消毒液の臭いがつんと立ち込める真っ白な部屋の中に彼女は居た。
唯「…………」
意識が覚醒したのはほんの数分前。
唯は気を失う前と今の状況のギャップに困惑し、言葉を紡ぐ事が出来なかった。
唯「つっ……」
左胸で疼く鋭い痛みに唯は思わず顔をしかめた。
立花 姫子との戦いの最中に日本刀のような鋭い踵落としを迎撃したまでは覚えている。
だがそこから先の意識が混濁していて思い返そうにも妙な吐き気が募るばかりだった。
唯「ごほっ……」
口に手を添えて咳を塞ぐ。
だがそれが唯に焦燥感を駆り立てさせた。
添えていた手には赤黒い血がべったりと付着していたからだ。
唯「これって……」
唯は起きてから今までずっと痛みを訴える自身の胸を見る。
薄手の白いブラウスの胸の部分が赤色に染まっていた。
唯「えっ? えっ!?」
慌てふためきつつもブラウスの胸元を開いてゆく。
唯の左胸、つまり心臓の部分には仰々しい厚手の鉄板のような金具が取り付けられていた。
金具の隙間からは血が滲み、グロテスクな絵を描いている。
痛みというものはその原因に気付いてから本来の痛みに気付くものだ。
唯もその例に漏れず、両腕で肩を抱き締めて胸の痛みに耐える。
唯「うっ……くうぅぅっ! 痛いよ……痛いよぅ……!」
唯は歯を食いしばり、固く目を閉じる。
瞑った瞼の隙間から大粒の涙が零れ落ちた。
唯「う……ぃ……っ! 助けて……!」
唯の口から紡がれるのは最愛の妹の名だった。
掠れる声で懸命に憂の名を呼ぶもその努力は虚しく、悲痛の声が真っ白な部屋に木霊するだけだ。
唯がそうしてしばらくの間身を焦がすような痛みに耐えていると、部屋の扉が開いた。
いちご「……起きた?」
いちごは部屋に入るなりベッドの上で身体を捩らせる唯を死にかけの虫を見るような目で眺めた。
唯「いちご……ちゃ……」
唯は霞んでゆく視界に映るクラスメイトの名前を呼んだ。
だがいちごはあくまで自分のペースで、悠然と唯の元へ歩み寄ってゆく。
いちご「暴れないで」
いちごは陸に揚げられた魚のように暴れる唯の身体を抑えると、部屋着のラフなスカートのポケットから注射器を取り出した。
そしてそれを唯の首筋に押し当て、針を刺す。
唯「うぐっ……!」
いちごは注射器の中の液体を注入し終えるとそれを引き抜く。
ほぼ同時に唯の身体はびくりと跳ねた。
いちご「じきに落ち着くと思うから」
注射痕にそっとガーゼを押し当て、上から撫でるように揉む。
唯「あっ……はぁ……。はぁ……」
唯は胸の痛みが急速に引いてゆくのを感じ、ゆっくりと呼吸を整えた。
瞼は熱に浮かされたようにとろんと垂れ下がっており、普段付けているヘアピンが外されて野暮ったくなった前髪は汗で濡れて艶めいている。
唯「いちごちゃん……」
唯は自分の首に添えられた手を握り、ぎゅっと力を込めた。
生きているか死んでいるかも分からない自分の身体とは違って確かな存在感を持つその手の温もりは、唯の心を少しずつ穏やかにしてゆく。
いちご「大丈夫だよ平沢さん。あなたは生きてるから」
いちごの言葉に対して、唯は力強く何度も頷いた。
痛みも幾分か引いて唯は何とか会話が出来る状態になった。
唯「あの……いちごちゃん。私どうしてこんな事に……」
いちご「あなたは立花さんと戦って心臓を潰されたの」
いちごは予め用意していたように即座に、そして淡々と答えた。
唯「そんな! じゃあどうして私はまだ生きてるの!?」
心臓を潰されたと聞いて唯は再び取り乱した。
だが唯の左胸はその動揺に耐えてはくれず、再び襲ってきた鋭い痛みに唯は顔をしかめた。
唯「うっ……くぅっ……!」
いちご「落ち着いて、傷に障る」
いちごは無表情でそう窘めるとそっと唯の頭を撫でた。
いちご「死にかけのあなたを救出したのは琴吹財閥の人達なの」
唯「琴吹財閥って……ムギちゃんとこの?」
いちご「そう。あの家は医療方面にも精通してるみたい。あなたは琴吹財閥お抱えの医療チーム総掛かりで手術して、何とか一命を取り留めたの」
