんが言った通りだね。怖いものや血が苦手って、最初は役に立たない情報だと思ってたのに……)

 熱を以て痛みを訴える左手を抑え、しずかはうっすらと笑みを浮かべた。

しずか(この策を閃かせる為の情報だったんだね。ありがとう……いちごちゃん、私のこんな安っぽいプライドに付き合ってくれて)

 若王子 いちごは当初、しずかにそのステルス能力を使って一瞬でケリをつけるよう命令してナイフを託した。
 それに反発したしずかにいちごが与えた情報。それは秋山 澪が怖いものと血を苦手としている事だった。

 そしてそれは功を成す。
 しずかは錯乱状態の澪の背後に回り、ひっそりと、血に塗れた両手を澪の両頬に押し当てた。

しずか「……んばぁ」

 間抜けな声と共にしずかは澪の認識の領域に入ってきた。つまり……。

澪「あ……ぁ……」

 澪からしてみれば何の前触れも無く自分の頬に他人の手が添えられているのだ。
それだけで澪の心臓は跳ね上がる。

澪「こ……こここ……これ……」

しずか「うふふっ……」

 しずかはほくそ笑みながら、血に塗れた両手でべたべたと澪の顔を擦り回した。
頬から顎へ、そして首を伝ってUターンし、鼻頭に眉間と這い回る。

 この時点で澪の身体は金縛りにかかったかのように動かなくなっていた。
顔はみるみるうちに青褪めてゆき、彩られた赤色が栄える。
口は半開きになっており、端から涎が垂れていた。

しずか「えいっ」

 しずかは傷がある左手を強引に澪を口内へと捩じ込んだ。
生え揃った歯の一本一本を愛撫のように撫でる。

澪「…………」

 澪は今すぐその手を吐き出して逃げ出したい衝動に駆られていた。
だが身体は動かない。
呼吸する事すら忘れているのではと思えるほどに、澪の身体は完全に静止していた。

しずか「よいしょ……」

 暫くそんな状況が続き、しずかはようやく澪の口の中の手を引き抜いた。
涎が傷口の血と混ざり合い、粘着質な液体となって滴り落ちる。

しずか「秋山さん」

 澪の精神はとうに崩壊していた。
 口内を刺激する酸味。鼻腔を突き抜ける鉄の香り。肌を伝う汚れた感触。

澪「ぁ……」

 澪は自分の頬を執拗に擦った。
両手には空気に触れて黒ずみつつある赤色が彩られている。
 精神を崩壊させた澪の耳元で、しずかは一言だけ囁いた。

しずか「いたいよ……」

澪「うわあああああああっ!!」

 しずかが言い終える前に澪は叫んだ。
喉が張り裂けんばかりの金切声は体育館の壁にぶつかって反響する。
 手に持った刀を折れるのではと思えるほどの力で握り締め、澪は脱兎の如く駆け出した。

 しずかはその後を追おうとはしなかった。
まだあどけなさが残る顔に似合わない艶めいた笑みを浮かべながら、しずかは床に滴った液体の跡を眺めた。

しずか「効果バッチリだね。あはっ、お漏らしまでしちゃってるよ」

 しずかの自分勝手なプライドがきっかけで生み出された策は澪の肉体こそ殺しはしなかったが、澪の心を殺した。

しずか「私……嫌な女だよね……」

 しずかは一瞬だけ目を伏せると首を振った。

しずか(もうすぐだよ姫子)

 改めて自分を戒めるしずか。
その瞳に迷いの色は一片も見受けられない。
 小さなその足で一歩ずつ床を踏み締めながら、木下 しずかは『鉄壁』を突き崩しに向かった。


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