事実無根、真っ赤な嘘だ。
その琴吹財閥は他ならぬいちごの手によって解体され、今は若王子機関となっているのだから。
だが苦痛の渦の中に手を差し延べてくれたいちごの言葉を疑う事など、今の唯に出来る筈もない。
唯「そっか……。でもどうしていちごちゃんが?」
いちご「実は……」
いちごは少しためらうように間を置いて答える。
いちご「あなたと立花さんが闘うように仕向けたのは私なの。それで、せめてこんな事になっちゃった償いがしたいと思って……」
唯「…………」
顔を伏せるいちごを見て唯はいたたまれない気持ちになった。
しばしの沈黙の後に、いちごが口を開いた。
いちご「暫く安静にしてないといけないから退屈だろうと思って、良いもの持ってきたんだ」
いちごは軽く両手を合わせ、そそくさと部屋から出て行く。
そして十秒と経たない内に再び部屋の中へと戻ってきた。
唯「わあっ……!」
唯はいちごの手に抱えられたものを見て目を輝かせた。
胸の痛みなど既に頭の中には無いようで、無邪気な子供のようにはにかんでいる。
唯「ギー太!!」
重厚な輝きを放つチェリーサンバーストのレスポールギター。
唯が愛用する楽器がいちごがら唯へと手渡された。
いちご「あの日平沢さんの席に置いてあったのを琴吹財閥の人が回収してくれたみたい」
さらりと説明するといちごはソフトケースとピックも手渡した。
唯はそれを受け取ると意気揚々とギターを掻き鳴らし始める。
その音色は単純で拙いコード進行でありながらも、人の心を惹きつけるものがあった。
唯「あぁ、カミサマお願い。二人だけの──」
曲がサビに差し掛かったところで唯の歌声は途切れた。
唯「うっ……。ごほっ、ごほっ……」
傍から聞くだけで辛そうな咳と共に唯の口から血が漏れた。
いちご「無理しないで」
唯「えへへ……。私ったら全然駄目だね。あっそうだ!」
唯は何か閃いて手を打つと、ギターとピックをいちごに手渡した。
いちご「? どうしたの?」
いちごは促されるままにギターを受け取るが、それに何の意図があるのか分かりかね、首を傾げた。
唯「いちごちゃんが弾いて聞かせてよ。私が教えるから」
そう言うと唯は満面の笑みを浮かべた。
それから一時間と少しほど、二人はギターの練習をしていた。
始めはたどたどしかったいちごの指も次第に滑らかに動くようになり、曲のサビの部分の数小節は何とか弾けるようになっていた。
唯「じゃあ行くよ!」
いちご「……うん」
唯が一、二、三、四と合いの手を打ち、二人の演奏が始まった。
唯「あぁ、カミサマお願い。二人だけの──」
空間に五線譜が引かれ、歌声とギターの音色が駆け抜ける。
唯「Dream Timeください。お気に入りのウサちゃん抱いて──」
部屋の中の空気が弾み、二人の心は躍り出した。
唯「今夜もオヤスミ──」
唯「ふわふわ時間──」
いちご「ふわふわ時間──」
サビが終わりに差し掛かり、自然といちごのストロークにも力が込もり、唯の肩も弾む。
演奏の終わりを告げるギターの音色が二人を余韻に浸らせた。
唯「やったね! 凄いよいちごちゃん!」
いちご「……そんな事ない」
唯の賛辞の言葉に満更でもないような照れた表情を浮かべながらいちごは答える。
いちご「それじゃ私は行くから」
唯「あっ! ちょっと待って!」
唯はギターを唯に渡し、踵を返して去りゆくいちごを引き止めた。
いちご「なに?」
持っていたピックを真っ二つに折ると、唯は立ち止まるいちごにその片割れを差し出した。
唯「色々してくれてありがとね、いちごちゃん。私……何にも返してあげられないから、せめてこれを受け取って」
いちごの手を引っ張り強引気味にそれを握らせると、自分が持っている片割れを見せてはにかんだ。
唯「お友達の証だよっ!」
目を線にして微笑む唯の顔を見て、いちごの瞳がほんの一瞬だけ揺らいだ。
いちご「…………」
無言でピックを握り締め、今度こそいちごは部屋を去る。
いちご「……ありがとう」
唯に背を向けたまま扉を開け、呟くように礼を言うといちごは部屋を後にした。
いちご「斎藤」
斎藤「はい」
いちごの呼び掛けに答え、斎藤が一瞬で現れた。
いちご「平沢さんの具合は?」
斎藤「細胞レベルで消し去られていた心臓が超スピードで再生しております。完治も時間の問題かと」
二人の会話には一切の感情も込もっておらず、機械音声を交互に再生しているような声色だった。
いちご「流石は『龍』ね。制御システムの完成の目処は立ってる?」
斎藤「後は彼女の細胞のサンプルを摘出すれば、一ヵ月もかからずに完成すると思われます」
いちごは斎藤の報告を聞いてようやく満足げに微笑み、親指の爪を噛んだ。
いちご「ねぇ斎藤、あなたは平沢さんの事どう思う?」
斎藤「……私の仕事における保護対象、それ以上でも以下でもありません」
問われた斎藤は一瞬だけ眉を顰めたものの、忠実に淡々と答えた。
いちごはそれをつまんない、と一蹴し、溜め息をつく。
いちご「私は嫌い。人外の身でありながらさも人間のように振る舞うなんて、おこがましいとは思わない?」
先程の唯に渡されたピックの片割れを指で弾く。
ピックは綺麗な放物線を描いて耐寒加工が施された床に落ちた。
いちご「あの子に手を差し延べてくれる人なんて居やしない。片割れの『龍』も流石にここ、南極大陸までは追ってこれないでしょ」
斎藤「その通りかと」
いちご「あなたの同意なんていらない」
いちごは斎藤をぴしゃりと窘めた。
いちご「『龍』さえ手に入ればあの子に利用価値は無い。この氷土の底に埋めてあげるのもまた一興ね」
いちごは斎藤と目も合わさずにその場を後にした。
斎藤「…………」
その後ろ姿を眺め、いちごが完全に去った事を確認すると斎藤は床に落ちたピックを広い上げた。
斎藤にはプラスチックで出来たそれが室内の光に当てられて哀しく輝いた気がした。
斎藤「……私には関係無い事だ」
ピックをスーツのポケットにしまうと、自分の矜持を再認識するように呟いた。
唯「早く良くなって皆と演奏しようね、ギー太!」
肩の力を抜いてアルペジオ奏法でギターを鳴らしつつ、唯はそのギターに語りかける。
唯「今度ライブする時はいちごちゃんにも聴いて欲しいな。きっと喜んでくれるよね」
何も分からないままに苦痛を強いられた。
何も分からないままに孤独を強いられた。
だが唯はいちごというメンターが現れたからこそ今の状況にも耐えられると信じてやまなかった。
今自分に向けられている感情は愛情でもなく、同情でもなく、友情でもなく、純然たる悪意でしかない事も知らずに。
唯はひたすらに奏で続けた。
一方、澪が恵と『絶対の彼方』を越える修行を初めて三時間が経った頃。
律、紬、梓の三人は軽音部部室にて茶を啜っていた。
部室内の空気は鬱蒼としており、通夜のような雰囲気を醸し出している。
紬「お茶のおかわりいる?」
律「……ああ、頼む」
梓「…………」
誰かが言葉を発しても会話が続く事は無く、時折聞こえる三人の蚊が鳴くような声は部室の空気を更に重くした。
梓「今日はもう帰ります」
律「…………」
身勝手な早退すら引き止める者は一人も居ない。
梓はそそくさと席を立ち、荷物を整えると部室のドアに手をかけた。
梓がドアノブを捻ろうとしたその時、扉の奥に居る者の手によって扉は開かれた。
梓「いたっ!」
ぼんやりと気を弛めていた梓はそれに反応出来ず、盛大に額をぶつけた。
純「あれ?」
扉の向こうから顔を覗かせたのは純だった。
普段二つ結びにしてある髪の毛は解いており、所々が跳ねている。
学校指定のブレザーを脱いでブラウスの胸元をはだけさせ、額には汗が滲んでいた。
紬「……何か用かしら?」
腰を据えていた紬が立ち上がり、ハンカチを持って出迎える。
純は差し出されたハンカチを受け取り、額の汗を拭うと一息ついた。
純「はぁ~、もう疲れましたよ。授業が終わってから今までの短い間に学校中駆け回ってましたから」
紬に促されるまま普段澪が座っている席に座ると、椅子に深くもたれる。
律「ははっ、ジャズ研はいつから陸上部になったんだよ」
律は鬱蒼とした空気を悟られぬように敢えてフランクに純に接した。
純「マラソンしてたわけじゃないんですよ? 和先輩が居ない間に沸いてきた不良生徒達を潰して回ってたんですから」
律「はぁ? それこそジャズ研の活動じゃないだろ。そりゃ生徒会の領分だ」
純「だから生徒会の仕事なんですよ」
皿に盛られたおから炒めを頬張りながら訝しげな表情を浮かべる律に対して、純はぴしゃりと答えた。
純「ジャズ研部員兼生徒会副会長。それが今の私です」
梓「はぁ~~っ!? 聞いてないよそんなの!!」
さっきまでぶつけた額を擦っていた梓が滑り込むように純に詰め寄る。
梓「大体生徒会の執行部がトップランカーでもない純に務まる筈ないじゃん!!」
純のブラウスの襟首を掴んで前後に揺らす梓。
純もそれに抵抗せず、間抜けな呻き声を上げながら身を委ねる。
純「そりゃ~トップランカーじゃないけど~。『絶対の彼方』越えてるから~、別に良いじゃんか~」
間延びした純の声が告げた衝撃の事実に、部室の空気が凍り付いた。
律「トップランカーじゃないのに『絶対の彼方』を越えてる……? 意味わかんねーよ…」
越えたくても越えられない、自分が人間である限り越える事すら馬鹿らしくなるような序列トップスリーの壁。
そんな認識が頭にこびりついてしまっている三人には、純が言っている事の意味が理解出来なかった。
純「ここに来た理由はそれに関係してるんですけどね。まぁ簡単に言うと……」
注がれた紅茶を一気に飲み干し、純は言った。
純「今ここに居る全員が纏めてかかってきても私には勝てないって事ですよ」
その言葉に真っ先に反応したのは律だった。
律「……鈴木さん。もう一回同じ事言う勇気はある?」
引きつった笑みを浮かべ、今にも飛び掛からんとしている律。
だが純はそれを見て軽く溜め息をつくだけだった。
純(やっぱ悪者になっちゃう感じかぁ……。でも和先輩にはスパルタで行けって言われたしなぁ)
心の中でぼやきつつも純は律から目を切らなかった。
物怖じするどころか逆に律の憤りすら一蹴して打ち砕く。
純の態度からはそんな強さが滲み出ていた。
純「はっきり言いますと、先輩達ってダメダメなんですよね」
律が椅子を蹴飛ばして乱暴に立ち上がった。
それと同時に二発の銃声が鳴り響いた。
律「……何のつもりだよ梓」
放たれた二発の弾丸は律の目の前で衝突し合い、軌道を変えて壁にめり込んだ。
梓「律先輩は座っててください。あなたの手を煩わせる必要は無いです。今私の腹腸は煮えくり返ってますから」
梓はそう言って純のこめかみに向けて発砲した。
だが銃弾は純の頭を透り抜けたかのように後ろの壁に突き刺さる。
純「灘神影流、弾滑り。なーんちゃって」
次の瞬間梓の手の中の銃が高々と弾き飛ばされていた。
言うまでもなくそれをしたのは純だ。
有無を言わせずに武装解除させられた梓は動揺から大きく目を見開いた。
純「ほいっ」
座ったまま椅子の前足を浮かせ、くるりと回転しつつ梓の足をひっかける。
梓「──っ!?」
軽く蹴られた膝の裏に鈍器で殴られたような衝撃が走り、梓は膝を折る。
律「──っんにゃろ!」
腰を落とすと同時に律は部室から姿を消した。
その残像すら残らない超スピードを。
純「…………」
純は目で追っていた。
瞳の動きからそれを察した律は改めて対峙する敵の強大さを実感する。
律「ブラストビート!!」
自身を鼓舞するように叫ぶと、律は神速のスピードから成る一万の突きを放った。
律「なっ!?」
律が純の真後ろから放ったその突きを、純は振り向かずに人指し指一本で受け止めて見せた。
すかさずもう片方の手で振り向き様に律を掴もうとする。
律(やっべ……っ!)
慌てて身を捩らせ、超スピードで部室の隅まで逃げる律。
襟首に掠った純の手の感触が律の心に毒を盛った。
律「何だよそれ……」
律は両腕で肩を抱き締め、がくがくと身を震わせている。
コンマ一秒にも満たない僅かな身体の接触が、律の闘争心を叩き折った。
純「…………」
既に律に興味を無くした純は未だ動じていない紬の方を見た。
紬「私は遠慮しておくわ。勝てる気がしないもの」
紬は両手をひらひら振って降伏の意を示した。
ポーカーフェイスを装ってはいるものの、机に隠れた両足は小刻みに震えている。
純「……まぁこんな感じですね。『絶対の彼方』を越えるとこんな事も出来ちゃうんです」
律「だから意味わかんねーよ。『絶対の彼方』ってのは……」
純「越えたくても越えられない。自分が人間である限り越える事すら馬鹿らしくなるような壁。まぁそう思ってる内は越えられない、というより越える気が無いんでしょう」
遥かな高みから人の群を眺めるような冷めた目付きで純は言う。
純「物の見方次第であっさり越えられる壁なのにね」
梓「…………」
眉一つ動かさない徹底した無表情を決め込んだまま、純は立ち上がり部室の出口に向かう。
純「あ、そうだ。肝心な用件を言うの忘れてました」
跳ねっ放しの髪の毛を普段通り二つ結びに括ると、純は頭だけ律達の方へと向き直った。
純「一後輩に無様に頭を下げてでも強くなる覚悟があるなら、『絶対の彼方』の先へ連れてってあげますよ」
梓「出てって」
他の者の意見も聞かぬまま、梓は銃口を純に向けた。
純は銃口を軽く一瞥した。
純「……まぁ良いや。参考までに、澪先輩にはその覚悟があったみたいですけどね」
返事を待たずに純は部室を後にした。
そのまま数歩進み、肩にかけたブレザーの胸ポケットから携帯電話を取り出す。
純「あ、和先輩? やっぱり私こんなの向いてないんじゃないですかねー。こんなに人の恨みを買ったのは生まれて初めてですよ、胃がムカムカします」
通話ボタンを押してきっちり三コールで応対した通話相手、和は電話の向こうで溜め息をついた。
純「いつ退院なんで──。えっ、明日ですか!? じゃあ私と代わって下さいよ~!」
通話を続ける純の表情に先程までの冷たい色は無い。
純を知る者全員がこれでこそ純だと思えるような呑気な顔だった。
時という概念すら失われているのではと錯覚してしまう真っ暗な部屋の中に彼女は居た。
「…………」
彼女は手に持つ包丁で躊躇無く自分の左胸を突いた。
皮を破り、肉を裂き、心臓を穿つ嫌な音が狭い部屋の中に木霊した。
「…………」
そして躊躇無くそれを引き抜く。
傷口から血が噴き出し、薄汚れた包丁をてらてらと輝かせる。
赤い包丁をうっとりと眺めた彼女は、傷口の中に指を突っ込もうとした。
「…………」
数秒前に自分で付けた致命傷が既に完治している事を確認すると、彼女は包丁を手放した。
「……死にたいよ」
究極、故に負ける事を許さない自身の身体を、彼女は恨めしそうに眺めた。
最終更新:2013年03月04日 19:48